怪人形 ブリキ之介

黒実 操

怪人形 ブリキ之介

 ドン!

 音に誘われ、子供らが一斉いっせいに上を向きました。

 晴天の空に真っ赤な大輪。

 ポン、ポン

 お次は真白な雲の群れ。

 パ、パパパパパ

 続くは可愛い黄色いしだれ。

 なんて素敵な昼花火。

 子供らが指差すそれを、お父さんお母さんがたもにっこりと見上げます。

 今日は旗日はたび

 ブガドン、ピヒャラとお道化どけものらが歓迎します。

 彼らが手招く先にあるのは、大きく立派な建物――ここ×市の市民会館です。

 入り口には、可憐なお花のアーチが用意されておりました。

 赤、白、黄色のお花を付けて、ぐるぐる巻かれた緑の蔓。

 ぼくは白、あたしは赤とお花を指して、はしゃぎながら潜っていく――あれは兄妹でしょうか。小さなお手手を繋いでいます。

 それからも続々とアーチを潜るたくさんの子供らと、お連れくださるお父さんお母さん。おじいさんやおばあさんの姿も見えます。

 アーチの先には美しい看板がありました。

【×市民皆様の為の愉快な演芸場】

 その隣にも看板が並んでいます。

【大紙芝居】

【森のコーラス隊】

【子供体操】

 なるほど、これらが今日の演目なのでしょう。

 いつもはお硬い出し物ばかりの市民会館ですが、今日は特別。子供らの好きそうな楽しい演目ばかりのようです。

 その看板の一番最後に、ちょっと難しい文字がありました。

【怪人形 ブリキ之介】

「にんぎょう、ブリキ?」

 青い帽子がよく似合う、小さいお嬢さんが首を傾げます。

「かいにんぎょう、ぶりきのすけ」 

 お父さんが助けてくださいました。

「まぁ、怖い人形なの。子供に見せても良いものかしら」

 お母さんが不安そうに言いました。

「何、大丈夫。ほらご覧」

 お父さんが看板の脇を示します。 

『湯川博士に続く科学の申し子』

『ブリキのロボット、ブリキ之介の滑稽芸こっけいげい

 真っ赤なペンキの大きな文字で、そう書かれておりました。

「怪人形というのは、変わった人形という意味なのだよ。これはなかなか面白そうだ」

 お父さんが感心したように何度も頷くと、お母さんも笑顔になりました。

 湯川博士なら物理学ですが、こちらのお父さんお母さんは気にしていない模様です。青い帽子のお嬢さんを真ん中に、親子仲良く会場に入ってゆきました。

「やあ! ロボットだって! お母さん、ほらロボット」

「ロボット! ロボット!」

 続いてやって来たのは二少年。揃いの白いシャツ姿。とても良く似た二人です。双子なのかも知れません。

「これ、タロちゃんジロちゃん。そんなに急ぐものではありません」

 息を切らせながら、お母さんが追いつきました。二少年のシャツと同じ生地のワンピースをお召しです。お手製なのかも知れません。

「ロボット!」

「ロボット!」

 タロちゃんとジロちゃんは、競うようにお母さんの手を引きます。お母さんもその手を握り返しながら、会場へと進んでゆきました。

 さぁ、お楽しみ!


 予定通りにプログラムは始まりました。

 予定通りに進んでゆきます。

 会場はお客さん達で満員です。

 演目の合間合間では、やれアレが楽しかったコレが愉快だと、連れてきてくださった大人のかたに申し上げる、たくさんの可愛らしい声。

 演じる側の皆さんも、降りた幕の隙間から嬉しく拝聴しておりました。

「やっぱり紙芝居が人気だね」

「なんの、コーラスの盛り上がりときたら」

「待て待て、子供体操も負けてないぞ」

 それぞれ自慢をしては皆で肩を叩き合います。出番が終わった者達は、ホッと気が抜けているのです。


 ガション


「おっ、花形様のお出ましだ」

 コーラス隊の一人が声を上げました。

「しっ。君の声はよく通る」 

 人差し指を唇に当て、その人は言いました。

「失敬失敬。今日の公演もいよいよ大詰めだね。しっかり頼むよ」

「ああ、もちろんさ。な、ブリキ之介」

 その人は、唇から人差し指を離しました。

 見ればまだ若い、客席の子供らのお兄さんと言ってもいい年頃です。白衣姿で、黒縁眼鏡を掛けています。白衣にはパリッと糊が効いていますが、どう見てもブカブカでした。

 貫禄不足ではありますが、微笑ましいではありませんか。

 

