薄明の墨

夜渦

薄明の墨

 名には、力がある。

 名とは人の本質。魂をかたちづくるもの。秘した名を他人に掌握されれば、最悪魂まで奪われてしまう。ゆえに生まれたときに与えられた名を他者が呼んではならない。名を呼ぶのは両親と主君のみ。その生涯を共にすると互いに誓って初めて、名を呼ぶを許す。そういうものだ。そうして許し合ったとて、結局正面から呼ぶ夫婦は多くはないだろう。相手の名を知っている、に留める。それが普通だ。そのくらい、名には力がある。

 だから。

「俺、趙函ちょうかん。字は離瑜りゆだけど、ぜひ函さんて呼んでほしい!」

「絶対に嫌です」

 どうかしていると思った。



 天命を受けて祖霊を祀り、天地の神霊をして大地の秩序を平らかならしめるひとを天子と呼ぶ。その営みがつつがなく行われるよう補佐し、支える職分が三公九卿さんこうきゅうけい。その九卿が一、太常たいじょうが取り仕切る官署が太常寺たいじょうじだ。もっぱら天子が行う祭祀儀礼に携わり、多くの巫祝ふしゅくを抱える。

 娘は墨娘ぼくじょうといった。名ではない。まだ数えで十七、あざなをつけるには幼く、官位も肩書きも持たない。ゆえに師がつけた呼び名だ。師は巫祝として宮中に務めている。師と兄弟子と、その周囲で働くものたち。それが彼女の世界のすべてだった。師匠まわりの人間以外には認識もされない、宮中に星の数ほどいる下働きでしかないのに。

 眼前の状況が理解できない。師に届けるはずの書を腕に抱えたまま立ち尽くす。突然星が降ってきたような気さえした。

「……何なんですか」

 絹地に身を包んだ長身が立ちはだかっている。すっきりした面差しと背筋が伸びた美しい姿勢。腰には太刀を佩いて、武人らしいと知れる。顔は多分美形の部類なのだろう。切れ長の濡れたような黒い瞳でなつこく笑んで、突然の来客は小さく首をかしげた。

「君と仲良くなりたくて来たんだけど」

「嫌です」

 考えるより先に口が動いた。思わず。

「えーと、もう少し優しく」

「お断りします」

「そこを何とか」

 お引き取りください、と答えてなお趙函と名乗った青年は動こうとしない。墨娘はきゅっと眉根を寄せた。そのいでだちを見るに貴人と知れる。表情を動かすことさえ無礼になると知っているが、それでも無表情を保っていられなかった。

「そもそも、私はあなたを存じ上げません」

「そうだろうね。俺もこんなとこ初めて来たし」

 こんなとこ、と言いながら青年が視線を巡らせた。興味深そうなまなざしはけれど、どこか揶揄するような色に見えて落ち着かない。場所は内廷の奥、儀礼を司る天紀宮てんききゅう。大規模な祭祀は外廷で行うから、出入りするものは畢竟、太常寺の人間に限られる。

 天紀宮はその内側にいくつもの楽殿や祭具殿を抱え、そこそこの規模ではある。だが美しく装飾された柱が立ち並ぶさまも、丹塗りの回廊も、他の宮と変わらないはずだ。ことさらに珍しがることがあるものかと思うところへ、青年が肩をすくめた。

「俺、期門きもんの人間だからさ」

「……何をしにいらしたんです」

 期門、は宮中の警護の一切を担う官だと記憶している。だが諸々の定めの多い天紀宮だ。配属されない限りは用などあるまい。なのにわざわざ自分に会いに来たなどうそぶく意味がわからなかった。

「君に名を呼んでほしいんだ。君だろ? 熊揮曜ゆうきようの秘蔵っ子って」

「秘蔵されてません。ただの養い子です」

 自分の声がこわばるのがわかった。この青年は、師に近づこうとしているのだ。びりびりと警戒が背筋を震わせた。一歩後じさりかけたところへ、声。

「あーごめんごめん。そんな堅くならないでよ。君を利用して揮曜に何かさせようってんじゃないから」

「……」

 信じられるわけがなかった。

 熊揮曜は、だ。今、宮中に本物の巫は彼女しかいない。巫とは常人には見えぬものを見、聞こえぬものを聞き、神や祖霊をその身に下ろすもの。生まれ持った才と、気が遠くなるような修練を積んだ果てに至る領域。そこに師は立っていた。しかも太常寺の巫祝として亀卜きぼくも読めるし、祝文しゅくぶんも操る。その卜占ぼくせんは精度が高い。卜師長、とわざわざ肩書きを用意されるほどに。ゆえに、何度も後宮に入れと打診されているのを知っていた。天子さまをより近くでお守りしろ、と。一時期高官が入れ替わりで説得に来ていたことも覚えている。

 ──絶対に近づけちゃだめだ。

 天子でさえ欲しがるのだ。この男が何を企んでいてもおかしくはない。墨娘は腕の中の書をぎゅっと抱きしめた。

「あはは、信用ないなぁ。本当だってば。俺が会いに来たのは君だよ」

 軽薄に笑う声が不愉快だった。

「……私に何をさせたいんです」

「名を呼んでみてほしい」

「嫌です」

 不愉快なのは声だけではない。繰り返される言葉に半ば嫌悪のような感情がこみ上げる。

「理由も聞かないんだ?」

「当たり前でしょう」

「どうして?」

 子どものような物言いに苛立ちが募る。奥歯を噛みしめて、墨娘は一度深く呼吸をした。そうして趙函と名乗った青年をねめつける。

「私はあなたの妻ではありません。親でもなければ主君でもない。なのに初対面の人の名を口にできるはずがない」

「俺がいいと言っても?」

「巫祝にそれを言いますか」

 名があればしゅをかけることもできるのだ。不用心、という言葉では納得もできない男の要求に、何を説明すればいいのかすらわからなくなってきた。ぐらぐらと頭が揺れるような錯覚があって、娘は深く深く呼吸する。

「名には、力があります」

 相手の魂に干渉しうるだけの。

「夫でもない人間の名など呼べません」

「じゃあ俺の奥さんになったら呼んでくれるの?」

「呼びません。妻にもなりません」

 会話が成り立っていない。ぎり、と胃の腑が締め付けられる心地がした。

 嫌悪と警戒と拒絶ばかりを滲ませる墨娘の姿に青年がふいに両手を挙げた。

「んー、わかった。今日のところは諦めよう」

 こちらに手のひらを見せて、おしまい、とつぶやく。その一言にわずか緊張がゆるんで、墨娘の口から思わず長いため息がこぼれた。

「代わりに俺のこと覚えてよ」

「は?」

 思わず詰問する声を上げてしまった。それをしまったと思う間もなく、青年が矢継ぎ早に音を連ねる。

「姓は趙、名は函。字は離瑜。期門の王僕射おうぼくやの配下。斉州帛領県さいしゅうはくりょうけん出身、年は二十五。旅先で早く生まれちゃったんだよね。家は義和坊ぎかぼう、好きなものは羊肉。嫌いなものは雨の日。ええとそれから」

「もう結構です……!」

 悲鳴じみた声が上がる。ぴた、と青年が動きを止めた。そうして小刻みに肩をふるわせる墨娘の姿に何度かまたたいた。娘は振り絞るような声で青年に問う。

「……私に呪われたらどうするつもりなんです」

 信じられないものを見る心地だった。名のみならず年齢と出身まで明かされるとは思わなかった。自分は巫祝だ。それだけの情報があれば、呪い殺すことだってできる。

「是非やってみてほしい」

 からりと青年が笑った。

「名に力があるというなら見てみたいんだ」

「意味がわかりませんしやりません」

 なぜきらきらした目でこちらを見るのか一切理解できない。正直、こわい。

 ──こわい。

 ぞくりと背筋が震えて、墨娘は落ちかけた視線を何とか持ち上げる。なぜか、師の声がした気がした。

 ──目をそらしちゃいけないよ。

 腹に息を溜めて、面を上げる。すると眼前、青年の顔が笑んでいる。濡れたような深い黒の向こう側に何かがうごめくような気がして、思わず目をすがめた。底光りする緑青のような色。何かが瞳の底からこちらを見ている。そんな心象。そしてそれは星を宿すようにも見えた。不思議な感覚だった。意識がそちらへ引っ張られていくことに自身でも気づいていない。まばたきもせず双眸に見入るところへ、するりと入り込む声。

「君を何て呼べばいい?」

「墨娘です」

 いいから早く帰ってくれといらえを返せば、青年がどこか不満そうに眉根を寄せていた。

「……女の子なのに?」

「駄目ですか?」

 思わず噛みつくような声が出た。

 自分では気に入っている。お前は墨の扱いがうまいと師がつけてくれたのだ。このまま修練すれば女であってもげきになれると言ってくれた。その矜持が詰まった呼び名だ。だがそれを知るよしもない青年が肩をすくめる。

「名は本質なんだろ? 君の本質が墨ってことだよ」

「それが、何か」

 墨は巫祝にとって大切なものだ。神霊をおろした巫の言葉を、覡の墨でもって記す。墨の黒によって記された名は強いまじないの力を帯び、卜占によって得られた言葉を確かに留める力となる。墨娘にとって、無上のものだ。だが、このわけのわからない男には理解できないらしい。

「何ていうかこう、もう少し何かないのかな」

「……」

 いいから早く帰ってほしい。

 感情の置き所も対処の仕方も何もわからなかった。もはや黙してやり過ごすしかないのだろうかと暗澹たる気持ちになるが、本人は一切気づいていない。

「じゃあ、──薄明はくめい

「……!」

 思わず肩が跳ねた。またもや逃げかけた視線を上げて、無理矢理に青年を見る。こちらの視線を真正面から受け止めて、青年が笑った。

「薄明って呼ぶことにするね」

「……意味がわかりません」

「だって墨娘って感じじゃないんだもん。もちろん名を教えてくれたらそっちで呼ぶけど」

「教えません」

 何を言っているのか。

「ねえどうして全部即答拒否なの」

 墨娘の頭上からあきれかえった声。

「むしろなぜ私が打ち解けると思っているんです」

「気さくで親しみやすい人柄が売りなので」

「買いません。お引き取りください」

 一切身じろぎすることなく言葉を向ける。しばらく蜜菓子を持ってこちらを見つめていたが、やがて青年は深く嘆息した。

「これ以上は無理そうだ。じゃあ今日はここまで。また来るね」

「来ないでください」

「あはは、冷たい」

 やはり軽やかに笑って、青年は手を振り去って行った。

「……何なんですか」

 ──男の人に名を聞かれるなんて。

 まして名を呼べなんて。

「……顔、あっつ……」

 途方に暮れたような声がぽかりと宙に浮くようだった。




 師に趙郎君ちょうろうくんの話をした。

 ──趙郎君趙家の若様

 そうとしか呼びようがない。立場的にも、心情的にも。彼の名を知ってしまった。けれど呼ぶわけにはいかない。確かに青年は字も名乗った。だが直接口にするにはそれすら立場が違いすぎる。無位無冠の下働きが字を呼んでしまったらあちらの品位にまで関わるだろう。ゆえに、趙郎君。

 場所は天紀宮てんききゅうから東へ延びる丹塗りの回廊。日々の卜占と儀礼を行う楽殿がくでんへ向かう道すがら。墨娘ぼくじょうは手に大きな墨壺を抱えて歩く。

「また面白いのに好かれたねえ」

 師が笑った。それだけでふわりと空気が華やぐようだ。

 顔全体で笑みを刻むその笑顔が、墨娘は好きだった。孤児だった己を拾い、養い、覡の才を見いだして育ててくれた。大恩あるその人は豊かに流れる黒髪とぬばたまの瞳のうつくしいひとだ。

 姓はゆう、名はいん。天子より賜った字は揮曜きよう。年がいくつなのかは定かではないが、何年経っても見た目が変わらない。高髷に結い上げた髪に翡翠のかんざしを挿して、佩玉は厚みの薄い物を連ねて涼やかな音を楽しむような、風流ないでだちだった。天子が後宮に入れと何度も使者を送ってくるのもうなずける。決して妃たちの中で見劣りはしないだろう。ただ、本人には一切その気は無く、飄々と自由な風のような風情だといつも思う。

「笑い事じゃないです。というか、師匠私のこと誰かに話したりしました?」

 熊揮曜の秘蔵っ子を拝みに来た、というようなことを言っていた。

「どうだったかなぁ。仮に誰かにあんたの話をしたとして、期門きもんに知り合いはいないはずだよ」

 どこから伝わっていったのか見当がつかないと揮曜は肩をすくめてみせる。しゃら、とかんざしが音を立てた。

「字か官位か、聞かなかったのかい。趙郎君じゃ宮中に一人二人のことじゃないだろうに」

 字を、と言われて無意識に肩が跳ねる。動揺を必死に押し隠しながら、かろうじて墨娘は首を振った。

「……聞いてません」

 字どころか突然名を呼んでくれと言われて、そうして名を教えてくれと言われた。墨娘にとっては無遠慮で不愉快な話でしかないが、よく考えてみればこれはまるで。

 ──求婚ではないか。

 そう気づいてしまってから、自分でもうまく対処できない照れが出てしまっている。挙げ句に墨娘ではなく薄明はくめいと呼び始めたなどと到底言えるはずがない。自分が浮かれていると思われるのも嫌だし、いい人ができたんだねなどと言われたらもっと嫌だ。師がそういう話題を好むたちではないと知ってはいても、やはり嫌だった。

 口をつぐむ墨娘の心情を知ってか知らずか、揮曜が首をかしげる。

「しかし期門ねえ。羽林うりんじゃないんだろ?」

「はい。期門と言っていました」

「本当に心当たりがないねえ。となると、天阿てんあのやつが何かしたかあ?」

 揮曜は何度も首をひねる。その横顔にふいに不安を煽られて、娘は思わず声を上げた。

「後宮に、という話でしょうか」

「それはないはずだけどねえ。再三断ってるし、差し戻せって言ってある」

「でも……天子さまがお望みなのでは」

「それが厄介でね。あちらさんが望むようなことはできないんだと言っても聞きやしない」

 困ったように師匠が笑って、またかんざしがちり、と音を立てた。

「でも、師匠は大勢を守ってきました」

 揮曜の卜占は外れない。そう言われている。師の卜辞に従った結果水害を逃れた街があり、勝利した戦があり、防げた病があった。

「前も言っただろ。それは助けられた数だけ数えてるのさ。助けられなかった数を勘定に入れたら、救えなかった方が多い。みんな納得しないけどね」

「でも……」

「墨娘」

 揮曜が墨娘の目をのぞき込む。黒目が大きな師の目は夜の湖のようだった。

「わたしらがしていることは万民を無条件に救えるようなものじゃない。それは、忘れちゃだめだ」

「……」

 驕るなと。そう言われている。

「……でも、誰かを救えるものであることは確かです」

 一人でも二人でも、救うことができるのならそれは願うところだ。そう口にすれば、師がふわりと笑った。そうして、弟子の頭をそっと撫でた。

「あんたは目がいい。ちゃんと、見るんだよ」

 何を、とは教えてくれなかった。そうして、一つ息をつく。

「さ、今日は墨の一切をあんたに任せようかねえ。できるかい?」

 当然ですと答えて、墨娘は楽殿へと足を踏み入れた。




 楽殿は日々の儀礼を行うための建物で、きざはしを上がって扉をくぐれば、仕切る壁の無い広い空間になっている。広間全体に舞台を抱えるさまはあるいは舞踊殿のようでもあった。五彩で飾られた壁画と精緻な彫刻の柱。幾重にも重ねられた絹の帳には香が焚きしめられ、不思議な匂いが満ちていた。青銅の器物があまた並べられている。その表には龍や饕餮とうてつやそれ以外の異形が刻み込まれ、威容を示していた。

 その中央に、揮曜が立つ。戸は全て閉じられて室内は暗く、篝火がぱちぱちと音を立てていた。面覆めんおおいをかけた巫祝がずらりと並んで、その手には。あるいはしょう

「気負うなよ、墨娘」

「大丈夫、俺たちがついてる」

「まぁ俺たちが出る前にお兄ちゃんが出て行くだろうけど」

 墨娘よりも年かさのげきたちが共に墨の支度をしながら笑った。

「それは止めてください。あの人、取り乱したら大変なので」

「違いない」

 一斉に笑い声が上がる。そこへ、耳になじんだ声。

「取り乱さないよ。墨娘は優秀なんだから」

「はは、お出ましだ」

「……師兄しけい

 面を上げれば、委水いすいがいた。兄弟子だ。

 墨娘よりも五つほど年上で、やはり揮曜の養い子だった。色が白く穏やかで、墨娘とは本物の兄妹のように育ってきた。宮中の仕事に忙しい師の代わりに体運びや墨の扱い、祝文しゅくぶんの読解を教えてくれたのは委水だ。

「あまり、買いかぶらないでください」

「買いかぶってないさ。師匠が身内びいきで墨を預けるはずがないだろう」

「……」

 いつもなら他の覡や兄弟子もともに、墨を繰る。だが今日は違う。ついに墨娘が一人で墨を繰るのだ。それは師の信頼そのものだと重々理解している。ゆえににわかに緊張がこみ上げて、身震いをした。

