My Bests(僕の好きな長編小説)

西尾 諒

第1話 「失われた時を求めて」 マルセル プルースト著 

このサイトに、別に「僕の好きな短編小説」というエッセイを書いているが、別に僕は短編小説だけを読んでいるわけではない。

 正直に云えば・・・短編小説については読むのも書くのも楽である。どんなに長くても文庫本を一冊か二冊読み終えれば書き始められる。そんな理由もあり気楽に書いてきたのだけど、ある時、長編小説についてもエッセイを書いてみようと思い立った。

 僕の読書形態は何本かの短編小説と平行して必ず長編小説を一本、時間を掛けて読む。そして、このたび様々な短編小説の後に長編小説「失われた時を求めて」を(二年半かけてようやくのこと)読み終えたからである。

 短編小説に比べれば効率は、滅茶苦茶めちゃくちゃ、悪い。「失われた時を求めて」は後で記すように概算7000ページ。短編小説には10ページくらいで完結するものもあるので実に700倍の量である。だからといって700倍の感想があるわけでもないし、700倍の文を書けるものではない。

 しかし、この世の中、効率のみでは語ることはできないこともある。


 ちなみに現在読んでいる(読み返している)長編小説は三島由紀夫の「豊饒ほうじょうの海」である。それと共に読み進めている短編小説はIsabel Allendeの"Mas alla del Invierno(邦題をつけるなら「冬の向こう側」)"とSalman Rushdieの”Two Years Eight Months and Twenty-Eight Nights (同様に「2年8ヶ月と28日の夜」が直訳だけど、むしろ「新千夜一夜物語」の方がしっくりくるかも・・・)"の2冊。

 往々にして短編小説というのは人生を「切り取ったり」(ロバートキャパの写真のように)、かなり特殊な設定をしたり(ハリウッド映画のように)するものが多く、「短さ」にもそれなりの理由がある。今読んでいる短編小説は両方とも後者であるが、どちらにせよ、短編小説は「読者を一挙に世界に引き込みそこから脱出しないうちに終わらせる」必要があるのだ。

 そうした中編、ないしは短編小説に比べると、長編小説は人生というものを描いている場合が多い。もちろん、全てではない。

 こちらにも短編小説と同じく、長編小説のカテゴリーに「日本書紀」などをぶちこもうとしている意図があるし、現実に全てではないのだけど、ある程度の長編になればそうした「長さに伴って必然的に存在を要求される主人公やそのまわりに存在する人々のある程度継続的な人生観」というフレームが必要になってくるのである。逆に言えば中編小説までは、人の「刹那」が描かれても成立するが、長編小説では「刹那」のみでは構成ができないのだ。

 従い、長編小説には作者によって築かれた安定した構造が存在している。「豊饒の海」というのは輪廻転生を扱った4つの物語を併せた小説だがそこには本多という人間が輪廻を掛けていく4人の男女と関わり、感情を持ちつつ観察し、輪廻の考察をするというフレームが存在している。

 「失われた時を求めて」はもっと直截で、主人公が子供の頃から老年に至るまで一貫して語り手であり続ける。つまり「人の一生」をあるテーマをもって書き続けねばならないのだ。


 それにしても・・・世の中では何をもって長編とか短編とか、或いは中編というのだろうか。おそらくはみんなが勝手に長編とか中編とか短編小説と言っているだけである。上記のイギリスとスペインの短編2冊であれ、各々2-300ページはあるのだから、人によっては短編小説に分類しないであろう。逆に「豊饒の海」は、4本の短編小説(ないしは中編小説)を纏めただけ、と主張する人がいるかも知れない。僕としては、いわゆる小説のジャンルに於いてはきちんとした人生観ないしそれに類するフレームの存在と凡その文字数を持って長編小説とし、残りは「小説」とするだけで良いと思う。

 そもそも「小説」は小なのだから。世の中には大説やらストーリーやらノベルやら、様々な分類があって混沌としているが・・・。(小説の小はサイズでは無くpersonalという意味合いがあるらしいけど)