 ガション


「はは、待ちかねてるか、ブリキ之介。今日も頼むぞ。お前は最高の僕の相棒さ」

 白衣のお兄さんは、音のする方へと手を伸ばします。掌を何か丸いものに当てて、右左。

 銀鼠色ぎんねずいろのそれが、

 ガション

 と音を立てました。

 なるほど、なるほど。これがブリキ之介。

 看板にありました、怪人形ブリキ之介なのでした。

 お兄さんはブリキ之介の後ろに回って、ゼンマイの様子を確かめます。

 実は――ここだけの話。ブリキ之介は、ホンモノのロボットなどではありません。

 自在に動く機械など、あれは夢物語です。

 ブリキ之介の正体は、ゼンマイ仕掛けのからくり人形なのでした。

 ゼンマイを決められた回数巻くと、あらかじめ決められた動作を、決められた間隔で演じるのです。相棒のお兄さんが、上手い具合に掛け合いをするので、ブリキ之介も良い役者に映るのでした。

 あの街この街――お兄さんはブリキ之介と同じ演目をこなし続けました。今ではすっかり身体に馴染んで、呼吸をするように演じます。

 そんなお兄さんは、ぜんまい仕掛けのブリキ之介を相棒と呼び、舞台を降りても弟のように可愛がっておりました。

 食事のテーブルにも隣につけて、何くれとなく話しかけます。眠るときも一緒です。

 もちろんゼンマイは巻いていませんから、ブリキ之介は動きません。おとなしくお兄さんの傍にいるだけです。

「ブリキ之介、あっちにゆこうね」

 移動のときはお兄さんが抱っこで運びます。

 ブリキ之介の丸い頭は空っぽで、小さな身体にはゼンマイのからくりが仕込んであるだけです。ちょっと苦労はしましたが、お兄さんのまだ細い腕でも扱いは大丈夫なのでした。

 他の演者達は最初のうちこそからかいましたが、お兄さんの芸の上達加減に感心し、今ではとやかく言う者はありません。

 

「トリを飾りますは、科学の申し子ブリキ之介の滑稽芸! 見事! ロボットがお芝居を致します!」


 聞き慣れた、司会のおじさんの声が合図です。

 ――出番です。

 お兄さんは、最後にもう一度だけブリキ之介の頭を撫でました。それから白衣の襟を正すと、舞台へ踏み出してゆきました。


 ――ブリキのロボット!

 会場の良い子達は看板で【怪人形 ブリキ之介】を知ったときから、この演目を待っていました。

 ロボットは素敵な人気者。子供らの大好きな漫画には、機械でできたロボットが、人間のお友達として登場していますよね。

お父さんやお母さんは漫画にはあまり感心しませんが、湯川博士のお名前が書かれている看板を見ると、なるほどこれは教育に良さそうだ、などとお考えになるものです。

 湯川さんのノーベル賞は、もうせんのことですが、まったく上手い煽りです。

「こんにちは、良い子の諸君!」

 翻る白衣。

 いつもどおりの呼吸と歩調のままに、お兄さんは颯爽と舞台の中央へ。

 ガショコン、ガショコン。

 その後ろから、銀鼠色の丸っこくて愛らしい人形のようなものが、両手をフリフリやって来ます。

「ロボットだ! ほんとに動いてる」

 良い子の誰かが大きな声を出しました。 

 それを合図にしたように、わっ、と会場が沸きました。

 

