【???=記憶喪失の少年】

 王都ロキロキは発展した大都会である。大きさ、人口、規模、そのどれをとっても最高である。王都であるため国で一番なのは当然で、他の国でもこのような街はなかなか見られるものではない。

 だがいくら発展した街であろうと、それは壁に囲まれた内側の話。壁から一歩でも外へ出ると風景はガラリと変わる。草、木、花。煉瓦囲いの周りはどこまでも続く広大な草原や森林である。

 人々が街の外へ開拓を進めないのには明確な理由がある。一言に、危険だからだ。

 街を襲う脅威なんていくらでもある。変異歹や自然災害、敵国の侵略など。だから人の生息地は壁で囲んでしまうのが安全なのだ。街の外、壁の外は危険なのだ。

 昔は外に小さい村々も沢山あったが、それは年々減ってきていた。理由は大きく三つ。安全な街への移住による過疎。何かしらの要因による全滅。そして統合して新たな街になるパターンがあった。

 そしてロキロキ近辺の村は今は殆ど失われてしまっている。広大な自然のど真ん中に位置するロキロキはまるで人類の孤島のようであった。


 ロキロキ辺りの土地は非常に平坦な場所で、だからこそ街が造られた。少し行けば海と港街もあるが、ここらは殆ど緑一色である。どこまでも続くような草原。所々には木々が生えており、森や林になっている場所もある。

 森林には沢山の生き物が住み着いており、それは変異歹が生息している可能性もあるということだ。危険な場所であるため、人々はすっかり森に近寄らなくなっていった。

 特に「マエース」という名前の森は、街のすぐ真隣に存在するため人々は恐れを抱いていた。森はかなり深く、木々と低木と苔で人の歩けるスペースなど殆ど無いような場所だった。

 そのマエースの森の中に小さな丘陵があった。木々などの生えていない、開けた場所である。木漏れ日が丘を上から照らし、草や葉っぱがキラキラと反射する。

 その丘のてっぺんに、全裸の少年が一人、倒れていた。

 意識は無い。いつからそこに居るのか、異質な少年はただそこに寝そべっていた。

 暫くして小さな風が吹いた。枝が揺れ、松ぼっくりが一つ、ポーンと跳ねた。松ぼっくりは少年の顔にぶつかり、頬に小さな傷をつける。その痛みが覚醒を促し、少年の眉がピクリと動く。彼はうーんと小さく唸り、やがてゆっくりと上半身を起き上がらせた。

「むぅ……」

 目覚めたてで意識がはっきりとしない。少年は瞼を開け、辺りを見渡す。

「こ…ここ…は…?」

 思わず呟くが答えを教えてくれる者はいない。彼は朦朧とする意識の中、五感から情報を得ようと試みる。まず最初に感じたのは小さな痛みだ。裸で寝転んでいれば、草やら小枝やらがチクチク刺さってくる。松ぼっくりもさらに何個か頭に落ちてきた。どうやら近くに大きなマツ科の木がある。上を見上げようとして、木漏れ日の眩しさに目を細めた。

「ここって…森…?」

 少年はそう理解した。辺りを見渡せば終わりの見えない無数の木々。森であることはまず間違いないだろう。

「なんで…」

 彼は思考する。自分が森にいることはわかった。しかしなぜ自分が森にいるのか、それがどうしてもわからない。

「僕はどうして…、ん? 僕?」

 そこで彼はより重大なことに気付いてしまった。一番わかっていなくてはいけないことが、彼にはわからなかったのだ。

「僕って、一体、誰だ?」

 木々が密集している自然区域を森と呼ぶ。己を差す一人称の言葉が僕。それは覚えているし、理解もしている。

 しかし自分がなぜ、その森という場所に寝転んでいたのか。「僕」と呼んだこの人物が一体何者なのか。それがどうしてもわからなかった。思い出そうとすればするほど、例えようの無い不安が襲ってくる。頭が混乱していくのがわかる。

「記憶…喪失…?」

 脳の隅っこに「知識」として存在している言葉が頭をよぎった。しかしその言葉をどこで聞いたのか、なぜ知っているのか、それが全く思い出せない。

「記憶喪失…なのか…? 「僕」は…」

 少年は無意識に自分の体に触れた。さらさらっとした柔らかい肌が指先に触れる。自分が全裸であることを意識し、少年は軽い羞恥心に襲われた。

「くっ、もどかしい。なんなんだ。服という概念は知っている。人間は常に服を着用するものだ。なのにどうして自分が裸なのか、それがどうしてもわからないんだ!」

 思わず叫び、自分がパニックになっている事に気付いた。一度冷静になろうと深呼吸を試みる。

 しかし未知の恐怖は消えない。記憶が無いのはとても不安だった。自分を肯定し、守ってくれる、「経験知識」という名の後ろ盾が無いのだ。どんなことにも自信が持てず、世界に自分の存在が否定されているような苦しみを感じる。

