第28話 生気のない死体です。

 

 涙を拭い、もう一度しっかり天井を見れば、そこには哀しい笑顔が浮かんでいた。


 セレーネ……どうしてそんな風に笑うんだ?

 触れようと手を伸ばすも、枕元から聞こえた低い声に、それは掻き消えた。


「兄上」


「……ハーヴェイ」

「お加減はいかがですか?」

「加減……?」

「兵器の呪いを浴びたのですよ。そのせいで、悪夢に魘されていらっしゃいました」


 兵器……そうだ、作業員と兵器を一ヶ所に集めて結界を張ろうとした時に、その内の一つが割れて。

 記憶を辿っている内に、キリルの頭は徐々に動き出す。


「一時は危険な状態でしたが……セレーネが救ってくれました」

「セレーネが?」


 その名に身体を起こそうとするも、眩暈を覚え、シーツに手を付く。ハーヴェイはそんな兄の背を支えながら、水の入ったコップを差し出した。

 キリルは震える手でそれを受け取り飲み干すと、呼吸を整え尋ねる。


「……セレーネが救ったとは?」


「兄上が冒されていた呪いを、セレーネが全て吸い込んだのです。彼女は、魔力を吸収しやすい特異体質の持ち主だったようで。お陰で助かりましたよ」


「呪いを吸い込んだ? そんなことが……! 彼女は大丈夫なのか?」


「ええ。ジュリが診ましたが、何も異常はないそうです。他の医師達の許可も得て、作業員全員の呪いを吸い込んでくれました。皆、回復に向かっているのでご安心を」


「全員の!? そんな……そんな悪いものを大量に吸い込んだりして、本当に大丈夫なのか!?」


「心配ありませんよ。一旦屋敷に戻り、ヘリオスと夕飯を食べてきた程元気ですから。ヘリオスには、お父様は仕事で急に外泊することになったと言ってあります。セレーネと夕飯を食べられることを喜んでいて、特に不安がる様子は見られませんでした。あ、夕飯の許可は頂いていませんでしたが、非常時でしたのでお許しください」


「……彼女はどこだ? 」


「部屋で休ませています。今夜はここに泊まって、日が明けたら、現場に残っている兵器を処理しに行くと言ってくれましたから」


「何だと?」


 キリルの顔はみるみる険しくなり、手の中のコップがミシッと音を立てた。


「……そんな危険なことを許可した覚えはない。彼女の元へ行く」


 布団を払い、今にも立ち上がりそうな兄を、ハーヴェイは押し止める。


「後で私が連れて来ますから。それよりもまずは医師の診察を受けてください」

「いや、セレーネが先だ。無事も確認したい」


 ハーヴェイはため息を吐き、「少々お待ちください」と部屋を出て行った。



 間もなく、ハーヴェイが腕にセレーネを抱いて現れた。その姿は、二人で勝手に街へ出掛け、帰って来たあの時を思い起こさせ、キリルの胸は黒いものに包まれる。

 ここがどこだかは知らないが……抱いて歩かねばならぬ程広いのか? と、不快感が込み上げるも、自分を見て金色の雫を湛えるセレーネに、淀んだ胸は柔らかな光で洗われていった。


 ハーヴェイは枕元の椅子にセレーネを下ろすと、彼女の膝に素早くブランケットを掛け、当たり前のように横に立つ。


「……ハーヴェイ、外に出ていてくれないか? 二人きりで話をしたい」

「かしこまりました。……セレーネ、廊下で待っているから、終わったら教えて」


 華奢な肩に手を置き、ドアへと向かうハーヴェイ。夫である自分の前で平然と妻を呼び捨てにし、敬語も使わず我が物顔で接する弟に、キリルは違和感を覚える。

 ドアが閉められると腕を伸ばし、膝の上で綺麗に揃えられている白い手を握った。


「辺境伯様……」


 セレーネは目を見張り、夫の手から自分の手を引き抜くと、黒い前髪が張り付く額に当てた。


「お熱があるのではないですか?」


 小さな手からひやりと伝わる冷たさに、キリルは言い様のない恐怖に襲われる。

「すぐにお医者様を」と動き出そうとする彼女の手を、咄嗟に掴んだ。


「大丈夫だ……何ともない。それよりも君は? 君の身体は大丈夫なのか? 呪いの魔力を吸い込んだんだのだろう?」


 セレーネは軽く微笑むと、自分を掴む大きな手の上に、もう片方の手を重ねる。


「何ともありません。私は見た目だけでなく、体質も変わっていたみたいで……今日初めて知って驚きました。作業員の皆さんも回復されていますので、ご安心ください。安全に工事を再開出来るように、明日は現場に行って、残った兵器の処理をしてきます。もしかしたら、まだ地中に埋まっている物も、掘り出さずに処理出来るかもしれません」