 ブリキ之介は、今日も今日と子供らの前でガショコン、ガショコン。

 右に左に揺れながら、二本の腕を振り回しておりました。腕の先には、それぞれ半円を描くような形の二本の指が付いています。人間で例えれば人差し指と親指でしょう。

「ブリキ之介や。お前は本当にダメな子だ。ウデ卵はこうやるのだよ。ほら、みかんはこうだ」

そう言い聞かせながら、お兄さんがゆで卵の殻を剥き、みかんの皮を剥いています。

 ガショコン、ガショコン。

 ブリキ之介は両目の豆電球をピカピカさせながら、二本の指でお兄さんの言うとおりに動きます。

 動きはしますが、力の加減ができません。卵もみかんもグシャリと潰れ、まったくお行儀の悪い有様です。

 しかし、これらは全てゼンマイが仕掛けるからくりの仕業。ブリキ之介はこうする以外ないのです。

 ネジを巻かれたときだけ動く身体は、決められたようにしか動けません。

 ブリキ之介は、来る日も来る日も、こうやってたくさんのお客さん達の前でバカの真似。

 あの街この街――連れ回されてネジ巻かれ。

 積もり積もって、今日がこの演目の百回目。

 

 そう――百回目。


 会場の良い子の皆さんは、犬猫も三日飼えば恩を忘れず、ということわざをご存知でしょうか。お連れくださったお父さんお母さん、おじいさんおばあさんなら、きっとご存知のことでしょう。

