その部屋

 ミュージシャンを目指す青年が、そのアパートに帰宅すると、髪の長さから女とわかる腐乱した姿の幽霊が、いつものごとく、彼を出迎えた。両目は飛び出しており、肌は紫色に変色していた。

 きょうは、路上演奏が好評でスカウトから名刺をもらうこともできた。しかし、その喜びも、女の姿を見ると霧散してしまった。だが、今夜、演奏が成功したのも、スカウトが寄って来たのも、その女のおかげであったから、彼は深くため息をつくことしかできなかった。


 事のはじまりは、こういう話であった。

 青年は、同郷の縁で、売れている先輩ミュージシャンと飲む機会に恵まれた。

 先輩は売れているというのに、どこか浮かない顔であった。

 酒が進むと先輩が、その理由を話してくれた。

「おれが売れたのは、いま住んでいるアパートのおかげなんだよ。そこには幸運の女神が住んでいるんだ。でもなあ、その女神は、マンガとかにあるように、美しい姿をしておらず、皮膚が紫色に変色した、どろどろの死体の姿をしているんだよ。それが、家にいる間中、おれにまとわりついてきて離れない。でも、彼女と部屋にいる時間が長ければ長いほど、幸運に恵まれるんだ。だから、俺は成功した。いや、俺だけではない。そこに住んでいた者は、みんな、何らかの形で成功している。でも、俺はもう限界だ。金もあるし、ふつうのマンションに住むつもりだ……。もし、あれなら、きみが住むかい?」

 にわかには信じがたい話であったが、「成功」に飢えていた青年は、話に飛びついた。


 青年が部屋の中に入ると、腐敗により、ものすごい形相となっている女が近づいてきた。それから、彼の腕に自分の腕をからめた。女に実体はなかったが、女の腐敗した肉の感触を感じ、また、無臭のはずなのに異臭をおぼえた。

 食事を取れば、机の対面に女は坐り、風呂やトイレに入っても、女はついてきた。テレビを観たり、ギターを奏でたりすれば、その隣に坐り、一刻も離れようとはしなかった。

 寝ているときが最悪だった。ただでさえ、腐敗した女がとなりにいて眠れないのに、寝ようとすると、どこからか、実体のない鼠が何匹もやってきて、文字では表現できない音を立てながら、女にかじりつくのだった。朝、寝不足のまま、青年が目を覚ますと、女はところどころ肉片を残した白骨となっていた。しかし、青年が帰宅する頃には、いつもの腐乱した姿に戻るのであった。これが毎晩つづいた。


 だが、その悪夢のような私生活に比例して、青年は成功していった。インディーズで売れ、メジャーデビューを果たした。曲もよく売れて、金もたまった。

 そんなとき、部屋を紹介してくれた先輩と、街でたまたま出くわした。先輩は小ざっぱりとしたスーツ姿であった。

「あの部屋を出たら、すぐに売れなくなってね。音楽業界からは足を洗ったよ。成功し続けたければ、あの部屋からは出るなよ。でも、なあ、きみも十分、成功したから、そろそろだろうな……」

「そろそろとは、どういう意味ですか?」

 青年の問いかけに先輩は「じきにわかるさ」と手を振って、青年の元を離れていった。その背中はどこかさびしげであった。

 先輩の言葉に、青年は不安にかられたが、部屋を手放すべきではなかったと後悔した先輩の、自分への嫌がらせだと解釈して、何とか気を取り直した。


 しかし、その日の帰宅後に、先輩の「そろそろ」の意味がわかった。

 どうも、いつもよりも、女の体を寄せる距離が近いと思っていたら、夜、寝るときに、女が青年に覆いかぶさり、体を求めてきた。下から見る女の顔はすさまじかった。女の目や鼻や口から、体液がしたたり落ちてきた。それは実体のないものであったが、青年は半狂乱となった。しかし、体が動かず、女のなすがままに、どういうわけか気絶することもできず、朝方までその行為はつづいた。


 やがて青年は耐え切れなくなり、そのアパートを出ることにした。なに、もう成功してしまったし、そもそも、あれが幸運の女神である証拠はない。おれは実力で成功したんだ。そうにちがいない。

 しかし、くだんのアパートを出たとたん、青年の曲はぱったりと売れなくなり、最後は、ささいなスキャンダルを追及されて、事務所を追い出された。

 青年もまた、音楽業界を去った。いまは、アパートを紹介してくれた先輩のいる会社ではたらいている。

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