 いずれにしろ「失われた時を求めて」を長編小説とすることについては誰からも文句がでるまい。というのもこの小説は「完成された小説の中でもっとも長い小説」というお墨付きをギネスから貰っているのだ。とはいっても・・・、と、気になってもう少し「長編小説」について調べてみると意外な事が分った。僕も大学時代に読んでいたのだが、栗本薫さんの書いた「グインサーガ」シリーズがギネスに「最も長い小説」の申請をしたところ「未完のため却下」という憂き目に遭ったらしい。どうやら僕は「最も長いと認められた小説」と「認められ損なった小説」のいずれをも読んだ(後者に関しては読み終えたということではない)ことになる。

 それにしても、「未完」だから却下というのはなかなか厳しい条件である。これが条件となるならば、「記録を達成したらすぐに話を終了」しないと、おちおち書き続けていて、事故に遭って死んでしまったら「未完」として「却下」される可能性が高いことになる。

 ネタの尽きたくだらないテレビ番組でもあるまい、「ギネスに名を残すために」小説を書くなどと言う安っぽい小説家はいないと信じつつも、なんだかもやもやとした気分が残るのは、どうもその定義に恣意的しいてきなものが匂うからである。「長けりゃいいってもんじゃない」という気持ちを「未完」という理由で糊塗ことした匂いがするのである。

 まあ、気持ちは分らないでもないけど。

 グインサーガというのは豹の頭をもった主人公が出てくるRPGの走りのような小説で、そのうえやはりゲームのように「外伝」がやたら設定され、同じような話の森の景色、まるでアマゾンの奥地に彷徨い込んでいたような感想を抱いた記憶がある。確か50巻くらいまでは読んだ記憶があるのだけど就職と同時に読むのを止めとしまった。

 こういうエンターテインメント小説があっても良いとは思うけど、「長編小説」というカテゴリーで「失われた時を求めて」と対峙たいじさせると、さまざまに否定的な意見がでてきそうである。ならば別のカテゴリーとして「純文学的長編」と「エンターテインメント的長編」とするのも一手法であろうが、そうすると今度はその境目に関する議論が発出ほっしゅつするのであろう。

 結論としては、いっそそんな「ギネス的1番制度」を止めてしまえばいいと思うのだが、多くの人から賛同は得られそうにない。人々はそういう競争が好きなのである。「失われた時を求めて」など読んだことがなくても、「世界一長い」というタイトルがついただけで親近感がわき、下手をすれば「知っている」ことになるのである。なんだかそれについて一仕事でもしたような気分になるのだ。

 だが、長編小説というのは「仕事をしない人が読む小説」である。これは長編小説の定義の一つになり得るファクターの一つでもあり、仕事をしている人が読む小説は「ほぼ100%長編小説ではない」。

 僕とて、「失われた時を求めて」なんぞ、とても仕事をしている身分では読み通せなかっただろう。「源氏物語」も「日本書紀」も無理であったに違いない。

 いずれ書くことを予定している「ジャンクリストフ」や「カラマーゾフの兄弟」を読んだのは逆に学生時分である。「ジャンクリストフ」の方は浪人時代で、つい嵌まってしまった所為で希望大学の受験に失敗してしまったのであるけど。

 つまりは「仕事時代」の前後でしか長編小説は読んでいないのであって、「仕事時代」の読書は逆に極めて貧弱な物であった。海外に出張するときにたくさん持って行った本はスパイ物やら推理小説やらそんなものばかりで、時間潰しにしかならないものであった。まあ、時間潰しというのは読書の一つの本質ではあるけれど、二つの種類の読書をすることによって「時間を潰したその後に何も残らない(というか敢て残さない)もの」と、そうでないものが存在するという単純な事実が判明するのである。

 仕事をしながらまっとうな人生を送っている内はあまり、「知らなくても、読まなくても良いのが長編小説」なのである。

 正直なところ、長編小説が実人生にどれほど役立つのかは分らないし、小説というのはそんなために読む物でもないような気がする。実人生に役立てたいなら、「お金の儲け方」といったノウハウ物の方がよほど役に立つのではないか?

