第30話 役に立つ死体です。
キリルのその発言は、兄弟を取り巻く全ての音を遮断した。互いの息遣いすら聞こえぬ中で、空色の奥から昇る炎と、アイスブルーが放つ光とがぶつかる。ハーヴェイは長い睫毛を瞬かせ、パチパチと炎を煽りながら口を開いた。
「本当の妻に……果たしてそれをセレーネが望んでいるでしょうか」
「どうだろうな……自信はないが。十二も歳上の子持ちなんかより、もっといい相手が……それこそお前の方が、彼女を幸せに出来るのではと何度も考えた。だが……自分が耐えられないと気付いたんだ。彼女の身も心も、自分以外の誰かに委ねることなど、到底耐えられないと」
「耐えられない……ね。それではセレーネは絶対に、貴方の元から離れていくと思いますよ」
「どういうことだ」
「……兄上がこんなことを言い出さなければ、ずっと彼女と二人だけの秘密にしておきたかったのですが。誰にも言わないという約束はしていないので、共有しても構わないでしょう」
二人だけの秘密という言葉と、勿体ぶった言い方に苛立つキリル。促すように眉をしかめても、ハーヴェイは意に介さず、あえてゆっくりと話し続けた。
「実は、セレーネはもう余命を越えているんです。ヘリオスの魔力で何とか命を保っているものの、いつ亡くなってもおかしくない。……左足も、完全に膝が壊れてしまったので、もう普通に歩くことは難しいでしょう」
キリルは言葉を失う。ハーヴェイの真剣な顔は、冗談などではないと語っているのに、そのどこかに綻びを求め視線を彷徨わせる。やがて、それが無理だと分かると、息も絶え絶えに声を絞り出した。
「そんな……そんな、嘘だ。さっきも普通に話して……
「兄上を騙して嫁ぎ、申し訳ないと言っていましたよ。本当は余命ひと月なのに、一年間の契約をしてしまったと。再婚はしたくないと言ったのも、他の医師を拒むのも、そういう理由からだと分かりました」
「……余命、ひと月? 嘘だ……嘘だろう?」
アイスブルーの瞳は濃い霧で覆われ、さっきまでの光はすっかり失われていた。無機質な顔に、薄い唇だけをパクパクと動かし、矢継ぎ早に言葉を置いていく。
「医師に、すぐに他の医師に診せよう。どれだけ大金を積んでも構わないから、最新の医療を」
「そうですね。もし本当に病気なら、破産しても、世界中駆けずり回ってでも、セレーネを治します。ですが……病気ではない可能性もあるので、もう少し私に調査する時間を下さい。出来るだけ急ぎますから」
「……病気ではない可能性とは?」
「不確かなのでまだ言えません。……とりあえず、口に出すのも憚られるとだけはお伝えしておきます」
キリルの顔にふっと表情が戻る。腕を組み、険しい顔で考え込むのを、ハーヴェイの言葉が引き戻した。
「病気にしろ何にしろ、彼女の状態が危ういことには変わりありません。ですから、これからは彼女を何かに縛ることなく、思うままに生きさせてあげたいと思うのです。……危険を冒してでもラトビルス領の役に立ちたいと望むなら、そうさせてあげてはいかがですか?」
「役になんて……私は望んでいない! ただ、ただ傍に居てくれれば」
「ご自分の望みを一方的に押し付けては、彼女の意思を
「……それは」
「家族に散々虐げられ、嫁いでからも辺境伯夫人として、母親として尽くしてきた彼女を、私は自由にしてあげたい。まだ若いのですから……自分のことだけを考え、自分の為だけに生きて欲しいのです」
「セレーネを……自由に」
「率直にお訊きします。優しく温かなセレーネを、ヘリオスの母親にと望む気持ちが少しもないと言えますか? 美しく思慮深いセレーネを、辺境伯夫人として人の上に立てたい気持ちが少しもないと? 本当の妻なんて……結局はセレーネに余計な重荷を背負わせるだけです」
額を押さえるキリルを、ハーヴェイは更に追い詰める。
「もしセレーネが亡くなったら……ヘリオスは幼い身で、母親を二度も失うことになる。その哀しみを受け止めてあげられますか? 自分の哀しみは後回しにして、子供を受け止めてあげられますか? 私はもう……兄上が壊れる姿を見たくありません」
アイネが亡くなった頃の苦しい記憶が、昏い影となって兄弟を覆う。
「本当の妻が必要なら、セレーネ以外の女性を迎えてください。健康で、永く寄り添える、“よい女性” を」
「 “よい女性” ……? そんなもの……セレーネ以外の妻など……必要ない」
「セレーネを迎えた時もそう仰っていたじゃないですか。妻は生涯アイネだけだと。……大丈夫、“よい女性” に出会えば、また気が変わりますよ」
ハーヴェイは立ち上がると、止めの一言を放った。
