幼少編・2『トイレの水が流せません』
「……うん、これは迷ったか?」
ルルク=ムーテル、五歳。
それがいまの俺だった。
見た目は、貧相な体つきの茶髪のくせっ毛。
丸くパッチリとした大きな赤眼にすらりと通った鼻筋。不健康なまでにヒョロヒョロの坊やだけど、いまは顔色がいい。
ルルクはそれなりに顔つきが整った男の子だった。少なくとも、成長すれば死ぬ前の俺よりは遥かにイケメンになるだろう。まあ、この世界の美的感覚が前と同じかどうかは知らないけど。
父親と似ているのは茶色い髪色くらいだった。少女一人抱えながら後ろに三メートルも跳べるゴリラみたいな見た目の父親より、おそらく遺伝子的には母親に似たんだろう。
いくら小綺麗な顔といっても、長い間慣れ親しんだ
ああ、そういえば息子が生き返ったっていうのに母親が来なかったなぁ。
あの父の息子に対する態度とかこの家の家族構成とか、色々気になることはある。
少なくともあのゴリラみたいな父親はかなりの金持ちだ。メイドや騎士、執事が家にいることもそうだけど、なによりこの家は広い。
家っていうか屋敷だ。
手あたり次第に探索を始めたら、この屋敷には部屋が数えきれないほどあったのだ。
目覚めた狭い部屋が二階で、医師がいた診察室みたいな部屋は一階。
まずは一階から探索してみたけど広いこと広いこと。
百人は入れそうな大広間に、十人は同時に調理できそうなキッチン、廊下も高校の廊下並みにゆったりとしている。廊下ですれ違ったメイドも十人を超えたし、その全員が俺を見て視線を避ける精神攻撃もくらった。死ぬ前になにをしたんだルルクくん……。
とにかく家が広い。
一階の玄関ホールには、俺の七色時代の一軒家がそのまますっぽり入る広さだもんな。
だから、迷うのは仕方ないと思うんだ。
それに五歳児という肉体年齢にも意外と苦労する。歩幅は短いしドアノブはぜんぶ頭の上にある。扉はやけに重く感じるし、この貧弱な肉体で歩くだけでもちょっと息があがってしまう。
まあ病気がちだったから仕方ないのかもしれないけど。
「ここは……なんだ、トイレか」
とにかく、父親の言いつけを守らずに屋敷を探索していた俺。ちなみに窓は頭の上にあるので、いまだに外の景色は見れていない。ずっと晴れた空だけが見える。
適当に開けた扉が洗面台とトイレの部屋だったので、そのまま閉めようとして気づいた。
「なんだこれ? 魔法陣か?」
トイレの便器は洋式。
座った背中側にあるのは背もたれだけで、水洗タンクもレバーもなかった。
しかしその背もたれに魔法陣のような複雑な模様が描かれている。目を引いたのはその魔法陣だ。
こんなところにデザインだけの紋様を描く必要性も感じないので、コレってもしかして水を流すための仕掛けか?
「異世界だもんな。魔法くらいあるか」
そうつぶやいて、手をかざしてみる。
いでよ、水魔法!
……。
…………。
……………………。
うーん、何も起こらん。
ただの装飾か?
もしかして水洗トイレじゃないのか。まさかまだ水道もない文明だったり……。
いやそれはないか。
ほら、すぐ横に洗面台があるじゃないか。
「よいしょっ」
足踏み台がなかったので、引き出しを段々に開けて階段をつくり洗面台にのぼる。
ほらここにも蛇口が……あれ?
「また魔法陣だ」
トイレにあるものと同じものが描かれてあった。
洗面台にはちゃんと排水溝があるから水が流れることを想定しているのは間違いない。ってことは、この魔法陣は間違いなく水が出るもので合っているはず。
でもどうやって?