「大丈夫、お前ならやれるさ」

「……ありがとうございます」

 ふわりとほころぶように笑うそのさまが、師に似ている。穏やかな声に滲む気遣いに身が引き締まるようだった。

「墨娘」

 祝人長しゅくじんちょうに声を掛けられ、墨娘は面を上げる。たっぷりすった墨を抱えて立ち上がった。

「今参ります」

「行っておいで」

「はい、師兄」

 墨壺を手に、師の真正面に座る。居住まいを正して、一度大きくまばたきをする。そうして、深く深く息を吸い込み、ゆっくりと肺腑から全てを吐き出していった。気が遠のくほど緩慢に。全身が弛緩するまで何度も何度も。息を吸っているのか吐いているのかわからなくなるまで呼吸を平らかにしてそうして、指先を墨に浸した。両手の人差し指から小指まで。全部で八本。一瞬だけひやりとした黒は、やがて体温になじんで我が身の一部のようになる。墨面すみおもてがゆらりとささめいて、やがてその首をもたげた。音も無く墨壺から浮き上がった黒はゆるやかに円を描きながらいくつもの球体に分離して墨娘の周囲をたゆたう。くるくると回転しながらつかずはなれず、墨の匂いが周囲を満たしてくのが心地よい。

 視線を上げた。そこに、揮曜がいる。深い色の瞳が篝火を受けて不思議な色をしていた。美しい顔がゆるやかに笑みを引いて、そして右足が床をたたいた。その一拍を皮切りに鼓と鉦が拍を刻んでいく。始めはゆるやかに、けれどすぐにその調子を早め、高く低く、乱れるようで整然として。

 その中心で師の両足が地を蹴る。喉が音をつむぎだす。それは声でなく歌でなく。まるで海鳴りのような。くるくると舞台全てを使って回る。跳ぶ。足は常に反閇へんばいを刻みながらまるで滑るように。

「──」

 一斉に嘯歌しょうかが始まった。高く細く伸びていく人の声は性別もわからず、揮曜の声に従うように上に下にこだまして通り過ぎていく。そうして声はやがて、光を帯びる。薄い霞を纏うかのように女の手足が光の帯を引いて、その体を白く浮かび上がらせていった。

「なんじ祖霊のあらたかなる徳にすがりて乞う──」

 あふれた言葉が、娘の目の中で形を得る。光をこぼしながら落ちていくそれを、逃がさない。ゆらり、と墨娘の周囲をたゆたっていた墨が空気に滲み出す。そうして、言葉を絡め取った。光ごと包み込むように黒い帯が次々に言葉をとらえる。

 ──甲辰、庚申、壬申。

 そのかたちを確かに文字に形作って、そうして紙の上へ。黒の縁を紙に滲ませながら、言葉は確かにこの場所へつなぎ止められる。目で見るものと耳で聞くものに分かれはするが、巫がおろした祖霊の言葉を墨でもってとらえる。それが、げきだった。解釈は後だ。今はただ、師の体を通して降りてくる言葉を文字にする。じっと目を見開いて、決して逃さぬように。

 ──ちゃんと見るんだよ。

 師の言葉。奥歯を噛み締める。

 揮曜が舞う。常なら美しく結い上げられた髪はいつしか崩れ乱れ、顔を振るたびに光がたなびく。人ならざる場所を軽やかに飛んでいく。

 彼女は巫だ。祖霊を呼び、おろし、ともに歌う。くちびるから音が、声が、あふれる。その中から言葉を見つけて、墨で色をつけて、つかまえる。いつもなら兄弟子が隣にいるが、今日は一人。全ての言葉を墨娘がとらえねばならない。びりびりと神経が逆立つようで、呼吸をしているのかしていないのか。まばたきさえ忘れて見つめる眼前に、ふいに青が走った。

「……!」

 それはひっかき傷のようだった。気にするな、眼前に集中しろ。そう吼える理性を押しのけて咄嗟に墨を向けた。逃げ惑う何か。それを追い、とらえる。師の舞の隙間を素早く行き交う何かの尾に墨が触れて、黒がぶわりと散開する。そのまま一気に押さえ込んだ。ぼとりと確かな音とともにそれが床に落ちる。びたんびたんと長い尾が跳ね回る。それは緑青色をした、何か。

 ──これはだめなやつだ。

 さっと青ざめた。

 本能が告げる。黒が震える。墨が娘の意を受けてぎちぎちとその何かを締め上げていく。かたちを得る前に、名をつむぐより先に、押しつぶそうと。異形が咆哮した。逃がさない。

「──墨娘!」

 ふいに声。ぱちん、と何かが途切れたような心象があって、そうして眼前に兄弟子の顔があった。

「あにうえ……」

 呆然とつぶやけば、穏やかな双眸がふっとゆるんで笑った。

「よくやった」

 何を、と問えなかった。問おうと思わなかった。まだ感覚が戻ってきていない。墨に感覚を半分預けたような状態のまま、段々呼吸が浅く短くなっていく。今までの深い呼吸とは裏腹の過剰な呼吸に、ふいに委水の手が墨娘のくちびるを覆った。

「ゆっくり息をして。少しずつ、少しずつ戻っておいで」

 なだらかで温厚な声音が導いていく。段々と耳に音が届く。呼吸が楽になって、やがて大きくまばたきをした。そうすればもうそこは自分のよく知る楽殿の光景で、わっと日常の色と匂いが襲い来るようだった。舞台中央で膝をつく師と駆け寄る巫祝たち。墨娘が書き散らした紙が集められていく。扉が開けられ、熱と匂いとが徐々に外にまぎれていった。

「……すみません」

「謝ることはないよ。上出来だ。よくやった」

 もう一度そう言って、委水は視線を床へとやった。つられて視線をそちらに向けて、墨娘は思わず息をのむ。

「あれは……?」

夔龍きりゅうだな」

「……夔龍は、初めてです」

 墨に半ばを閉じ込められながら、人の腕の長さほどの何かがのたうっていた。色は緑青、手足はない。首の後ろに一角を持ち、円を連ねたような模様が鱗のようだった。

「低級だが龍だ。あれが師匠に入り込むと剥がすのが面倒なんだ」

 師は目当ての祖霊だけに声を届け、おろせるほどの卓越した巫だが、それでも有象無象が紛れ込むことがある。あの夔龍もそうらしい。

「どう、すれば」

「よく見てごらん。わかるはずだ」

 穏やかに言われて、墨娘はもう一度その何かを見た。口元から何か白いものが空気に滲んでいる。その正体を知って、間髪入れずに墨を向けた。

「──鱗乙りんいつ

 とらえた言葉。委水が手にした銅鏡を夔龍に向けた。きら、と鏡面が光を発したかと思った瞬間、異形の姿がかき消える。

「よし、これで大丈夫。よくやった、墨娘」

 言いながら委水が銅鏡の面を返した。すると真円の鏡の周囲をぐるりと取り囲む獣の模様。首の後ろの一角と手足の無い体。そうして、長く伸びた尾。

「お前の墨は名をとらえる。祖霊の言葉も魑魅魍魎の魂もひとしく。めったにないことだよ」

 よくやったともう一度兄弟子が言った。ふっと全身から力が抜けて、思わず言葉がこぼれた。

「つ、かれた……」

「お疲れ様。でも墨娘の面目躍如だった」

 ぼっと顔が熱くなる。

「……ありがとうございます」

 その言葉を噛みしめずにはいられない。自分は今日、役割を果たせた。のみならず、師に害をなそうとするものを捕らえることもできた。それは、きっと誇っていいことのはずだった。

「いやぁ、見事だった。すばらしい」

 からからと笑う声が背後からして、委水と墨娘は同時に振り返る。

「だろう? わたしの自慢の娘さ」

「師匠!」

 ほどけきった髪をかき上げながら、揮曜がこちらにやってくるところだった。その全身は汗ばんで、胸元もはだけ、裾も乱れている。だがそれでも溌剌とした気配をまとって、どこか晴れやかだった。

「お疲れさま、墨娘。よくやった」

「ありがとうございます!」

 自分でも声が弾むのがわかってしまう。だが仕方ない。初めて一人で墨を操り、あまつさえ夔龍の名までとらえたのだから。どうしたって高揚する。顔に出てしまったのだろう。揮曜が笑っていた。そうして、その隣。一人の男の姿を認めて墨娘の体に緊張が走る。

「ええと、こんな格好ですみません。太祝令たいしゅくれい

 慌てて墨に汚れた手を袖の中に隠した。委水が拭くものを取りに小走りに駆け出していく。

「構わんよ。儀礼中に邪魔しているのはこちらだ」

 何でもないように笑って見せる男の姓はたん、名はしん。字を天阿てんあといった。太常たいじょうの下にあって巫祝たちを統括する、太祝令という役職に就いている。つまりは天紀宮の束ねだ。

 師が苦笑する。

「悪かったね。天阿が来ると先に言ったら緊張すると思ってね」

 この男を、揮曜は天阿と呼んでいる。本来なら位階が違いすぎるはずの二人だが、互いに気を許しているらしかった。古い知己だと聞いたことがある。

「墨の扱いがうまいとは聞いていたが、これほどとは思わなかった。いくつだったか」

「次の正月で十七です」

「なるほど。ん? 揮曜、私がお前に会ったのは?」

 天阿が揮曜を振り返る。

「十四。いや、わたしと比べるんじゃないよ」

 何の意味があると呆れきった声を上げて揮曜はため息をつく。

「少し年がいっていないか?」

 その言葉に全身が緊張するのを感じる。だが相手は太祝令だ。言葉を差し挟めるはずもない。ただ沈黙を保つ墨娘に揮曜がふっと目配せをしてみせた。気にするなと言うように。

「巫ならそうかもね。だが墨娘は覡になるから関係ないさ」

 その言葉に天阿がまたたく。

「本気だったのか。女だぞ」

「これだけ墨を操れるのは男でもそうはいないよ」

 巫は神霊をおろして語る女。覡はその言葉を記す男。古い言葉ではそういうことになっている。今も時折そういう使い分けをする人もいる。だが、揮曜は性別の問題ではないと言った。

 ──言葉をとらえるのが覡の本質だ。あんたにはその才がある。

 そう言われたのはいつだっただろう。揮曜の養い子になって、新しい生活に慣れてきたころ。委水と一緒に卜占の道具の片付けをしていたはずだ。兄弟子が墨の扱いを見せてあげる、と言った。今よりもずっと小さかった彼の指先が黒をすくいあげて、中空に一滴飛ばした。それがふわりと形を変えて落ちるをやめ、小さな蝶となってひらりと舞ったのだ。

 ──兄上、兄上! 墨が蝶に!

 はしゃぐ墨娘を嬉しそうに見つめて、そして委水はそっと墨壺を差し出した。やってみろ、と。

 そうして二人壺いっぱいの墨の蝶と戯れるところへ師匠が帰ってきて、出し過ぎだとがっちり怒られたのも今はいい思い出だ。

 ──委水はともかく、お前までねえ。

 笑いながら言って、その日から兄弟子とともに墨を繰る修行も始まった。言葉を見る。あるいは言葉を聞く。そのかたちを確かにとらえ、墨によって形作る。その過程はどうにも不思議な心地がして、そして同時にどこか遠くまで行けるような気がして、ただただ楽しかった。

「そういえば天阿。趙郎君に覚えはないかい」

 過去の記憶へ飛びかけていた意識を揮曜の言葉が連れ戻す。ぱちくりとまたたいて、墨娘は視線を戻した。

「趙郎君? どの趙だ」

「期門の趙らしいよ。墨娘、何も聞いてないんだろ?」

「……はい。何も」

 娘のいらえに、揮曜と天阿は同時に首をかしげる。

「期門だと趙大夫ちょうたいふのお身内とかか……? それがどうしたんだ」

「わたしの秘蔵っ子に会いに来た、そうだ」

 ふっと揮曜の声音が変わる。天阿もまた盛大に眉根を寄せた。

「……おかしいな」

「だろ。墨娘は確かにわたしの身内だが、まだ無位無冠の下働きでしかない。才を評する場所にはいない」

 なのに、わざわざ会いに来る。それも他の巫祝がいない間隙を丁寧に狙って。太祝令がうなった。

「お前がどこかで親馬鹿かましたって説は」

「羽林ならある」

「あるのかよ」

 間髪入れずに天阿がつっこみを入れる。

「いやぁ、白将軍はくしょうぐんが飲み友達でね」

「お前の人脈どうなってんだ。たかが巫祝が食卓囲める相手じゃないぞ」

「まぁそういうこともある。さすがに宮中では他人のふりをしてるさ」

 言って、揮曜はふうと長く息を吐き出した。

「墨娘。過剰に案じる必要はないが、気をつけるんだよ。巫祝は何でもできると思っている人間はいくらでもいる。できないのではなくやらないのだと決めつけて激高する輩も同じくらいね。今のお前に抗うだけの力は無い。何かあったら必ずわたしか委水に言いなさい。決して、一人で立ち向かおうとするんじゃない」

「はい。師匠」

 背筋が伸びる心地がした。こちらを見つめる師の目が濡れたように光る。そうしてふと、思い出した。あの黒の底をたゆたっていた色を。

「星みたいな……」

「どうした?」

「あ、いえ。ええと、何でもないです」

 説明する言葉を見つけられなかった。どこから話をすればいいのかもわからず、何を問いたいのかもはっきりしない。儀礼が終わったばかりで疲弊している師に向けるにはあまりにも無責任だ。

「墨娘」

 委水の声に振り返る。

「手を」

「ありがとうございます、師兄」

 墨のついた両手を丁寧に拭いながら、兄弟子は上機嫌だった。

「やっぱりお前はすごいよ。墨の扱いでいえば俺はもう及ばないね」

「そんなことはないです。多分、勢い任せだと思います」

 のめり込みすぎている。墨に己の感覚を持って行かれて、冷静になりきれない。そう自覚していた。

「それは慣れもあるよ。数を重ねるうちに自分の立つ場所の距離がわかるようになる」

「そうだといいんですが……」

 本当にそうなれるのか、想像がつかなかった。あの万能感は自我をも浸食しかねない恐ろしさがある。

「大丈夫。一つずつ積んでいこう。爪が黒くなるころにはきっと、覡になってる」

 墨を拭い終えて、委水の手がとんとんと墨娘の指先をたたいた。墨に浸されていた指先は灰色を帯びて、爪の周囲は黒く縁取られている。墨を扱う覡はいずれその指先と爪が黒く染まる。それだけの修練を積みなさいと静かに諭されて、墨娘はうなずいた。

「名に恥じぬ己になります」

「あまり気負わずにね」

 穏やかに兄弟子は笑った。




 たっぷりの紙を抱えて墨娘ぼくじょう揮曜きようの二歩後ろを歩く。今日の行き先は祝人房しゅくじんぼうだった。墨娘の抱えた紙はいずれも昨日の儀礼で師がおろした言葉を記したもので、これをげきの皆で読み解いて形を整えるのだ。他の用事がない限りは揮曜も臨席して、自分の言葉をなぞり直す。によっては己がおろした言葉に向き合うを恐れるというが、師にそういうそぶりはなかった。卜占にせよ巫術にせよ、必ず自らつむいだ言葉を読み直す。

 祖霊をその身におろすのは並大抵のことではない。己の魂の器に他のものを入れるのだ。かかる負荷は大きい。のみならず体を明け渡していた間の記憶をもう一度飲み込むのは感情が何か大きな壁にぶち当たるような印象があった。墨娘の想像に余る。自分でありながら自分ではない何か。それは恐ろしくはないのだろうか。