「どうか早めに、彼女と距離を置いてください。セレーネの幸せと、兄上の幸せが交じり合うことは決してありませんから。……彼女は兄上の命を救い、ラトビルス領に繁栄をもたらしてくれた。私が視た通り、
────部屋を出たハーヴェイは、閉めたドアに力なく
これで良かったはずだ……兄上の為にも。
……兄上の為? お前は卑怯だな。セレーネの為でも、ヘリオスの為でも……誰の為でもない。本当はお前が、ただセレーネを欲しているだけだろう。彼女の秘密をここぞとばかりに武器にして、やっと傷痕から立ち上がろうとする兄上を残酷に殴ったんじゃないか。
心の奥から響く、真っ当な自分の声。激しい自己嫌悪から逃れる為、ハーヴェイはあることに思考を巡らせた。
……セレーネの秘密……
『棺ならもう用意されているんじゃないのか』
『……え?』
あの時の彼女は、確かに何かに怯えていた。
……彼女の父親のバラク侯爵の実家、ミュレイ伯爵家は代々治癒魔法を受け継ぐ家系で、ジュリもその遠縁に当たる。バラク侯爵を含め、大して魔力は強くない為、医師になる者は稀だと……調査で分かったのはここまで。だが……もし……
『今回の呪い以上に強力な負の魔力を受けたことがある場合……』
『ハーヴェイ様、もし死んでいる人を視た場合には、寿命はどのように映るのですか?』
幾ら非道な親とはいえ……そこまではしないと、心がその可能性を否定したがっている。
ハーヴェイは震える手を握り締め、寝静まった廊下に足音を立てぬよう歩き出す。床板へしなやかに下りる靴底の音が、却って不気味に反響しては、彼の跡に
◇◇◇
セレーネが数日掛けて、工事現場の兵器を無事に処理し終わった頃には、キリルの熱も下がり元通りに動けるようになっていた。
それからも、セレーネはハーヴェイに連れられて、忙しく動き回る日々が続く。人から道具まで、様々な呪いを浄化する辺境伯夫人の噂は瞬く間に広まり、屋敷には治療や処理を依頼する手紙が絶えず届くようになっていた。
そんな中でも、セレーネはヘリオスとの約束を何より大切にし、昼食時の触れ合いと手紙交換は欠かさない。左足に続き、いよいよ動かしづらくなった右足に焦りを感じながら、夜は懸命に刺繍針を動かし続けていた。室内の星にも、外の星にも、一切触れることなく。
そしてあの事故以来、屋敷を空けることが多くなったキリルとは、聖なる日以外はほとんど顔を合わせることがなくなっていた。
◇
事故から一ヶ月以上経ったある夜、キリルはベッドの中で何度も寝返りを打っては、いつまで経っても眠ろうとしない強情な頭に苛立っていた。瞼も心も、どんなに固く閉ざしても、チカチカと瞬く光に苦しめられる。
……セレーネに会いたい。今すぐに彼女の部屋に飛んで行って、想いを伝えて抱き締めたい。星を見ながら、沢山の約束を重ねて……同じ未来を歩んでいきたい。
キリルは眠りを放棄し、熱い息をはあと吐きながら、上半身を起こした。
情けない兄の姿を散々見せてきたのだから……ハーヴェイの非難は尤もだ。彼の言う通り、もし未来の途中でセレーネを永遠に失ってしまったら、今度こそ自分は立ち上がれないだろう。ヘリオスの良き父親であることも、もう難しくなってしまうかもしれない。
毎日、彼女の病状をジュリに確認する度に、恐ろしくて呼吸もままならないのだから。
暗闇に慣れた目に映ったのは、中庭でダンスを踊ったあの夜、黒い感情を閉じ込めた戸棚。ハーヴェイが受け取るべきだった彼女の清らかな想いを、自分は愚かな嫉妬で
もし、すぐにあれを渡していたなら、ハーヴェイはもっと早くに彼女へ向かっていただろうか。
……雑に押し込んでしまったから、皺が出来ているかもしれない。明日返すならば、取り出して状態を確かめないと。そう思うのに、怠くて身体が動かない。この期に及んでまだ足掻いている自分に呆れ、布団を乱暴に払った時だった。
静かな部屋の中で、戸棚だけが、硝子戸をガタガタと軋ませながら激しく揺れ出す。何事かと目を凝らす間もなく、体内でパンと何かが弾け飛ぶ感覚に、咄嗟に手を構えていた。
…………魔力?
硝子戸のひび以外には、何事もなかったように静寂に溶け込む戸棚。反対に、全身の細胞はざわざわと騒いでいる。血液が沸騰しているのではと思う程の熱に、キリルは、今までとは桁違いの力が自分の中に在ることを感じた。
手の中の柔らかな感触に視線を落とせば、濃紺の布地が握られている。刺繍糸で創られた銀色の鳥は、キリルの熱を受け取り、美しい羽を生き生きと輝かせていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます