第16話 吐き出したい死体です。

 

「義姉上!」


 地面すれすれで何かに支えられ、破片のない場所へ手と膝を突く。咳き込み続け、何度嘔吐えずいても、さっき口にした水しか出てこない。

 そうよね、身体の奥は空っぽだもの。お坊っちゃまがくれるご飯は、いつも優しく溶けてくれるから……

 吐きたいのに何も吐けない。苦しくて苦しくて、哀しくて哀しくて、代わりに涙がどっと溢れた。


 こんなに生きているのに……

 やっぱり私は死体なんだ。


 震えが止まらない背中を、熱い手がさすり続けてくれる。


「全部吐き出してください。苦しいものは全部」


 その言葉に、奥からまた新しい涙が溢れる。溢れても溢れても癒えない苦しみはポタポタと落ち、石畳に黒い染みを作り続けた。




 よく覚えていないところもあるけれど……あの後、周りの人達が、花びらや破片を片付けてくれて、屋台の人が新しい瓶とお菓子までくれた。

 自分の浅はかな行動で、せっかく買ってもらった瓶を割って、綺麗な石畳を汚して……食事や会話を楽しんでいた人達の、大切な時間を台無しにしてしまったのに。

 誰一人、私を責めることはなかった。みんなみんな優しくて、温かな言葉を掛けてくれた。


 どうしてあんな馬鹿なことをしてしまったのだろう。

 どうして飲めるだなんて思ってしまったのだろう。


 ハーヴェイ様の上等な服も汚してしまったのに、汚い私を抱き上げて、馬車へ運んでくれた。

 目立たないようにと夜でも帽子を深く被っていたけれど、あの騒動で結局……。だけど彼も、一言も私を責めたりはしなかった。

 それどころか、今こうして隣に座って、寄り掛かるようにと肩まで貸してくださっている。冷たいこめかみからハーヴェイ様の熱が伝わるたびに、何度も刺激される涙腺。これ以上汚したくないと、込み上げるものを必死に馬車の揺れに逃していた。

 疲れるはずがないのに、なんだかすごく疲れた気がして……眠れる訳もないのに、瞼を閉じてみた。




 歩けますと言ったけれど、ハーヴェイ様は当然のように私を横抱きにして馬車を降りる。それ以上断る元気がなく、全身をすっぽりと包む熱に身を任せていた。


 そのまま屋敷に入ると、玄関ホールに辺境伯様が腕を組んで立っていた。眉間には皺が寄り、アイスブルーの瞳からは、チリッと冷気が放たれているようにも感じる。


 怒って……いる?


 私の顔を見て、一瞬ハッと目を見張るも、すぐにさっきの表情へ戻しハーヴェイ様に向かった。


「何故許可もなく外出した」

「仕事がお忙しそうでしたので。恋人達の土産を選んでもらう為に、無理やり連れ出してしまいました。申し訳ありません」


 辺境伯様はつかつかとこちらへ近寄ると、再び私の顔を覗き込む。


「……顔色が悪い。何があったんだ?」


 飲めないお水を飲んで吐いてしまいました……なんて言ったら、きっと呆れられてしまう。

 謝りながら理由を言い淀んでいると、ハーヴェイ様が察して、助け船を出してくれた。


「人混みで少しお疲れになったのです。大切なご招待を前に、“辺境伯夫人” に万一のことがあってはいけませんから。念の為こうしてお連れしました」


 辺境伯様の眉間の皺が深くなり、温度が一段と下がった気がする。

 お怒りになるのも当然だ……正式な契約を結んでいるにもかかわらず、私は “辺境伯夫人” という立場を軽んじていたのだから。

 幾ら誘われたからといって、辺境伯様の許可も取らずに外出して。おまけにはしゃいで勝手に水を飲んだりして。自分が悪いのに、もしハーヴェイ様が責められてしまったら……

 私は声と勇気を振り絞る。


「申し訳ありません……大したことありませんから、下ろしてください。もう大丈夫です」

「駄目ですよ。貴女のお部屋は一番端っこでしょう? この屋敷は、ちょっとした運動になる程広いんですから。このままお連れします」


 足を一歩踏み出すハーヴェイ様。その前に、さっと辺境伯様が立ち塞がり、両腕をこちらへ伸ばした。


「私が連れて行く」

「ああ、別にこのままで構いませんよ。義姉上は軽いですから」


 何も言わず、腕をぐっと突き出す辺境伯様。ハーヴェイ様は肩をすくめると、私を辺境伯様の腕に預けた。



 辺境伯様は私を抱いて、無言のまま長い廊下を歩く。熱いハーヴェイ様とは違い、その腕はぬるま湯みたいに穏やかなのに、動悸が激しくなってしまう。

 角を曲がる時、揺れた手が、ついシャツ越しの胸に触れてしまった。……ピクリと伝わる辺境伯様の緊張。慌てて謝ったけれど、何も返事はなかった。

 下から見上げる表情はよく分からない。でも、堅く強張っていて……余程不快なのだと感じる。

 どこにも触れないように手を縮こませ、早く部屋に着きますようにと、そればかりを願っていた。




「……問題ありませんね。口にしたものは全て吐き出されたようですし、体内には何も残っていません」


 私の身体を念入りに診て、ジュリはそう言った。


「前より苦しかったの。勢いよく舌に乗せてしまったからかもしれないけど、もう身体のどこも受け付けない感じで。お坊っちゃまの魔力で表は健康的に見えるけど、中は悪くなっているのかしら。腐敗は進んでる?」


