第39話 私は生きています。

 

「…………ネ! セレーネ!」


 キリル様!?


 扉の窓には、必死の形相で車内を覗く夫の姿が。余程の緊急事態に違いないと、慌てて扉を開けると同時に、馬車から引きずり降ろされてしまう。


「……キリル様?」


 私を高く抱き上げ、すみれ色のドレスの胸元に耳を埋めるキリル様。しばらくそのまま止まっていたが、やがて薄い唇からふにゃりと息を吐き、幼子のような声を漏らした。


「よかった……生きている……夢じゃない」


 その切ない言葉にやっと気付く。彼は私の鼓動を確かめていたのだと……


「起きたら隣に居ないから……全部夢だったんじゃないかと……怖かった……すごく……」


 可哀想なくらいに震える肩。その姿は、泣きながら私にしがみついた、あの夜のヘリオスに似ていて……。大きな身体をギュウと抱き締め、耳元に囁いた。


「大丈夫、生きています……私は生きていますよ」


 キリル様はゆっくり顔を上げ私を見ると、アイスブルーを潤ませてくしゃりと笑う。


「……本当だ。上手に泣けているな」


 泣けて……あ……いつの間に……


 濡れた目尻を熱い指で拭われ、身体の芯がじんと痺れる。それでも止まらずに頬を伝う雫は、薄い唇が丁寧に掬い取ってくれる。右頬、左頬、顎、そして……

 甘くて、しょっぱくて、もうどちらの涙か分からない。涙なのかも分からない。ただ彼の熱い海に溺れ、苦しいのに心地好い、不思議な波に身を任せていた。くぐもった水音を立てながら離れる唇。楽になったのに……寂しくて寂しくて仕方ない。もっと深く、息も出来ないくらいに溺れて、貴方と溶け合ってしまえたらいいのに。

 艶やかな唇の向こうには、まだ私の知らない海がある。もう一度潜ってみようと、どちらからともなく顔を寄せた時……



「もうそのくらいにしていただけませんか? ずっと寝ていたから、お腹がペコペコなんですが」


 ハッと振り返れば、ハーヴェイ様が呆れ顔で馬車に寄り掛かっている。車内からずっと私達を見ていたらしいジュリも、私と目が合うと、慌てて顔を引っ込めた。御者までもがふいとそっぽを向き、ゴホゴホとわざとらしい咳払いをして……


 ここがどこなのか、人前で何をしていたのか……我に返り、顔がカアッと熱くなる。

 居たたまれなくなり下を向いていると、ぐうと懐かしい音がした。その奇跡みたいな音を鳴らしたのは、自分の平らなお腹だと気付き、感動が押し寄せる。


「生きているんだな……本当に」


 私のお腹を見つめるキリル様の頬は、また新しい涙で輝いていた。



 ◇


 少し遅めの昼食を摂る為、街のレストランへ入るも、ハーヴェイ様はずっとニヤニヤしているし、ジュリの目は何だか爛々としているし。恥ずかしくて何も喉を通らないわ……なんて心配は、一口目ですぐ吹き飛んでしまったけれど。

 美味しい食事を夢中で味わい、デザートを三皿平らげたところで、漸くお腹の音が落ち着いてくれた。


 その後の馬車はもう、当たり前のように二人きりにされる。

 キリル様と並んで、手を繋いで、広い肩に頭を寄せて、暖かくて、お腹も一杯で、うとうとして……本当に本当に幸せだと思う。だけど、やっぱり眠ってしまうのは怖くて。キリル様と、沢山未来の話をした。


「……あの日のドレスをもう一度着て、フロイターゼワルツを踊りたいわ。もうステップを忘れてしまっているかもしれないけれど」


「練習すればいいさ。時間は沢山あるのだから」


「また星空の下で練習したいわ。踊り疲れたら、魔道具で星を見て……あ、でも、もうあまり遅い時間には無理ね。きっと眠くなってしまうわ」


「眠ってもいいよ。ちゃんとベッドまで連れていってあげるから」


 子供みたいねと笑う私に、キリル様は何故か少し顔を赤らめ、気まずそうな顔をする。


「キリル様は? 健康になったのですから、私にして欲しいことがあれば、何でも仰ってください」

「そうだな……それは……もちろん、色々あるけど……」


 キリル様はもっと赤くなった顔をぶんぶん振ると、顎に手を当てぼそっと呟いた。


「ハンカチを……作って欲しい。その……刺繍を入れて」


 ハンカチ……

 ハーヴェイ様にと渡した、あの鳥の刺繍を思い出す。きっとお気に召さなかったのだろうと思っていたけれど。


「お作りして構わないのですか? その……素人の趣味ですので、キリル様のような立派な方がお持ちになるには……」


「そんなことはない! 君の作るものは全て素晴らしい! 丁寧で、温かくて……優しくて美しくて。既製品にはない魅力が沢山詰まっている」


 お世辞とは思えない力のこもった褒め言葉に、今度は私の顔が火照ってしまう。

 そんな風に思ってくださっていたなんて……


「嬉しい……本当は、キリル様のも何か作りたいと思っていたの。もしご迷惑でなければ……ハンカチでも何でも作らせてください」


 ぱあっと顔を輝かせるキリル様は、ヘリオスが鉄腕騎士の刺繍を受け取る時にそっくりで。可愛くて可笑しくなってしまう。


 ……ヘリオス……

 元気にしているかしら。ちゃんとご飯は食べている? おやつは食べ過ぎていない? 寂しがって泣いたりしていないかしら。眠れているかしら……

 帰ったら、とびきり元気な声でただいまって言うの。本当におかあさま? って、びっくりするくらい。お留守番ありがとうって抱き締めて、我が儘を沢山受け止めて、思いきり甘やかしてあげたい。……早く、早くあの子に会いたいわ。


