次の日は、昨晩に遅くまで起きていたせいか昼前になって目が覚めた。


布団から抜け出すと音もなく、「おはようございます」と襖の外にトウダさんが現れる。相変わらず突然現れるトウダさんにびっくりして上擦った声で挨拶を返す。


昨日と同じように桐箱を抱えて入ってきた彼女は、てきぱきと布団を片付ける。



「先日のお召し物が乾きましたが、本日は如何致しますか」



そう言われて差し出されたのは、中学校の制服だった。いつの間にか洗濯してくれたらしくシワひとつない。



「あ、じゃあ制服で……」


「かしこまりました」


「あ、あの。これは自分で着替えれます」



昨日と同じように着替えを手伝おうとしたトウダさんに慌ててそう伝えると、彼女は「左様ですか」とだけ答えて直ぐに部屋を出た。


断ったの、良くなかったかな……?


あまりにも淡々とした返事に少し不安になりながらもセーラー服に腕を通した。



着替えを済ませて居間へ向かうと、禄輪さんが眼鏡をかけて何かを読んでいた。本みたいだけれど、よく歴史の教科書なんかで見るような紐で閉じられた和紙の書物だ。


私の気配に気がついたのか、ふっと顔を上げた禄輪さん。



「おはよう、巫寿」


「おはよう、ございます」


「それは中学校の制服だな。もう15歳だったか」



感慨深そうにしみじみと呟くその姿は、お兄ちゃんが私の卒業式や入学式に来た時の顔とよく似ている。なんだか背中がこそばゆくて慣れない。


禄輪さんの向かいにはもう食事の用意が整っていて、きっとトウダさんが用意してくれたんだろう。


座布団の上に座った。膝の上でぎゅっと拳を握る。食べ始めない私を不思議に思ったのか禄輪さんは「どうした?」と首を傾げた。



「あの、私、これからどうしたらいいんでしょうか……? お兄ちゃんのことも心配だし、家がどうなってるのかとか、学校とか……」


ここがどこかも分からないから、一人で帰ることもできない。


家はたぶん、先日の騒動で荒れたままだし、きっと玉じいも心配しているはずだ。学校のこともそう。あの日、担任の先生や恵理ちゃんから心配のメールが届いていた。試験も途中で抜け出してしまったから、これからどうすればいいのか聞かなくちゃいけない。


禄輪さんは本を閉じるとメガネを外して向き直った。



「そうだな。昨日話せなかったこととか、これからのこともちゃんと話そうか。でも先に、ご飯を食べてしまいなさい」


目を弓なりにした禄輪さんにこくりと頷いた。



「────さて、まだ話していないことが山ほどあるな。とりあえず巫寿のこれからの話をしよう」


食後のお茶を持ってきてくれた眞奉さんが禄輪さんのそばに座ったタイミングで、そう口を開いた。


「まず家についてだが、 あと数週間で魑魅の残穢を祓って清めてくれているから明後日には帰れるだろう」


「あの、その残穢って言うのは……」



昨日も聞いたので何度も尋ねるのは申し訳ないと思いつつ聞き返す。


禄輪さんは嫌な顔せず、ひとつ頷いて口を開いた。



「今回の魑魅という妖は、"瘴気"と呼ばれる生き物に害を与える目には見えない気を放っているんだ。もっと簡単に言えば悪い空気だな。そういう、妖が残していく悪いものを総じて"残穢"と呼ぶ。残穢はそのままにしておくとカビのように根付いて大きくなる。だから、祓って清める必要があるんだ」


「それは、どんな害があるんですか……?」


「怖がらせてしまうから、あんまり言いたくないんだが……。そうだな、妖には正気を狂わせたり凶暴化させる作用があるし、人間にも病気を引き起こしたり最悪死に至ることもある」



死、と聞いてさあっと血の気が引いた。


それみろ、と禄輪さんが苦笑いする。



「あの神主は昔からよく知ってる奴だから、ちゃんと祓ってくれる。だから安心しなさい」


「あの神主さんは、大丈夫なんですか……?」



目を瞬かせた禄輪さん。ふっと表情をやわらげる。



「優しい子だな。神職は対処も知っているし慣れている。さして問題は無い」



良かった、と息を吐く。


一度会っただけの人とは言え私のために危険をおかしていると知ったらいてもたってもいられない。



「帰れるようになったら私が送ろう。この社は少しややこしいところにあるからな」


「あの、ここって……どこなんですか?」


「かむくらの社という場所だ。今は社の神職が不在で住まいの方は最低限の手入れしかされていないが、社は立派だったろう? 全国の神職たちの頭が御座す社だ。非常に重要な場所だから、何重にも言霊をかけて鎮守の森の中に隠されている」