 但しそこでいう実人生というのはあくまで「経済的」な意味であり、人生に経済的な意味しかないというのが正しいと信じている人にとって長編小説は「無用の存在」に違いない。長編小説など読まずに揺り籠から墓へと直行する「実人生」は墓の立派さによって価値が決まる、のだろう。知らんけど。

 ちなみに長い小説を書くのはフランス人、中国人、ロシア人の特徴であろうか。なんとなく「生産的」ではない国民性を感じるというと叱られる、かな?フランス人に・・・。


 さて、本題に進もう。「失われた時を求めて」を読み始めたのは2022年の年初、癌の宣告を受ける少し前のことであった。読み終えたのはつい先日のことなので、読了に2年半かけた事になる。14巻、1巻500ページくらいなので、計7000ページとすると一日あたり10ページ弱しか読み進まなかったことになる。

 手術や二度の入院を経てその間、数日一切本など読めない日々もあったが、別の所に書いたように、術後しばらくはこの小説以外の書物は読む気になれなかった。逆に言えば、この小説のゆっくりした時間感覚だけが療養に寄り添ってくれたということだ。こうした小説という物は牛のような反芻動物はんすうどうぶつが草をみ、その消化に時間を掛けるように読む、そうした読み方がもっとも適合した小説なのであって、翻って病床に在った時のような時間の流れこそが相応ふさわしい小説だったのかも知れない。

 とは云え、いつまでも病床についていては続きの巻を買うこともままならないわけで、寝床から立ち上がれるようになると一月半に一度のペースで東京駅近くの丸善に続刊を買いに行くという事が続いた。なぜ丸善かというと、近くにも岩波文庫を扱っている書店がないことはないが、14巻、常に揃っている書店は丸善の他になかったからである。もう一つ神保町あたりにはそういう書店に心当たりがないでもないけれど、東京駅の方が電車賃が安くつくというけちくさい理由もある。


 さて、ご存じかも知れないがこの小説の構造は実際に読了しないと理解できない。つまり途中で終わっては、どの時点で終えてもこの小説の構造を理解できないのである。深い森に分け入ったならば、森を踏破するのは読者の義務となる。そして、読者は小説を読み終えたときにこの小説が「なぜ、小説家がこの小説を書くに至ったのか」という事こそがこの小説のテーマである事を知る。それは自動的に再びこの小説の第1巻をひもとくことに繋がるのだ。まるで永久機関のように・・・。しかし小説の最後になって、実は「この小説はなぜ。この小説を書くに至ったのかを説明するために書いたのですよ」と言われても、大多数の読み手は取りあえず「ふぅむ」としか言わずにネグレクトしてしまうのではないか。かなり長い時間をかけて読み終えた小説の最後にそんなことを言われても・・・。

 だが、この小説の最後の章のタイトルは「見出された時」であり、それは書物としての「失われた時を求めて」と対峙たいじする構造になっているわけで、このループ構造こそが小説としての特質なのである。僕らは1800年代の終わりから1900年代のフランスにおけるあるブルジョワの青年の目を通した万華鏡のような景色と、愛憎とを折り返すメビウスの輪のどこかに居たのだ(2年半も)と了解させられるのである。いや、その端緒と終末のおおきな風呂敷の中に描かれた豊饒な景色、感覚、感想、事物、社会情勢、愛憎、それらこそがこの小説の本質なのだ。つまりこの構造こそが、小説に大量に含まれる記憶の断片とそれに連なる豊饒な思いという大量の情報の海を支えている。

 その事実に行き着くために僕らは最後まで貫徹することを要求される。いや、もちろん、その記憶の幾つかが破綻して整合性がとれていなかったり(結構死んだ人が生き返っていたりする)、異常性(例えばアルベルチーヌの軟禁状態)を示唆するものであっても、それらを含めて飲み込んでいかないと読者は逆に小説に飲み込まれてしまう。

 読み手は「広大な森林」の中に住む植物や動物を探りながら、時間の助けを借りつつ、その森林を抜ける作業をする一方、そこに個人的に様々な意味を見つけ、木の枝を拾い集めていく、おそらくそれが本来の小説の読み方なのである。ある人はあの有名なマドレーヌと紅茶のエピソード(いわゆるプルースト効果)を得意げに話すかも知れない。