 ああ、いや、ブリキ之介は犬猫などではありません。

 ありませんが、お兄さんと九十九回も同じ芸を熟しています。そのうえお兄さんとは、朝から晩まで四六時中、ずっとずっと一緒にいるのです。

 犬猫どころか本物の弟だって、こうはいかないことでしょう。

「ブリキ之介、ご機嫌かい」

「ブリキ之介、寒くはないかい」

 じっと動かないときには、ブリキ之介ブリキ之介とお兄さんは優しく話しかけてくれます。

 それが動いているときのブリキ之介には「お前は本当にダメな子だ」と頭を振って、呆れた顔を見せるのです。

 好きでこう動いているのではありません。

 望んでこう動いているのではありません。

 ブリキ之介の両の目は豆電球です。電気仕掛けで光るだけで、何も見ることは出来ません。両の耳は只のでっぱりです。何も聞くことは出来ません。

 それでも――いつの頃からか、お兄さんの呆れた顔が分かるようになりました。溜め息混じりの声が分かるようになりました。

 その度に、身体の中の歯車が、ギリギリときしんでいくのです。

 ギリギリギリと――軋んでいくのです。


「いくら科学の申し子だって、ここはからっぽ、ここもからっぽ」

 お兄さんは、カションカション、とブリキ之介の頭と胸とを拳で叩いて言いました。

 もちろんこれも芸のうち。

 あらかじめ決められた台詞です。

「脳みそも心も、ないんだもの」

 これだって。

 ブリキ之介が決められた動きしか出来ないように、お兄さんも決められた台詞を喋っているのです。

 だってお芝居なのですから。

 それでも――これで百回目。

 ブリキ之介は百回も、この言葉を浴びせられたのです。

 いつもは優しい、大好きなお兄さんから。

 ギリギリと、歯車が、ギリギリと。


 何だろう、この音は。ブリキ之介は具合が悪いのかな――演目の最中に、お兄さんは気付きました。

 ギリギリと、ブリキ之介の身体の中から、何かが軋むような音が聞こえます。

 こんな音がするのは初めてです。

 大好きなブリキ之介の異常です。お兄さんはとても心配になりましたが、今は舞台の上なのです。

 堪えて、お兄さんは続けます。

「それに引き換え、ほら皆様の! お子様方の立派なことよ。脳みそはたっぷり、心もポカポカ。お父様お母様も、さぞかしお鼻の高かろうて!」

 声を張っての、お愛想。

 会場から歓声と拍手。

 お兄さんの身体に染み付いた感覚が知らせます。そろそろブリキ之介が両手を上げて、下手しもてに逃げ帰る頃合いなのです。

 最後にもう一声、ブリキ之介をからかって、お客さんの子供らを持ち上げようと口を開いた、そのときです。

「アタマからっぽ、ブリキ之介!」

「脳みそ欲しけりゃ、とってみな!」

 客席の一列目、舞台の真ん前に並んで座る二少年が、大きな声で野次を飛ばしました。

 揃いの白いシャツ姿。とても良く似た二人です。双子なのかも知れません。

「これ、タロちゃんジロちゃん、いけません」

 隣に座るお母さんが慌ててたしなめましたが、二人はヘラヘラしています。とてもよく似た笑顔です。

 こんなことは初めてでした。お兄さんの愛想笑いが固まります。手順が狂うと、掛け合いが上手くゆかなくなって、演目が台無しになるのです。

 落ち着こう。お兄さんは目を閉じました。

 深呼吸一つ。

 ガショコン、ガショ、ガション。

 いけない、ブリキ之介が動き始めた――シメの台詞を言わなけりゃ。

 腹に力を入れ直し、お兄さんは瞼を開けました。

 おや、目の前にいるはずのブリキ之介の姿がありません。

 わっ、と客席が湧きました。

「すごい! 言ってることが分かったの?」

「さすがロボットね。びっくりよ」

「これを作ったのは誰だろう。ノーベル賞がもらえるぞ」

「看板に偽りなしたァ、このことだ」

 ひゃあ、わぁ、とさっきのいたずらっ子二人のひときわ高い歓声が、お兄さんの耳に届きます。

 なんと!

 ブリキ之介が舞台を降りて、二少年の前に立っているではありませんか。

 お兄さんは知っています。ブリキ之介は、ぜんまい仕掛けのただの人形です。ロボットなどではありません。こんな自由ができるはずがないのです。

 何も知らないお客さん達は、ヤンヤヤンヤと大喝采。

 なんて嬉しいハプニング!

 おろおろとするお兄さんのことなど、誰も見てはおりません。

 ガショ、コン。

 ブリキ之介は銀鼠色に鈍く光る二本の指を、子供の頭に置きました。

 この子は、果たしてタロちゃんでしょうか、ジロちゃんでしょうか。

 どちらにせよ、脳みそ欲しけりゃ取ってみな――そう悪態をついた子供です。

 子供の頭に乗せられているブリキ之介の指は、卵の黄身とみかんの汁で汚れています。

「まぁ、ブリキノ介さんったら」

 お母さんが、迷惑そうに言いました。

 ドッと、歓声。

 これは良い坊っちゃんと、頭を撫でてくれるのか、と少年は瞳をキラキラさせています。

「タロちゃん、いいなぁ」

 隣に座るジロちゃんが、羨ましそうに言いました。

 なるほど、ブリキ之介と対峙たいじしているのはタロちゃんです。

 ブリキ之介の二本の指がタロちゃんの髪を――ガション、ひとつ回し撫でて――。

「ああっ!」

 一番最初に悲鳴を上げたのは、一段高い舞台からそれを見ていたお兄さんでした。

 お客さん達は、その声に、今まで忘れていたお兄さんの方に目を向けました。二少年のお母さんも、ジロちゃんも。


 びゃああああああ!


 すぐに続いて、何もかもを引きちぎるような、悲壮な叫びが響きます。

 甲高いそれは、子供の声です。

 そして――あっけなく終わりました。

 お客さん達の、お母さんの、ジロちゃんの――目が、目が、目が。

 皆揃って、もう一度タロちゃんの方へ。

 会場は、シン、と。

 バリッ。

 そこに、異様な音が。

 ガショ、バリバリ、グシャッ。

 ブリキ之介の二本指が、タロちゃんの頭に突きこまれ、まるで――ああ、そうです。ゆで卵の殻を、みかんの皮を剥くように。

「ああああああああッ、何をするの!」

 お母さんが立ち上がり、ブリキ之介にむしゃぶりつきます。

 ガション!

 ブリキ之介の左腕が、ブンと一閃いっせん。お母さんは床に叩きつけられました。白いワンピースの裾がパアッと芍薬しゃくやくの花のように広がって、お母さんはそのまま動かなくなりました。

 首が変な方向に捻れています。

「お母さん!」

 うわぁ――勇敢にも、ジロちゃんがブリキ之介に向かおうとしました。

「いけない!」

 お兄さんは舞台から飛び降ります。

 ジロちゃんを抱きとめて、ブリキ之介から目を離さないまま、ずっと後ろに下がりました。

 壁に背を預けるとお兄さんは、ブカブカの白衣でジロちゃんを包み込むようにします。

「ブ、ブリキ之介が壊れた!」

 騒ぎを聞きつけ、舞台の袖から顔を出したのはコーラス隊の一人です。よく通るその声は会場の隅々にまで届きます。

 ――壊れたんだ!

 ――ロボットが壊れたぞ!