うーん……謎だ。
まあ、この世界に魔法のような技術があると知れただけマシか。
俺は洗面台から降りてトイレから出る。尿意を催したときの問題点を先送りにした気がしなくはないけど、まあその時はその時だ。未来の俺に任せよう。
そうやって探索してみると、いろんなところに魔法陣が描かれているのに気づいた。
部屋の入り口の壁には共通の魔法陣があった。灯りをつけるためのものだろう。
ところどころの部屋の扉の内側にも別の魔法陣。鍵をかけるためのものっぽい。
蛇口のない洗面台や風呂場やトイレにはさっきの魔法陣が描かれており、風呂場や炊事場にはそれに加えて別の魔法陣が並んでいたりする。
「魔法の文化かな……」
「魔術だよ、坊ちゃん」
「どうわっ!?」
王族の風呂場かよってくらい広い風呂場でマジマジと魔法陣を観察していたら、気配もなく後ろから声をかけられた。
驚いて振り返ったため、バランスを崩して尻もちをついてしまう。洗ったあとの風呂場だから濡れていたせいで、尻がびしょびしょだ。さっき着替えたばかりなのに。
「おや驚かせちまったかい。大丈夫かねぇ?」
「え、えっと」
手を差し出してきたのはメイド服を着て目を閉じた老婆だった。
両目の上に凄まじい傷跡がある顔が印象的だった。しかし老婆といえど腰が曲がっていたりはしない。むしろ綺麗な姿勢で俺の腕を掴んで、ぐいっと引っ張った。
ちからつよっ!
ふわりと浮くように立たせられた。幼児の体とはいえ踏ん張ることなく軽く持ち上げるとは。なんというマッチョだ。
「あ、ありがとうございます……」
「ん? 坊ちゃん、らしくないねぇ」
おっとキャラが違ったか。
さっきの父親たちとの接触では喋る必要がなかった。ルルクが生き返ったという結論で騎士たちは剣を納めてくれたが、別人がルルクに憑依したとなればまた展開が変わってくるかもしれない。そう判断しての無言ルルクロールプレイだったけど、今度は話さざるを得ない状況だ。
さてこの老婆、見たところメイドっぽいけど主人の息子に敬語は使っていない。俺の直感が告げている……この老婆メイド、重要人物だ。
ルルクに憑依して最初の関門っぽい。
まずはここをどう乗り切るか。
「どうしたね坊ちゃん。緊張してるようだね?」
いや、ちょっとまて。
この老婆、一度も目を開いてないよな?
ってことはこの瞼の傷跡からみるに、盲目なのか。盲目なのに俺の動作だけじゃなく反応まで的確に把握している!?
「なに驚いてるんだい。アタシのこと初めて見るみたいな……ん、いや、そうかい。ああそうかねそうかね」
「え、えっと」
マズい。
この老婆、同じデザインのメイド服を着てるけどさっき俺に水をぶちまけた少女とは天と地の差ほどの思考速度の差がある。
致命的な情報を与えてしまう前に、ここから撤退して作戦を練らなければ。
最悪、俺がアンデッド扱いになって斬られてしまう!
「あ、あの俺はここで――」
「待ちな。べつに取って喰いはしないから安心しな」
老婆の声に、動かしかけた足を止める。
「坊ちゃん、アンタ蘇生したんだってね? 死からの復活といやあアタシも聞いたことくらいはあるさ。たしか勇者の物語で、勇者が強敵と相討ちになったけど奇跡的に蘇ったことがあるってねぇ。その時の勇者、しばらく記憶を失ってたっていうじゃないか。坊ちゃんの反応をみるにアタシのことを憶えてないんだろう?」
「その勇者の話くわしく――ハッ!?」
おっと危ない。
勇者の物語に釣られるところだった。そうじゃない、いまはそうじゃない。
俺は自制心を発動して物語への好奇心を抑えた。
呼吸を整えて、俺に都合のいいその勇者の話に合わせておく。
「そうなんです……じつは俺、自分がルルクってことしか憶えてなくて」
「そうかい。じゃあアタシのことも?」
「はい。よければ教えて頂けると助かります」
「アタシはヴェルガナさね。この家とは古い付き合いさ」
盲目のメイド老婆ヴェルガナ。
人名を憶えるのが苦手な俺でも、さすがに憶えた。
「それでヴェルガナさん、よければ色々と教えてほしいことがあるんですが」
「ヴェルガナでいいさね。それよりこんなところで立ち話もなにさ、アタシの部屋においで」
「あ、でも……」
ちょっと躊躇った俺を、ヴェルガナは鼻で笑った。
「安心しな。坊ちゃんの着替えくらいメイド長のアタシも持ってるさね」
「あ、あざます……」
この盲目老婆、パンツにまで水が染みてきたことすら見通せるらしい。
□ □ □ □ □
ヴェルガナの部屋は二階の端にあった。
一階は来客用をメインとして使っているらしい。パーティも催せる大広間に、一般の応接室、高貴な来賓用の特別応接室、娯楽室やリビング、来客用の寝室などがあった。
使用人たちも一階に住んでいるらしく、二階には立場の高い使用人だけが部屋を持っているようだ。
二階の階段近くには家族用のリビングや大広間、小さめの風呂場なんかもあってわりとプライベート空間のようだ。納戸みたいな小ささのルルクの私室は西の端にあったが、メイド長というヴェルガナの私室は東の端にあった。
屋敷の東側には街があり、ヴェルガナの部屋から街が見えた。
部屋の広さ?