 しかしここで戦いていても仕方がないことも少年はわかっていた。

「だめだ、行動をしないと何も得られない。先ずは情報集めだ。詳しい現在地と僕の状況を知る必要がある。できれば森を脱出しよう。人里に出会えるかもしれない」

 幸い体にたいした怪我はなく、五体満足に動かすことが出来た。少し体が重く感じたが、次第に慣れていった。

 少年は素足に気を付けながら、できるだけ柔らかそうな苔を選んでその上を歩く。それでもたまに刺さる小さな棘のような物が痛くて辛い。何とか丘を降りた少年は、次は進む方向を考えなければいけなかった。

(確か川を探せばいい筈。川は基本的に海まで続いている。仮に途中で途切れていたとしても、川を辿れば同じ場所をグルグル回る心配もないし、森から出られる可能性はかなり高い。それに人間は川のそばに家や集落をつくることが多いから、運が良ければ誰かに会えるかもしれない)

 自分は森に関する知識は多少持っていたようで、少年も少し安堵していた。今頼れるのは昔の自分が遺してくれた「知識」だけだ。彼の持っていた「知識」を信じるしかない。

(でもまずは食糧の確保だと彼が言っている。確かに考えてみればお腹が空いているような気がするかも)

 空腹になれば苦しいし、元気も出ない。生命にも関わるため、最優先で解決すべき問題である。少年は自分の知識を信じ、とりあえず果実か何かを探すことにした。

「松ぼっくりは硬くて食べられないもんね」


 蜜柑の木を見つけたのは本当にたまたまだった。甘酸っぱい匂いを感じた気がした少年はとりあえずその方向へ歩いた。そう歩かないうちに、彼は橙色の宝玉がたくさん実った素敵な木を発見したのだ。

 彼は大喜びで蜜柑をもぎ取り、何個も何個も食べた。「知識」ほど甘くはなく、むしろ酸っぱくてあまり美味しくはなかった。しかし少年は大喜びで何個も食べた。

 こうして少年の腹は程よく膨れた。これで当分は餓死に怯えなくてもいいだろう。本当は何個か携帯したかったが、あいにく入れる袋もポケットもない。

(さて、次は川だ)

 川を見つけるまでは適当に歩き回っても良いのだろうか。彼の「知識」はそれを教えてはくれなかった。どうやら記憶を失う前の少年は、少なくともサバイバルのプロではなかったということがわかった。責めたくもなるが、今はもう致し方ない。

(怖いけど当てずっぽうで歩くしかなさそう)

 ここからが正念場だと、彼は深呼吸をして気合を入れた。一つ落ち着いたその時、耳に不思議な音が入ってくることに気づいた。

 ちょろちょろちょろ…

 聞き覚え…ではないのかも知れないが、彼はこの音の正体に心当たりがあった。水の音ではないかという結論が出る。少年は迷わず音のする方向へ歩くことにした。音はどんどん大きくなる。

(この匂い…水の匂いだ。間違いない)

 少年の確信は正解だった。開けた空間が現れ、日の光を乱反射する銀色の龍がそこにはあった。

「水だ!」

 彼は一目散に川に駆け寄り、その透き通った美し液体を手で掬い上げた。ごくごくと音をたて、少年の喉が潤う。

 川は浅く、川幅も二メートル程だ。小魚が何匹か泳いでいる。小さい川なので海まで続いているかは怪しいが、今はこれに頼るしかない。

 少年は水面を覗き込み、そこに映る人物の顔を見た。初めてみる自分の顔をじっくりと観察する。

 そこにはとんでもない美少年がいた。

 まつ毛は長く、ぱっちりとした二重の両目。グレーの瞳は澄んでいて美しい。透明感のある白い肌、薄ピンクのみずみずしい唇。鼻は程よく小さく、顔のバランスととても合っている。

 歳は大体十五歳程に見える。百八十弱程ありそうな自分の身長からはもっと歳上だと思っていたが、予想は外れたようだ。承和色の髪は軽く癖っ毛になっていて、ふんわりと頭に乗っかっていた。

 これが自分の顔なのだとはわかってはいても、つい水に映るその少年の容姿に見惚れて

しまう。それほどまでの美少年。それが自分であることにも全く実感が湧かないし、とても信じられない。

 だが信じるも何も今は森を抜け出すのが先だ。できればこんな大自然のど真ん中で野宿はしたくない。彼は今文字通りの無防備なのだ。

 少年は立ち上がり、下流を目指して足を踏み出した。

 その時だった。

「ギャァァァァオ‼︎」

「⁉︎」

 恐ろしい咆哮に思わず怯む。瞬間、何かが木々の間を高速で近づいてくる音が聞こえる。

(獣か⁉︎)

