聞き書き曲馬団

黒実 操

今はなき山奥の村にて起きたる惨事

 嫌な雨になりました。今日のお客はあなたで打ち止めですかね。

 土砂降りもいいとこだ。しばらく雨宿りのつもりで、ゆっくりしていってください。コーヒーのおかわりを……いえ、わたしの奢りです。

 そうだ、

 ひとつお話をしましょうか。

 あなたの好きそうなお話があるんですよ。

 目無し娘の思い出です。

 昔々の、わたしがまだ子供だった時分。

 生まれ育った村に、見世物が来たことがあるのです。ひなびた村だったので、そういうものが訪れたのは、わたしが知るに初めてのことでした。

 どういう伝手つてだったのかは知りません。

 何しろ、女子供ばかりじゃなしに、大の男や年寄りまでが、おおはしゃぎしたものです。

 わたしも浮かれて村中を踊りまわっておりました。

 そこで、何がきっかけだったか忘れましたが、妙な言葉を聞きつけたのです。

 

 めんないさん、という言葉でした。

 

 大人達がヒソヒソと交わす会話の内容から察するに「目ン無い」さんという意味らしく、わたしは好奇心を抱きました。

 わたしら子供の時分には、目隠し鬼のことを目ン無い鬼と呼んでいました。だから何かそういう遊びのことだと思ったのです。でも、大人がそういう話をするのは変なことだと、子供なりに勘が働いてもおりました。

 話の中心は男衆だったのです。

 山仕事に生きる彼らが、そんな子供の遊びを話題にするのはおかしいのです。ヒソヒソした様子のせいもあり、何かある、と。

 わたしの育ったその村は、農業はさほどでもなくそま仕事が中心でした。男どもも荒々しい者が多かった。

 村はもうありません。随分前に近隣で合併しましてね。名前すら残っていません。

 杣仕事というのは、そうですね、林業と思ってください。

 普通の農村と違うことも多かった。山や木に対する、その、信仰といいますか。

 いえ、その話はまた今度。

 あれは盆のことでした。

 何といいましたか。とにかく何とか曲馬団と。ぼろぼろのでしたがのぼりを立てていましてね。〈曲馬団〉が読めなかったものですから、母親に尋ねたのです。

「かあちゃん、あれ何て書いてあると」

「何でんすぐ人に聞かんと、ちったぁ自分で考えんね」

 そう言われたのを覚えています。

 母も読めなかったのですよ。

 でも子供の手前、読めないって言えないのです。

 母は無学で。あの頃の村の女なんて、皆そうだったのでしょうけど、そういうことを妙に恥じていました。

 そのときは察せませんでしたし、大人になってからですねぇ。

 子供ですし、他ならぬ母の言うことですから、素直に頭をひねりましたよ。すぐ音を上げましたけど。

 それでわたしは、幟の前に立っていたおじさんに聞きに行ったのです。

 おじさんはその曲馬団の人で、ひどくおでこが出っ張ってたなぁ。ひさしみたいになっていて、目元が影になっているのですよ。見た感じ、怖かった。

 だけど知りたい気持ちが勝ちました。


「きょくばだんち」


 そう言われました。

 きょくばだんち、って何だろうと思いましたが、それからも少しばかりおじさんと話していて、それが「きょくばだんだ」という意味だと判りました。おじさんの語尾がことごとく「~~ち」で、どうやらお国言葉だったようですが、何処のものかはさっぱり。

 曲馬団の人達の中でも、そう喋っていたのはおじさんだけでした。

 曲馬団というのは今でいうサーカスですが、村に来てたあれは、そんな立派なものではなくて。見世物、でしたね。

 子供くらいの背丈しかない女が米俵を担いでみせたり、おそろしく筋肉のついた大男が油を入れた皿に火を付けてぶん回したりする、そういうものばかりで。

 村外れに掘っ建ての小屋を作りましてね、そこに三日くらいいましたよ。毎日楽しみに通いました。

 その最後の日の夜に、わたしはめんないさんを見たんです。


 はい、お退屈さまでした。いよいよここから〈めんないさん〉のお話になります。

 わたしは、あの夜、子供の世界にはないたぐいの綺麗さを、知りました。

 え、子供の世界の綺麗さ、ですか?

