八時二十三分

 妻の妊娠がわかったころから、我が家で不思議なことが起こり始めた。

 家の時計を眺めると、いつも八時二十三分で止まっているのだ。

 ひとつだけではない。

 家中の時計が、八時二十三分で止まるのだった。


 私は気味が悪くなって、すべての時計を外そうとしたが、妻が「おもしろいじゃない」と意に介さなかったので、彼女の好きにさせた。

 私は妻を何人かいる恋人の一人にしか、いや、性のはけ口にしか思っておらず、彼女が妊娠したので責任を取って結婚しただけで、彼女に対する愛情はなかった。

 それに対する後ろめいた気持ちから、なるべく彼女の思う通りにさせてやりたいと思っていた。

 だから、気味の悪さは感じつつも、見かけるたびに時計が八時二十三分で止まっていてもそのままにしておいた。


 妻は気がつくたびに時計を正しい時間に戻しているようだったが(どういうわけか妻が触ると、止まっていた秒針が動き出すとのことだった)、その労力はいつも無駄に終わり、直した直後に時計を見ても、その針は八時二十三分に戻っていた。

 結婚前は知らなかったが、妻はオカルト好きだったようで、この不可思議な現象を楽しんでいるようだった。

 私は妻のそういう趣味がどうにも好きになれなかったが、いや、元々彼女のことはさして好きではなかったが、どうにかならないものかと思った。

 しかし、私は、生まれてくる子供のために結婚したのだから、彼女がどういう趣味を持とうがそんなことはどうでもよく、夫として付き合える限りは付き合わねばならない義務があるのだろうと、自分自身に言い聞かせた。

 私は堕胎を迫るほど無神経な人間ではなかったし、子供には父親が必要だと思っていた。


 臨月が近づくと、暇つぶしだろうか、妻は霊能力者なる肩書で商売をする者を呼んで、この不思議な現象の謎解きを求めた。

 自称霊能力者は持参した水晶を眺めながら、地縛霊やらなんやらと御託を並べ、家の時計を外すように言った。

 まあ、偽者なら、そう答えるしかないだろうと私は思った。

 霊能力者に対して妻が答える前に、「それでは何の解決にもならないように思うのですが」と私は口を挟んだ。

 「それでは塩を家の四方に盛ってください。それで様子を見ましょう」と言う霊能力者に、私は「それで本当に解決するのですか」とバカにした口調で応じた。

 気分を害して霊能者が席を立つと、妻が後を追って料金を支払った。


 妻のことはどうでもよかったが、子供が生まれてからもこのままではよくないと思った私は、物置からシャベルを取り出して、車に積み込んだ。

 「ちょっと出かけて来る」と身重の妻に見送られながら、私はある山に向かった。


 山の奥に入ると、私は、七年前の午後八時二十三分に殺した女の遺体が埋まっている場所を掘り起こし始めた。

 私は、本当に愛したゆいいつの女を、つまらない誤解から生じた嫉妬心から殺してしまった。

 目の前にあった時計を眺めながら、私は彼女の首を締めた。

 彼女が息絶えたのは、時計の針が八時二十三分を示したときだった。


 この場所でまちがいないはずだったが、いくら掘っても彼女の遺骨は見つからなかった。

 日が暮れて来たので私は穴を掘るのを止め、車に戻ってスマートフォンを確認すると、妻だけでなく、妻の母親からも着信があった。

 私が妻の母親に電話をかけると、妻は私の留守中に陣痛がはじまり、すでに病院へ搬送されていた。


 私が病院へ着くと、出産は無事に終わっていた。

 「元気な女の子よ」と妻の母親が満面の笑みで私に告げた。

 私はその女の子の顔をまじまじと眺め、だれかに似ているなと思った。

 それは私でも妻でもなく、私が殺した女に似ていた。

 「ちょっと抱いてみなさい」という妻の母親に従い、私はその子を抱いた。

 その瞬間、私は何とも言えない幸福感に包まれた。

 自分のせいで、もはや手に入らなくなってしまったと思っていたものが、私のもとへ帰って来た実感を、私は覚えた。

 目覚めた妻が、「名前はどうするの」と私に尋ねた。

 私は迷うことなく、昔愛した女の名を告げた。

 妻が女の勘から何かを感づいたようだったので、「語感が好きだから、この名前にしたが、君につけたい名前があるのならば、そちらでいいよ」と言った。

 すると、妻はしばらく考えたのち、「別にあなたの決めた名前でいいわよ」と同意してくれたので、私は心の底からほっとした。


 その日から、八時二十三分で時計が止まる不思議な現象は、いっさい起こらなくなった。

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