ルルクの部屋の五倍はあるね。息子より広い部屋の使用人って、いかにルルクくんの扱いがひどかったのかわかる。
「さてさて坊ちゃん、何から聞きたいさね」
ちょっと大きめのズボンとパンツに履き替えた俺は、椅子に座ってメイドが運んできた紅茶を飲んでいた。正面に座るのはもちろん盲目老婆だ。
ヴェルガナは見た目老婆だが、雰囲気が武術の達人みたいな鋭さがある。失礼なことを言ったらひ弱な五歳児の命など一瞬で刈り取られそうだ。
「ええと、ではまずはこの家のことを」
魔法ではなく魔術、だったか。
魔法的テクノロジーの存在や呼び方の違いは気になったが、それよりもまずは環境把握だ。
「ふむ。ムーテル家は代々国家の軍事を支えてきた公爵家さね。いわば騎士の家系さ」
おお、やはり貴族だったか。
しかし公爵家ときたものだ。俺の知識が正しければ、国によっては貴族のなかでも最上位に位置する身分じゃなかったか?
「えっと、じゃああの父が領主ですか?」
「そうさ。先代が亡くなって領地を継承したばかりだし、アタシからすればまだまだ青臭いけどね、あれで立派な王国騎士筆頭さね。この家は代々そうやって王家を守ってきたんだよ」
王家に公爵家。
ここはどこかの王国の、貴族の家ってことか。そして俺はその息子。
「……にしても、騎士の一家ですか」
「そうさ。強固な肉体に恵まれ、魔術にも強い素質を持つ者が多く生まれてきた。強い騎士を輩出し続ける家系に、王国の端の広大な土地を引き継いで〝田舎公爵〟と他の公爵共にバカにされても歯牙にもかけない王家への高い忠誠心。それがこのムーテル家が公爵家として信頼され続けている理由さね」
「強固な肉体、ですか」
「アンタの言いたいことはわかるさね。なんせ坊ちゃんは魔素欠乏症だからねぇ」
そう、それだ。
ルルクが生まれながらに持っていた不治の病。
俺の魂が憑依したいまでも、おそらく継続中であろう体質のことだ。
「魔素欠乏症ってのは、いわば解毒能力の欠如の病気さね。体が魔素を吸収するとき、ふつうは魔力に変換する過程で魔素毒を濾過して無害にするけど、アンタはその魔力変換ができない。ゆえに毒だけが体にたまり続けていずれ死に至る。そんな病気さね」
「じゃあ俺も?」
「そうさ。平均寿命は六歳。成人までは決して生きられないから、この病気は忌み子と蔑まれることが多い……とまあ、そのはずだったんだけどねぇ」
ヴェルガナは見えないはずだが、真っすぐに俺に顔を向けて首をかしげていた。
「アンタ、魔素毒がないさね」
「えっ、わかるんですか?」
「アタシは鼻が利くのさ。とくに毒素や気配に敏感さね。だからわかる……アンタ、体から綺麗さっぱり魔素毒が消えてるね」
さっき医師が言っていた「至って健康体」っていうのはそれも含んでいるんだろう。
ってことは俺は、不治の病ではない……?