 キリルは首を振り、険しい顔で言う。


「今回は運が良かっただけかもしれないだろう? 兵器がどれだけ危険か……もっと強力な呪いや、空気に触れただけで爆発する物だって。君にそんなことはさせられない」


「気を付けますから大丈夫ですよ。万一何かあっても、私は病持ちですので。これ以上身体に支障をきたしたところで何てこと……」


「セレーネ!!」


 激しい怒声に、セレーネはびくりと身体を震わせる。


「何てことを言うんだ……自分を粗末にするなど……そんな考えで行こうとしているなら、尚更許可する訳にはいかない!」


「辺境伯様」


「君は、夫である私の保護下にある。私の許可なしに、その特異体質とやらを使うことは絶対にさせない。……使わないと、約束してくれセレーネ」


 懇願するアイスブルーの瞳。それはかたくななセレーネを映し、哀しく揺れている。

 セレーネはその色から目を逸らし、一つ一つ丁寧に言葉を繰り出す。


「……私、嬉しかったんです。ずっと魔力なしの役立たずだと思っていたのに、誰かの苦しみを取り除けることが出来るなんて」


「役になんて立たなくていい。君は……」


「それだけじゃありません。兵器を処理して無事に工事が終われば、この国に素晴らしい未来を拓けます。あの夜会のように、多様性を認め合える素晴らしい未来を。異質な私が存在した意味が、そんな形でこの世に遺るなら……私はとても幸せです。たとえ契約結婚だとしても、貴方の元へ嫁げて良かったと、心からそう思えるから」


 涙が伝うキリルの頬に、細く冷たい指が伸ばされる。肌に触れた瞬間、キリルはひんやりしたそれを取り、温めようと自分の薄い唇に寄せた。指の腹にそっと触れ、先を微かに啄み、また腹に触れる。まるで湯に浸かっているような感覚からセレーネは逃れることが出来ず、その心地好さに自分を委ねていた。

 やがて指の表面がほんのり温まると、熱い息と共に、ぽつぽつと彼の想いが語られた。


「もう……同じ過ちは繰り返したくない。君を危険な目には遭わせたくないんだ。アイネは……前の妻は、私が殺してしまったも同然だから」


 衝撃的な言葉に、セレーネは息を呑む。薄い唇から次の言葉が出るまで、その呼吸に静かに耳を傾けた。


「アイネは利発な女性で、結婚してからも積極的に事業を営んだり、私の補佐を務めていた。あの道の舗装工事は私達の夢だったが……それだけでなく、アイネは山を貫通させ、首都方面への道を作るという壮大な計画も練っていたんだ。

 道の舗装工事ならともかく、山の硬い岩盤を掘削し、更に崩れないように天井を作りながら貫通させる魔道具など、まだどこにもない。アイネは大型魔道具の製造技術を有するカプレスク領だけでなく、科学技術に優れたアリボン国、魔力に優れたフロイターゼ国の技術者らにも協力を願い、工事用の新たな魔道具を作ろうとしていた。


 ……理論は分かった。だが、それぞれの技術を魔道具として融合させる技術がない。それを持っている可能性があるのはただ一人、カプレスク領の宝と言われていた、とある天才的な魔道具職人だった。

 彼は家族を亡くして以来、魔道具作りを止め、あちこち放浪していた。運良く捕まえられても、魔道具は二度と作らない、帰れの一点張りで。それが長年交渉を続けてきたアイネの熱意に負けたのか、ついに力を貸してもいいと前向きな返事をもらえたんだ。……アイネ本人が直接カプレスク領まで来るならと」


 キリルは一旦息を吸い、唇を震わせながら続ける。


「彼女はその時二人目の子を妊っていて……危険だと反対したが、どうしても行くと。私が許してしまった為に彼女は……。あの日本当は、朝から体調が優れなかったのにも気付かずに。いつもの明るい笑顔だと……愚かにもそう思って、送り出してしまったんだ」


 セレーネの手を両手で包み、それを唇から額に滑らせると、祈るような体勢で広い肩を震わせ始めた。


「もう失いたくない、絶対に失いたくないんだ……」


 セレーネは自由な片手で、自分の膝のブランケットをキリルの肩に掛ける。言葉の代わりに、彼の震えが収まるまで、ただ優しく擦り続けていた。



 キリルは涙に濡れた顔を上げると、改めてセレーネの顔を見た。その顔は透ける程に白く、生気のない蝋人形を思わせる。初めて会った時の顔よりも、今のこの美しい顔の方が、ずっと病的だと感じるのは何故だろう。


 顔から下に視線を落とせば、スカートの上からでも細いことが分かる膝があった。

 ブランケット……ああ、掛けてくれたんだなと、肩の温もりに気付く。同時に、ふと、何かを感じ口を開いた。


「セレーネ……膝が辛いのか?」


 首を振り、にこりと微笑むセレーネに、引っ掛かるものを感じる。もっと踏み込もうとするも、「少し疲れてしまったので休みます」と言われてしまい、出掛かっていた言葉を呑み込んだ。

 その直後、彼女の口から出た柔らかな響きが、鋭い刃となってキリルの心臓を刺した。


「ハーヴェイ様」


 呼び掛けに応え、すぐに開いたドア。ハーヴェイは足早に彼女へ近付き、膝を労りながら優しく抱き上げる。


「おやすみなさい、辺境伯様」

「……おやすみ」



 ドアが閉まると同時に、キリルの肩からズルリとブランケットが落ちた。


 ……間違いない。二人と自分との間には、これまでにはなかった壁がある。仮にも夫である自分が、決して踏み込めない高い壁が。悪夢を見ている間に、一体何があったのだろう。



『ハーヴェイ様』

『おやすみなさい、辺境伯様』



 ああ、そういえば……侯爵夫妻が領地に戻ってから、自分はもう “旦那様” とも呼ばれていなかったな。



『アイネだけ……私を名前で呼ぶ女性は、生涯アイネだけでいい』



 甦るのは、いつかの自分の愚かな言葉。痛む胸を押さえながら、キリルは苦く哀しく笑った。


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