言霊で隠す。


禄輪さんはさらりとそう言ったけれど、言霊の力でそんなこともできるんだと目を見開く。



「家に帰れば、祝寿の見舞いも直ぐ行けるだろう。それまでは俺 私がこまめに様子を見てくる。今朝は変わりなかった」



そう聞いて嬉しいのか悲しいのか複雑な気持ちだった。


変わりないということは、まだ眠ったままということだ。


お兄ちゃんのことを気にかけていてくれたことに、ありがとうございますと頭を下げる。



「家に帰ればこれまで通り……とはいかないが学校に通って友達と遊んで、普通の生活は送れるだろう」


確かにお兄ちゃんがいないことで、これまで通りとは行かないかもしれないけれど、またあの家でも暮らせるし、学校にも通えるんだ。


良かった、と安心すると同時に妙に胸に何かが引っかかる感覚を覚えた。


さて、と禄輪さんが一呼吸おいた。



「ここから話すことは、"私たち"の話だ。今回の一件でこちら側を知った巫寿は、もちろん知る権利がある。それにこれからの事を考えると、自分で自分の身を守るためにも、知っておくべきこともあるだろう」



自分で自分の身を守るため。


それを聞いて、「普通の生活には戻れない」というのがそういう意味であることを察した。



「でも、私はこれまで、妖に襲われることなんてなかったのに」


「それは祝寿や両親が、巫寿の知らないところで守ってくれていたからだ。けれど一恍や泉寿はもういない、祝寿にも守ってもらえない。自分で自分を守るしかないんだ」



禄輪さんが私を真っ直ぐに見据えてそう言った。


その視線から逃げるようにテーブルの木目に視線を落とした。



────そんなの。そんなの、私にはできるわけが無い。


だって、自分の中に特別な力があることも数日前に知ったばかりだ。その特別な力だって、たくさん訓練しなければ使えないとあの子は言っていた。


先日の一件だって恐ろしい化け物を前にして足がすくんで何も出来なかった。両親やお兄ちゃんに知らないところで守ってもらっていたことさえ知らなかった。


これからどうすればいいのかも分からない。そんな私に何ができるの……?



「巫寿、顔を上げなさい」



そう言われてそっと上をむく。


禄輪さんはふと微笑んだ。



「巫寿の言葉には、命が宿っている。巫寿が心から願ったことを口にすれば、それはその通りになる。だから、自分を否定してはいけない。「できない」と言えば出来なくなる。「怖い」と言えば恐怖に支配されてしまう。"言祝ぎ"を高めなさい」


「こと、ほぎ……?」


「ああ。言葉を祝うと書いて言祝ぎだ。言霊の力は"言祝ぎ"と"しゅ"の二つの要素が組み合わさって出来ている。プラスとマイナスみたいなものだ」



プラスとマイナス、言祝ぎと呪。


口に出して繰り返してみれば、禄輪さんは大きく頷く。



「怖いとか嫌だとか、死ねや消えろ。それは呪の要素が強い言葉だ。反対に嬉しい、楽しい、祝福、清浄……これらは言祝ぎの要素が強い。神職は言霊を使う際、色んな工夫をしてこの要素を強めたり弱めたりしている」



その違いは聞き返さなくても何となくわかった。


悲しい言葉やマイナスな言葉は呪が強く、嬉しくて清らかな言葉は言祝ぎが強い。



「神様との結び付きを強める祝詞を読み上げて、そこへ言霊の力を宿らせる────これが神職が妖を統治するために行っている事だ。その中でも一番短いのが、「略拝詞」」



禄輪さんは傍にあったメモを寄せると、ペンのキャップを外してさらさらと何かを書き込む。


そしてそれを私の前にすっと滑らした。


略拝詞と書かれた二行目に達筆な文字で不思議な言葉の羅列が書かれていた。



「祓えたまえ、清めたまえ、神ながら守りたまえ、幸えたまえ……?」


「そうだ。祓い清めの祝詞の中で一番短く、神職が最もよく使う祝詞だ」



ミミズみたいなヒョロヒョロしたした文字を指でなぞる。


祓えたまえ

清めたまえ

神ながら守りたまえ

幸えたまえ


二行目まではアニメや漫画なんかで見たり聞いたことがある。


邪気を祓って下さい、穢れた心身を清めて下さい、御守り下さい、幸せにお導き下さい。


そんな意味があると禄輪さんは言った。



「私もこれからは巫寿を気にかけるようにするし、騰蛇とうだを傍に遣わせよう。けれども、どうしても誰もいない時に怖い目に合いそうになったら、この略拝詞を唱えなさい。他の祝詞のように強力な力はないが、逃げる時間は稼いでくれる。その間に俺や眞奉が駆けつけよう」



それはつまり、私はひとりであんな化け物とまた対峙しなければならないということだ。


きゅっと唇を結んで紙をそっとテーブルの上に戻すと、禄輪さんは困ったように笑う。



「首から下げれるように巾着に入れてあげような。……騰蛇、可愛らしい布を選んで繕ってやってくれ」


「承知しました」



禄輪さんは立ち上がる。


私の横を通り過ぎる際に励ますようにぽんと頭に手を乗せた。

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