序章

【アンナ=復讐の少女】

 太陽が昇り始め、またこの世界に新たな朝が訪れた。明け方特有の杏色が優しく草原を照らし、蒼い草木が一気に染まっていく。

 夜の長い闇から解き放たれた鳥達が嬉しそうに囀りを始めた。その美しい音色を合図に、草原の動物達も次々に目を覚ましていく。子を連れた白い兎らは元気に駆け回り、馬や羊は草原のみずみずしい草葉をむしゃむしゃと食べている。数分前の静寂の闇夜が嘘だったみたいに、草原はあっという間に生き物達の生命の息吹で満たされていく。

 自然溢れるこの草原で唯一、人の存在を感じさせる跡があった。緑を二つに切り裂く土の道。馬車の車輪と馬の蹄によってしっかりと踏み固められた硬い土から植物が生えることはもうない。人の往来が無くならない限り、大地に刻まれたこの傷は癒えることなく残り続ける。

 往来の多いこの道だが、今朝もそこには人影があった。疲れた足取りで土の上をとぼとぼと歩いている。それは、見窄らしい格好をした一人の少女だった。 

 殆ど黄土色に変色しかけている白いヨレヨレの肌着。下には無地の紺色をした、安い生地のロングスカート。それらの上から羽織った薄汚れた革の茶色いロングコート。尖った石でも踏めば簡単に破けそうな程薄い、安い革で出来た黒色のブーツ。そして背中に背負った小さな布袋。年頃の少女には不似合いの全く着飾らないその格好は、貧しい旅人以外の何者でもないことが一目で分かる。

 ペンダント。彼女が首にかけているその雫型の蒼い宝石のペンダントだけが唯一、煌びやかであった。しかし他の格好とは不釣り合いのその宝石はかえって彼女を見窄らしくみせるだけでしかなかった。

 お世辞にも良い格好とは言えない彼女だったが、顔だけで言えば彼女は美人の部類ではあった。決して派手なわけではないが、整っていて端麗な美しさがある。

 真っ直ぐな鼻筋に綺麗な形をした艶やかな唇。深蒼の透き通った色をした瞳はキリッと凛々しく、まつ毛は長くてとても女性らしい。顔輪郭の形も悪くはなく、整った顔立ちを持つ彼女を見て綺麗な人だと思わない者はそういないだろう。左目の下にある泣き黒子もよく似合っている。

 彼女の腰まである長いストレートヘアーは炎よりも真っ赤で、日差しを受けてキラキラと輝いている。長い前髪は顔にかかるほどで、それを全部右側に流しているせいで右目は全く見えない。それどころか、わざと隠すかのようにぴっちりと撫でつけられている。

 容姿だけは恵まれた彼女だったが、せっかくの美人も今は台無しになっている。服のことも勿論そうだが、何よりも表情がいけない。

 永い夜が明け、輝く美しい自然。心にゆとりのある人間ならつい微笑みの一つでもこぼしてしまうのが趣である。しかし彼女は違っていた。脇道には一切の視線も寄越さず、鬼のような険しい顔でただ前方を睨みつける。それは眉間にシワが寄るほどであり、とても少女がするような表情ではなかった。もし今知らない人とすれ違ったのなら、その者は彼女の顔を見てまず間違いなくギョッとしてしまう。それほどの凄みと怖さを彼女は持っていた。

 名はアンナ。アンナ・ミロスフィード。今年で十七になったばかりの少女である。

 小鳥の囀りが聞こえようとも、可愛らしい小動物が道を横切ろうとも、心地よい春風が髪を撫でようと、彼女の表情が動くことはなかった。目線すら動きはしない。敵でも見るように、ただ前方の一点だけを睨みつけている。彼女が今まさに目指すその方角の一点だけを。

 ガタガタガタガタ……

 暫くそうして歩いていた彼女だったが、後方から車輪と蹄の音が近づいて来ていることに気がついた。元々この道は行き交う馬車が自然と生み出したものであり、馬車に出会うことは何ら不思議ではない。彼女もこれまでの旅路で何度もすれ違ってきた。

 その時にもそうしたように、少女は馬車を通してやろうとそっと脇道に逸れた。ブーツが草花を踏みつけ、咲いていたポピーが散る。

 馬車を通してさっさと歩行を再開しようと思う少女だったが、違和感を感じて顔を上げる。颯爽と走り去っていくと思っていた馬車がどんどんと減速していくのだ。勿論彼女は完全に道から退いており、邪魔になっている筈はない。彼女は眉間のシワを増やし、怪訝な顔をする。馬車はいよいよ少女の前で完全に停止した。

 少女は警戒しながらも御者を睨みつけたが、その顔を見て合点がいった。

「ヤァヤァ驚いた。誰かと思ったらアンナじゃないか! 帰ってきたんだな」

 御者の男は驚きと喜びが混ざったような声で叫んだ。

「大きくなったなぁ。お前さんが街を出て行ったのがもう三年前だから…今年で十七歳か。いやはや、時の流れってやつだなぁ」

 この男は彼女にとって見知った相手だった。先歩く知り合いに後ろから気づいた御者が、挨拶のために馬車を止めたのだった。

 彼はダニーという名で、還暦の近い中年の男だ。髭の生えた浅黒い顔はシワだらけ。短い黒髪には何本もの白髪が混じり、ところどころ禿げてもいる。分厚い立派な生地で作られたマントで全身を包み、首にも暖かそうな布を巻いている。春とはいえ、早朝の馬車はかなり冷え込むので防寒は必須だ。

