眠るビーチ
緑みどり
ビーチ
闇が消えて、どこにいるのか、どこに行けばいいのかわからなくなる。波の音。紅く、まるくて大きい朝日。足元の砂。涙と潮の味。倦怠感。行き場のない感情。昨夜の幸福の名残り。それらすべてが入り混じっている。
夜明け、海辺を去らなければならない。私には海がすべてだというのに。海以外の場所には何もないのだ。
私には夫と子どもがいる。でも彼らは何でもない。なんにも感じちゃあいない。無感動に生きているのだ。平凡な人生に怒りを覚えることさえ知らずに。一緒にいるとこちらまで無感動になる気がする。
私はといえば、毎日怒っていた。それも無言の怒りだ。人生は無慈悲で不公平だ。どうしてこの私が、こんな田舎町で一生を終えなければならないのだろう。どうして、揃いも揃って出来のわるい子が五人、毎日毎日騒ぎ立ててくるのだろう。あぁ、どうして……どうして?
夜の海には、蒼白い肌の少年がいる。線の細い身体。無意味な微笑。暗い瞳。
この子は私の天使、救世主だ。
気が立っていても、泣きじゃくっていても、その姿を一目見れば、熱はさり、心の中にはひたすら静かな海が広がる。
「どこか連れていって。どこか遠いところへ……」
私はあの子の足元にひれ伏して、震える声で、そう唇を動かした。
唇も手も肩も、全身が指の爪や髪の毛の一本一本までもが震えた。波が顔にかかって、口の中がしょっぱい味がする。
私には自分の言ってることが理解できていなかった。ただ、とてつもなく自分が惨めで、不幸だった。殺してくれるよう叫びかねないところだった。
「おばちゃん、立って。きっとそうなるよ。僕がどこか遠いところへ連れていってあげる」
少年が明るい澄んだ声で言った。
その時、少年がどれほど美しく見えたことか。どれほど強く、雄々しく見えたことか。
しかし、私はすぐに我に返った。悲しかった。涙がとうとうと流れてくる。首を横に振りながら少年を見上げた。
「あんたは知らないんだ……無理だよ……無理だよ」
「無理じゃないよ、おばちゃん。僕が遠いところへ連れていってあげる」
私は、けれど呆然として少年を見上げていた。一体この子に何ができるっていうんだろう?
その日の夜明け、家に帰らなかった。寝入ってしまったのだ。泣き疲れて、波の音が心地よくて……すっかり安心しきって……
目を開けると頭上で朝日が照り輝いていた。まぶしい。口の中は強烈な塩の味がして、頭はズキズキと痛んだ。少年はいない。からっぽの砂浜と海が果てしなく広がっている。
嫌な予感がした。寒気がして、海のすべてが恐ろしくなった。家に帰らなければならない。震える足で、ひたすら歩いた、何億光年にも思える道のりを。重たい腰をどうにか動かしながら歩いた。
道すがら、通り一帯が空っぽなのが見えた。よく見知った街。さびれた郵便局に、町に一つだけのカフェ。新聞配達の自転車が建物の壁にたてかけてある。れんが造りの小さな学校。そう言えば、子どもたちはあの学校に通っているのだった。教師も生徒の姿も見えない。港に時々やってくる水兵たちの姿もない。船もなく、何もない。誰もいない。
一時間あまりの道のりを歩いて、家の前に着いた。家は変わらずあった。傾いた郵便ポストに使われていない犬小屋。芝生と庭に干された洗濯物。
家の中からピアノの音が聴こえてきた。たどたどしい手指で誰かが「乙女の祈り」を弾いている。以前、ずっと前によく弾いた曲だ。私がまだ少女だった頃。唯一家の中で好きだったものはピアノだった。日がな一日、時が経つのも忘れて、メロディを奏でたものだ。「乙女の祈り」は一番のお気に入りだった……
ピアノを弾いていたのは、幼い少女たった。難しい顔をして、無我夢中で弾いている。私が居間の敷居をまたぐと、演奏は止まった。
「こんにちは、皆んながどこに行ったか知っている?」
私は女の子を怖がらせないように、できるだけ柔らかい口調で話しかけた。
「みんなって?」
女の子がそう言って首を傾げる。
「みんなよ。私の家族よ。私の大切な人たち……」
声が震えた。恥も外聞も、自制心も消え去っていた。怖じ気づいていたのだ。この状況すべてが、なんの罪もなさそうな少女でさえも、不吉だった。
「さあ?」
少女は不思議そうにこちらを見た。
「男の子は?」
「ああ、男の子」
女の子はそう言って合点がいったという風に頷いてみせた。
「仕事が終わったらね、ここに寄るはずよ」
仕事ってなんなの?
