その名は消えても

わたしたちの間を流れる微妙な空気を突き破ったのは、時計台の下から飛んできた叫び声だった。

「紫季、ここにいるのか!」

恐らく、紫季の知り合いの声なのだろう。紫季は階段に近寄って叫び返した。

「いる!どうかしたのか?」

そこでふと、ここに上がってきたときよりも外が暗くなっていることに気づいた。…おかしい、まだ時刻は昼過ぎのはずなのに。

まさかと思ってディロウを予測してくれるペンダントに目を向けると、微弱な光が点滅を繰り返していた。規模は小さいが、ディロウが訪れる予兆だ。

窓から外をのぞいてみると、あの巨大ドームが少しずつ展開されつつある。どうやら、ディロウが近づくと自動で起動するらしい。その様子を見ていると、

「悪い、すぐに戻ってくる」

そう言って紫季は階下に慌てた様子で駆け下りていった。

「…何かあったのかな?俺たちも行ってみる?」

紫季と一緒に来た青年がそう尋ねてきた。…そういえばわたし、この人の名前をまだ知らない。何と呼ぶべきか分からずに困っていると、青年はすぐにそれを察したようだった。

「俺は待宵。普段はこの近くの町で調水師として活動してる。ただ、周辺地域の調水師たちの連絡役も兼ねているから、あまり自分の町にはいられないんだけど。あぁ、それと…、さっきはごめんね。軽々しく事情に踏み入るべきじゃなかった」

「平気…。本当のことを話すと決めたのは、わたしだから」

「そう…、ありがとう。それじゃあ、そろそろ行こうか」

瑠璃はまだ少し険しい視線を待宵に向けていたが、わたしは彼の提案にうなずいて、一緒に下へ降りることにした。

一階にたどり着くと、階段のすぐ近くで紫季と複数の大人たちが何やら難しい表情をして話し込んでいた。邪魔にならないようにと端の方で会話が終わるのを待っていると、やがて話を終えた紫季がこちらにやって来た。

「三人とも、待たせて悪かった」

「別にいいよ。何かあった?」

待宵がそう尋ねると、紫季は少し迷った後で答えた。

「この町の住民が商売の帰りにディロウに遭遇したらしい。幸いなことに近くに小型ドームが設置されていてそこに逃げ込んだそうだが、周りのディロウ生物に攻撃されているとの連絡が来た」

ディロウ生物は基本的におとなしいが、時折人を攻撃してくることもある。過去にはディロウ内で実験をしていた調水師が襲われる事故も起こっているので、研究所で取り扱うときも安全面には細心の注意を払う必要があった。

…ともかく、攻撃されているというのであれば、小型ドームが壊されてしまう可能性がある。そうなれば、中にいる人も物も無事では済まされない。

「…わたしが、助けに行く」

わたしの宣言に、紫季と待宵は驚いたような表情を向け、瑠璃はやっぱりそう言うと思った、というように額に手を当てた。

「わたしはもう調水師じゃないけど、ディロウの中を移動する方法も、ディロウ生物を追い返す手段も持ってる。だから大丈夫」

わたしはいつも持ち歩いているトランクケースを持ち上げてみせた。この中には小型の実験器具やらディロウ対策セットが詰め込まれている。この前使った折りたたみ傘ももちろんこの中に入っていた。

「はあ…。どうせわたくしが止めても聞かないでしょうし、好きにしてください」

一番先にわたしの行動を阻止するのを諦めたのは、瑠璃だった。ずっと一緒にいるだけあって、わたしの性格をよく理解している。

そうなると、後は二人の調水師たちを説得するだけだ。

基本的に調水師ではない一般人がディロウと接触することは禁忌に等しい。普段から研究を行っている調水師にとってもまだ分からないことが多いディロウは、ベテランの調水師でさえも扱いに手こずる存在だ。当然それに対する深い知識を持たない一般人にとっても更に危険な存在だし、そもそも自ら関わろうと思う人などいないだろう。わざわざディロウに立ち向かうのは、自ら死に赴いているも同然の行為だ。