 そうですね、あの曲馬団の出し物でいうと、紙でできた蝶々を扇子でパタパタやって飛ばす、雄蝶雌蝶おちょうめちょうでございますっていう、あれがそうです。最後にドッとたくさんの蝶々が舞うでしょう。実に綺麗だったなぁ。

 といっても素朴なものです。新聞もラジオもない山奥のひなびた村での、出し物なのですから。

 ええ。ほんのちょっと前まで江戸時代だったのですよ。わたしは明治になってから生まれたのですけどね。

 まぁ、何時代とかそういうことなど、村の人間にはよく判っていなかったのじゃないかな。今でいう小学校すらなかったのですから。

 話を戻しましょう。

 雄蝶雌蝶の綺麗さは、子供が思う綺麗さに過ぎません。ほのぼのとした明るい美です。

 わたしはこんな年ですがね、これまで生きてきて、あの娘以上に綺麗な女を見たことがないのですよ。

 もっとも顔は、目元を白い包帯みたいな布でぐるぐる巻きにしていて、判るのは鼻や口元だけでしたが。

 それでも綺麗だった。

 綺麗だと判りました。

 娘を見たのは日が落ちた後で、小屋にはランプがいくつか灯されていて、こう、ぼやぼやっとした明かりの下だったせいも、あるかもしれませんが。

 いやあ、お天道様の下で見たかったですねぇ。あの異様に綺麗なさまは、薄汚い小屋の中の赤い灯りの下でこそ、映えていたのかもしれませんが。

 狭い小屋の中は、村の男どもでいっぱいになっていました。皆、ランプの色に肌を染めて、汗をてらてらと光らせた赤鬼のような有様でしてね。日が暮れた後といっても夏のこと。小屋から漏れてくる空気は蒸れていて、ムッと獣臭いような不快なものでした。

 わたしは小屋の外にいたのです。このときの見世物は女子供は見てはならぬと、そうお達しがあったんですよ。今なら察せますがね、当時はそんなことはとてもとても。

 わたしの父も夕飯の後、いそいそと出かけて行きました。母が嫌な顔をしていましたのを憶えています。

 わたしも頃合いをみて、家を抜け出しました。

 家には母と祖母がいたのですが、当時、便所というものは外の離れた場所にありまして。一件にひとつではなく、何戸なんこか共同で使うものだったのです。だから楽に出ていけました。

 出たらこっちのものですからね。

 悪ガキに、しょっちゅう泣かされているような子供だったのですけどね、だけどあの夜は我慢が効かなかった。大人が、それも男どもだけが何を見るのか。どうしても知りたかった。

 小屋は、簡単な木組みの柱や屋根に、むしろをかぶせただけのものでした。覗くのに何の苦労もありません。

 やがて男衆のガヤガヤとうるさい喋りが、おおおおという歓声に変わりました。


「とざいとうざい」


 いつ小屋に入ってきたのか、調子外れに掛け声を上げたのは、例の額が庇のようなおじさんでした。娘を一人つれていて、そう、これが〈めんないさん〉だったのです。

 娘は、小さな両手でいないいないばあをするように、顔を隠しておりました。

 本来白地らしい浴衣のような着物と兵児帯へこおびは、ランプの火に赤く染められておりました。

 同じ光源に照らされていても、どうして、男どもの生臭いような色とは違い、娘の赤さには艶めいた感じがありました。

 腰まで伸びた長い髪は、これも明かりのせいで赤っぽく見えましたが、本当は濡れたように黒い色なのが判りました。ほつれ毛の一本もなくまるでひとつの塊のようで、娘の頭から一直線に垂れていて、顔にかかる部分が額の真ん中辺りで、真っ直ぐ切り揃えてありました。