「おそろしいよ。そりゃあもちろん。でも、あれはわたしじゃなかったんで、なんて無責任だろ」

「それが許されるのが巫なのでは」

「わたしは許されるとは思ってないね。器として振る舞おうが、結局はわたしだ。都合良く蓋をして中身が腐ったら困る」

「……」

 わかるような、わからないような。

 答えあぐねて沈黙する娘の姿に揮曜はあっけらかんと笑った。

「自分を甘やかすなって話さ。人間、楽な方へ流れるとすぐ駄目になるからね」

「肝に銘じます」

 そんな会話をしながら回廊を折れようとして、揮曜が立ち止まる。

「師匠?」

 自分よりも背の高い師の影から半身を乗り出して、墨娘は息をのんだ。信じられないものを見る心地でいるところへ、軽やかな声音。その声を墨娘は知っていた。

「こんにちは、熊卜師長ゆうぼくしちょう薄明はくめい

「……」

 いらえを返すことなく墨娘はただ硬直する。揮曜が何度かまたたいた。

「薄明?」

「墨娘がしっくりこないのでそう呼ぼうかと」

 物怖じすることなく平気で言ってのけるのは趙郎君ちょうろうくんだった。

「ああ、もしかしてあんたが」

「あ、話聞いてます?」

 にこやかに青年が笑って見せる。

期門きもん王僕射おうぼくや配下の趙離瑜ちょうりゆです」

 名ではなく字を名乗った。正式な場ではないからだろう。本来、それが普通だ。

「熊揮曜だ。といって、まぁ知ってるようだけど」

 言って、揮曜は趙郎君の顔をまじまじと見た。不躾ともいえる視線を向けられて、けれど趙郎君は動じない。切れ長の双眸はなつこい色を宿したままだ。

「趙大夫のお身内かい?」

 長い指をあごにからめながら、揮曜が目をすがめた。誰かの面影を見いだしたらしい。

「兄ですね」

「いいとこの御曹司じゃないか」

 あっさりと肯定されて、揮曜が声を上げる。

「まぁ、そうかもしれないですね」

 代々高級官僚を輩出する家門なのは事実だと言って、青年はうなずいてみせる。驕った物言いをすることなく、かといって卑下することもなく。

「で、その若様がうちの娘に何の用だい」

「お友達になりたくて」

「……墨娘と?」

「駄目ですか?」

 きょとんと首をかしげてみせるさまに面食らって、揮曜は思わず眉根を寄せた。

「息子もいるんだが、そっちじゃ駄目か」

「薄明がいいです」

 あまりにきっぱりとした答えだった。

「……まさかとは思うが嫁取りかい?」

「そういう意図ではないですが、友達が不可で嫁なら可、というのなら立候補するにやぶさかではありません」

「意味がわかりません」

 衝動的に墨娘が遮る。たまったものではない。全身をこわばらせる弟子と眼前の青年とを交互に見て、やがて揮曜は肩をすくめた。

「それはやめたげておくれ。墨娘が慣れてないのももちろんあるだろうが、その距離の詰め方は悪手だよ若様」

「じゃあどうすればいいです?」

「どうすればいいだろうねえ……」

 揮曜とて答えを持っているわけではない。

「とりあえず行けるとこまでぐいぐい行こう、ってのは控えた方がいい」

「……それは、忠告ですか」

「いいや警告だ。何を考えているにせよ、節度は大事だろう?」

 ふいに巫の声音が変わる。ひやりとするような冷たさをはらんで、揮曜は言葉をつむいだ。その体の後ろに墨娘を隠すようにして、趙郎君に立ちはだかる。確かな意思に守られていた。その背を見ながら、墨娘は意を決して声を上げる。

「もしかして師匠を後宮に連れて行くためですか」

「墨娘?」

「そのために、私に近づいていますか」

 緊張しきった声音に趙郎君がまたたく。そうして、ふるふると首を振った。

「考えてもみなかった」

「……!」

 墨娘は思わず大きく息を吐き出す。それは安堵のため息だった。

「ああそうか。卜師長、後宮入りを打診されてましたね」

 風の噂に聞いたと趙郎君がうなずけば、ふん、と揮曜が鼻を鳴らす。

「わたしをそばに置いたところで卜占の結果がよくなることもなければ天命が覆ることもない。後宮に入れる理由なんかないと言ってるんだけどね」

「それでも安心したいんでしょう。あなたがいれば大丈夫、と」

「できないことの方がずっと多いってのにまったく」

 がしがしと後頭部を掻きやりながら揮曜がため息をついて、そしてまた趙郎君を見た。

「で、なんで墨娘に」

「あなたの秘蔵っ子だと聞いたのでどんなものかと。私はあまり太常寺に縁がある方ではなくてですね。巫祝がどんなものか知らないんです」

 単純な好奇心だとしれっと言ってのける。その言葉の裏を読みほどこうとするように揮曜はわずか眉を持ち上げ、軽い調子で言葉をつむいだ。

「息子なら紹介するよ」

「薄明がいいです」

「強情……」

 呆れた声音を聞きながら、墨娘は眼前の青年を見る。かたわらに師がいるからか、この間ほどのこわさはなかった。すっと伸びた背筋と切れ長の瞳の、整った顔立ち。

 ──顔がいい。

 今更に気がつく。深い色の双眸は師のそれとは違った色に見えた。

「なぜ、私なんです」

 墨娘の言葉に、趙郎君は小さく首をかしげた。そうして、くちびるを開く。

「君は、目がいいから」

 茶化す調子のない真摯な声音の向こう側、瞳の中に星が見えた気がした。墨娘はまたたく。もう一度、青年を見る。にっこりと秀麗な顔が笑んだ。

「というわけで友達になりたい」

「嫌です」

「だからどうしてそう即答するかな……」

「話の展開がおかしいからですよ」

 言って、助けを求めるように墨娘は師を見上げた。揮曜は何か思案げにしながら、小さく肩をすくめてみせる。

「ま、今日のところはお帰りよ若様。親の前で嫁入り前の娘を連れ出そうなんて不調法、趙家のお身内がするはずはないね?」

 軽妙な口ぶりでありながら断じて譲る姿勢を見せない。さすがに趙郎君も観念したようだった。

「はは、そこまで言われて食い下がれないなぁ」

 やはり笑いながらそう言って、きざはしを降りていく。

「まぁ、またいずれ。お騒がせしました」

 ひらひらと手を振って、青年は去って行った。あまりに身軽なそのありようを墨娘は何と形容していいのかわからない。言葉も振る舞いも、どうにもつかみどころがない。

「いやぁ、あれが趙郎君か。なかなか面白いのに好かれたねえ。しかも並み居る趙家の中でも一番でかいやつだ」

 尚武の気風が強い名門だ。古い家門で、龍を仕留めたことさえあると言われていた。

「……あんな変な人なのに?」

「三男だからじゃないか」

 もはや家督争いには加わらず、自由に生きるばかりのことが多い。趙家の家中がもめているという話も聞いたことがなく、奔放な三男が出てきたところでそう不思議はなかった。

「ただ趙家……趙家か」

「師匠?」

「なぁんか引っかかるなぁと思って」

「引っかかるところしかなくないですか」

 少なくとも自分はそうだと娘は苦い顔をする。

「まぁとりあえず、師匠をどうこうしようとしているんじゃなければいいです」

「わたしが後宮に入るかも、って?」

 そんなことするはずがないだろうと言いたげだった。そのどこか得意げなまなざしから逃げるように一度視線を落として、そしてまた墨娘は面を上げる。

「もし私や師兄を楯に取られたら、師匠は行くでしょう?」

「そりゃあ親だからね」

「なら、子は楯にされぬよう気をつけなくては」

 ふっと揮曜が笑った。おもむろに腕を伸ばして墨娘を腕に抱きしめる。

「わ、わ、師匠……!」

 紙束を手放さぬよう必死に抱え込みながら墨娘が声を上げた。その切羽詰まった声音とは裏腹に揮曜はしみじみとした声でもってつぶやく。

「あんたも委水いすいも、いい子に育ったねえ」

「育てたのは師匠ですよ」

「そうだったそうだった」

 豪快に笑いながら、ふっとその声が変わった。

「墨娘。ちゃんと見るんだよ。お前は目がいいから、見誤っちゃだめだ」

「趙郎君のことですか?」

「んー、まぁそれだけじゃないな」

 万事において、まっすぐに物事に対峙するように。

 静かにつむがれる言葉に、墨娘はただうなずいた。




 市が立つ日は街の空気が違う。それが週市でなく、三月に一度の大市ならなおのこと。天子が住まう大城の南側、東西に設けられた市はどこも人でごった返していた。市門から一歩足を踏み入れれば、大路を埋め尽くすようにのぼりが翻り、晴れた空に鮮やかだ。屋台から漂うおいしい匂いと、振り売りの威勢のいい声。呼び込みの口上に酔漢の上機嫌な歌が乗って、ただただ賑やかだ。露天商の数も多く、小さな細工物だの反物だのが並んでいる。

 五感全てが高揚する感覚に思わず苦笑しながら、墨娘ぼくじょうは市場の中を歩いて行く。一人だった。それでも市場は大抵同じ業種の店が小路ごとに固まっているから、目当てのものが決まっていればあまり迷うこともない。今日は油と麻布と乾物を買う予定で、もし何かちょうどいいものがあれば夏用の扇子が欲しい。それと、季節の変わり目で体調を崩した兄弟子に何か土産を見繕えるとありがたいのだが、何がいいだろうか。腰に提げた小さな墨壺が揺れる。

 とりとめのない思考を遊ばせながら一つずつ買い物を済ませ、一番重い油を買うべく小路に入る。確か酒屋の並びのはずだった。商うのみならずその場で酒を飲むこともできるものだから、他の小路に比べて人が多い。楽しげな会話の言葉の端を拾い上げながら、墨娘は人の隙間をすり抜けていった。

 ふいに、声がした。

薄明はくめい……?」

 ばっと顔を上げる。この雑踏の中にあって確かにはっきりと、あの声がした。勝手につけられた名に反応してしまった己に半ばあきれかえりながら、それでも確信を持って首を巡らせる。そうして。

「本当に薄明だ。どうしたの、こんなところで」

「……こちらのせりふです」

 酒舗いざかやの軒先に見知った姿があった。涼やかな目元の青年は木綿の平服で、ずいぶんと気安い印象だ。武冠もなく、髪も簡単にぬので覆われるばかり。到底名家の令息には見えない。ひらひらと親しげに手を振っていた。

「……何をなさっておいでです」

 今更無視することもできずに尋ねる。

「人を待ってたんだけど、薄明が来たということは委水いすいに何かあった?」

「……」

 眼前の男から予想していなかった名が飛び出して、しばし墨娘は言葉を失う。そして同時に、おおよその事情を察した。

「……師兄しけいと、お知り合いですか?」

 かろうじて振り絞った言葉に青年がこともなげにうなずいてみせる。

「うん。前の大市のときにたまたま知り合ってね。楽しく酒を飲みました」

「……」

 覚えている。委水が酔ったまま帰宅するのは珍しかった。面白い人に会ったのだと笑って、ずいぶんと楽しそうだった。

「あなただったんですか……」

「そうです。たいそうな妹自慢を聞きました」

「え」

 墨の扱いに長けてよく学び、研鑽を怠らず、まっすぐに前を向く娘だと。彼は酒で上機嫌になるたちらしく、終始にこにこと自分の妹弟子の話をしていた。師が初めて家に連れ帰ったときはまだ言葉もままならず痩せて、冬を越えられるかどうかを案じたものだが無事に育ってくれて嬉しい。師が与えた呼び名は一見無骨に見えるが、他のげきたちも納得するだけの能力を持っている。そして本人もその名に恥じぬ己であろうと常に己を律するさまが誇らしい。そんな話をずいぶんと聞いた。

熊揮曜ゆうきようの最高峰だけど妹は覡の最高峰だと」

 衝動的に墨娘は手のひらに顔を埋める。趙郎君ちょうろうくんの顔が見られなかった。

「墨の扱いがめちゃくちゃにうまくて、自分が一を教えるだけで十を覚え、いずれ龍も饕餮とうてつもとらえるだけの力量がある、間違いない。自分はそう信じている」

「あにうえ……!」

 見ず知らずの初対面の人間に酒の勢いとはいえそんな話をしたのかと思えば、身の置き所がないなどという話ですらない。どうしようもない羞恥がこみ上げてきて叫び出しそうだった。

「となると、じゃあ実際どんな子なのかなと見に行きたくもなるってもんでしょ」

 だから己は間違っていないと言わんばかりに鼻を鳴らすさまへ、墨娘は思わず反論する。

「そうはなりません」

「そう?」

 しれっと言って、青年が酒杯をあおった。一壺丸ごと買ったらしく、簡易な卓の上に我が物顔で酒壺が乗っている。

「薄明は龍、見たことある?」

「ええと、はい。先日」

 低級とはいえ夔龍きりゅうも龍だ。

「そっか、やっぱいるんだ。委水も何回か捕まえたことがあるって言ってた」

 兄弟子の名を口にする声音は親しげだ。

「見たことないですか」

「ないね」

 龍に限らずその類いのものはと言われ、そういえば太常寺たいじょうじに縁がないと口にしていたのを思い出す。

「……今日は師兄と約束を?」

「ううん。会えたらいいなぁって勝手に待ってた」

「待ちぼうけになりますよ」

 実際、今日は委水ではなく墨娘が来ている。

「どうかな。また会えたらいいね、って別れたから。委水ってそういうときちゃんと来る人の気がするけど」

「……否定はしません」

「でしょ」

 そしてふと青年は墨娘を見た。

「飲む?」

「いりません」

 酒は苦手だった。

「委水、どうしたの」

「熱を出しています。季節の変わり目は体調を崩しやすいので」

 体にこもった熱が下がらず、全身の気脈が停滞していると言えば、すっと趙郎君が眉根を寄せた。

「医者、手配した?」

「はい。師のつてで」

「よかった。じゃあ俺が何かしない方がいいな」

 さらりと口にされた言葉にまたたいて、墨娘は声を上げた。

「趙郎君のお手を煩わせるようなことは──」

「あ、待った」

 青年の声がそれ以上を遮る。

離瑜りゆ。俺は離瑜。家の話は、なし」

 趙郎君と呼んでくれるなと目配せをされて、娘は一度またたいた。そしてその言葉の意味するところを察して思わずため息をつく。家の人間に無断でここに来ているのだ。

「奔放が過ぎませんか」

「三男なんてこんなもんでしょ」

 言って、酒杯を置いた。酒壺の中身を確認して、そして隣の卓に渡す。いいのか兄ちゃん、としゃがれた声が喜色を滲ませるのへ是と答え、当たり前のように墨娘の隣に並んだ。

「で、買い物? 何買うの? 委水のお見舞い託していい?」

「……」

 ずるい、と思う。墨娘が断れない言葉を選んでくる。兄弟子の友人だと思えば無碍にもできない。深いため息がこぼれた。

「ご自由にどうぞ」

「やった。でもどういう風の吹き回し?」

「ここであなたを振り払う方が労力を使いそうなので。色々面倒になってきました」

 きっと委水はこの青年からの見舞いを喜ぶだろうこともわかる。

「下心が何であれ師匠をどうこうしようとしてるんじゃなければいいです」

「嫌だなぁ下心なんかないよ」

 すっと墨娘は離瑜と呼べと言った青年を見つめる。物怖じすることなく真正面から。

「どう見ても下心で近づいてるじゃないですか」

 むしろここまできて下心が無いと言い張ろうとするさまが清々しくさえあった。

「君と仲良くなりたいのは本当だよ?」

「じゃあ何が本当じゃないんです?」

「うーん、手厳しい」

 どこか茶化した物言いをしながら笑う横顔の感情が読み取れない。喜んでいるようにも見えるし、喜んでいると演じているようにも見える。結局真意が見えるわけではない。

「……変な人」

 そうとしか言いようがなかった。それでも、振り払いきれない何かがある。

「……変な人」

 もう一度つぶやいた。

 連れだって歩く。酒を飲んでいたわりに離瑜の足取りはしっかりしていた。普通の名家の令息がどうなのかは知らないが、この青年にとって市はなじみの場所らしい。今日は客じゃないのかと刃物研ぎの老爺が笑い、この間はごちそうさまと振り売りが片手を上げる。本人も気安い様子でにこにこと愛想を振りまいていた。

「あ、何だっけ。油買うんだっけ? あそこの並びにあるよ」

 油売りの幟を離瑜が指さす。そう間口の広い店では無いが、にぎわっていた。軒先いっぱいに油壺を並べ、値の安さを売り文句に呼び込みをしている。墨娘はわずか目をこらして、そして声を潜めた。

「……あそこは駄目です」

 短く言って、足早にその場を離れる。誰かの耳に入りでもしたら面倒だ。いつも世話になっている油売りの店を目指す。

「ねえ、なんで?」

 おとなしくついてきていた離瑜が尋ねた。その場で聞かないくらいの分別は持ち合わせているらしい。墨娘はちらと周囲をうかがってから、小さく言った。

「升が上げ底です。店主が手をこう動かしていたでしょう。あれは底板が動くんです。下から支えるようにして底を上げています」

 手先で店主の動きを再現してみせるさまへ青年が目を丸くする。確かにそういう動きをしていたように思う。だがそれは明確にそうだと断じることができぬほどに自然でなめらかな動きで、違和感を覚えるには至らなかった。 

「どうしてわかったの。それも目がいい、ってやつ?」

「……私は千里眼ではないですよ。ただの経験です」

 墨娘がとらえるのは言葉ばかりだ。決して何でも見えるわけではない。

「だまされたことある?」

「ええ、まぁ。そのときは師匠がいたので大丈夫でした」

 大きな声で安い値を売り込むものには気をつけなさいと言われた。市場は多くの人間が混じり合う場所だ。悪意に満たぬ下心や思惑もそれだけ存在し、絡め取ろうとしてくる。

 だから。

 ──よく見るんだよ。

 師はいつもそう言う。

「それ、文句言わなきゃだめだよ。完全になめられてるじゃん」

 言って、離瑜は怒った調子を隠そうともしない。墨娘は目をしばたたかせた。

「あちらの言い値にこちらが応じてしまったら、たとえ上げ底だろうが混ぜ物だろうが、文句は言えません。応と言ってしまったのはこちらなので」

 己の言葉には責任を持たねばならない。交わした契約は絶対だ。そう言葉を重ねれば、離瑜が不満げに鼻を鳴らした。

「侮られているのに? 何ていうか、ものわかりがいいね。薄明は」

「……薄明って呼ぶのやめてもらえませんか」

「我ながらいい呼び名だと思ってるんだけど」

「立派すぎて気持ち悪いです」

 夜明け、だなんて。

「じゃあ何ていうの?」

「墨娘です」

「それは呼び名じゃん」

 心底嫌そうに墨娘は眉根を寄せる。彼が何を問うているのかを理解した。

「嫁入り前の娘に名を聞く人がありますか」

「じゃあ俺の名呼んで?」

「なんでそうなるんです」

 何一つつながっていない。

「自分の殻を破りたくて」

「そういうのは自分でやってください。私を巻き込まないでください。──油、買ってきます」

 馴染みの老婆の店へと墨娘は入っていく。その背中を見つめながら離瑜は低く笑った。

「自分でできれば苦労はしないんだよ」

 その言葉は市場の雑踏にまぎれて消えていった。




 油屋はあまり間口が広くない。店先の幟も控えめで、老婆が一人で店番をしているばかりのこじんまりした作りだった。

「こんにちは」

「ああ、墨娘ぼくじょう。いらっしゃい。今日は委水いすいは一緒じゃないのかい」

「体調を崩していて……今日は私だけです」

 あらあらと案じる声音をこぼしながら、老婆が視線を上げた。その双眸が墨娘の向こう側を見ていることに気がついて、娘は振り返る。趙郎君ちょうろうくん、と呼びかけたのをかろうじて飲み込んだ。