 逸る気持ちを抑えきれず、私は上着のポケットから、二つの紙包みを取り出す。

 一つは虹色、一つは金色の。


「食べてしまわなくてよかった……。ヘリオスとの、大切な思い出だから」


 もし恐怖に負けて、ヘリオスの魔力を摂ってしまったら……私はこうして、上手く生き返ることは出来なかったかもしれない。

 包み直した為に、皺が寄ってしまった虹色を撫でる。


「キリル様……どうして昨日、あんな朝早くに部屋に来てくださったの?」

「……泣いている気がしたんだ。君と……アイネが」

「アイネ様が?」


「君が一人ぼっちで泣いているのに、どんなに手を伸ばしても届かない。苦しくてもがいていたら、アイネが泣きながら僕の腕を引っ張ってくれて……。夢か現実か分からないけど、気付いたら君の部屋の前に立っていたんだ」


「そうだったの……きっと、アイネ様が私を助けてくださったのね」


 胸を押さえ、ありがとうございますとお礼を伝えれば、金色の包みがキラリと光った気がした。


 キリル様が心から愛していたアイネ様。可愛いヘリオスを産んで育ててくださったアイネ様。お顔も知らない、話したこともないのに……古くからの素敵な親友のように感じるのは、アイネ様がまだ生きているからなのだろう。私の愛する人達の中に、ずっとずっと。


 ふと太陽が差し、私の行く手を明るく照らす。



「キリル様……一つ、我が儘を言ってもいいですか? もしかしたら、早速喧嘩になってしまうかもしれないけれど」


「それは楽しみだな。喧嘩前提だなんて……少し怖い気もするけど」


 私達は繋いだ手をそのままに、少しだけ身体を離して、しっかりと向き合う。


「お屋敷に戻って落ち着いたら……また、呪いに苦しむ人達を救いたいのです。困っている人はまだ沢山いたのに、私の体調が悪化してからは、新しい依頼をお断りしてしまっていて。せっかく生き……治ったのですから、命ある限り、この体質を役立てたいのです」


 予想通り……厳しい顔で口を結ぶキリル様に、私は想いを伝える。


「以前はただ、夢中で人の役に立ちたいと思っていました。私なんかでも、役に立てることが嬉しくて……そこに自分の生の意味を見出だそうとしていたの。だけど、今は違います。私は、私なんかじゃなくて、私だからこそ、誰かの役に立ちたいんです。そう思えるのは、私が今、生きているから。愛して愛されて、ちゃんと生きているからです」


「生きて……」


 キリル様はお顔をふっと緩めると、私の頬を撫でる。


「……そうか。それなら、君の好きに生きたらいいよ。せっかく新しい羽を手に入れたんだから、自由に飛ばないと勿体ない。飛び過ぎて羽が折れてしまわないように、僕が傍で守るから」


 言葉とは反対に、アイスブルーには不安の色が揺れている。私は彼の繊細な黒髪を撫でながら、自信たっぷりに言った。


「大丈夫、私は飛び過ぎたりしません。愛する人の傍を離れたくないもの。愛する人と離れたら……上手く飛べないもの」


「……セレーネ」


 引き寄せられたのは、私の大好きな場所。広くて、逞しくて、熱くて、優しくて、好い匂いがして。

 私も貴方にとって、そんな場所で在りたい。繊細で透明で疲れやすい……そんな貴方の羽を癒せる、唯一の場所に。



 ◇◇◇


 それから四日後────

 数えきれないくらいキリル様の海に溺れて、瀕死の状態に陥りながらも、何とか生きて屋敷まで帰って来た。


 広い敷地内に入る馬車。まだかまだかと耳を澄ましてくれていたのか、屋敷まで大分離れているのに、もうヘリオスが玄関から飛び出してくる。うさぎを抱いて、ぴょんぴょん跳ねながら手を振る姿。可愛くて可愛くて……よく見たいのに、涙で霞んでしまう。

「ほら、驚かせるんだろう?」と、私の頬を拭ってくれるキリル様に、こくりと頷き微笑み返した。


 予めお願いしていた通り、玄関より少し手前で馬車が停まる。ヘリオスに負けないくらい、ぴょんと元気に飛び降りてみせれば、向こうで青い瞳がまん丸になっている。可愛いえくぼが深くなり、太陽みたいな笑顔が広がった。


「お母様!!」

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