 横一直線の前髪のすぐ下には、ハの字を書くように両手が添えられていて、その間からは遠目にも肉の薄い華奢な鼻が現れていました。

 清浄な雨垂あまだれのような形の鼻先の影が、ひっそりと上唇の上に差していたのを憶えています。

 唇には、娘らしい愛想もなく、ただ一文字に結ばれていました。柔らかな筆がスッと撫でることで生まれたような線で、鼻と同じように肉の薄い作りでした。

 軽く尖ったおとがいが細い首に繋がっていて、なだらかな肩の線が姉様人形を思わせました。灯りのせいもあったのでしょうが、まさに幽幻といったふうでした。

 見世物の他の面々のことは、昼間にブラブラしてるのを見かけたりもしてたのですが、この娘を見たのはこれが初めてでした。

 おじさんは娘をうながして、あらかじめ敷かれていた筵の上に座らせると、もう一度、


「とざいとうざい」


 と、頓狂とんきょうに言いました。

 それが合図だったのでしょう、娘が両手を顔から離してゆきました。

 そこから現れた娘の両目の位置には、包帯のような布が巻かれていて、


「目ン無い娘やああ、目の無い娘ェ」


 こんな感じでしたか、唐突におじさんが妙な節回しで、声を張り上げたのです。

 それが合図だったのでしょう、娘が両手を顔から離してゆきました。

「目無し娘はァ哀れな娘ェ」

 娘はうつむいた姿勢のまま、一度下ろした両手を上げると、耳の後ろに向けてずいっと差し入れます。いつの間にか、男衆から漏れていたざわつきが消えていました。

「だァれかお目目をくれてやれえええェ」

 おじさんの喉が一際高い声で震えると、それから余韻を断ち切るごとく、ぱくんと蓋でもするように口を閉じてしまいました。

 娘の両手はその間もせわしく動いていました。ええ、その目隠しの結び目を解いていたんです。解き終わると、ずり落ちないようにでしょう、片手で布をこめかみの上で抑えながら、反対側の手でゆっくりと、こう、ぐるぐる回すのを見せつけるようにして外し始めたんです。

 一回、二回、三回、四回。娘の手が回るたび、細布が長く垂れていきます。そして、とうとう最後の一巻きが終わり、娘は両手を下ろしました。指先から離れた布が、細い撫で肩に掛かります。

 これは、いったいどうしたことか、とわたしは首を傾げました。小屋の中も、静かなままです。男どもの間には、しわぶき一つ立ちません。

 やがて。

 娘が面を上げました。仰向けるように、勢い良くその顔を振り上げました。

 前面に下がっていたじっとりと重いような髪が、汗ばんでいるらしい首筋に数本を残したまま、一斉いっせいにその背の方へと移動します。

 そして、今度こそ、娘は目隠しのない顔を正面に向けました。

 男衆の不信を含んだ囁きが、小屋いっぱいに広がっていきます。それぞれの口が、ぽかんと開いていくのです。

 わたしは最初、光源のせいだと思いました。

 理屈は分からないなりに、ランプの灯りの加減で、見えなかったのだと。

 娘の両目のあるはずの場所は、ただ滑らかな皮膚が。皮膚だけが。

 いいえ、娘は瞼を閉じていたのではありません。遠目とはいえ、わたしがいた場所からは娘の顔立ちはおろか、首筋に貼り付いている髪の毛が分かったのですから。

 男達の何人かが、弾かれたように立ち上がります。それにつれて、おうとか、ああとか、驚嘆の声が沸き起こりました。


「目ン無い娘やああ、目の無い娘ェ」


 おじさんの奇妙な節回しが、野太いざわめきを貫くように響き渡ります。

「目無し娘を、たァんと見てやってァくれませんかァァ」

 その声の余韻が終わらないうちに、男どもは遠慮も何もない有様で、娘の側へと我先に駆け寄りました。わたしの父の姿もありました。しかし情けないことに、誰かの赤黒い腕に押されて、潰れるようにして視界から消えてしまいました。

 娘は座っているその場で、ほんの少しだけ身じろぎしましたが、その顔は、ちんと澄ましたままでした。押し寄せてきた男どもの剣呑けんのんな気配は判ったでしょうに。

 もっとも、これが娘の仕事でしょうから。彼女にとっては、慣れきった、当たり前の流れだったのかもしれません。

 わたしは小屋の外でしたが、震えました。それほど、男どもの興奮は激しかった。今にも何処かで喧嘩が起きそうでした。

 酒も入っていたのでしょう。

 しかし、娘に触れようとするものはおりませんでした。ギリギリまでそばに寄って、黒髪に縁取られた小さな顔を覗き込むくせに、皆が触れることを恐れている、そんな感じでした。