「……離瑜りゆさま」

 青年がにっこり笑った。

「油、何がいるの」

「一緒に来なくていいんですよ」

「いいじゃない。俺、自分で買いに来ることないし」

 興味津々といった様子で離瑜は並ぶ油壺を眺めている。

「今日はいい人と一緒だったのかい。よかったねえ」

「違います。この人は師兄しけいの友人です」

 強い口ぶりで墨娘が否定するのへ、はいはいと思わせぶりに笑って、老婆は離瑜に会釈する。

「いらっしゃい」

「こんにちは。今日は俺が委水の代わりです」

「墨娘はしっかりしてるけどね。まぁ、よろしく頼むよ」

「もちろん」

「……」

 青年もまたにこやかに言葉を返していて、墨娘の方が置いてきぼりだった。生ぬるい視線の居心地が悪くて、声を張り上げる。

「香油をください。二升欲しいです」

「はいよ」

 老婆が店の奥の方へ向かった。

「表にあるやつじゃないの?」

「儀礼に使うのは別なんです」

「油なんてみんな同じだと思ってた」

「そうでしょうね」

 自分で買いに来ることはない、と自分で言っていた。この青年は生活の細々としたものを自ら管理する必要がないのだ。物珍しそうに店の中を見渡している。離瑜が隣にいることに何とも落ち着かない心地がして、墨娘は視線を落とす。そうして、気づいた。

「薄明?」

「……」

 墨娘の眼がじっと床の一点を見つめていることに気がついて、離瑜が声を上げる。だがいらえはない。どうしたかとその顔をのぞきこもうとするのと、娘の手が腰に提げた墨壺に伸びるのが同時。蓋を開け、指を突っ込んだ。その瞬間、その手の周りに黒が浮き上がる。

「……!」

 目を見張る青年に気づいているのかいないのか、墨娘は床を見つめたままだ。そうして、くちびるが音をつむいだ。

「──鳴蛇めいだ丙翅へいし

 墨が生き物のように躍りかかって、何かの輪郭をあらわにする。確かに何もなかった空間に翼の生えた小さな蛇が形作られていく。びたびたとその身をのたうち回らせながら、けれど黒を振り払うことができない。墨娘の指先から放たれたらしい墨が蛇にからみつき、押さえ込む。

「ええと、袋……」

 墨が生き物のように宙を泳いで蛇を持ち上げる。そうして、墨娘がごそごそとたもとから取り出した麻袋に収められてしまった。当たり前のようにそれをまたたもとにしまって、墨娘がひとつ息をつく。離瑜がうわずった声を上げた。

「え、何。今の」

「鳴蛇です。これは小さいので大丈夫だと思いますが、大きいものは旱魃を呼びます」

 放置しておかない方がいい。

「どうするの」

「持って帰ってうつわに封じます」

「うつわ……」

「この大きさだと銅鏡に入ると思うので、多分銅鏡でしょう。それか、爵か」

 墨壺に蓋をしながら墨娘が言った。そうして、離瑜がそれ以上を尋ねようとするより早く老婆が戻る。

「はいよ、二升」

「ありがとうございます」

 平然と会計をするさまを半ば呆然と見届けて、離瑜は墨娘の後を追って店を出た。

「ねえ、どういうこと」

「何がですか」

「あれは墨?」

「はい」

 青年のくちびるが墨娘、とつむぐ。娘は思わず笑みを引いた。

「はい。墨娘です」

 どこか勝ち誇ったような顔をする娘を横目で見やりながら、青年はがしがしと頭をかく。墨の扱いがうまい、の意味を理解した。

「ちょっとだけ、わかった。墨娘でいい、って言った理由が」

 その呼び名に矜持があるということが。

「光栄です」

「でも俺は薄明って呼ぶけど」

「嫌です」

 相変わらずの即答に、きゅっと青年は眉根を寄せた。

「逆になんで嫌なの」

「私の本質ではありません」

「そんなことないって。俺にとっては君は薄明だよ」

「……」

 危うく正気ですかと言いかけたのを一応飲み込んで、墨娘は無言で離瑜をねめつけた。ふわりと離瑜が笑う。

「薄明になってよ」

 青年の目の中にちかちかと星がまたたいて見えた。

 瞠目する。

「離瑜、さま……」

 思わず名を口にすれば、青年がにっと笑った。

「さ、おつかい終わったんだったら委水へのお見舞い買いに行こうよ。それか先に何か食べるんでもいいけど。奢るよ」

 そろそろお腹が空いたと言って青年は視線を巡らせる。今日は大市だからいつもより露店の数が多い。あちこちから食欲をそそる匂いが漂ってきていた。

「……いえ、師兄に何か買うならそちらを先にしてください」

 気持ちを立て直そうと深く呼吸をする。

「あはは、相変わらず。でもまぁどうせしばらく会えないから安心してよ。委水にも会いたかったなぁ」

 何気なく口にされた言葉に違和感を覚え、墨娘は離瑜を見上げた。

「どちらか行かれるんですか」

「うん。来年の巡狩じゅんしゅの下見に同行しろって言われて、しばらく空けることになったんだ」

 巡狩、とは天子が自らの足で国土を巡って祭祀を行う旅のことだ。五年に一度が通例だが、その準備には一年近くが費やされる。

「長いんですか」

「三月くらい、かな」

 あまりそういうことはないんだけどと言いながら、その声に少しばかり困惑が滲んでいた。墨娘は小さく首をかしげる。それに気がついたのだろう。離瑜が曖昧に笑った。

「二番目の兄なんかは結構地方にも行くんだけど、俺は期門きもんだからね。普通は宮城の外には出ない」

 歩き出す。隣を行く墨娘に歩調を合わせ、ゆっくりと。

「みんな、俺を外に出したくないんだってさ」

 静かな声がやけに耳についた。

「それでお忍びですか」

「そういうこと」

 家中の苦労がしのばれる気がして、墨娘は小さく息をついた。改めて離瑜を見上げれば、本当に何の変哲も無い一青年という風情だった。少なからずうさんくさいとは思うものの、立ち居振る舞いも言葉使いも気取ったところはなく、誰かを侮ったり下に見たりするようなそぶりも見せない。よくよく考えれば、貴族の名家という肩書きもあまりしっくりくるものではなかった。あまりに気さくに話しかけてくるせいだろう。格式張った趙家だとか期門だとかがどこか遠く、それはそのまま、青年の軽やかさに直結している。

「奔放が過ぎるからじゃないですか」

 このままではどこかに飛んで行ってしまうと思われているのではないか。そんな気がした。

「そんな奔放なつもりもないんだけど」

「よく言いますね」

 自分の言動を振り返れと呆れた声がこぼれる。

「結構締め付け厳しいよ?」

「逃げるからでは」

「それは順序が逆でしょ」

 締め付けるから逃げるのだとさも当たり前のように口にする。逃げたくなるような家なのだろうかと一瞬思って、墨娘は慌てて思考を押し戻した。それは踏み込みすぎだ。相手は貴族の家門で、自分の想像の及ばぬものをたくさん抱えている。己の尺度で計るわけにはいかない。

「どちらに、行かれるんですか」

漉州ろくしゅう。知ってる? 屠龍之淵とりゅうのえんてとこ」

「いえ、初耳です」

 不思議な名だと思った。

「俺も。龍を食らう淵、みたいなところらしいよ。河神かしんへの犠牲祭祀をやるって」

 その言葉に何となく手順を思い浮かべて、それは確かに大事だろうなと思う。牛か、場合によっては水牛を犠牲に捧げて天子自らが祝文しゅくぶんを読み上げ、河神とのやりとりをするのだろう。

「……誰か、同行するのかな」

 儀礼の段取りを組むために太常寺たいじょうじからも人を出してしかるべきだろう。自分の耳には入っていないが、師なら知っているかもしれない。

「委水が来たりとか」

「それはないです」

「駄目?」

「駄目とかいうことでなく、師兄はげきなので」

 そもそもの職分が違う。

「まとめて巫祝ふしゅくじゃないの」

「違います」

 本来、巫祝はそれぞれに扱える領分が狭い。卜占なら卜占、暦読れきどくなら暦読、と専門が決まっている。大規模な儀礼などは手順を共有しているから全員同時に動けるだけだ。

「師匠みたいに何でもできる方が珍しいんです」

 祖霊をおろす。それだけで巫祝としては十分すぎるほどに有能なのだ。にも関わらず彼女は卜占を行い、祝文が使える。希有な存在だった。

「へえ。何か思ってたのと違うね」

「何でもできると思っている人は多いと聞きます。祖霊の声を聞くのと姿を見るのと言葉を交わすのは全て別の領分だ、というと驚かれるとか」

「うん。今驚いてる」

 へえそうなんだと、取り繕うことのない言葉選びに墨娘は肩の力が抜けるのを感じた。そっと横顔をうかがうが、失望だとか怒りだとかの感情は浮かんでいないようだ。この青年が自分に何を期待して近づいてきたのかは知らないが、少なくともそれは己の領分ではないと口にして逆上することはないだろう。少しだけ安堵する己に思わず苦笑した。

「薄明?」

「……墨娘です」

 譲らないらしいと知って青年がむぅと不満げに鼻を鳴らす。

「しかし、そうなると揮曜きようよくただの祝人しゅくじんでいられるね。後宮入りの打診も相当本気でしょそれ」

「やっぱりそう思いますか」

 墨娘の表情が曇る。

 今は太祝令たいしゅくれいが矢面に立ってくれているし、揮曜自身も自分の人脈を使って後宮入りを断り続けている。だが早晩、断り切れなくなるのではないか。それがずっと気がかりだった。師を連れて行かれるのは、嫌だった。

「一緒に行けば? 弟子の一人二人連れて行けるでしょ。女の子だし」

 けろりと離瑜が言う。

「師兄が来られないじゃないですか」

「……」

 離瑜がじっと墨娘を見つめていた。その瞳が何を言いたいのかわからなくて、墨娘はきゅっと眉根を寄せる。

「何です」

「そこ大事なんだなと思って」

「大事ですよ。師匠も師兄も、大事な家族です」

 わざわざ言わせるなと言わんばかりの口ぶりに離瑜は一瞬言葉を探しあぐねた。墨娘が好意をあらわにするのが珍しかった。微笑ましいと羨ましいがない交ぜになって、ふっと笑う。

「何か、うらやましいな」

「……」

 今度は墨娘が返す言葉を見つけられず押し黙る。そして少しだけ大きな声を出した。

「というか、後宮に師匠を入れなくても後宮に出入りする卜師を指名すればいいだけだと思うんですけど。日々の卜占と暦読にわざわざ嬪位ひんいを用意する必要あります?」

 墨娘の声は怒りをはらむようで、不承知を訴えている。その横顔が年相応の幼いわがままを滲ませていることに離瑜は苦笑した。

「そういうんじゃないよ。安心したい、って気持ちは」

「じゃあ、どうすれば安心するんです」

 墨娘が離瑜を見上げる。臆することのない黒い瞳の中に自分が映り込んでいて、青年はゆるやかに笑みをひいてみせる。

「四六時中そばにいてほしいのさ。大丈夫だ、大事ない、つつがなく日々は過ぎている。それを、常に見える場所で確認したい」

「……それは、まったく安心していないのでは」

 何度も確認せずにいられないその心は、安寧からは遠いだろう。

「そう思う?」

「はい」

 ならばそばに師を置くことに意味は無い。満たされることのない不安の渇望に巻き込まれるいわれもないはずだ。そう口にする墨娘をじっと見つめて、やがて青年は口を開いた。

「……変なことを聞くんだけど」

「今更ですね」

「ふふ、そうだね。君ならどうする? このままで大丈夫かな、ほころびはないかな、本当に安心していいのかな。そう思ったときに何をする?」

「……」

 質問の意図を図りかねた。

「状況が何もわからないんですが、その安心のために師匠を留め置くか、という話で合ってますか」

 首をひねりながら尋ねれば青年が是と答える。

「そばにいてほしい?」

「気持ちはいてほしいですが、自分の不安は自分で何とかしたいです。その不安を乗り越えるようつとめます」

「……君、いくつだっけ」

「次の正月で十七です」

 誰かにも最近歳を聞かれたなと思いながら答えれば、なぜか青年は不服そうだった。

「何ですか」

「ものわかり良すぎじゃない?」

「いけませんか」

 理にかなっているのなら非難されるいわれはないはずだが。

「もっとこう、自由闊達であるべきだと思う」

「意味がわかりません」

 本当に意味がわからなかった。確かに師を後宮に連れて行かれるのは嫌だ。だがかといって四六時中自分のお守りをしてほしいなどと願ってもいない。

 師は美しい。巫祝として胸を張って儀礼にのぞむ横顔は凜として、祖霊をおろす姿は触れがたい神性を帯びる。そうして本人はからりと笑いながら当たり前に他者を受け入れ、慈しむ。そのありようをこそまばゆく思っているのに。

「私が師匠の邪魔をしてどうするんです」

「邪魔というか何というか。もっと感情ぶつけてもいいんじゃないの」

「感情ぶつけ合うほどわかり合えてないなんてことはないです」

 師も兄弟子も自分の言葉を聞いてくれる。そうして向き合ってくれる。それを知っているから、感情をぶつけてだだをこねる必要もない。そう口にしてみるが、離瑜は納得しきっていないようだった。何度も首をひねりながら、ちょっと待っててと言ってふらりと道をそれた。その行き先は露店の饅頭屋で、二つ買って戻ってきた。具のない饅頭は小麦の甘い匂いがおいしそうだ。

「はいどうぞ」

「……」

「奢るよ?」

「……頂戴します」

 今更受け取らないのも何となく違う気がして、墨娘は素直に受け取る。二人道の端に立って、まだ蒸籠せいろから出されたばかりのそれを頬張った。確かに小腹が空いている。

「これにさ、羊の肉入れたやつおいしいんだよね」

「……おいしそうですね」

 思わず想像してしまった。

「入れたらいいと思わない?」

「市場で売るには元が取れませんよ」

 肉の分だけ値を上乗せせねばならず、その金額は買い物ついでの庶民には手が出にくいことだろう。

「じゃあ俺が羊屋さんになるしかないか」

「料理、できるんですか」

「やったことない」

「……論外では」

 墨娘の言葉に離瑜が笑う。

「だって、楽しそうじゃん」

 ふわりと向けられた笑顔に何と答えていいかわからず、すっと墨娘は視線をそらした。何かを諦めたひとに見えてしまった。

「楽しく、ないんですか」

「君とこうしてるのは楽しいよ」

「……そういうのはいいです」

「本当なのに」

 青年が視線を巡らせる。昼を過ぎて市場はさらに活気を帯びている。刃物研ぎ、野菜売り、古物売りにくつの修理屋。多くの人間が雑多に入り交じり、交わされる言葉も都言葉ばかりではない。それをまぶしそうに見やって、離瑜は小さくつぶやいた。

「うん、楽しいな」

 再び口にされた言葉に墨娘はわずか眉根を寄せる。

「何が、楽しくないんです」

「……ちょっとうまく説明できないなぁ。ただ、色々なものを手放せたらいいのにと思ってる」

 それは願っている、と聞こえた。墨娘はやはり返す言葉を見つけられなくて、沈黙する。

 空は晴れていて、風は静かだ。露店の食べ物の匂いと商いの声の中にあってどこか静謐な心地がした。饅頭を食みながら隣を見上げれば、秀麗な顔がそこにある。不思議な心地だった。この青年と時を過ごしていることが。

 ──きっと、嫌いではない。

 そう思う。だがやはり、よくわからない。彼に対する感情を持て余しているような気がしてならなかった。思わずため息をこぼしてそうして、娘は口数の減った青年に水を向ける。