それでもわたしは行きたいと思った。肩書きは失われても、知識と技術は今もわたしの手の中にある。それなのに何もしないなんてことは、わたしにはできない。

でも、それはあくまでもわたし個人のわがままに近い。いくら知識があっても、資格を持っていないのは事実だ。それに、初めて会った時の感じからして、紫季はわたしをあまり信用していない気がする。そんな相手に救援を任せることなんてしたくないだろう。

…ということは、説得するよりも先にある程度の信頼を得ないとだめなのかもしれない。けど、それってかなり難しいのでは…?そんなことを考えていると、

「分かった。ただし、俺も一緒に行く」

予想外の言葉が返ってきた。当然わたしは驚いたのだが、紫季の隣で静かにやり取りを聞いていた待宵も目を丸くしていた。恐らく紫季と関わりが深いであろう彼もそんな顔をしていることが少し不思議だ。

「俺の方が町の周辺に詳しいし、何か不測の事態が起きた時に調水師がいた方が何かと都合がいいだろう」

「うん、ありがとう」

紫季が何故わたしの行動を許可してくれたのかは分からないけど、理由がどうであれありがたいことには変わりない。そう思ってお礼を言ったのだが、何故か複雑そうな表情を向けられてしまった。


心配そうな瑠璃と、それとは対照的に何故か楽しそうな表情を紫季に向けている待宵に見送られ、わたしたちは連絡者のところへと向かい始めた。紫季によると、連絡者の位置は町からそこまで遠くない森の中だという。とは言え、ディロウは既にこの一帯をすべて水に沈めてしまった。町の外――、つまり、ドームの範囲外に出るためにはやはり傘が必要そうだった。

「はい、この傘貸すね。差すだけでディロウから身を守ってくれるよ」

ドームから出る直前に傘を渡すと、紫季は少し不思議そうにそれを受け取った。

「…この傘も、君の発明品?」

わたしは自分の分の傘を広げながら言葉を返した。

「うん。本当は大量生産できるようにして、普通の人でも使えるようにしたかったんだけど。その申請を出す前に追い出されちゃった」

「そう、か…」

気まずそうな表情をした紫季は、それ以上何も質問せず、無言で傘を差してドームの外へと歩き出した。…もしかして、余計なことを言ってしまったかもしれない。そう思いつつわたしも後を追いかけたが、しばらくの間わたしたちが言葉を交わすことはなかった。


「座標は確かこの辺のはずだが…」

次にわたしたちが会話したのは、連絡してきた人がいると思われる付近だった。

だが、それっぽい人やディロウ生物は見当たらない。この辺りはかなりうっそうとしているので、茂みや木の裏に姿が隠れてしまっているのだろうか。

「ディロウの濃度が少し濃いな…。翡翠、あまり俺から離れないように」

確かにこの辺りは水中であるにも関わらずうっすらと霧のようなものがかかっている。わたしが実際に見るのは初めてだけど、この現象がディロウの濃度と深く関わっていることは、調水師なら誰もが知っている常識だ。

「分かった。でも、こんな状況だと探しづらいね…」

どこから探そうか、と続けようとしたその時。不意に視界の端を何かが横切った。紫季もそれに気付いたようで、わたしたちはそれが消えていった方向に同時に目を向ける。そして、言葉を失った。

先ほどまで木々が覆い隠していた場所。いつの間にかそこはぽっかりと開けていて、何かがぐるぐると渦巻いている。最初はただの渦潮かと思ったが、何かがおかしい。

慎重に近づいて、ようやくその正体が分かった。

「クラゲ…?」

紫季が呆然とつぶやく。

――そう。そこに揺蕩っていたのは、クラゲの形をした大量のディロウ生物だった。

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