 彼はそう思ったが、そこで違和感に気づいた。獣臭が全くしないのだ。生き物は生きていれば何かしらの匂いを発するものだが、近づいてくるその「何か」は全くの無臭であった。川辺の木がへし折れ、「それ」が飛び出した。

「なんだこれは⁉︎」

 少年はあまりの驚きに息をするのも忘れてしまうほどだった。「それ」は彼の知識にあるどの生き物ともあまりにかけ離れた姿をしていた。

「ギャウワウ‼︎」

 恐ろしいその叫びに少年は我に帰った。猛スピードで突進してくるその大きな塊をなんとかギリギリ、転がることで回避する。小石が背中に刺さるも気にしている場合ではない。彼は急いで顔をあげ、その正体を見た。

 それは陸亀のような見た目。そう、陸亀が一番近いと知識は言う。だが、「それ」が陸亀であるとはとても思えなかった。

 第一、陸亀はこんなに大きくないはずだ。目の前の生物は二メートルを悠に超えている。人間より大きな亀なんて聞いたこともない。

 第二に、陸亀は二足で立ったりしない。重い甲羅を支えるのに精一杯で、立ったり走ったりなんてできるはずがない。

 第三に、亀の口はあんなに裂けていない。獲物に噛み付くのに適したような口の形状も、肉皮を噛みちぎるのに適したような鋭い白い牙も、亀にはついていないはずだ。

 第四に、甲羅の中からウニョウニョと伸びている、蛇のような形をした三本の触手も知らない。それらは宙を自在に動き、今にも少年に襲い掛かろうと構えている。

「そして第五! なぜあの亀の体は半分以上が溶けたように抉れているんだ⁉︎ 丸見えになった内臓の、その半分近くも溶けてなくなっている! なのになんだあの俊敏な動きは⁉︎ 普通なら生きてさえいられないような状態だぞ⁉︎」

 あまりの気味の悪さに少年は絶叫する。極め付けは亀の体の内外に付着した紫色の液体。血のようにも見えるが、あんなに紫色の血なんて普通じゃない。内臓までもが真紫色だ。

「ば、化け物…」

 少年にはそれ以上の結論は出せなかった。

(逃げなきゃ…)

 そう思ったより先だった。亀の眼光が鋭く光る。背中に生えた三本の触手が恐ろしい勢いでこちらに伸びる。それらは三方向から、少年の逃げ道を塞ぐように襲い掛かる。同時、瞬足で近づいてくる本体。

 一瞬の判断で少年は地に伏せた。亀は少年を飛び越え、勢い余って地面に倒れる。抉れた体がさらに砕け、左前足がボトンと取れた。しかし亀は全く痛がる様子も見せない。すぐに片腕で立ち上がり、再び少年を狙う姿勢。

 少年は追撃に気づき慌てて立ち上がった。とりあえず距離を取ろうと必死に駆ける。

 しかし亀は甘くなかった。

 両足を曲げたかと思った瞬間、恐ろしい脚力で跳躍し、高く飛び上がった。一瞬でその巨体は少年の真上にいた。黒い影が少年を覆い尽くす。亀は空中で少年にしっかり狙いを定めると、メテオのように落下してくる。そのあまりの速度に少年は対処することができない。状況を理解した時には不可避だった。間に合わない。

(死…)

 亀の巨体が頭上に落下し…

「危ないっ‼︎」

 ゴキンッ。

 金属で岩を殴ったような鋭い音がすぐ近くで聞こえたかと思った次の瞬間、頭上まで迫っていた巨大な影が真横にすっ飛んでいった。間一髪、圧死する直前だった。

 少し遅れて岩の砕けるような音が向こうで鳴った。

 突然の事に困惑しながらも、少年は恐る恐る振り返った。今だに自分がなぜ助かったかわかっていないといった様子だ。

 亀は向こうの岩に激突して砕けていた。体から真紫色の液体がドバドバと流れ出て、体はピクリとも動かない。どうやら、絶命したようだ。

「あれは変異歹の中でも中の下程度のやつだ。もう少し強いやつだったら瞬殺されていただろうな。運が良かったな少年。ガッハッハ!」

 豪快に笑う、太い男性の声。声の方を振り向くと、山のような大男がこちらを見下ろしていた。

「俺はフライド。命の恩人兄さんって呼んでもいいんだぜ?」

 大男はにんまりと笑った。

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