「私の何が、不服なんです」

 さっきの話の続きだった。その意を汲んで、離瑜が首をかしげる。指先がくちびるをぬぐった。

「うーん……ものわかりが良すぎることが?」

「あなたに不服にされるいわれはありませんが」

「だって俺に対しては全然ものわかりよくないのに」

 何が違うんだと言わんばかりの口ぶりに墨娘は特大のため息を吐き出した。

「なぜ自分が師匠と同列だなんてうぬぼれられるんです」

「そうやってずけずけ言ってくるから少しは気安い仲かと思うじゃない」

「だってあなた遠慮するだけ無駄でしょう」

 いくら遠ざけようとしたところでぐいぐい内側に入ってくる。実際、入ってきたからこうやって市場で買い食いなぞしているのだ。

「だからって本当に遠慮しないのは珍しいよ」

「そうですか」

「何たって趙家だからね」

「……」

 そうは言われてもあまり実感がない。墨娘は宮中に出入りしているといっても無位無冠の下働きだ。揮曜にくっついて歩いているばかりで、宮中の人間関係にも位階にも疎い。そしてそもそもが太祝令たいしゅくれいを字で呼んでしまうような師なのだ。趙家だとか期門きもんだとか言われても、遠いところの人間なのだということ以上の実感はなかった。

「……正直俺はちょっとほっとしてるけど」

 ぽつりと口にされた言葉に視線を上げる。大抵へらへらと笑っている横顔が遠くを見ていた。その瞳によぎる感情の意味がわからず、墨娘はただ目をすがめる。

「君に最初に会いに行ったときにさ、どう話しかけていいかわからなくてさ。結構緊張した」

「……嘘でしょう?」

 ずけずけと人の心に土足で踏み入ってくる勢いに緊張感などなかったはずだ。

「本当だよ。委水いすいの名前を出していいのか、そもそも太常寺に俺が入って大丈夫なのか、何もわからなかった。結構がんばったんだよ、俺」

 褒めてと言い出しかねない空気に、ふいと墨娘はそっぽを向く。

「……というか、巫祝の見物なら他にいくらでもやりようがあったでしょうに」

 巫祝は宮中にしかいないわけではない。市場に卜占の店を開いているものだっているし、流しの巫医ふいだって巫祝だ。あんなところで自分を待つ理由などないはずだった。

「巫祝じゃなくて、君に会いたかったから」

 その声音に確かに焦がれる色がある。墨娘は静かに嘆息した。

「……私は、何もできませんよ」

 兄弟子が何を言ったのかは知らない。何を望まれているのかもわからない。けれどそれはきっと、叶えてあげられないことだと思った。師の言葉が耳の奥でこだまする。

 ──わたしらがしていることは万民を無条件に救えるようなものじゃない。それは、忘れちゃだめだ。

 心の中でつぶやく。

 ──忘れていません。

 これは人を救うための力ではない。救えることもあるが、救えないことの方が多い。師はそう言った。確かにそうだろうとも思う。

 ──それでも。

 誰かを救えればいいと、思ってはいる。そうすればこの身にも意味があるだろう。だから、この青年を振り払いきれないのだ。

「何もできないなんてことはないよ」

 ずっと言ってる、と静かな声が降ってきて墨娘は意識を戻す。

「またその話ですか。どうしてそうなるんです」

「君は目がいいって聞いた」

 事物の名を見る、と。

「それとあなたの名を呼ぶことに何の関係があるんです」

「証明したい。名に意味なんてない、って」

「……!」

 面を跳ね上げる。

「よりによって私にそれを言うんですか」

「そうだよ。君だからこそだ」

 ひたとこちらを見つめる双眸に茶化す色はない。そのことがどうしようもなく神経を逆なでするようだった。けれど続けてつむがれた言葉の重さに、墨娘は口をつぐむ。

「名家の三男、てさ。価値がないんだよ」

 青年の声は乾いていて、抑揚がない。

「一番目は大切だ。跡取りだから。二番目も、そこそこ価値がある。予備として。でも三番目になるともう価値がない。──俺の名、覚えてる?」

「……」

 無言でうなずく。断じて呼びはしないが、忘れてもいなかった。

 ──かん

 初めて会ったとき、そう名乗ったはずだ。

「はこ。閉じ込めるためのはこ。それが、俺の名」

 墨娘の背中を言い知れぬ何かが這い回る。彼が口にしようとする感情の名前がやはりわからない。ただ、その体の周囲に何かがうごめくような気配があった。ざわざわと不穏がまとわりつく。

「墨娘とは違う。この名に矜持も本質もありはしない」

 張りつめた声音が言葉をつむぐ。

「この名は呪いだ。俺は、そんなものに屈したくない」

 こちらを見る切れ長の瞳。その奥に、星がまたたく。強い意思をはらんで。

「……はこには、何が入っているんですか」

「呪いだよ。家門繁栄のために引き受けた呪いさ。でも、このはこを壊して中身を出してしまえば、残るのは俺自身のはずだろう?」

 だから、と重ねられる言葉。

「俺の名を呼んでよ」

 ぞくりとした。何かが。何かがある。眼前の青年の向こう側に、何かが。緑青が滲む。

 駄目だ、と思った。墨娘は呆然と首を振る。

「……私は、巫祝です。熊揮曜ゆうきようの弟子です。そんな無責任なことはできません」

「だからどうしてそうものわかりがいいんだよ。名によって魂が定められるなんて耐えられない」

 低い声音。かつてない語気の強さだった。

 ──こわい。

 こちらをまっすぐに見つめるその双眸が。ちかちかと星がまたたく。墨娘は逃げるように視線を落とした。心臓の音がうるさい。離瑜の感情が直接肌に突き刺さるような心地がした。

「名が魂の本質を形作るのなら、悪意ある名付けを受けたものは悪意ある魂を入れられるってことだろ。そんなことが許されるわけがない」

「……悪意と決まったわけでは」

 思わず陳腐な言葉がこぼれた。震えそうになる手を握りしめて、ぎゅっと目を閉じる。頭はぐらぐらと煮えるようだ。

「悪意だよ」

 断じる。

「薄明。頼むよ」

 姓も名も生まれた場所も年齢もすべて教える。それで呪うというのなら呪えばいい。

「俺の名を呼んでよ。全部全部、壊してよ」

 どこか悲痛な響きを帯びて青年が言葉をつむぐ。けれど断じて、墨娘は首を縦に振らなかった。




 胸の奥に何かがつかえているようだった。腹の奥に鈍重な何かを抱え込んで、呼吸が苦しい。その正体は後悔だった。

 ──逃げてしまった。

 何度も何度もため息がこぼれて、きゅっと眼の奥が痛くなる。

 思い浮かぶのはこちらを見つめる切れ長の瞳。その奥にまたたく星のような意思。何だかんだで見慣れてしまった、趙家の三男坊。

「……」

 結局あの後、言葉少なに市門のところで別れた。横たわる沈黙は鉛のようだった。彼から言葉を奪ったのは間違いなく自分自身で、おそらく失望させたのだろうと思えば、またため息がこぼれる。願いを叶えられないと突きつけ、彼がぶちまけた感情に向き合うこともせず、逃げるように帰ってきた。いっそ卑怯だと思う。だが。

 ──どうすれば、よかったのだろう。

 言葉を尽くせば良かったのだろうか。それでも名を呼べないと。それだけは無理なのだと。あるいは彼の名に悪意などないと言えば良かったのだろうか。悪意でもって育てた子どもを期門きもんに推挙するはずがない、と。

 今更にそう思ったところで、やはり難しいと無意識に首を振る。あの時点で自分の思考をそこまで言葉にする余裕はなかった。順を追いながら彼を納得させるだけの言葉をつむげたとは思えない。

 深いため息がこぼれる。どうしていいか、わからなかった。

「今日の墨娘ぼくじょうはため息ばかりね」

「何かあった?」

「……どこから説明すればいいか、わかりません」

 今日は祝人しゅくじんたちに混ざって青銅器の手入れをしていた。皆で輪になって時折雑談を交わしながらの仕事だ。祝人には女も多く、どこか場には華やいだ空気があった。布で丁寧に汚れを拭い、傷やほころびがないかを見定める。そうしてその面に刻まれた文様を覚え、名を読む。祭具の扱いの練習でもあった。

「何だっけ。どこかの若様に気に入られたんじゃなかった?」

「え、何がどうして」

師兄しけいが市場で引っかけてきました」

 墨娘の言葉にああ、と口々に声が上がる。

委水いすいはどうしてこう、人に好かれるのかしらね」

「絶妙に悪い人には引っかからないところがね」

「身内自慢が長いから悪い人うんざりしちゃうんじゃない?」

 ささめくような声音が楽しげで、墨娘は少しだけ肩の力を抜く。

「何を言ったのかは知りませんが、見物に来たと言われました」

 やっぱり、と皆が笑う。苦笑交じりにねぎらいの言葉を向けられて、けれど決して居心地は悪くない。皆がかわいがってくれているのを知っている。

 ──ものわかりが良すぎる。

 ふと青年の言葉を思い出した。視線を上げる。天紀宮てんききゅうの一隅、祭具殿。こうして皆で過ごす時間も、墨をする匂いも、修練に臨む緊張感も、すべて自分にとっては大切なものだ。この場所を守りたいと願っている。この場所にありたいと望んでいる。ならば、今の己のありようをことさらに壊す必要などあるはずがない。だから。

 ──壊してよ。

 そんなことを、考えたこともなかった。彼が望むものを想像することもできないのだ。どうしていいか、わからなかった。ため息がこぼれる。

「墨娘、ちょっといいかい」

 遠く、師の声がした。

「はい、ただいま」

 青銅器を他の祝人に預けて立ち上がる。離れたところで大型の祭具を点検する揮曜きようのもとへと歩み寄った。

「何ですか、師匠」

「ちょっとこのへん一緒に見ておくれ。文様がまだ入ってないそんか何かを探してるんだが」

「尊、ですか。大きくないですか」

「正直に言えばていでもいい」

 尊は酒を入れる瓶で、鼎は犠牲を煮るための大鍋。どちらも大きな祭具だ。

「無文は難しいと思いますが……」

 その大きさのものは大抵鋳造の段階で文様が入れられる。

「新しく鋳造する時間は多分ないんだよねえ。まぁとりあえず探してみよう」

 長い指をあごに絡ませながら言って、揮曜はところ狭しと並べられた祭具を検分し始めた。それにならって、墨娘も手近な青銅器に手を伸ばす。龍文と雷文に覆われ、背面には夔龍文きりゅうもん。隙間はなかった。脇へよけて、次。

 そうして、二人祭具を探しながら、揮曜が尋ねた。

「ため息が多いがどうかしたかい」

「……いえ」

 思わず押し黙る。それを聞くために師は自分を呼び寄せたのだと知れた。

「趙郎君と何かあったんだね」

「……そういう顔をしていましたか」

「あんたにそういう顔をさせるのはあの若様くらいだ」

「まるで私があの方に気を許しているような言い方ですよ」

 そんな親しい仲ではないと首を振るが、きょとんと揮曜は首をかしげた。

「許してないのかい?」

「……そのはずです」

 自分に名を呼べなどという人間だ。最大限警戒してしかるべきだと思っている。そのはずだ。

 ──変な人だし。

 言い聞かせるように心中でつぶやいて、思わず胸元に手をやる。彼の悲痛な声を思い出してしまった。

「なるほど。じゃあその気を許していない相手と喧嘩でもしたってところかな」

 おかしそうに笑う横顔は何もかも見透かしているようにも見えて、墨娘は深く息を吐き出した。重い物言いにならぬよう、気をつけながら言葉をつむぐ。

「この間、大市で会ったんです」

「ああ、委水の代わりに行ってもらったっけね」

「はい。なぜかばったり会いまして。というか、あの人師兄の知り合いでしたよ」

 墨娘の言葉に揮曜がまたたく。

「委水の?」

「はい。その前の大市でお酒飲んで戻った日があったじゃないですか。あのときに意気投合して酒を飲んだと趙郎君は言っていましたが」

 兄弟子の人柄を思えば概ね間違っていないだろうと思う。誰とでも親しく付き合えるひとだ。初対面だろうと関係なく、本当に話が弾んだのだろう。

「それであんたのことを知ったと」

「そう言ってました。巫祝を見てみたかったと」

「なるほど。委水の紹介を断るわけだ」

 もう知り合いなのだから改めて紹介してもらう必要はない。

「それで?」

 何があったのかと穏やかな声音が問う。

「……怒らせました」

「墨娘が?」

 そんなことがあるのかと言わんばかりに揮曜は目を見開いて、娘を呼んだ。何がどうして、と尋ねようとして、案じる声を上げる。

「大丈夫だったかい?」

 予想外の本気の調子に墨娘は面食らう。

「ええと、はい。大丈夫です。どうしたんですか師匠」

「……貴族の中にはね、怒りを抑えられない人もいるのさ。あの若様は大丈夫だろうとは思ったがまぁ、怖いよ」

 言われて思い出す。性別で年齢で出自で。あるいは、肩書きで。人を侮り見下すものがいること。そうして、彼らの機嫌を損ねたときに襲い来る理不尽は確かに存在すること。墨娘とて、経験がないわけではない。

「……」

 趙郎君はそうではなかった。人の話こそ聞いていないが、師や兄弟子のように墨娘に接している。それが当たり前ではないと今更に突きつけられる心地だった。

「……知らないうちに押し売りされてたんですね」

 気さくで親しみやすい人柄を。

 墨娘はため息をついた。そうして、話を戻す。

「……もっと自由であれと言われました」

 名を呼べと迫られていると、口にするのはやはりはばかられた。彼がその行為に特別な意味を込めていることは理解している。だが市場で男女が二人で名を呼ぶの呼ばないのと問答をするなど、端から見れば求婚でしかない。全部壊してと、到底甘いやりとりではなかったはずなのに。なのに、二人のやりとりが耳に入ったものは好奇の視線を向けていた。そうではない、と否定することの難しさを墨娘は知っている。その手先で銅鏡を持ち上げながら、何と言葉を選んでいいのか考えあぐねた。

「私が師匠に対してものわかりが良すぎる、と」

 言いながら、違う、と思った。彼の機嫌を損ねたのは名を呼ばないからだ。墨娘に名を呼ばせることで彼は自分の呪縛を放てると信じている。そうして、初めて出会ったときから一貫して名を呼んでほしいと言い続けている。それを確かに突っぱねたはずなのに、突っぱねたのだとも口にできない己がいた。

「……正直、私はもう十分自由だとは思うんですけど」

 自由でないのは彼の方だ。名にとらわれている。名があるから自由ではないのだと思っている。

「あんたは確かにものわかりはいい方だけど、どういう会話運びだいそれは」

「自分の安心のために師匠に後宮に行かないでと言えるか、と聞かれて」

 感情では受け入れがたいが、それでもその安心は自分自身で努力して得なければ意味がない。そのようなことを答えたはずだった。

「わたしがどこに行くって?」

「……仮に、後宮入りが現実味を帯びたとして、です」

「面白い話をしてるねえ……」

 師の声はどこか呆れ調子だった。散々後宮には入らないと繰り返しているのにと言いたげだ。

「その不安は自分で乗り越えるべきものなので、師匠の邪魔はしたくないと答えたら望む答えではなかったようで」

 思えばあそこから何となく方向性が変わっていった。

「まぁ、それは確かにいい子ちゃんの答えだね」

「……違いましたか?」

「あんたが本心でそうあろうとしてるのも、そうつとめようとしてるのも知ってるさ。心乱されることなく常に平らかに、というのはわたしらの基本だしね。ただ同時に、行かないでと泣いたっていいんだよとわたしは思う」

「……矛盾してませんか」

「そりゃ人間だからね」

 揮曜はけろりと言ってのける。

「ちゃんと見るんだよ。墨娘」

 いつもの言葉。それが何を、とは決して教えてくれない。ただ自分で見、考えろと師は言う。

「……謝るべきでしょうか」

「あんたがしたいようにすればいい。人間関係に正解はないさ」

 師の言葉が突き刺さる。自分が悪いと思っているのか、あるいは取り繕うのか。あの青年とどう向き合うかは結局、墨娘次第だ。

「……私は、悪いと思いません。私にできないことはたくさんあります」

 だが、あれは彼が初めて吐露した感情だった。それはわかる。ただ不躾に名を呼べと軽薄な下心を滲ませていたのが、あの瞬間だけは切実な色を帯びていた。自分の想像の及ばぬ何かを抱えながら、墨娘に名を呼べと願ったのだろう。そこまで理解してなお。

「……できません」

「そうか」

 墨娘はただ手の中の銅鏡に視線を落とした。この間夔龍を封じた銅鏡だ。丁寧に磨き上げられ、封じられた龍が浮き出るさまは美しかった。

「で、その若様は?」

巡狩じゅんしゅの下準備だそうです。漉州ろくしゅう屠龍之淵とりゅうのえんへ行くと」

 それがどれほどの距離にあるのか、墨娘は知らない。ただあの口ぶりからするに近場ではないのだろうと思った。

「屠龍之淵、か」

「ご存じですか?」

「まぁ一応。その名のまんまさ。龍を食らう淵。かつてそこで河神かしんへの犠牲に龍の首を落としたそうだ」

 墨娘が瞠目する。

「龍の首を?」

「本当かは知らないよ。夔龍の可能性もある。あれなら低級だ。ただ、それ以来龍はその淵を避ける。河神に食われぬように」

「では犠牲は何を使うんでしょう。水牛で龍の代わりになりますか?」

 天子が自ら行う祭祀だ。太常寺たいじょうじ全体の仕事になるだろう。その下準備は近々始まるはずだった。

「そこが気になるか。熱心だね。さて、どうしたんだったかな。龍文鏡を使うんだったか、龍に擬して別の何かを使うんだったか。巡狩の下準備なら誰か同行するだろ。現場見て判断するんじゃないか」

「龍……」

 その言葉を聞きながら墨娘はもう一度手元に視線を落とした。夔龍を封じた銅鏡。人の腕ほどの大きさしかなかったが、確かな異形だった。ここにある祭具には同じように封じられた異形が混ざっている。ゆえに本物の龍文鏡なら龍の首として機能する、ということだろう。

 ──龍、見たことある?

