以心澱心

下東 良雄

前編 家族という名の作業

 何の不満もない。

 お酒もギャンブルもやらない働き者の夫。

 大学受験を控えて勉強に励む息子。

 建売でローンは残ってるけど、家だってある。

 三人揃えば笑顔が溢れる、そんな家族だ。


「幸せな家族だね」


 みんながそう言う。

 そんな言葉に愛想笑いを浮かべる私。


 (幸せって何だろう?)


 家族のためにご飯を作る。

 家族のために洗濯をする。

 家族のために掃除をする。

 家族のためにパートで働く。


 すべて『家族』という名の作業だ。

 それに気付いた時、私の中の幸福という言葉の意味が破裂した。

 もう何が幸せなのか分からなくなってしまった。


 ふたりと家族でいることが幸せだった。

 家族のためならどんな苦労だって厭わない。

 でも、家族の中で私は埋没していく。


 私は何なのだろう。


 私という個を殺して、家族に隷属する人生。

 そんな人生に価値はあるのか?

 夫のことは愛している。

 でも、夫は私を愛していない。

 私をもう恵美えみとは呼んでくれない。

 私を呼ぶ時は「母さん」だもの。

 夜の生活だって、いつからか無くなっていた。

 美人でも何でもないただの四十代のオバサン。

 夫から見れば、そんな私に何の魅力も感じないのだろう。


「いい年して」

「母親のくせに」


 そんな幻聴が聞こえるようだ。

 でも、私が愛を求めるのはそんなにいけないことなのか。

 私だってひとりの人間であり、ひとりの女性。

 誰かを愛したいし、愛されたい。

 そんな実感が欲しい。

 私を見てほしい。


 私は母親失格なのだろうか。

 私は色情狂なのだろうか。

 私は頭がおかしいのだろうか。

 分からない。

 もう何もかも分からない。



 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 ――パート先のスーパーの事務室


「立花さん、お疲れ様。話があるって……何か仕事で困ってる?」


 パート先の店長さんに時間を割いてもらった。まだ若い三十代前半の男性だ。

 事務室は店長専用の二畳程の狭いスペース。他のひとがズカズカと入ってくるようなことはない。事務机の上には電源の入ったノートパソコンが置かれており、おそらく私が来る直前まで仕事をしていたであろう。

 事務椅子に座る店長さん、その向かいで折りたたみのパイプ椅子に座り、うなだれる私。狭い密室が沈黙の空気に支配された。


「……立花さん、このところ元気が無かったから心配してたんです。いつも真面目で仕事をしっかりこなしていたのに、最近ミスが目立つし……何か悩みでもあるんですか?」


 私は思い切って顔を上げた。


「……店長さん、お願いがあるんです」


 私の様子に、店長さんも真剣な面持ちだ。

 そんな店長さんに、私は訴えた。


「私を寝取ってもらえませんか?」



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