 庇おでこのおじさんは、娘の脇に立ったまま、そんな男衆を見守るようにしています。


 おおう、おおう。

 目ん無か。

 瞼も無か。

 ぬっぺーとしとる。


 膨れ上がったざわめきが弾け、徐々じょじょに意味のある言葉の群れへと変わっていきます。皆の言葉は、ただ見たまま、そのままでしかないのですが、それがどれほどの重みを持ち、わたしの耳に届いたか。

 わたしは幼い子供でした。

 彼らは立派な、そう立派な大人でした。しかも全員男性だった。当時、成人した男というものは、素行や品性に多少の傷があったとしても、女子供とは別格の、それだけで偉い存在だったのです。大の男、といいますでしょう。大の大人、といえば男のことだけを差していましたし、大の女という言葉はありません。

 そんな大人の男どもが、阿呆のように口を開け、目がない瞼がないと繰り返しているのです。

 傍で確認しなくても、もうそれだけで、娘には本当に両目も瞼もないということが、絶対の事実として伝わってくるのです。

 今のお若い方には分かりにくいことでしょう。でもね、そういう時代だったのですよ。

 不意に息苦しさを覚え、頭の芯が詰まった感じになりました。くらくらっと膝が笑い、やっと気付きました。無意識のうちに息を止めていたのです。わたしは隙間から目を離すと、何回も深呼吸をしました。

 生暖かい空気が、甘く感じられたことを憶えています。わたしは背後を振り返りました。暗くて目には見えませんが、そこには雑木林があるはずでした。

 小屋は村外れにありましたから、辺りは真っ暗です。

 ランプの赤い光が、粗末な作りから漏れてはいますが、それに回りを照らしだす力などありません。

 それでも虫にはご馳走とみえて、大小様々の羽根のある虫達が群れています。

 わたしの背よりもっと上のほうでは、母の掌ほどもある大きな蛾と、硬い羽根のかみきり虫のようなものが、飛び回っておりました。バサバサと微かな音がしています。火の傍に寄ろうとしているのでしょう。虚しい体当たりを続けています。

 わたしはえいっと伸びをしました。

 ずっと隙間を覗き込んでいたせいで、すっかり身体が縮こまっていたのです。顔を上に向けると、べったりと黒い空に、怖いくらいの光を放った星々が瞬いていました。

 今の世では、なかなか見る機会のない貴重な真の夜空でしょうが、あの時代にあの村で生まれ育ったわたしには、ちっとも珍しくありません。

 けれども。見慣れていたはずのそれに、わたしは居心地の悪さを感じました。そして、ざわざわと胸の奥で、予感めいたものが走ったのです。

「なんか、こら! おい、なんか動きよるぞ」

 乱暴な声に我に返りました。慌てて隙間に目をくっつけると、男が一人、娘に伸し掛かるようにして立っています。娘には動じた様子はありません。

「ああ、動きよる。こら、目ん玉、じゃなかか?」

 喚き立てているのは伊三いぞうといって、村の若い者の中でも極めて気の荒い扱いにくい男で、そのせいか二十歳を超えてもまだ独り身でした。

「やめ、やめ、やめんじ。なぁ、やめんじ」

 庇おでこのおじさんは気の毒なくらい狼狽うろたえていて、何とか娘と伊三の間に割入わりいろうとしていました。さっきまでの作り飾った物言いは消え、わたしとお喋りしたときの変な言葉に戻っています。