 そんなことを問われた。見たことがあるどころか捕らえたのだと言えば、ずいぶん感心したような声を上げていた。墨娘の指先が夔龍の輪郭をなぞって、そうしてあの日見いだした名を無意識につぶやく。

「……鱗乙りんいつ

 その瞬間、ざわりと空気が震えた。雷の予兆のように。瞠目する墨娘の耳に師の鋭い声が飛ぶ。

「墨娘!」

「……!」

 はじかれたように面を上げるや、揮曜が鏡を奪い取る。そのまま手のひら全体で夔龍の顔を塞いで、そうして口の中で手早く祝文しゅくぶんをつむいだ。

「──」

 揮曜の指先がかすかあおく光って、やがて静寂が落ちる。深く息を吐き出した師が鏡を置いた。墨娘は身を固くしていた。何が起きたのか、理解する。

「……すみません。師匠」

「いや、いい。封じられたものの名を呼んじゃだめだ。あんたの力で解放しちまう」

 くちびるを噛みしめた。同時に、思い知る。名を呼ぶことがどういう意味を持つのか。

「……人の名も同じですか」

「呼ばないに越したことはないね」

 わたしたちは巫祝だからと平坦な声。墨娘は浅くうなずいた。そうして、視線が泳ぐ。師に問わねばと思いながら、何をどう問えばいいのかわからない。

「……師匠は、太祝令の名を、ご存じですか」

天阿てんあの?」

 長い沈黙の先につむがれた言葉に揮曜が素っ頓狂な声を上げた。思ってもみないことを聞かれた困惑が滲んでいると承知で、墨娘はうなずく。他に思い浮かぶ人物がいなかった。委水は家族だ。名を知っていて当然だし、仮に呼んでしまったとてある程度笑って済ませられる。だが家の外の人間はそうはいかない。たとえ親しいとしても引くべき線があるはずだった。

「まぁ知ってるけど」

「呼んだことは……?」

「あー……あるね」

 揮曜は少し苦い顔をする。

「名を呼んで、どうなりましたか」

 巫祝が人の名を口にした先を知りたかった。だが、ゆるりと揮曜は首を振る。

「わたしのときはのっぴきならない状態でね。名を呼ぶ以外の手段がなかった。参考にはならないよ」

「……」

 墨娘は口をつぐむ。師が踏み込むなと言うのは珍しかった。逆に、本当に問うてはいけないということだ。

「名が、どうした」

 すいとぬばたまの瞳に見つめられ、墨娘は視線を落とした。頭の中で言葉を探しながら、あの秀麗な顔がまぶたの裏をよぎる。名を呼んでと臆面もなく望む男の顔が。その双眸の奥で、星がまたたく。

 ──俺の名を呼んでよ。

 そうして、うつわを壊してとつむぐ声。

「……私を、薄明と呼ぶんです。墨娘は嫌だと言って」

「嫌?」

「私の魂が墨なのはおかしい、と」

「それで薄明?」

 浅くうなずく。視線を上げられない。そうして。

「あの若様がそんなこと言ったのかい。それはまたずいぶんと熱心なことだねえ!」

 揮曜の笑い声が響いた。思わず膝をたたいて、心の底から楽しそうだ。それは決して揶揄する調子ではない。いい人ができてよかったねなどと茶化すつもりもないだろう。ただ単純に、趙郎君を面白がっているだけだと理解している。

 けれど。

 ──言えない。

 名を呼んでほしいと願われているなど。

 それが求婚の文脈ではないことは墨娘にもわかっている。だが、ならば何なのかがわからない。確証もない。わからないままに誰かに相談するのは、ひどく難しかった。自分はもう、彼の名を知っている。そうしてこの心は、彼の悲痛な声を聞いてしまった。

「……」

「墨娘?」

 腹の奥で何かがぐるぐると渦巻いている。聞かねばならないことと、聞けぬことがぶつかり合う。それでも何とか声を張り上げる。

「師匠は、太祝令の名を知り字を呼ぶほどの仲で、その、結婚とか、しないんですか」

 名を呼ぶというのは、そういうことではないのか。互いの魂を、預けることではないのか。人の名を呼ぶということ。その先にあるもの。師は、あの男の何を壊したのだろう。

「天阿とわたしが?」

 揮曜がまたたく。そして、笑った。ないね、と。

「あれは夫にするには最高につまらないやつだよ。友人としてはいいんだけどね」

「……」

 こなれたその物言いがどうしようもなく大人で、墨娘はにわかに羞恥心めいた何かがこみ上げてくるのを感じる。自分は師に何を問おうとしたのか。彼女の境遇に自分を重ねて何を得ようとしたのか。そうして、名を呼んだ先に何を望もうとしているのか。

「趙郎君が、何か言ったかい」

 ぎゅっと拳を握った。

 自分は巫祝だ。師ほどの力を持たぬとはいえど常人とは違う領域にいる。自分に名や生まれや歳を教えることは魂を渡すも同然なのだと言ってもあの青年は納得しない。それどころかそうと知ってなお、その魂をこちらに明け渡そうとする。名を呼べと、繰り返す。

 ──わからない。

 彼が何を望んでいるのか。

 これは呪いだとたたきつけられた感情を、持て余している。

「墨娘」

「……私を、薄明と呼ぶ理由が、わからないんです」

 か細い声が、本心と違う言葉をつむぐ。

「名は魂を形作るもの。なら、悪意ある名付けを受けたものは悪意の魂になるのかと、言われました」

 自分は答える言葉を見つけられなかった。名は確かに魂の本質で、端的にその輪郭をなぞるものだ。だが、名によって魂の形が決まるわけでもないと思う。その言葉の矛盾を、説明できない。娘が持て余すもどかしさを受け止めて、師はやさしく笑った。

「だからあんたの魂を墨でなく夜明けと見る、か。それは賛辞だよ墨娘」

「過剰に過ぎます」

「そういうたちなんだろうさ。それか、委水からあんたの話を聞いていたんだろ?」

 委水のことだ。手放しに妹弟子のことを褒めちぎったに違いない。ならば墨よりも夜明けこそが本質と感じても不思議はないのではないか。師はそう言った。

「……」

「納得しないかい?」

「……墨娘は、私にとって嫌な名ではありません。むしろ誇るべき名です。それを、勝手に否定して好き勝手に呼ばれるのは承服しかねます」

 墨娘は自分の手を見る。こびりついた墨のせいで指先が薄墨色に染まりつつある。げきに女はほとんどいないから、祝人の一人に女の子なのにと言われた。せっかくの手が、と。きっと人には汚いものに見えるのだろう。けれど、この墨は自分の矜持だった。師を助け、いつか誰かを救えるかもしれない力。ゆえに墨娘。

「薄明、なんてくさい名前で取り入ろうとしているのが見え見えなんですよ」

 薄明になれ、だなんて。口説き文句以外の何物でもない。

「辛辣だね」

 珍しい、と言って揮曜が眼を細める。墨娘が感情を揺らすのは本当に珍しい。

「勝手に名をつけて知ったようなことを言って、引っかき回すのやめてほしいです」

 自由であれだとかいい子すぎるだとか。

「全部、自分のことじゃないですか」

 それは彼自身の願いであって、墨娘の願いではない。勝手に人に自分を託した挙げ句に。

 ──名に意味なんてない。

 墨娘の指が銅鏡を撫でる。名によって封じ、名によって解放しかけた異形。名には意味がある。それを自分は誰よりも知っている。なのに名を呼べ、などと。

「……自分勝手が過ぎます」

「なら、そう言えばいい」

 涼やかな声が笑い含みで言った。墨娘は面を上げる。美しい顔が笑んでいた。

「せっかくだ。がつんと一発くれてやりな」

「……そんなこと言っていいんですか」

「だって若様はいい子の墨娘は嫌なんだろう?」

「……」

 揮曜は手を伸ばして娘の頬に触れる。

「わたしはあんたじゃないし、若様は天阿じゃない。それでも、そういう心のうちを真正面からぶつけて見えるものもあるさ」

 その言葉に確かに滲む何かに、墨娘はやがてうなずいた。




 外廷に来るのは久しぶりだった。太常寺たいじょうじは内廷の最奥、後宮の手前にある。墨娘ぼくじょうが外廷を行き来をすることはほとんどない。ごくまれに揮曜きようの供をすることはあるが、それも委水いすいを伴うことの方が多かった。太常寺や後宮と違ってこのあたりに女官の姿はなく、何となく居心地が悪い。

「本当に私が行っていいんでしょうか」

「構わないさ。話はつけてある」

 どこか萎縮する気持ちの墨娘とは裏腹に、常と変わらぬ飄々とした足取りで揮曜は歩く。

「でも……」

 踏ん切りのつかぬ墨娘へ頭上からからりとした声。

「揮曜の子なのに遠慮を知っていてえらいな」

「どういう意味だい天阿てんあ。委水だって遠慮はできるよ」

「自分を勘定に入れる気がないのかお前は……」

 太祝令たいしゅくれいだった。

 どういうやりとりがあったのかはわからないが、揮曜が当たり前に連れてきたのだ。期門きもんに確認することがあるから一緒に来るようにと言われ、お膳立てしてくれたらしかった。わざわざ太祝令まで駆り出して他の官署へ赴くのがどうにも申し訳ない心地がして、墨娘の足取りは重い。

「まぁ、あいつほど気楽に行けとは言わないが、期門に用事があるのは本当だよ。揮曜がいた方がいいのも。だから君は君のつとめとして同道している」

「……はい」

 気負うなと言ってくれる心遣いが嬉しかった。

「それで、屠龍之淵とりゅうのえんの犠牲だったか。確認するのは」

「ああ。龍文鏡でいけると踏んではいるが一応ね。この間頼んだやつ、準備できそうかい」

「大きさがな……。そこまで大きいものはそうそうないぞ」

 もう少し待ってくれと交わす言葉は来年の巡狩にまつわるものだろう。

「本当に必要か?」

「もし万が一、屠龍之淵まで送り込んだのに無傷だった場合、相当面倒だ」

「まったく、ずいぶんな無茶を通したんだぞ」

「感謝してるよ。だが、その先の最悪がまだ残ってる」

 揮曜の声が固い。

「……」

 天阿が深いため息をついた。

「わかった。急ぐ」

「頼む」

 二人のやりとりを墨娘は黙して見つめていた。互いの名を知る二人。確かにその間に存在する信頼があって、それは男女の仲とは違うもののようだった。

 ──男女の仲を知るわけじゃないけれど。

 ふっと自虐的な気持ちになる。それを振り払うように墨娘は何度か首を振った。

 鮮やかな丹塗りの柱と欄干の続く外回廊、その先が期門だった。官署の中に詰め所があって、趙郎君ちょうろうくんを含む一行が数日前に帰還したらしい。官署に近づくにつれ、緊張が高まる。

「……何を、言えば」

 思わずつぶやく。墨娘の指が無意識に腰に帯びた墨壺に触れた。

「今更怖じ気づいたかい?」

「少し」

 すると素直でよろしいと言ってからからと師が笑った。

 趙郎君と喧嘩をしてこい、と揮曜は言った。思ったことを言ってしまえと。そんなことが許されるのかと目を丸くする墨娘に、ぬばたまの瞳はやはり笑った。

 ──許さない人だったらそれまでさ。

 そのまま墨娘を薄明と呼ぶ名家の子息は現れなくなる。

 それならそれでいい、と思った。彼を心から嫌っているかといえば答えはきっと否なのだろう。それはわかっている。少なからず心乱されるということは、関心があるということなのだから。だがかといって彼が望む薄明にはきっとなれない。そこで折り合えればまたなにがしかの関係が続くだろうし、駄目ならおしまいにするまでだ。その決別を惜しむよりも、話がはっきりしていいと思う気持ちが勝ってしまった。自分にも譲れないものがある。その譲れない理由を話した上で決別するのなら、それはもう仕方がないだろう。

 ──これも、いい子ですか。

 ふと問うてみたくなった。現状を受け入れることを、彼は不自由と断じるだろうか。

 そうして、期門。簡易な演練が可能な前庭を備え、体格の良い男たちが行き交っている。皆が皆鎧を身につけて剣を佩き、あるいはげきを携えてきりりとした緊張に満ちていた。

 ──こんなところにいるのか。

 不思議な心持ちがする。こんな張りつめた空気をあの青年から感じたことはなかった。

「さて、王僕射おうぼくやはどこかね」

 顔の記憶があやふやだとしれっと口にする師だ。呆れ口調でどうするんですかと尋ねようとして、気がついた。演練場に降りるきざはしの下、長物を欄干に立てかけて一息をついているらしい背中。

「師匠。すみません」

 言葉だけを残して、いらえを待たず踏み出す。龍の浮き彫りが施された大柱を回り込んで階を降りて、その顔を確認するより先に声を上げる。

「趙郎君……離瑜りゆさま」

 突然字を呼ばれ、趙郎君はまたたいた。

薄明はくめい……?」

「墨娘です」

 即座に訂正を入れて、墨娘は青年の前に立つ。見上げる面はやはり整っていて、切れ長の瞳が何度もまたたいていた。

「え、どうして期門にいるの」

「師匠のお供で来ました。姿が見えたのでご挨拶をと」

 丁寧な拱手の礼をとる。

「無事のご帰還、お喜び申し上げます」

「あ、うん、ありがと。……え、どうしたの」

 声に困惑は滲んでいるが、嫌悪はない。そのことに無性に安堵を覚えて、墨娘は深く嘆息した。

「今、お忙しいですか」

「全然」

「それはそれでどうなんです」

 仕事中のはずだが。

 だが青年はいいのいいのと笑うばかりだ。いつもの趙郎君だった。

「この間の続きの話を、少しだけさせてもらえないかと」

「この間の、話」

「はい」

 反芻する。

 ──悪意ある名付けを受けたものは悪意ある魂を入れられるのか。

 きっと、そうではない。

「こういうときに自分の話から始めるのもどうかとは思うんですが、ええと、不幸自慢というわけではなく……」

 どうしても歯切れが悪くなってしまう。それでも口を挟むことなく聞いているということは、受け取ろうとしてくれているはずだ。そう己に言い聞かせ、大きく呼吸をして、続ける。

「私の名は、師匠がつけてくれたものです」

 呼び名としての墨娘も、秘すべき魂の名も。

「私は、拾い子なので本当の名を知らないんです。そのときどきの呼び名しか覚えていません」

 たどたどしく言葉をつむぎながら、墨娘が指先を擦り合わせる。その指は灰色だった。

「子どもを手放すような親です。望まれなかったのかもしれない。名に悪意があったかもしれない。でもそれも覚えていません。だから、本来の私の魂のかたちは、わからないんです。きっと、二度と」

 よく考えれば、それをかなしいだとか悔しいだとか、思ったことはなかった。そこに執着も感情も乗らないのだ。ただの事実でしかない。

 墨娘は深く息を吐き出した。そうして、面を上げて青年を見る。深い色の双眸が、臆することなく。

「なら、もう仕方ないじゃないですか」

「……!」

 いっそ力強いその響きに、趙郎君は息をのんだ。

「わからないものはわからないんですよ。うつわの形がわからないなら、中身を少しでもまっとうに何とかするだけです」

 魂の名など知らない。大人に買われ、雑役に追われ、魂のかたちなど意識することもなく終えるはずだった命だ。それを拾ってくれたのが師で、この魂にかたちをくれた。この力を見出し、必要としてくれた。そうしてつけてくれた名がある。ならばもはや本来の名などどうでもいいのだ。墨娘、と。そう呼ばれるのなら自分は。

「この呼び名に恥じぬ己でありたいです」

 目に見えぬものを見、墨でもって名をとらえる。ゆえに墨娘。必ずしも誰かを救える力ではない。けれどいつか誰かを救えるかも知れない。そんな呼び名。それが、自分だ。

「……」

 墨娘の言葉に青年はいらえを見つけられないようだった。ただ目を見開いて、墨娘を見つめている。それは時折星がまたたく目だった。

 名に意味などないと証明したい。趙郎君はそう言った。だがきっと少し違うのだろう。自分の名の意味を問いたいのだ。

「中身があるから名が輪郭になるんです。だから、うつわを壊してもきっと、変わらないです」

 ゆえに、自分は名を呼ばない。呼べない。きっと本当に、うつわを壊してしまう。

 ──これで、伝わるだろうか。

 言葉は届いただろうか。

 指先が墨壺に触れる。祈るような気持ちで視線を上げれば、青年が呆然とこちらを見つめていた。そのくちびるがゆっくり言葉をつむぐ。

「……君は、すごいね」

 感情の抜け落ちたような声はむしろ純粋な賛辞に聞こえた。

「じゃあ、君から見て俺はどう見える? 俺の中身は、何が入ってる?」

 わずか細められる黒い瞳。その、向こう側。するりと言葉があふれる。

「星が、見えます」

 その正体が何か、墨娘にはわからない。けれど時折、確かに何かがまたたいている。その光がどうしようもなく慕わしく思われて、自分はきっとこの人を振り払えないのだ。そう思えるほどの、光。まぶしそうに眼を細めて、そしてふっと視線を落とす。