 確かにその風景は幾度か小説の中で語られるが、同じようにバルベックの風物、教会の塔、鐘の音、ヴェニスの石畳、サロンの中の絵画、そして掉尾を飾る「弾むような、鉄分を含んだ、尽きることのない、けたたましい、ひんやりする小さな呼びりんの響き」も重複して登場するわけで、マドレーヌは小説の中にある一つの事物でしかなく、ましてプルースト自身が「匂いの記憶」について声高に語っていることなどは全くない。この小説の中には19世紀から20世紀にかけてフランスを中心にしたさまざまな事物が雑多に登場し、その一つ一つはばらばらに解かれた古いしかし美しい宝石のようで、音楽・絵画・建築・骨董・植物や衣装・遊び・料理や菓子に至るまで興趣に尽きることはない。そしてその幾つかは現実で、別の幾つかはプルーストの創造したものである。読者はその一つ一つを選り分ける楽しみないしは苦痛も分け与えられる。

 いや事物だけではない。繰り返し主題のように登場するドレフィス事件に対する社会の対応、貴族とブルジョワの心理的対立とマージ、以上に比率の高い同性愛者たちの生態、そんな要素はゴブラン織りのように太い糸のような筆致で重ねられ、綴られているのである。

 例えばヨーロッパの古い城に行って中を見学する。すると先ずは前庭には様々な工夫の施された植物が植えられ、城のファサードには時代を示す様式が存在し、中に入った途端に一変した空気の匂いに包まれ、サロンの大きさに驚き、大理石の床、ダンス用の堅い木のフロア、暖炉、天井や壁に直接描かれたり掛けられた絵画、施された彫刻、古い家具・・・様々なものが語りかけてくる。もちろん日本でも同じような経験をするが、日本の寺院や城はそれほど声高に語りかけてこない。ビュルツブルグやキムゼー、リンダウの城(ドイツ)やマルボロ公爵のマナーハウス(英国)とかに行く度に抱えきれないほどの事物の語りかけを経験すると、それはハリーポッターの魔法に掛けられているような気分がしてくる。「失われた時を求めて」を読むというのはそういう事に近い。


 それとともに、語られるテーマの基本は主人公の「愛」の有り様なのだ。その「愛」は祖母・母・ジルベルト・アルベチーヌへと変遷していく。それは「所与」で与えられた「愛」から自らが作る「愛」への変容でもある。

 しかし最後にアルベルチーヌと共に暮らす(或いは幽閉した・・・ここらへんの奇妙な生活は実際の所議論になりうる性格を持っている)中で、主人公はそれは「愛」ではないという強い思いを抱きつつ、喪失を許容できないという背反両立アンビバレントな状況に長い間幽閉される。そう、主人公は女と共に幽閉されていくのだ。そしてアルベチーヌの家出(ないしは出奔)と同時に「彼女を永遠に失う」という奇妙な結末の中で読者は、少なくとも僕は「もし、彼女が死ななければ、いったいどういう形で物事はすすんでいったのであろうか」という疑問を持たざるを得ないのである。

 主人公は彼女を失った後、精神的な病で「隠遁」し、長い年月の後、離れたパリに戻ってきたとき、主人公は未だに彼に招待状を送り続けていたゲルマント公爵家を再訪する。

 そこで彼がそこで「見出した物」は変容した世界(或いは転倒した社会)であった。そこではかつてブルジョワとして貴族に敵愾心を露わにしていたはずのヴェルデュラン夫人が貴族そのものであるゲルマント大公妃になっており、 長年の友人で戦争で死んだロベールの妻となった初恋の人ジルベルトも公爵家の一員としてゲルマント侯爵夫人と対立する存在になっている。一方で、同性愛者であり、シニカルに人を傷つける言動に事欠かなかったシャルリュス男爵は耄碌し、ゲルマント大公やゲルマント公爵夫妻は戦争を経て、相対的に地位を凋落させている。若い頃男色家のシャルリスに囲われ物となったモレルは別人のように徳のある人間と賞賛されている。彼はシャルリュスを裏切り、女を捨てた碌でなしであったにも拘わらず・・・。

 主人公自身を含め、様々な人間関係はまるで万華鏡の筒を回転したかのように異なった位置で輝いていたり、或いはその景色から退出したりしている。不思議なのはどちらかというと、作者にとって懐かしく、貴重であった物は全て失われ(祖母、エスチール、スワン、アルベルチーヌ、ロベール)どちらかというと忌まわしい役割を負わせている存在(フランシス、シャルリュス、ヴェルデュラン夫人、オデット、モレル)が最後まで生き残っている。生き残っても老残を晒すゲルマント侯爵夫人やラ ベルマに対していつのまにかのし上がったブロックや娼婦上がりのラシェルという対峙も見逃せない。

