妄執の疽

黒実 操

妄執の疽

 霜月の半ば、曇天、吐く息が白い昼下がり。

 ぶらりと立ち寄った蕎麦屋で、蓮司は熱燗を楽しんでいた。寒いのだ。日が高かろうとも寒いのだ。

 初めて寄った店だが、気に入った。板わさに大葉が添えてあるのがいい。山葵も荒くおろしてある。最近よくある粉山葵も、嫌いではないが風情がない――などと生意気なことを考えつつ、さてそろそろ蕎麦にいこうか、いやもう少し呑もうか……

「おみっちゃん、まだ見つからないのかい」

 背後の会話が蓮司の迷いを断ち切った。

 はばかるようにしていても、好奇心を隠し切れていない声音。

「ああ、ウチのも心配しててな。勝爺んとこに聞きに行ったんだが、どうやら実家にも帰ってないらしい」

 見なくても判る。眉を顰めるなりをして、喋りたくて堪らないのが丸出しのその様が。

 蓮司は知らずほくそ笑む。

「勝爺から聞いたって、そりゃ相当だねえ。怒鳴り飛ばされたりしなかったのかい」

「ウチのはおみっちゃんと仲が良かったからねぇ。勝爺のやつそれだけ言うと、シッシとばかりに追い返したそうなんだが」

 なるほどなるほど。

 細君に逃げられたのか――〈おみっちゃん〉に〈勝爺〉とは、かなりの歳の差があるのだろう。

 よくある話だ。蓮司は少し剣呑なものを期待して、耳をそばだてたのだが。

 最後の板わさを口に運び、さて、やっぱり蕎麦にいこうかと、手を挙げかけたそのとき。

「そのときの勝爺がな……ウチのやつが気味が悪いことを言うんだよ」

 蓮司の手がそっと下がった。猪口は空だが呑む振りをする。

「勝爺のやつ、この寒いのに着物の片袖を引っ掛けただけで、こっちの腕を剥き出しにしててな」

「着替えの最中だったんじゃねえのか?」

「そうかもしれんが、だったら話しながらでも袖に腕を通さねぇか? それにその腕、この力瘤んとこらしいんだが、赤黒いような恐ろしい色に腫れ上がってて、それをもう片方の手で掴むようにして揉んでたんだと」

 衣擦れ。

「……こんなふうにして二の腕のここんとこを」

 後ろの男が身振りをしたのだろう。

「なんだいそりゃ、虫にでも刺されたんかい」

「この季節にか? それでな、うっすらと妙な臭いがしてたっていうんだ」

「勝爺のことだ。喰いカスの始末も禄にやっとらんのだろう、男やもめに蛆が湧く、か。女やもめのほうは今頃花咲かせてるんじゃねぇのかい」

 連れが下品な笑い声をたてたが、背後の男はそれには応えず、

「おれもそう思いたいんだが、ウチのが真面目くさってな、あれは何か悪い出来物なんじゃないか、指の間から真っ黒い疣みたいなものが見えたとか言うんだよ。勝爺のやつがおみっちゃんにアレを感染して、それで病院に入れたとかじゃないかとか想像をたくましくしててなあ」

 そこにスタスタと足音がして、威勢のいい女の声が割り込んだ。

「中野のおじさん、店で妙な話をしないでくれよ。ここが食べ物商売なのは分かってるじゃないか」

「すまんすまん、聞こえとったか」

「聞こえてるよ。それで内緒話のつもりだったのかい、呆れたねぇ。ほら、お代わりはいいのかい」

 中野のおじさんと呼ばれた男は、酒の追加を頼んだ。連れの男が、こう寒くなると膝が痛んでかなわん――などと話しだし、話題はそれぞれの持病のことに流れていった。

 蓮司は席を立った。

 

 蕎麦屋の並びに見つけた煙草屋で、蓮司は店番をしていた少女に〈中野のおじさん〉に頼まれて〈おみっちゃん〉の用事で〈勝爺〉の家に行くんだが、一度行ったきりなので道がよく分からなくて――などとすらすらと嘘をついた。