「……すみません。余計なことを言いました」

 自分の感情も言葉も、余分だった。すると頭上でふは、と笑い声がはじける。

「薄明も人のこと、言えないじゃないか」

 星が見える、だなんて。

「墨娘です」

 いつもの言葉を返しながら、娘は無意識に安堵の息をこぼす。そうして、自嘲した。結局、望んでいた気がする。この青年との関係が続くようにと。話が合うわけではない。人の話も聞いていない。それでも、言葉を交わす時間はどうしてか心地よかった。おかしなことだと思う。

「……変な人」

 ふと墨娘はまなじりをゆるめた。

「それで、卜師長は何で期門に?」

 いつもの声音で趙郎君が尋ねる。その視線は墨娘の向こう側、たたずむ揮曜と天阿を見ていた。

「屠龍之淵について聞きたいそうです」

 墨娘もまた常と同じ調子に戻って答える。

「ああ、あそこ」

「いかがでしたか」

「変なところだったよ。このへんがぎちぎち軋む気がして、すごく落ち着かなかった。何とか寝込むようなことにはならなかったけど」

 趙郎君の手が自らの胸元を撫でる。

「龍を食らうところ、と聞きました。過去に犠牲に龍の首を落としたから、龍はその淵を嫌がると」

 墨娘の言葉に、龍、と趙郎君がつぶやいた。

「その話に従うのなら、巡狩で龍の首を捧げないといけないんですが龍の首は手に入れるのが難しいので。別の犠牲か、あるいは龍文鏡で代用できるのかどうかを検討しなければいけないそうです」

 ふと違和感を覚える。その内容をなぜ、期門に確認するのだろう。儀礼の一切を取り仕切るのは太常寺で、そもそも期門は宮中警護の官署だ。巡狩に同行するはずもない。墨娘の疑念を趙郎君の声が塗り潰す。

「なるほどね。龍の首、か」

 ふと声音が変わった気がして、墨娘は視線を上げる。言い知れぬ焦燥を覚えた。

「趙郎君?」

「ねえ、薄明」

 こちらを見ない。その視線はまっすぐに揮曜を見つめている。

「ごめんね」

「……何がです」

 嫌な予感がした。首の後ろがちりちりする。墨娘は墨壺の蓋に手を掛けた。

「やっぱり、俺はこのはこを壊さないとだめだ。君の言葉は素敵だなと思ったけれど、でも」

「でも、何です。はこに執着して中身を腐らせるつもりですか」

「はは、辛辣。でもそうだね。そうかもしれない。俺の中身は腐ってるのかもしれない。だから、屠龍之淵なんてところに送り込まれたんだろう」

 青年がまっすぐに揮曜をねめつけている。それは怒りのような、憎悪のような。見たことのない色に墨娘はただ言葉を失う。そうして、ゆるりと青年が墨娘を見た。その眼の奥に、緑青。

「名を呼んでよ。そうしたら、揮曜の後宮入りを全力で阻止してあげる」

 かつて口にしたことのない言葉だった。墨娘の体に緊張が走る。

「……断ったら?」

「何が何でも揮曜を後宮に入れる。俺、これでも趙家の人間なんだ」

「……」

 その言葉がどの程度現実的なものなのか、墨娘にはわからない。ただ青年が本気だということだけがわかる。そらされることのない双眸の奥には星がまたたいて、そうして緑青が滲んでいた。

「はこを壊して、あなたは本当に自由になるんですか」

「そのつもり。みすみす犠牲にはならない」

「今のあなたを、私は否定するつもりはありませんが」

「ありがとう。でも、ものわかりがいいのは嫌なんだ。頼むよ薄明。俺の夜を、払ってくれ」

 青年のくちびるが笑みをひく。墨娘の手が静かに墨壺の蓋を開ける。指を浸しながら、心は凪いでいた。

 ──こうなるような気はしていた。

 だって、自分の言葉ごときで諦める人ならあんなにも鮮やかに星はまたたかないはずだ。あれは彼の意思の光。ありようを勝手に決めるなと抗う心。なれど。

「私は、墨娘です。忘れないでください」

 彼がはこを壊すことを望むのなら、自分は墨娘としてそれに対峙しなければならない。きっとそれが、自分の責任のはずだ。

 墨の面がささめく。ゆらりと切っ先を持ち上げるように黒が溢れて、墨娘の回りを漂った。趙郎君が娘を呼ぶ。薄明、と。

「私はあなたの薄明にはなれません。──趙函ちょうかんさま」

 空気が鳴動する。声は、届いただろうか。

 はこが、壊れる。




 獣じみた咆哮。何かが歓喜の声を上げ、あおい光が眼を焼く。そうして、墨娘の眼前には異形があった。期門の前庭、昼下がり。日の光の下にそれはいる。

「……蟠螭ばんち

 それは群体の龍だった。数えきれぬ数の龍が常にからみあい、流動する。頭が、尾が、胴が、めまぐるしく交錯する。青光りする鱗はでろりとした質感で、かすか軋みながらうごめいていた。一匹一匹が墨娘の身長ほどの長さを持つ龍の群れ。始まりも終わりもなく、からみあう。その奥へと趙郎君の体が声もなく飲み込まれていった。

「──」

 そうして、無数の龍が鎌首をもたげて吼える。濁った音はどこか不快で、金属質だった。

「趙郎君……」

 息ができない。立ちはだかる異形の圧が想像以上だった。うねり、からみ、時折蛇のような音がある。視線をそらせない。こんな生き物がいるのかと思考が圧倒される。

 龍の首が伸びる。そこで呆然と立ち尽くす期門の武官へ。緩慢な動きはけれど、明確な殺意をはらむ。しまったと墨娘が認識するより早く、鈴の音が響き渡った。ぼとりと龍の首が落ちる。それはしゅうしゅうと音を立てながら緑青色に滲んで融けていった。

墨娘ぼくじょう!」

 その声が師のものだと認識するのと、眼前に優美な女が駆け込んでくるのが同時。

「師匠……!」

天阿てんあ! 委水いすいとうつわを! 動ける巫祝を全員だ! 急げ!」

「わかってる!」

 張り上げた揮曜の声に即答して、天阿が身を翻す。何事かと集まる人をかき分けて、天紀宮へと駆けて行った。

「さァて、どうしたもんかね」

 師が低くつぶやく。

「……ごめんなさい師匠」

「違う。よく、見るんだ。若様を見失うな」

 ぱん、と師の手が墨娘の背をたたく。

「蟠螭は、厄介だ。だからこそ、平らかであれ」

「──はい」

 深く息を吸い込んで、吐き出す。ぎゅっと目を閉じて、そうしてまっすぐに異形を見据えた。

「いい子だ」

 低く言って、揮曜は腰の佩玉に手を伸ばす。薄い玉を重ねたそれを小さく振れば、場違いなほど涼やかな音が響いた。場の空気を入れ換えていく。

「あれは人を食う。だから若様から引き剥がして封じる。それ以外は全部後回しだ」

 二人の視線は眼前の異形をとらえて離さない。趙郎君だったものはどんどんその体を膨張させ、うごめきながら数えきれぬ龍を纏ってそこにある。

 何なんだ、と声が上がった。異変に凍り付いていた期門の武官たちに動揺が走る。一体何がと口々に問いながら、それでも武器を抜こうとするのはさすがといおうか。だが。

「危ないので、離れてください」

 黒が空を駆けた。墨娘の墨がぴっと地面に線を引いて、武官たちをその向こう側へと押しやる。墨はしなやかな布のようだった。

「その線を越えたら、可能な限りの鉄でもって討ってください。でもそれまでは預けていただけると助かります」

 声は震えなかった。腹から声を出したおかげだろうか。背筋が伸びる心地がする。墨壺から墨が溢れ続ける。とぐろを巻きながら空中に滲み出し、墨娘の言葉を待つように滞空する。

「あれは、熊卜師長……?」

「さっき太祝令が走って行ったぞ」

「ならこれは」

 状況整理をしようと声を上げながら、武官たちは静かに距離をとっていった。太常寺の管轄に手を出すべきではないと知っているのだろう。同時に誰かが鉄器を、と叫んでいるのが聞こえた。

「大丈夫、みんなそこまで馬鹿じゃない。これが初めてってわけでもないしね」

 揮曜の声は平坦だった。その視線は趙郎君をじっと見つめている。

「知ってたかい、墨娘」

 彼の中に異形がいることを。当たり前にそうつむぐ師に、墨娘はやはりと思った。揮曜は知っていたのだ。

「……はい。ずっと私に名を呼べと、うつわを壊せと言っていました」

「それで、どうするつもりだった」

「名を、とらえます。趙郎君がうつわということは、中身にも名があるはずです」

 自分は墨娘だ。それ以外にできることなどない。

「無理だったら?」

 佩玉の音と墨娘の墨が外界を隔てていく。眼前の異形と巫祝が二人。場にはそれだけだ。

「全力を尽くします。至らぬ時は助けてください」

 しっかりとした声音に揮曜がため息をつく。

「何でもできるわけじゃないと言ってるだろう」

「でも、師匠です。何とかできないわけがないです」

「……まったく、あんたも委水も。本当よく似てる」

 言って、女は笑った。どこか嬉しそうに。そして表情を入れ替える。

「先に最悪の話をしとくよ。名をとらえられなかったら蟠螭はわたしの体におろす。お前が体ごと墨と名で封じるんだ。いいね?」

 揮曜はだ。趙郎君の体に戻すよりもその方が確実にとらえられる。浅くうなずいた墨娘を師が呼んだ。視線を向ければ、こちらの眼をまっすぐに見ながら言葉をつむぐ。

「そのまま首を落とせ」

「……!」

 息をのんだ。

「師、匠……」

「わたしは巫だ。これが用意できる最後の手だよ。よく覚えておいで」

 最悪の中の最悪の話だと理解している。けれど、それだけの覚悟を自分は今この場で決めなければならないのだと突きつけられる心地だった。それだけのことが起きているのだと今更に腹の奥が冷えていく。それでも。

 ──私は、墨娘だ。

 胸を張って、立っていたかった。

「……わかりました」

 かろうじて墨娘はうなずく。うなずいてみせる。

「よし、いい子だ」

 揮曜の手が断続的に佩玉を鳴らす。鳴らし続ける。その音に阻まれて蟠螭はその場に留まったままだった。すでに大きさは人の背丈の倍以上になり、表現しがたい音を纏いながら渦を巻いている。縦に横に、不定形にうごめく群体。周囲の空気がかすか青みを帯びていた。

「天阿と委水が来る。それまで足止めを。あまり見つめるな。飲まれるよ」

「はい師匠」

 ざわりと全身が逆立つような感覚があって、墨娘の周囲の墨が回転し始める。そうして。

「──」

 一斉に蟠螭へと襲いかかった。墨が群体の尾や頭の先をとらえては黒く染め、からめとろうとする。だが、うごめく龍の全貌をとらえるには至らない。絶えず流動する異形に振り払われ、蹴散らされる。千々に乱れた墨がぱっと空に舞い、地に落ちるより先にまた浮かび上がって墨娘のもとに戻った。

「合わせられるかい」

「やります」

 揮曜が佩玉を鳴らしながらくちびるを開いた。

そう地祇ちぎに乞う──」

 祝文しゅくぶんだ。その身に神霊をおろすことなく、言葉によってその助力を得る。揮曜の言葉が高く響いて、その衣の袖が翻る。それははたのように。風もないのに空気をはらむ袖に墨娘は墨を向ける。確かにそこにある何かに触れた瞬間、黒が爆ぜた。一気に膨張して質量を増し、蟠螭へ向かう。鎌首をもたげた龍の頭に次々に触れては押さえ込み、黒でもって覆い被さる。幾重にも獣の咆哮が重なった。けれど。

「……!」

 ぱん、と乾いた音とともに揮曜が膝をついた。

「師匠!」

 駆け寄る。同時に墨を蟠螭の周囲へ放って囲い込む。うごめく群体はぎちぎちと不穏な音を立てていた。

「はじかれたねえ。趙家が何代にもわたって祓えなかったやつだ。そりゃあ手強いか」

 自分に言い聞かせる調子で揮曜が笑う。その体を支えながら墨娘は静かに尋ねた。

「なぜ、趙郎君に」

「人に封じるのが一番強固だからだ。人はそうそう壊れない」

「うつわと中身は同じですか」

「同じじゃないと思って剥がそうとしてるところさ」

 蟠螭は異形だ。言葉を持つことはなく、人の理に従うこともない。純粋に敵対する力だった。

「なら、締め上げて大丈夫ですね」

 墨を太い帯のように練り上げ、上から一気に振り下ろした。個々の首ではなく、全体を拘束する。一気に締め上げた。そこに躊躇いはない。どこか八つ当たりめいた感情があることに墨娘自身は気づいていなかった。

 蟠螭が首を振る。顎門あぎとを開いて墨を食いちぎり、そして閃光が走った。

「──」

 腹の奥を貫く衝撃に胃液がこみ上げる。膝が崩れる。その体を今度は揮曜が支えた。

「もう一度だ。どうせわたしとあんたじゃ手数が足りない。仕留めなくていい」

 大丈夫だとつぶやく師の表情に余裕はない。脳裏に最悪の話がよぎるのを首を振って押しのけ、墨娘は大きく声を上げた。

「はい、師匠」

 すぅ、と息を吸う。墨の密度を上げる。夔龍きりゅうをとらえたときのように押さえ込むことだけを考える。

じょうに奏す。地祇の来たりくだるを祝し、天神に乞う──」

 逆巻く風に揮曜の髪が舞い上がってかんざしが重なり合って音を奏でた。佩玉の玲瓏の音がこだまする。揮曜の踵が地を打つ。そうして一拍の間を置いて次の瞬間、墨娘の墨が矢のように降り注いだ。蟠螭を構成する龍たちに次々に突き刺さり、はじけ、その身を黒に染める。滲んだ黒が異形を押さえ込もうとするが、ずろりと動く鱗が動く。墨が滑って行き場を失う。そして、数多の首が墨娘を見た。

「見るな!」

 揮曜の鋭い声が飛ぶ。咄嗟に視線を落とし、同時に墨を広げて龍の眼前へ。その視線を遮る。蟠螭の吼える声が高く響いた。また、衝撃。腹の裏側、内臓の一番の奥に手を突っ込まれるような不快感に叫び出したくなる。かつてない感覚だった。だが同時に、高揚する己を知覚する。

「はは、は」

 声がこぼれた。

「墨娘」

 案じる師の声が遠い。

 両目を見開けば、眼前の龍は緑青色をしていた。やはり、笑いがこみ上げる。自分の感情の名前がわからない。怒りのような悔しさのような確かな激情。

 ──これが、はこの中身。

 墨娘にも揮曜にも明確な殺意を向ける異形。手放すと言ったはずのもの。その先に自分があるとうそぶいたあの日を思い出す。あの眼の中にまたたいた星を。──それを美しいと思った、己を。

 衝動的に叫んだ。

「ばかじゃないですか!」

 異形は咆哮でもって応じる。びりびりと空気を震わせて、上から押さえつけられるような圧があった。息ができない。けれど目をそらすことなく、墨娘はただ異形を見つめた。ざわりと墨がその意を受けて渦巻く。

「そもそもの順番がおかしいんですよ! 内容も距離感も全部全部! 挙げ句にこの無責任なありさまは何ですか!」

 墨が名をとらえ、つむぐ。

趙函ちょうかん!」

 次の瞬間、跳ね飛ばされた。墨娘、と揮曜が叫ぶ。ずざ、と地面に引き倒されて墨が地に落ちる。それでもまだ残っている墨を集めて、もう一度。龍の首の隙間へ墨をねじ込む。その奥にいるはずの青年をとらえようとする。

 何をしているのか。こんなわけのわからないものを解き放って、大暴れをして。そんなことのために人に名を呼べと迫っていたのか。悪意ある名付けに悪意で返すつもりなのか。

 ──ふざけるな。

 感情が揺さぶられる。それでも名を呼んだのは己だという事実を忘れたわけではない。だだをこねる子どものようだ、と自分で思う。けれど止まらない。名を呼ぶ。腹いせのように。

「趙函!」

 名がほとばしるのと同時に、ばん、と見えない何かに真上から地面にたたきつけられる。肺が潰れて悲鳴にもならぬ呼気がへしゃげる。それでも声を張り上げようとするのへ、声が響いた。

 ──俺の名を呼ぶな。

 それは確かに墨娘の知る青年の声で、聞いたことがないほど冷たくこわばっていた。ふつふつとこみ上げる何かがあった。

「今更何を言ってるんですか。こんな事態引き起こしておいてえらそうにしないでください」

 どう収拾を付けるつもりなのか。

 交わした言葉が脳裏をよぎっていく。下心のあるなつっこさだとわかっていて振り払えぬ慕わしさを覚えている。気安い友人のようなやりとりを、羊屋になりたいなどと口にした横顔を、勝手につけた名を。