 おそらくそれはプルーストが意図していたものであり、「醜いものが生き残る」、あるいは「生き残った物は醜く変化する」という主題はこの長大な音楽の通奏低音として採用されているのだ。


 そしてこの長大な文学を一貫しているのは先ほど指摘したように「同性愛」に関するかなり長い記述である。この小説の登場人物の同性愛比率の高さはかなりのもので、プルースト自身も同性愛者だとされているが、男女を問わずこの小説に登場する人物は同性愛者が多い。シャルリュス、ヴァントゥイユ嬢、ジュピアン、モレル、やがてロベールも。そして主人公が愛し、その愛を否定し、苦しみ続けざるをえなかったアルベルチーヌもた、同性愛の帽子を被らされてたたずんでいる。

 ただ、彼女に関しては「同性愛という理由を持って彼女を拒絶しようという心理的葛藤」が主人公に存在するが為のfalseの同性愛のようでもある。果たして彼女が本当に同性愛だったのかは曖昧で、その証言をする人間たちも疑わしいものばかり。主人公が「彼女が同性愛であること」で救われるのか分からないまま彼女は出奔し、そして亡くなってしまうのだ。しかしよく考えてみれば、自分の恋人が他の男性と関係をもっている事に嫉妬するのと、同性愛であることへの苦悩というのはどこか性質の違うものである。

 男性にとってパートナーが同性愛者であるときの苦悩というのはどのようなものなのか、僕には想像がつかないのだが、この主人公自身がもし自身も同性愛者だとしたら更にその秘密は深くなる。いや、果たして主人公が苦悩しているのかさえ疑問である。主人公が様々な女たちに心情的に惹かれながら(その中にはアルベルチーヌの親友であったアンドレも含まれ、彼女もまた同性愛の片棒を担いでいたのではないかと疑われている)不思議なことに主人公は長く明白な男女関係はアルベルチーヌとしか結んでいないのだ。もしかしららその苦悩こそが彼の生命の源ではなかったのか、とまで思える。プルースト自身が同性愛者だったことはほぼ間違いないだろうが、彼は女性に対して「性的な」感情を持っていなかったと言われ、その意味では主人公と置き換えることは出来ない。ただ、女性を嫌っていたわけではない

 ちなみに芸術界において同性愛者と言われている人の比率の高さには僕は時々驚かされていて、音楽の世界ではリヒテルとかホロビッツ、文学の世界ではプルーストやカポーティなど、どちらかというと天才肌の人が多い。とはいえ、注目されている人物だからこそ、その性向が暴露される確率は高いし、あるいはフレームアップかもしれないので、噂を以て判断することも危険だし、その芸術に関して同性愛が何らかの影響を及ぼしてとしても、それが全てではないことに留意すべきだろう。


 ユダヤ人問題もこの小説に於いてまた何度も繰り返される旋律であり、あるときは「家族」(ブロック家)として、あるときは「政治問題」(ドレフュス事件)として、調性を変えながら演奏されていく。プルーストの母方はユダヤ人で、プルーストはその母方から芸術的性向を受け継いだらしい。となれば、やはり彼自身、その問題を強く意識せざるを得ない。ユダヤ人にとって迫害というのは血の中に存在する歴史であり、これはちょっと他人にとって簡単に想像できる問題では無いと僕は思っている。


 まあ、これほどのことを書いてもこの小説のネタバレになど全くならない。それほどまでにこの小説は錯綜し、様々な迷路を与え、様々な場所、人、景色、音楽に意味を与えているのだ。逆に言えばそれこそが小説の楽しみである。そして長編小説こそがその豊饒な世界に導いてくれるのだ。かくて、豊かな文学体験には良質の長編小説というのは欠かせない存在であるという真実が明白になっていく。


 そして、この小説を読了する間際に僕らは「弾むような、鉄分を含んだ、尽きることのない、けたたましい、ひんやりする小さな呼び鈴の響き」がこの小説の開幕のベルであり、また閉幕の知らせであるということを知るのである。



「失われた時を求めて」(全14巻)

マルセル プルースト著 吉川一義訳

岩波文庫 赤N511-1 to 14

ISBN978-4-00-375109-1 to 375123-7







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