唇が動くだけで、声が出ない。
私が沈黙したままでいると、女の子は再びピアノに向き直って演奏を再開した。再び「乙女の祈り」を……
少年の帰りを待ち侘びていた。繰り返される「乙女の祈り」と少女の甲高いひとり言を聴きつつ……。
「素敵な未来がペガサスに乗って、とんでくるわ……。きっとすぐ、明日にでもね」
少女はだらだらとひとり言を重ねた。
私は呆然としてピアノの置かれている居間を見まわした。雑然としている。黒く、すべすべしたグランドピアノと、その上にのっている百科事典、花瓶と枯れたライラックの花束。しわのついたカーディガン。昨夜と同じだ。
どれくらいの時間、待ったことだろう。居間のかたい椅子に座って、待ち続けた。手足が痺れるほど、ずっと座りつづけた。
部屋の窓から夕陽がさしこんでくる頃、少年が現れた。赤いスカーフを首に巻いて、口笛を吹きながら。
少年は夕焼けに不似合いなほど蒼白い。唇だけはぐみの実のように赤く、目は不思議な輝きを帯びていた。
「ああ、おばちゃんだ」
少年が息をはずませて言った、
「私の家族はどこなの?町の人たちは?」
私は度を失って、少年の肩を激しく揺さぶる。少年は私の形相にひるんで笑顔を崩した。赤い唇はたちまち血の気が引いて、輪郭を失う。
「でもこれが僕のできる精一杯のことだったの」
少年が泣きそうな顔で言った。
私は諦念にのまれて、少年を責めたのを後悔した。私が馬鹿だったのだ。少年は堕天使というよりも、紙細工の偶像。これは私にだけに起こった悪夢だ。
「さあ、泣かないであんたは何も悪くない」
私は貯蔵庫からレモンパイとソーダ水を出してやった。ぺろりとレモンパイを平らげ、たちまち機嫌をなおしてしまう。女の子は、そんな少年を怪訝そうに見ていた。もうピアノを弾かず、おしゃべりもしない。私はおずおずとピアノの上にソーダ水を置いた。女の子は大変高慢な様子で礼を言ったが、手はつけなかった。
少年が娘たちの使っていたベットで眠りにつくと、やっとその場を離れて、女の子のもとへ向かった。女の子はカーテンも閉めず、ピアノいすの上に座っている。私が部屋に入ると、さっと表情をかたくしてこちらを見た。相変わらず、ソーダ水には手をつけていない。ガラスコップには水滴がびっしりと浮かび上がっている。部屋の中は明るく、窓の外は暗い。そらは美しい瑠璃色をしていた。少女の華奢な肩が、不機嫌な横顔が暗い窓の中、浮かび上がってくる。
「最後にもう一度だけ、聞きたいの」
「何を?」
少女が聞く。
「私たちのこと。家族のこと」
この少女が最後の希望だったのだ。少年に聞こうとしても聞けなかった。
少女はくちびるをなめて、関心を示した。
「条件があるの。あなたを家族のところに連れていくかわりにね、私にピアノを弾かせて。毎日、毎日、ここでね」
私は躊躇いもしなかった。なんだそんなこと。いかにも子どもらしい、無邪気な願いだ。ピアノなら弾きたいだけ弾けばいい。
「いいわ、どれだけでも弾いて」
ほがらかな口調で言う。
少女はちょっと微笑むと、つばの広い帽子をかぶり、白い手袋をつけた。私が何も身支度をしないで玄関の前に突っ立っているのを見ると、呆れたような顔をしてみせた。
「何もしないの?」
少女が言う。
「ええ、どうでもいいの。早く行きたいのよ」
少女は私がおろおろした返事をするのも聞かずに、少年の眠る寝室の方へととんでいった。
赤いスカーフだった、少女が私の頭を覆ったのは。
外はすっかり夜で、空には満天、星々が散りばめられている。今にも空から一つ二つ、星がおちてきそうだ。肌がとろけてしまいそうな、蒸し暑い夜だ。
私たちは海へ向かう。少女も私も口を聞かなかった。喉がひからびて話す気になれなかったのだ。
海辺までの道のり。私は恐怖も絶望も悲しみも感じてはいなかった。そのくせすっかり平生だったわけでもない。何も感じていなかったのだ。何も感じれなかったのだ……
「ここよ、ここなの」
海辺について、少女がにわかに、低い厳かな口調で言った。
私は目を凝らして砂浜をみた。誰もいない。人影もない。何もない……
「誰もいないわ」
かすれた声でいう。
「いるわ、下を見てよ」
少女が言った。
家に引き返し、呆然と、ソファに座っていた。視界がぼやけ、冷たい涙が頬を伝う。娘たちのベットで少年はぐっすりと眠り、少女はピアノいすの上に、ちょこんと腰かけている。
真夜中だというのに、家中明かりがついたままだ。真っ暗闇に家ごと浮かび上がっているようで、怖かった。まるでどこにも身を隠す場所がないような、世界中に自分の正体が暴かれてしまったような、恐怖だ。
ピアノの音が聴こえてきた。「乙女の祈り」だ。甘やかな、胸を高鳴らすようなメロディ。私が少女だった頃、何度も何度も弾いた曲だ。あの頃は、願えばなんでも叶うような気がしていた。ベットの前で跪いて祈れば、世界丸ごとだって手に入るような気がしていた……
「やめなさいよ!やめてよ、やめてよ、ピアノなんか!」
私は少女に向かって叫んだ。ヒステリックな声音で、滂沱の涙を流しながら。
少女は蔑みの色を浮かべて、こちらを向いた。
「やめないわ。好きなだけ弾ける約束でしょう」
私は唇を震わして、哀願するように、少女を見つめた。けれど、少女は取り合わない。再び「乙女の祈り」が流れる。家中どこへ逃げても、メロディはついてくる。咽び泣き、耳を両手で塞ぐ。
夜明けごろ、赤い浴槽の中で私は死んだ。恐怖で顔を歪めて、死んでも生き返ったりしないよう祈りながら。ほんの少しだけ、子どもたちのことを考えた。海辺に転がっていた砂だらけの死体。孤児同然に死んでいったのだ。
考えようにもピアノの音が思考を邪魔して、不可能だ。ただ、幼い頃からの狂おしいばかりの妄執を悔やみ、何もかもが過ちだったのだ、と思った。
私の人生全てが過ちだったのだ。
眠るビーチ 緑みどり @midoriryoku
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