「やめんじ、ち、」

 うっ!――伊三はおじさんを突き倒し、娘の後ろに回り込みます。背後から小さな顎をぐいっと掴むと、他の男衆へと差し出しました。

「おい、ヌシ達も見てみ。こら、目のあるばい」

 伊三、何ばしよっとや。

 大概たいがいにせんね。

 そぎゃん騒がんでん、よかろが。

 すっかり伊三の剣幕けんまくまれて、意気地なく成り行きを見ていただけの男衆が、前の方から順々に娘の方へとにじり寄っていきます。

 先頭で娘の顔に視線を這わせていたきちという年寄りが、たしなめるように口を開きました。

「目のあるて、こら無かろが。つるっとして」

 吉の声が途切れました。

「な、な?」

 伊三の勝ち誇ったような声が、後を引き取りました。

「何や、こら」

 吉が、ほうけたように言いました。

 何て。

 何てや。

 ちょっ、俺にも見せてん。

 見せてん。

 見えんたい。

 男衆が一気に娘の方へと、雪崩なだれ込んでいきました。

「あっ」と一言だけ、澄んだ響きが聞こえた気がしました。が、たちまち男どもの立てる轟きが、小屋から溢れ出します。

 薄汚れた布をまとった、赤黒い背中や腕、むっくりと盛り上がった肩に隠されて、すぐに娘の姿も見えなくなりました。

 わたしは怖くなりましたが、隙間から目を離すことは出来ません。そうした間に娘がどうなってしまうのか。いえ、見ていたからどう、というわけではないのですが。

 そう、どうせ助けにもなりはしない。それは判っていたのです。

 ええ。見ていたかったのです。

 しかし、見るといっても、視界に入るのは男衆ばかりでした。背伸びをしたり音がしないように気を配りながら、その場で飛び上がってみたりしましたが、覗ける範囲は限られていました。

 耳に入るのも、おう、おうという男衆の声ばかりで、庇おでこのおじさんがどうしてるのかすら分かりません。わたしの父の姿も、あれきりでした。

 わたしが苛立いらだちを覚え始めた、そのときです。

 うえ、だか。げえ、だか。

 ゾッとする悲鳴が上がりました。

 男衆が示し合わせたかのように、一気に静かになりました。

 吉が、立ち上がりました。

「こら、瞼ん開いとらんだけたい」

 伊三も、立ち上がりました。

「な? そぎゃんたい。肌ん中で、ぐりぐり動きよるどが。こら、目ん玉ばい。目ん玉ァ、ちゃあんと中にあるたい」

 そして、しん、とまたも静かになりました。

 緊張しきっていた耳に、ジィジィと、聞き慣れたが。

 ああ、虫が、鳴いている。

 この時期、いつも寝入りばなに聞こえてくる、馴染みの音。

 目には、吉と伊三の生き人形のような姿。

 隙間から漂ってくる男衆の汗の臭いが、見開いたままの瞳にツンと染みてくるようで、気持ち悪くなったわたしは、ギュッと目をつむりました。

 その隙に、ざわっと、濃密な空気が動いた気配がしました。


 伊三、いかん!


 切羽詰まった誰かの声。わたしは慌てて目を開きました。

 伊三は、同じ所に立ったままでしたが、胸元で何かを握りしめる格好をしています。

「伊三!」

 ハッとしたような吉の声。

「あ、ああ、あ、や、やめんじ、ち」

 すっかり押しやられてしまったのでしょう。小屋の後方から、庇おでこのおじさんが泳ぐようにして、何とか前に進もうとしています。

 伊三、

 伊三、

 伊三、とあちこちから、声が沸き起こります。

 伊三がほんの少しばかり、身体を開くようにして動きました。

 それに連れ、ギラリ、と赤い光が小屋の中を斜めに走り、わたしの目が一瞬、くらみました。

 伊三は、抜身ぬきみ小刀こがたなを構えたのです。

「瞼ん無かなら、俺が開けてやったい」

 そう叫ぶなり、伊三の身体がサッと沈んでいきました。ひらりと翻ったたもとが、一拍いっぱく遅れて後を追います。


 やめんじ!


 男衆に押されたままで、両手を伸ばした庇おでこのおじさんが、甲高い声を上げました。

 吉が伊三に跳びかかりました。

 男どもの興奮が一気に爆発したかのような、小屋に掛かった筵が震えるほどの圧力がわたしのところにまで届きました。

 沸き立つ声、声、声。

 例えるなら勝鬨かちどき


 そして、

 ああああああああ、と尋常ではない女の悲鳴が、長く、長く。


 ぷつん、と狂乱の光景が途切れました。

 わたしは、知らず、一歩、後退あとずさりをしていたのです。

 ああ、何てことだ。何てことだ。

 何故わたしはこんなところに。

 母を、祖母をたばかり、わたしは。

 もう一歩、足が勝手に後ろへと向かいます。

 男衆の怒号は、小屋の外にまで響き渡っていました。それに合わせて中からは、分厚い肉のぶつかり合う音が。

 ああああああああ、とそれらの間をかいくぐり、女の、あの娘のものでしょう。絶叫が続きます。


 伊三、伊三!

 やめんじ、通してくれんじ!