 ──薄明。

「……夜を払った結果がこれだとでも言うつもりですか」

 これは怒りだ、と思った。一方的で子供じみた、八つ当たりの感情だ。勝手に気持ちを寄せて勝手に裏切られたと怒っている。けれど。

 ──勝手はあちらとて同じだ。

 腹に力を込める。立ち上がる。名を、呼ぶ。

「趙、函──ッ!」

 墨がせり上がる。もはや質量のほとんどを失って砂礫を混ぜながら、なお。

 墨娘はげきだ。ではない。その身に神霊をおろすことはできない。なれど言葉を記す。名を記す。名は魂の輪郭。存在の外枠そのもの。

「まだ羊屋になればよかったじゃないですか!」

 こんな異形に成り果てるくらいなら。

 名に魂を定められるのが嫌だと言いながら結局そこに執着して、振り回されているのは誰だ。ただただ怒りがこみ上げる。怒りのままに墨が青年をとらえようと飛び回る。蟠螭の首をかいくぐり、隙間から奥へと黒をねじ込む。そのたびにはじかれ、地面に引き倒され、けれど墨娘は面を上げる。

「──墨娘!」

 突然師の声がした。

「十分だ」

 背をたたかれる。にわかに視界が開けた。

「し、しょう……」

 はふ、と吐息が漏れて久しぶりに呼吸をする。

「ここからはみんなでやるよ」

 その言葉に一度またたいて、面を上げた。

「……師兄……」

 ずらりと巫祝が並んでいた。おそらく今天紀宮にいる全員が。その真ん中、肩で息をしながら兄弟子がいる。

「墨娘!」

 駆け寄ってくる。

「大丈夫だ」

 もう大丈夫、と言葉を重ねながら墨娘を助け起こし、そうしてだん、と墨壺を置いた。

「一緒にやろう。大丈夫、お前だけが抱えることじゃない」

 新たな墨の面がささめいて、空中に浮き上がる。くるくると輪を描きながら委水の肩口にまとわりつく。

「間に合ったね、天阿。さぁ墨娘。若様をぶん殴っておいで」

 揮曜が笑って、佩玉を振った。しゃん、と音が響いて、それに呼応するように鈴の音が鳴り響く。太祝令の号令が遠く聞こえて、そうして嘯歌が始まる。男声と女声が混ざり合って高低をなし、なだらかに伸びていく。そうして声はやがて光を帯びて、揮曜が一歩を踏み出す。両足で跳んで、拍を刻みながら両腕がひらめいた。袖が、髪が、簪が、光を纏っていく。蟠螭が一斉に首をもたげて揮曜を凝視する。巫の舞が、緑青の異形を趙郎君から引き剥がそうとしていた。

 ──よく見るんだよ。

 師の声が聞こえた気がした。

 ──はい、師匠。

 目を見開く。ごぽりと墨がかさを増した。光の帯を纏う師に蟠螭が引き寄せられていく。その数多の口元に何かが滲んでいるようだった。

「墨娘」

 兄弟子の声。隣に確かにいてくれる。その存在に背を押されるように墨娘は腕を振り上げた。墨が逆巻いてそれ自体が巨大な龍の姿を得る。そうして蟠螭に襲いかかった。真正面からぶつかりあって、蟠螭の無数の口元に浮かぶ名を絡め取ろうとする。その名に形を与えようとする。けれど。

「──」

 咆哮が天を裂いて、はじかれた墨が降り注ぐ。墨娘はもう一度腕を振り上げた。

 ──墨を。

 開ききった瞳孔が眼前の異形を見据えたまま動かない。ぶわ、と墨娘の髪が逆立つ。

 ──もっと、墨を。

 このままではとらえきれない。

 奇妙なことが起こった。期門の官署の内側、書類をしたためる卓がにわかに震え始めたのだ。表で若いのが小競り合いでもやっているのだろうと己の仕事に没頭していた事務官が思わず声を上げた。一体何が、とつむぎだすのと官署の墨壺から墨が噴き上がるのが同時。武官たちの驚愕の叫びを塗りつぶすように黒は営庭へと飛び出していった。

 そうして、巨大な墨の渦の真ん中に墨娘が立っている。一歩を踏み出せば、墨が生き物のように付き従う。それはふたたび龍の姿を形作りながら、揮曜と蟠螭の間に横たわった。

「私の声は、聞こえていますか」

 娘の双眸はまっすぐに異形を見据える。異形の向こう側にいる、趙函を。

「こんなの、名そのものじゃないですか。ただの蟠螭のうつわじゃないですか」

 言いながら、手がひらめいた。墨が蟠螭をとらえる。その名をあらわにしようと追いすがる。龍頭が吼えた。雷鳴のように空気が震えて鼓膜が痺れる。けれど対抗するように鈴の音が響く。

「これが自由ですか」

 嘯歌が、鉦の音が、墨娘の周囲の空気を払う。絶えず満ちる蟠螭の声を押しのけて、言葉が青年へと向かった。

「何を、したかったんですか」

 それはあるいはあわれみだったのかもしれない。己がとうに手放したものへ思いを寄せ、あがこうとする青年への。名に意味がないとは思っていない。巫祝として名を軽んじることはできない。けれど同時に、縛られていることがどうにももどかしくもあった。それは事実だ。

 墨娘の眼前に幻が像を結ぶ。それは薄墨の色をしていた。趙家の三男がたたずんでいる。場違いなほど静謐に。

 ──ここまで大ごとにする予定じゃなかった。

 耳の奥に直接響く声は消沈してはいるが、いつもの趙郎君だ。そのことに腹立たしさとわずかばかりの安堵がこみ上げて、墨娘は声を張り上げた。

「私もです。互いにおろかでした」

「そうだね。おろかだったね」

「協力してください。これだけの巫祝を入れてるのに名がとらえきれません」

 期門の墨を全部吸い上げてまだ足りないのだ。青年が目を丸くする。

「どうやって」

「知りませんよ。でもあなたと蟠螭がまだつながっているのなら、あなたにしかできないことがあるはずです」

「じゃあ俺を切ればいいんじゃない?」

 揮曜に蟠螭をおろして首を落とすのが最終手段なら、この身を切ってしまえばいい。青年はそう言いたいらしかった。だが墨娘は淡々といらえを返す。

「あなたの中にいるのならともかく、表に出てしまった以上あなたが死ぬだけです。何の意味もありません」

「……はは、本当に価値がないんだな俺には」

 翳りを帯びる声音を押しのけて、墨娘はまた声を上げる。その背後で墨が幾重にも幟のようにはためいていた。

「今、そういうのは後回しです。全部終わってから羊屋にでもなってください」

「羊屋って……」

「楽しそうって言ってたじゃないですか。楽しいのならそっちの方がましだと思います」

「……」

 抗ってください、と言われた。青年は面を上げて娘を見る。まっすぐにこちらを見つめる双眸があった。

「これが望んだものでないのなら、ちゃんと抗ってください。本当に中身が腐りますよ」

「まだ、腐ってないと思ってくれるんだ」

「腐らせたいならご自由に。でも今投げやりになられるのは困ります」

 墨娘が静かに両手を掲げてみせる。指先が灰色に染まった、墨を操るものの手。

「私は墨娘です。本当の名が何であれ、墨娘としてのやるべきことをやります」

 ぞろりと蟠螭が震えた。耳をつんざくような叫号がこだまして、青年の幻がかき消える。残響がささやく。

 ──それでも君は、薄明だ。

 思わず舌打ちがこぼれた。

「だから、手伝ってくださいってば」

 蟠螭は趙函ではない。それはうつわの名だ。その向こう側、あのうごめく龍頭の向こう側に本物の名がある。墨を向ける。龍頭からこぼれる名を、まぎれ消えようとする音を、黒でもって拾い上げる。

 ──よく見ろ。見極めろ。

 全身が熱を帯びて、開ききった神経が異形の一挙手一投足に反応する。見る。見据える。神経が焼き切れそうなほどに。墨と蟠螭がぶつかり合う。咆哮し、食いちぎり、墨を散らす。砕かれ、千々に飛び散り、墨はまた異形に向かう。

 ──お前は何だ。

 蟠螭。群体の龍。言葉持たぬ純粋な異形。

 ──お前の名をよこせ。

「……!」

 はじかれる。

 ずざ、と圧に負けて後退しかけたのを背中から支える手があった。

「師兄」

「落ち着いて。よく見るんだ」

「……はい」

 大きく呼吸をする。巫祝の歌と、師の舞。大丈夫、と言い聞かせる。この異形を剥がした先にきっと、趙郎君がいる。文字通りぶん殴らなければ気が済まない。奥歯を噛みしめた。

「見失わないでくださいよ」

 その星を。抗う意思を。

 ──薄明。

 ちら、と何かがまたたいた。蟠螭の動きが止まる。その周囲にたゆたう文字がにわかに形をあらわにする。大きく墨がうねった。圧を増す。墨娘が声を張り上げる。

そう! 墨娘ぼくじょう薄明はくめいが記す、なんじの名を!」

 ──薄明。

 夜を払うもの。この夜を払った先に、あなたはいるのだろうか。

「蟠螭、なんじが名──虚延きょえん!」

 黒が蟠螭を覆い潰す。ぎちぎちと圧をかけ、締め上げ、その名を無理矢理に形作る。そうして。

「趙函──!」

 光がほとばしった。

 墨娘、と天阿の声がした。考えるより先に鈴の音に導かれる。墨ごと蟠螭をそちらへ向ける。墨の黒が視界を塞いでそうして。

「──」

 突如訪れた無音に、誰もが虚を突かれた。かぁん、と金属音が響き渡ってそうして。

「……はは、おつかれさん」

 笑ったのは師だろうか。空が突き抜けたように高かった。天阿の前に尊が一基。その側面にびっしりと刻まれた蟠螭文。まだ少し、あおく明滅している。だが間違いくそれは、尊に刻まれていた。それを目にするや、墨娘はかくりと膝からくずおれた。

「墨娘!」

 委水がその体を支える。

「あにうえ……」

 はっはっ、と呼吸がままならない。兄弟子の手が何度も背を撫でて、全身がばらばらになりそうになるのをかろうじて押しとどめるようだ。委水の声に導かれて呼吸を思い出してそうして、視線を上げる。そこに呆然と立ち尽くす青年の顔が見たことがないほど間抜けで、笑いがこみ上げた。

「これで、満足ですか。──趙函さま」

 その言葉に、青年の声がはじける。泣き笑いの顔で。

「あはははは、満足!」

 空が青かった。




 真逆だ、と思った。自分のありようと。生まれた瞬間にかたちを定められた己と、そもそものかたちを失ったもの。けれど、打ちひしがれることなく前を向くもの。そのありようを、羨ましいと思った。どこかまぶしく、誇らしげで、まっすぐに生きている。彼女のことを語る男の顔は嬉しそうにほころんで、それは酒のせいだけではないと知れた。確かな信頼と愛情をもって対峙していると。それがやはり、羨ましかった。

 最初は打算だった。たまたま市場で知り合った男が手放しで褒める、熊卜師長ゆうぼくしちょうの養い子。その才を称え、その修練を賞し、そうして師に並ぶと誇ってみせる委水いすいが始めは愚かしくも見えた。けれど同時に、それだけの力を持つものがいることに興味を引かれたのだ。名によって異形をとらえる娘ならば、きっとこの名を呼んでうつわを壊せる。趙家が代々抱えた異形を解放して手放して、そうして中身のなくなった己だけが残る。そう思った。

「……それは都合良く考えすぎじゃないですか」

「やっぱ駄目かなぁ」

 二人、並んで饅頭を食んでいる。今日は大市ではないが、市場はそれなりに人出があって賑やかだ。振り売りの声が長く伸びる。

「結局その蟠螭ばんちを別のどこかに封じなきゃいけないわけですし。人にかける迷惑をもう少し考えるべきだったと思います」

「どこか行くと思ったんだよ」

 異形のことを詳細に知らされていたわけではない。どういう経緯で人に封じたのかさえあやふやだった。

「あなた後先考えないですもんね」

「考えてないわけじゃ……」

「普通、市場で一緒に酒飲んだだけの相手の言葉で太常寺たいじょうじに乗り込んできません」

「……」

 反論の言葉を見つけられず、青年は沈黙する。

「そういえば、師兄しけいには会ったんですか」

 青年の沈黙など意に介さず、墨娘が尋ねた。

「うん。いやぁ怒られた怒られた。委水って怒るんだね」

 諸々のことの後始末の合間を縫って呼び出され、こんこんと怒られた。巫祝に名を呼ばせることの意味を知ってなおその行動は浅慮が過ぎる、と。そもそも嫁入り前の娘にそんなことを強いるのがどれほど失礼なことか。

「正論しかなくて何も言えなかった」

「……怒らせる人はそういないですよ」

 それでも墨娘ぼくじょう趙郎君ちょうろうくんと会うなとは言わないのだ。過ぎるほどに心配をしながらも妹弟子の意思を尊重しようとしてくれる。それは師も同じだった。太祝令たいしゅくれいとともに後始末に奔走しながら、趙郎君への便宜を計ろうとしているらしい。

「家の方は大丈夫なんですか。普通なら勘当されてもおかしくないと思いますが」

「あー、うん。まぁ何とか。勘当されたら羊屋になろうと思ってたんだけど」

 宮中であれだけの騒ぎを起こしたのだ。一族郎党処罰の対象になってもおかしくはない。それがほぼ不問で済んだのは。

「太祝令のおかげだ」

 蟠螭は天阿てんあが用意したそんに封じられた。それはそのまま屠龍之淵での祭祀に使われることになったのだ。龍の首の代わりとして。巡狩の祭器を得て、怪我人も死者も出ていない。ならば重く罰する道理がない、相手は言葉持たぬ異形なのだからと太祝令のとりなしが功を奏した。

「元々そのつもりだったっぽいね。太祝令も揮曜も」

 趙郎君を屠龍之淵に送り込んだのはあの二人だった。だがそれは蟠螭を引き剥がすためのことで、趙郎君本人をどうこうしようというつもりではなかったらしい。

「絶対俺のこと殺そうとしてるんだと思った」

「被害妄想が過ぎませんか」

「いやだって卜師長の身内でもないし、そこまでわからなくない? 趙家相手の立ち回りならそっちのがありうるでしょ」

 何かを言いかけて、墨娘はそっと飲み込んだ。自分はそれをありえないと断じることができるが、眼前の青年は違う価値観の中を生きてきたのだ。趙家の感覚はそちらなのかもしれない。

「それこそ、熊揮曜の噂なんてあらゆるものがあるんだよ。後宮入りが取り沙汰されるようになってからは余計にね」

「……」

 後宮、と言われて墨娘の表情が曇る。その話もあったと思い出してしまった。

「……約束、忘れてないよ」

「本当ですか」

「うん」

 揮曜の後宮入りを全力で阻止する。そう言ったのは自分だ。そして趙家は太常寺に大きな借りがある。

「さすがにこの恩は、返さなきゃならないだろ」

 抑揚のない声が、ぽつりとこぼれる。

「……無事で、よかった」

「極度の疲労というだけなので死にませんよ」

 大したことではない。そう聞こえるように軽く答える。だが、実際には三日意識が戻らず、七日寝込んだ。限界をはるかに超えることをしたのだ。あれで済んでよかったと思っている。

「墨娘」

 思わず顔を上げる。初めて呼ばれる呼び名。深い色の目が墨娘を見ていた。

「──ありがとう」

 それが彼の本音だと知れる。

「……じゃあ、がんばって返してください。あなた今、やらかした若様と呼ばれて太常寺で大人気です」

「あはは言い返せない」

 笑う。その横顔はどこか晴れやかだった。ふと、青年を呼ぶ。

離瑜りゆさま」

 ここは市場だ。趙郎君と呼ぶわけにはいかなかった。あざなを呼ばれ、離瑜が緩慢に墨娘を見下ろす。

「函さんは?」

「だめです」 

「中身もうないのに?」

「それ以前の話です」

 この期に及んでまだ名を呼ばせようとするかとあきれかえる心地だ。

「君に名を呼ばれると色々引き締まるんだよ」

「自分でやってください。人を巻き込まずに」

 それでもこの不躾さに慣れてしまっているのも事実で、墨娘はもう一度ため息をこぼした。そうして。

「ひとつだけ、いいですか」

「何個でもどうぞ」

 茶化すなとねめつけながら、娘は口を開く。

「私の名は師匠がつけてくれました。目に見えないものを見分けるからと。誰かの灯りたれと」

 ゆるやかに青年が瞠目する。

 それは物の道理を知るさま。目に見えないものを見分ける能力。灯火。そうして── 夜明け。

「もしかして、君の名前……」

「薄明ではありませんよ」

 はずれですと抑揚のない声が言う。

「でも近い?」

「教えません」

「じゃあなんで」

「……何となく、言ってみたかっただけです」

 大仰にため息をついて、娘は饅頭を頬張った。

「人の名を、呼ばないでください」




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薄明の墨 夜渦 @yavuz

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