 去り際の蓮司に、少女は眉を顰めて「みつよさん、心配ですね」と言った。

 うん、と返して蓮司は、吸いもしないホープを手の中で転がしながら、教わった道順を足早に進む。

 時間はまだ四時にもならないのだが、分厚く垂れ込めた雲のせいで日暮れ間近のように感じる。

 勝爺の家はすぐに分かった。

 古く小さな家だが表札は立派だ。太い炭文字で〈勝田 久〉とある。久の隣に、やはり炭文字だがかなり新しい筆致で小さく「光代」とあった。

「おみっちゃん、か」

 蓮司はひとり語ちると、裏手へと回る。

 何をどうしようという確たる目的がないまま、ただ好奇心だけで訪れた自覚はある。呼び鈴を押すことは、さすがにはばかられた。

 と、蓮司はとっさに鼻を覆った。

 ――臭う。

 それほど強くはないが肉の腐った臭いがする。

 家の裏手は小さな庭で、右端に何も掛けられていない古びた物干し竿があり、残りの部分は畑のような拵えがしてあった。

 堆肥か、と蓮司は思いかけたが季節柄か何も植わってはいない。ただ、土をいじった形跡が見て取れた。まだ新しい。

 蓮司は掌を広げ、鼻だけではなく口も覆う。

 

 あ、あああああああ、


 男の声。老人の、感嘆のそれのようなものがいきなり響いた。奥――濡れ縁の向こう、薄いガラス戸の向こうからだ。

 ガラスの内には障子がある。

 閉められていたそれが、ざっ、と開かれた。

 病み疲れたような、かなりの年輩の男が転がり出た。ガラスに額をぶつけ、その場にすとんと座り込む。

 あまりに突然だったせいで、蓮司はその場を動くことができなかった。

 垣根を挟み、真正面から老人と対峙するかたち。誰何されれば面倒なことになるだろう。

 隠れる場所もなく、さっさと通りすがりを装うしかない――のだが、動くことができなかった。

 老人は片袖を脱いだ格好で、二の腕の上の方にかぶりつくようにしていた。時折頭を激しく振る。

 蓮司は凝視した。

 老人のいる場所は薄暗く、何をしているか、どんな顔をしているかまではよく分からない。しかし彼の顔は庭を、垣根の方を向いている。外の方が明るい。蓮司のことも見えているはずだ。

 だが、老人は蓮司のことなど目に入っていないようにして、うんうんと首を巡らせ、ただただ二の腕に噛みつくようにしている。

 そのとき――

 にわかに雲が割れた。

 一筋の陽光が蓮司の背後から、まるで老人を目掛けるかのように射した。

 照らし出された老人の姿に、蓮司ははっと息を呑む。

 老人――様子からいっても勝爺で間違いないだろうその人が腕から顔を離す。いきなりの光に気を引かれたのか、空を見上げるようにした。

 二の腕が露わになった。

 肩口から肘の下まで青黒く変色し、ところどころに膿んでいるのか黄色や橙の箇所がある。

 仰ぐかたちの勝爺の顔も露わだった。

 ぽかんと天を向く両眼と鼻の穴、しかし口元は何やらもちゃもちゃと蠢いている。

 弛んだ口角から、何やら真っ黒い干物のようなものがちらちらと見えた。

 猟奇の使途としての蓮司の脳髄に、おぞましい考えが湧き上がる。

 蓮司は心の中で叫びながら、その場を走り逃げた。

 

 二日後の新聞で、蓮司は己の思考が正しかったことを知る。

 ――勝田久は妻光代に不貞の疑いをかけ殺害した。忌まわしいことに死体の片乳房を切り取り、己の二の腕に縫いつけこれを弄んだが、腐敗毒に侵され発狂死したと医師の所見がでている。

 勝田は、庭の畑を素手で掘り返す恰好で事切れているのを隣人に発見された。

 ここには光代の死体が埋められていた。右手に包丁を握っていたので、残った乳房も切り取るつもりだったのではと隣人は語っている云々――

 蓮司は記事を三度程通して読み、首を捻った。

 包丁を右に持っていた――ならば勝爺の利き手は右だ。だが乳房を縫いつけたという腕は右腕だった。確かに見た。間違いない。

 右手で縫えるか?

 第一、勝爺にそういう技術があったのか。

 まさか、他の誰かが手を貸した――それどころか、

 ――吹き込んだ。

 

 蓮司は新聞を脇に置いた。

 しばらく考えるようにしていたが、ついと、人差し指で額を横になぞるように動かした。

 途端、ぎくりと立ち上がる。

 合点がいった目をしていた。

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