「……いえ。多分、お身体が楽な方を覚えてしまっただけでしょう。お坊っちゃまの食べ物は、摂取しても一切負担がかかりませんしね」


「もし悪くなってきたら、遠慮なく早めに教えてね。完全に動かなくなる前に、棺へ戻りたいから。ここの人達には……特にお坊っちゃまには絶対、死体だってバレたくないの」


「……承知致しました。では、おやすみなさいませ」


 眠れないと分かっているのに、いつも『おやすみなさい』と言ってくれるジュリ。毛布を胸まで引き上げてくれるその手は、柔らかくて、とても優しかった。



 今夜は刺繍をする元気もない。

 ベッドに横たわるだけのこんな長い夜は、眠れないこの身をしんから恨めしいと思う。

 身体を起こし、サイドテーブルの瓶を見つめれば、月明かりに輝く水の中で、死んでいるはずの薔薇が懸命に咲いていた。




 ◇◇◇


 ハーヴェイはベストの内ポケットに手を入れると、紫色の石を取り出し、キリルの前に置いた。


「昼からずっと彼女と居ましたが、やはり魔石には何の反応もありませんでした。オーラも全く視えません」


 家令から借りたその石に指で触れながら、キリルはハーヴェイを見据え、厳しい声で言う。


「魔力を探る許可はしたが、外出の許可はしていない。たとえ契約結婚とはいえ、彼女は法律上、夫である私の保護下にある。勝手な行動は慎んで欲しい」


「私には、女性を “保護” するという概念がなかったもので。……勝手なことをして申し訳ありませんでした」


 一旦頭を深く下げてから、ハーヴェイも兄を見据える。が、その口調はあくまでも軽い。


「……聞けば彼女、ダンス初心者だと言うじゃないですか。一緒に練習してあげませんと、本番で踊れませんよ?」

「……分かっている。本番前に、一度は踊るつもりだった」

「一度じゃ踊れませんよ。ただでさえ相手に気を遣うなんですから。緊張をほぐして、ダンスの楽しさまで教えてあげませんと」

「気を遣う……昨日会ったばかりで、随分彼女のことを理解しているんだな」


「女性の分析は得意ですから。時間なんて要りません。まあ……ダンスは否応なしに、心も身体も相手に密着してしまいますからね。兄上にとっては酷でしょう。私が本番までに責任を持って指導しますよ」


 ハーヴェイはそう言うと、ふっと思い出し笑いをした。


「彼女……最初は険しい顔をして、私の足を踏まないようにと、多分そればかりを考えていたのに。何度か踊った後は、鳥になって空を飛んだみたいだと、すごく楽しそうな顔で言ったんです。そんな風に言われてしまったら、もっと高く羽ばたかせてあげたいと、そう思うじゃないですか」


 キリルの反応を窺うこともなく、ハーヴェイは更に笑顔を重ねる。


「街でも、見るもの見るものに目を輝かせて。私達がいつも当たり前に歩いている、石畳の一枚にも感動していたんです。色々な場所へ連れて行って、色々なものを見せてあげたら、彼女はどんなに喜ぶのだろうと思いました」



 ────弟のこんなに眩しい瞳を見るのは、もう何年ぶりだろう。驚きと、喜びと……黒いもやもやした何かが渦巻き、キリルは言葉を発することが出来ない。


 やがて光が消え、いつもの空色に少し影を落としながら、ハーヴェイは呟いた。


「……彼女は何故、あれ程の美貌を持ちながら、自己肯定感が低いのでしょう。なんとなく、病だけが理由ではない気がして。ローズ通りで一番高級な店を選び、さすが侯爵令嬢かと思いきや、おろおろと値段の心配ばかり。店員への態度も、良くも悪くも全く貴族らしくないというか」


「金の為に、未婚の娘を進んで差し出す親だ。これは推測だが……もしかしたら、家族からあまりいい扱いを受けていなかったのかもしれない」


「病持ちの魔力なし、おまけに北方の血を引いていますしね。サフライ領では、何かしらの差別を受けていた可能性もあるでしょう。……視えない理由も気になるので、もう一度バラク侯爵家を調査してみます」


 ハーヴェイはすっと腰を上げ、いつもの戸棚へ向かう。扉を開けるが、何故かワイン瓶にもグラスにも手を伸ばすことなく立ち尽くしている。

 キリルの目に映る弟のその横顔は、また眩しい光をたたえ、キラキラと輝いていた。




 数日後、舗装工事現場の視察を終え帰宅したキリルは、書類を作成する為、真っ直ぐ執務室へ向かおうとしていた。

 窓から滑り込む午後のそよ風が、ピアノの音色を鼓膜へ運ぶ。ピタリと止まった足は、命じてもいないのに向きを変え、勝手にホールへと歩き出した。


 豪奢なガラス戸の向こうで、くるくると回る二つのシルエット。

 そっと開けば────

 眩しい笑顔の弟と、弾ける笑顔の妻が見つめ合っている。それはまるで、寄り添い青空を飛ぶ二羽のつがいに見えた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る