揺蕩う災い
霧で視界の悪い中、くるくると回転を続けるクラゲの奥で、何かが見えた気がした。クラゲたちを刺激しない程度にもう少し近づいて目をこらしてみると、ようやくそれが何なのか分かった。
「紫季!クラゲたちの真ん中に人がいる!連絡くれた人かも!」
そう言ってクラゲの大群を指さすと、紫季は少し目を細めてそちらを見た。
「…本当だ。今のところドームは維持してるようだけど、このままだとどうなるか分からないな。翡翠、どうやってあれを撃退するつもりだ?」
そう問われ、わたしはトランクケースの中から小型のランタンを取り出した。このランタンには特殊な電球を使っていて、その光が当たるとディロウ生物は消失する。
「ランタンの効果自体は実証されているけど、さすがにこの数は予想外…。けど、何もしないよりはましだと思う」
わたしはランタンの電源をオンにして、クラゲたちの方へかざした。薄暗いディロウの中で、きらめく光の粒子がクラゲの方へと飛んでいき、やがてそのうちの一匹に降りかかる。その姿は徐々に周りの水と同化し、消えていった。
消失するまでに少し時間はかかってしまうが、これなら大丈夫かもしれない――、そう思ったが、現実はそう上手くはいかなかった。
仲間の一匹が消えてしまったことが引き金になったのか、クラゲたちが突然方向をこちらに変えて向かってきたのだ。青白い光の塊が、わたしに向かって押し寄せてくる。
わたしはとっさにランタンの光を強め、自分の前に掲げた。おかげで大群の先頭のクラゲたちを消すことはできたが、全体の数としては全然減っていない。
そのままわたしのところまでたどり着いたクラゲたちが、レースにも糸にも似た足をひらめかせる。そのたびにわたしの差している傘の骨が布越しに攻撃され、今にも壊れてしまいそうな嫌な音を立てた。
「っ、まずい、かも…」
傘が壊されたら、わたしはディロウとクラゲたちから身を守れなくなる。そうなれば、当然死んでしまう。一旦引くべき状況であるのは明らかだが、既にクラゲたちに取り囲まれていて、逃げ出せるような隙間はどこにもない。
どうするべきかと考えている間も、クラゲたちは攻撃の手を緩めようとはしない。…もうすぐ、本当に傘が壊れてしまう。なんとかしないと。…でも、どうすればいい?
何も思いつかなくて、頭が真っ白になる。そのまま手に持ったランタンさえも落としそうになった時だった。
「この…っ、目障りなんだよ、クラゲごときが!」
傘の骨組みの一部が壊されてバキバキと音を立てる中、わたしの背後からそんな声と、何かが爆発するような音が聞こえた気がした。
傘によって形成されていた空気の膜がぐにゃりと歪む中、水中にも関わらず煙が上がる。それをかき分けるようにして、彼は姿を現した。
「翡翠!無事か?!」
「うん、なんとかね…。ありがとう」
紫季が自分の傘を差しかけてくれたおかげで、間一髪でディロウに飲み込まれずに済んだ。わたしが持っていた傘は既にクラゲによってぼろぼろにされていて、足下に転がってしまっている。
「というか、紫季、一体何したの?」
いつの間にか群がっていたクラゲが半分ほど消えていたが、未だに何か煙のようなものが辺りに立ちこめていた。
「一応持ってきてた、ディロウ生物の駆除剤を使った。小さいボールの中に薬剤が入ってて、生物と接触すると外の膜が破裂して一気に周りに広がるようになってる」
そう答えながら、紫季は地面に転がっていたわたしのランタンを拾い上げた。どうやらいつの間にか落としてしまっていたようだ。紫季はそれを渡しながら話を続けた。
「このランタンのおかげか、いつもより駆除剤の効果が跳ね上がってる。俺がもう一回駆除剤を使うから、光を向けておいてもらえるか」
わたしはランタンを受け取ってうなずいた。紫季が用意している間、それを掲げてクラゲたちを引きつける。だが、半分ほどにまで減ってしまったクラゲたちは、もう攻撃をしてこなかった。ランタンと薬剤がかなり効いているのかもしれない。
「よし、これで終わりだ!」
紫季は手に乗るくらいの小さな球体を勢いよくクラゲに向かって投げつけた。見事に命中したそれはぶつかった瞬間に砕け、中に入っていた薬が一面に飛び散った。ふわりと煙のように立ち上った粒子は、クラゲたちに雨のように降り注ぎ、消滅をもたらす。次第にその姿は水に溶け、泡となり、消え去った。
「…全部消えた?」
「…みたいだな。はあ、まさかこんなことになってたとは。というか、助けを求めてた奴は無事か?」
ランタンのスイッチを切りつつ、最初にクラゲたちが集まっていた場所を見ると、そこにある小型ドームの中でこちらに大きく手を振っている人の姿があった。
「大丈夫そうだな。行ってみるか」
わたしたちが近づくと、その人はドームの中にスペースをつくって、中に入れるようにしてくれた。
「やっぱり紫季だったか!いやあ、おかげで助かったよ。これで、何とか無事に町まで戻ることができそうだ」
どうやら相手は紫季を知っているようで、その肩をバシバシと叩きながら称賛している。紫季は痛そうにしつつも得意げな笑みを浮かべた。
「調水師なんだからこれくらい当然だ。けど、上手くいったのは、俺だけじゃなくて翡翠も助けてくれたおかげだ」
紫季が少し後ろにいたわたしを前に押しやった。町民の尊敬の視線がわたしにも向けられたけど、正直それをどう受け取ればいいのか分からなかった。
「え、いや、わたしは全然…。紫季がいなければ失敗してたと思う。だから、ほとんど紫季のおかげだよ」
「お嬢さん、紫季と違って謙虚だなぁ。最初にクラゲをここから引き離してくれたのはお前さんだっただろう!二人とも、本当にありがとうな」
「おい、最初の一言は余計だろう。…だが、まあいい。もう少ししたらディロウも終わるはずだ。そうしたら町へ戻ろう」
頭上を覆う木々の隙間から上を見てみると、水越しに見える空はわずかに茜色に染まっている。どうやらもう夕方にさしかかった頃のようだ。ディロウに伴う雲も少しずつ薄くなってきている。
雨が上がり、先ほどまで水で覆われていた場所を日差しが埋め尽くしてゆく。まるで世界が生まれ変わるかのようなディロウの終わりの光景が、わたしは好きだった。
その様子をただぼんやりと眺めていると、紫季が話しかけてきた。
「どうした?さっきの騒動で疲れたのか?」
「いや…、少し考え事をしてただけ。大丈夫だよ」
そう言うと紫季は安心したようで、今度は町民の方に話しかけに行った。
それを見送ってから、再び空を見上げてみる。頭上で未だにゆらめく水の輝きを眺めつつ、そういえば所長だった頃は、誰かに感謝されたことってほとんどなかったな、とふと思い出した。
たぶん都の人たちにとって調水師は時計みたいなものなのだろう。ないと時間が分からなくて困るけど、そこにあるからと言っていちいち感謝することはしない。
そんな認識にいつの間にか慣れてしまっていたけど、本当は調水師はただの道具なんかじゃない。実地調査や実験中の事故は日常茶飯事で、調水師は命がけでディロウと向き合っている。
たとえ感謝されなくても、災いの雨に大事な何かを奪われても。それでも前に進み続けなければならない。
――果たして睡蓮はその覚悟をもって所長という肩書きを継いだのか。
突然そんなことが気になりだしてしまった。
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