あれ?
でも病気は治ってるのか?
疑問を口に出すと、ヴェルガナも眉をひそめた。
「それが難しいところさね。アンタの体から毒素のニオイはしない。けど、水やお湯の魔術器が反応しないってことは魔力がない状態さね。つまり魔素欠乏症が治ったわけじゃない」
「なら、どういう理由が?」
「考えられるのは、一度死の運命から抜け出したことで治癒のスキルでも憶えたってことさね」
「……スキルですか」
「ああ、アンタそれも忘れてるんさね……坊ちゃん、いまも基礎ステータスの確認はできるさね?」
「基礎ステータスっていうのは?」
「ステータスを意識して視界の隅を探してみな。それで確認できるはずさね。アンタが死霊化してなければね」
ってことは、確認できなかったら
ステータスってゲームみたいなやつか。とりあえず「死霊化はイヤだ死霊化はイヤだ死霊化はイヤだ……」と帽子に祈るような気持ちして視界を探す。帽子かぶってないけど。
あ、左下になんか浮かんできた。
そこに意識を向けると、半透明に映し出された文字列が大きく視界に広がった。
――――――――――
【体力】90
【魔力】0
【筋力】78
【耐久】79
【敏捷】101
【知力】112
【幸運】101
【所持スキル】
≪自動型(パッシブ)≫
『冷静沈着』
――――――――――
うわっ!
なにこれゲームか? 映像技術にしては凄いけど、意識を向けるだけで拡大するし邪魔だと思ったら透明になるんだけど。
かといって科学技術じゃないのは間違いないだろう。あれか。魔素なるものがあるからこんなことになるのかな。理由は定かじゃないけど、とにかくすごい。
「どうさね?」
「はい! ステータス確認できました!」
おっとそれよりもいまは死霊化の冤罪を防がねば。
ヴェルガナは淡々と説明してくれる。
「自分で確認できるのは、基礎ステータスとコモンスキルだけさね。レベルアップなんかの恩恵と、コモンスキル以外のスキルは聖魔術で鑑定しないと確認できないけどね」
「スキルは『冷静沈着』っていうのがあります!」
「そりゃ精神系のコモンスキルさね……それじゃあ魔素毒を中和してるのは魔術スキル……でも坊ちゃんは魔力がないから、あるいは別の系統スキルかね……?」
ブツブツとつぶやきはじめたヴェルガナ。
よくわからんがさっきの騎士を呼ばれないってことは死霊化の疑いは晴れたとみて間違いなさそうですかね? 一応、他のステータスもすべて伝えておく。
俺のステータスをひととおり把握したヴェルガナは、低く唸りながら腕を組んだ。
「なるほど。坊ちゃん、ひとつ分かったことがあるさね」
「はい! なんでしょう!」
「このムーテル家の一員としちゃ、坊ちゃんの基礎ステータスは低すぎるさね。いままで病弱で部屋からほとんど出なかったから、仕方のないことかもしれないけどねぇ……でもいまは肉体的には健康さね?」
「そ、そうですね」
「つまりアンタの体が元気ってことは、基礎ステータスは鍛えられる。アンタがこの家の一員である以上、今後何があるかわからないから教育係でもあるアタシとしてはアンタを鍛えなければならないってワケさね」
まあ、病弱から健康になったんだ。
元気と言えば元気だけど……。
俺は何かイヤな予感がしつつ、ヴェルガナに確認する。
「ちなみに、基礎ステータスってどうやって鍛えるんですか?」
「そりゃ決まってるさね」
「決まってる、とは」
「筋トレと走り込み。明日からさっそくビシバシ鍛えるさね」
「オーマイガー!」
短く告げたヴェルガナの体育会系発言は、文化系オタクの俺を絶望させるのに等しいものだった。
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