 あまりことに呆然となっていたお客さん達が、我に返りました。身の危険を察します。

 あちこちから金切り声が、喚き声が。

 逃げ出そうとして足を取られたご婦人。それに紳士がつまづき、転んだ先にはしっかりとお手手を繋いだ兄妹が。

 幼い二人を押し潰し、うつ伏せにもがく紳士の背の上を、自分のお嬢さんを横抱きにしたお母さんが走っていきます。

 ああ、その爪先が踏みにじったのは、小さな帽子。小さな青い帽子です。

 呆れたことに、その帽子を跨ぎ越し、司会をやっていたおじさんまでが、出口に突進していきました。

 物凄まじい騒動。

しかし、ブリキ之介はどこ吹く風か――ガション、ガションと、タロちゃんの頭の皮を骨ごときれいに剥いてしまうと、脳みそを丸出しにしてしまいます。

「まさか、まさかそんな」

 おかあさんタロちゃん、と泣くジロちゃんを抱いたまま、お兄さんは動けなくなりました。すっかり腰が抜けたのです。

 立派な黒縁眼鏡が斜めにずれていましたが、お兄さんはそれを直すことすらできません。両の手で、必死にもがくジロちゃんをしっかりと抑えていなければ。

 決して、今のタロちゃんの姿をジロちゃんに見せないように。

 ガショ、コン。バリバリ。

 ガショ、コン。バリバリ。

 タロちゃんの脳みそを丸出しにしたブリキ之介は、次に自分の頭のてっぺんに穴を開けました。

 バナナでも剥くように裂いていきます。

 そして、まだ湯気の立つタロちゃんの脳みそを、その中にポイと投げ入れました。

 ガショコン、ガショコン。

 ブリキ之介は舞台へと戻ります。

 そこにはまだ、演目で使っていたゆで卵とみかんが残っていました。

 ガショ、ガショ。

 バリッ。

 ブリキ之介の手の中で、ゆで卵が崩れます。

 ガショ、ガショ。

 グシャッ。

 みかんが潰れます。

 どちらも上手く剥けません。

 ブリキ之介の首が、ゆっくりと下がってゆきました。まるで落胆でもしているかのように。

 下を向いてしまったブリキ之介の頭の穴から、白いかたまりが滑り出ます。

 ベシャッ。

 タロちゃんの脳みそです。濡れた音を立てて、潰れてしまいました。

「なんてことだ、なんてことだ」

 その音を聞いたお兄さんの腕から、力が抜けていきます。

 もがいていたジロちゃんが、お兄さんの腕から逃れました。タロちゃんの方へと駆け出します。

「わああああああ!」

 可哀想に、ジロちゃんは何もかもを見てしまいました。叫びながら、くなくなと膝を突いたかと思うと、そのまま、まぁるくうずくまってしまいます。

「なんてことだ」

 お兄さんは立ち上がろうとしましたが、足腰は言うことをききません。

 ガション。

 俯いた格好のまま、ブリキ之介がジロちゃんに顔を向けました。

 ジロちゃんの姿が見えているのでしょうか。

 ジロちゃんの悲鳴が聞こえたのでしょうか。

 そんなことはない、そんなはずはない――ブリキ之介には目などないのに、耳もないのに。ピカピカ光る豆電球、あれはただの飾りなのだ! 頬の横のでっぱり、あれも只の飾りでしかないのだ!

 お兄さんは何とかやっと身体を投げ出すと、ジロちゃんを助けるべく這いだします。必死に肘を動かすのですが、なかなか前に進めません。

 ガショコン、ガショコン、

ギリギリギリ――お兄さんの耳に、あの、何かが軋む音が届きました。

「ブリキ之介、どうしたんだ。いったいどうしたんだ」

 這いずっていくお兄さんの顔から、黒縁眼鏡が滑り落ちます。ピシリと清潔だった白衣は床の汚れを拭き取って、見るも無残な有様です。

 ブリキ之介はほんの一瞬、お兄さんの方を見るような格好をしました。目玉の豆電球が、一度だけ瞬き、


 ギリギリギリギリ、

 ガション!


 そうしてブリキ之介は再び舞台から降りると、蹲ったままのジロちゃんの頭に、その手を伸ばしてゆきました。


 

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怪人形 ブリキ之介 黒実 操 @kuromimi

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