 吉やん、早よ、そこば退かんね。

 ほれ、見らんか! 中に、目ん玉ん二つ、ちゃあんと入っとったたい。

 ばか! 目ん玉ん、すっぱり切れとったい。

 血が、血が。


 意味のある言葉が、これだけ、わたしの耳に届きました。

 充分でした。

 もう。

 わたしは、家に逃げ帰ろうと。

 小屋に背を向け、駆け出そうとしたのです。


 ぼうっ。


 そんな音ともに背後から、ぱぁっと灯りが射しました。

 行く手に、わたしの影がずいっと長く伸びました。さては見つかったかと首を縮めて振り返ると、炎が。

 小屋が燃えていました。

 ああ。あの騒ぎでランプが落ちたのでしょうか。

 急ごしらえのそこにかかった筵が、燃えながらへらへらと煽られて、火の粉が辺りに散っていきます。

 ガッと、痩せた腕が、さっきまでわたしが覗いていた隙間から生えました。筵を突き破るようにして現れたのは、吉でした。年寄りに似合わない素早さで、あっという間に村の方へと駆けていきます。焦点が合わない目をしていました。

 それから。

 後から後から、うおおお、うおおおおと男衆が、小屋から転げ出てきました。

 わたしのことなど、誰一人見向きもしません。

 男どもの団子の中に父らしき人の背中を見つけて、反射的に追いかけようとしたときです。 

 ぎゃっ、と一声。

 小屋の中から、はっきりと聞こえました。

 どうも男の、短いながらも何か取り返しのつかないような響きを含んだ――悲鳴でした。

 わたしには伊三の声に聞こえました。

 止んでいた、あああああああ、という女の絶叫が再び始まり。

 始まり、小屋が燃える音に混じって濁っていたその声が、不意にくっきりとわたしの耳に届きました。

 父らしき背中から目を剥がし、わたしは小屋に向き直りました。

 暁のように燃える輪郭を背負った黒い影が、悲痛な叫びをあげながらこちらへと向かってきます。

 ぶつかる!

 わたしは、危ういところでその影から身をかわしました。

 あの娘でした。

 目無し娘でした。

 怖ろしいほどに綺麗で。

 包帯のような長細い布をしっかと掴み、目元に押し当てていました。布の両端がひらひらと舞っていて、まるでいつか紙芝居で見た天女の羽衣のようだと、場違いなことを思ったものです。

 乱れ、風を切る、長い黒髪。薄い生地の白い着物。履物はなく素足で土を蹴り、わたしの真横を抜けていきます。結び目の緩んだ帯が、魚のひれのようにはためいていました。

 本当に綺麗だった。

 ちり、と頬に痛みが走りました。

 火の粉でした。

 娘のその髪に、着物の袖に、裾に、包帯のような布に、緩んだ帯の先に炎が宿り、きらきらと火の粉を振りまいていたのです。

 

 あああああああああ。


 叫ぶことをやめると死ぬ生き物のごとく、娘は絶叫を続けます。

 星明かりに満足できないごうを持つ大きな蛾が、すうっと娘の方へと引き寄せられていきました。

 ひらひらと舞う細布の先の火が、その羽根を一舐ひとなめすると、ぽっとあっけなく、たちまち燃え尽きてしまいました。それでも、暗闇から湧くようにして、何匹もの蛾が現れては焼けてを繰り返し、ぽとりぽとりと落ちていきました。


 ああああああああああ。


 そんなことも知らないままに、娘は闇の中へと消えていきます。

「待たんじ、お巻、お巻ィ」

 庇おでこのおじさんが手を延べながら、わたしを追い越していきました。頭を押さえる格好で、娘が消えた方へと向かいます。焦げた肉の臭いが、ぷんと鼻を突きました。

 とっくに娘の姿も、きらきらとした火の粉も、何処にも見えず。絶叫さえも聞こえません。

 それでもおじさんは、よろよろと進んでいきました。

 やがて。

 お巻、お巻ィ、と耳障りなその声は、闇の中に溶けるように消えてしまったのです。 

 

    


 ――昭和×年 十一月 某所 某人より聞き記す(署名らしき文字が続くが、墨がにじんでおり読み取ることができない)


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聞き書き曲馬団 黒実 操 @kuromimi

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