「久しぶり」

 少女はゆっくりと口を開き、古い知人に挨拶をした。彼女の声はとても十七歳の少女のものとは思えない。あまりに暗く、あまりにも冷たい。

 表情ひとつ変えないこの少女に、御者ダニーは小さなため息を漏らした。

「…ふぅ。…まだ吹っ切れてないようだな」

 ダニーは悲しそうに呟いた。彼女の今の冷たい態度に落ち込んだわけではない。彼は三年前、彼女と最後に会った時のことを思い出していた。そして三年も経つのに、凍りついたようにあの夜から変わらない少女の表情、態度に心を痛めていたのだ。老いた御者はただ目の前のこの少女が哀れで仕方がなかった。

「いいや、吹っ切れたさ。だから戻ってきた」

 彼女は冷たい口調のままダニーの言葉を否定した。しかしダニーは首を横に振る。

「アンナ。お前今自分がどんな顔をしているのか気づいているか?」

 少女の眉がピクリと動いた。

「三年前、お前が出て行った日と全く同じ顔のままだ。悲しみと絶望。そしてそれを覆う怒りと苦しみ。隠せているとでも思っていたか。吹っ切れていると本気で思っている訳ではなかろう」

「………」

「ああ。なぜこんな若い子が、こんな辛い思いをしなくてはいけないんだろうな」

「…やめろ。悲劇の主人公になったつもりはない」

 少女の表情は依然冷たく、怖い。三年ぶりに会うこの少女の姿は、あまりにも思い出の中の彼女とかけ離れてしまっている。かつての彼女は、天真爛漫で人懐っこく、誰にでも優しい少女だった。喋り方も年相応の女の子らしく、元気で可愛らしいその声にみんなが癒されていた。

 だが今はもう違う。彼女は変わってしまった。三年前に街を出たあの日から。そしてそれは三年経っても戻ることはなかった。男にはそのことがただただ悲しかった。

 彼女を大事に想っていたからこそ、変貌してしまった少女に対する自責と後悔が絶えない。しかし彼は今も昔も、商品を運ぶ御者でしかない。もう自分には彼女を救うことが出来ないということを、彼は痛いほど理解している。

「街に向かっていたんだろう? 送るよ。後ろに乗りな」

 だからこそ、彼は助けられる範囲で彼女に手を差し伸べる。

「助かる」

 少女はポツリと答え、馬車の後ろに回り込む。荷台にかかった布を右手でめくり、軽い身のこなしで飛び乗った。馬車の揺れで少女が乗った事を確認すると、ダニーは馬に鞭を打った。カタカタと車輪が回りだし、馬車はゆっくりと進み始める。

「街までまだ少しかかるから寝ていたらどうだ?」

 返事は無い。ダニーが振り返ると、少女は死んだような目で荷台の壁をボーっと見つめていた。夜通しで歩いていたようだが、寝る気はないようだ。

「本当に哀れだ。どうしてあんないい子に限って…。神よ、どうか彼女に救いを。夜のように真っ暗な彼女の心にも、いいかげん夜明けを与えてやってください」

 御者の独り言は馬車の動く音でかき消され、少女の耳には届かなかった。神にも届いてはいないのかもしれない。しかしダニーは何度も祈りながら、少女を乗せて街へ向かっていくのだった。


 馬車は土道に揺られながらも順調に進んでいく。アンナを乗せてから約一時間。馬車を引く二頭の牡馬にも疲れが見え始めてきた。

「頑張れ、もう少しの辛抱だぞ。もうすぐ街が見えてくる」

 馬を励ますダニーのその言葉に偽りはなかった。小さな丘陵の向こうから巨大な影が覗いていた。馬は最後の力を振り絞り、重い荷馬車を引いてその丘陵を登っていく。

 そしてついに坂を上り切った馬車の目前に、街がその全貌を表した。いや、それは正確な表現とは言えない。

 視界いっぱいに広がっていたのは巨大な石造りの防壁。高さ二十メートルはあるだろう大きな白い壁が左右に伸びていて、果ては見えない。果てはない。その壁は輪の形を成しており、街全体を取り囲むようにして建てられているのである。総面積九十八平方キロメートルもあるようなこの巨大な街を、ぐるっと囲っている。

 壁の素材は石かレンガのようなものだ。ブロック状の素材が一個一個積み重ねられている。これを人の手だけで造ったのだから、きっと物凄く大変な作業だっただろう。実際、この壁の製造にかかった時は五年十年ではなかったと街の古い書物には書き記されている。

 どうやら厚みもかなりある。壁の頂には手摺りのようなものがあり、人の通る通路になっているようだ。等間隔で砲台も設置されており、敵襲時にはあそこから迎撃できるようになっていた。それが壁上どこまでも続いている。護りは完璧、まさに圧巻である。

 高い防御力の合理的な壁だが、この国全ての街がこのように守られているわけではない。無数にある小さな町や村に財力や労働力を割くほど国は潤ってはいない。そんな中でこの「ロキロキ」という街だけが優遇されているのには訳がある。それはこの街が「ロックバンド王国」の首都にして王都であるからだ。約二万五千人の人口と神聖な王家の一族。それらを守るために先祖が建てたのがこの立派な防壁である。

 アンナを乗せた馬車は壁に向かって真っ直ぐに進んでいく。ガタガタだった土道はだんだんと平らになっていき、壁に近づく頃には良質な砂利道になっていた。毎日手入れされているのか、車輪の跡なども殆どない。

 その道の続く先には門が聳え立っていた。観音開きの巨大な鉄門だ。幅は六、高さは十メートルもある大きさで、かなりの風格と威圧感がある。例え大砲を数個持ってきてもびくともしないだろう。そう思わせてくれるその姿はまさにこの街の番人である。

 馬車は門より少し手前に存在する、小さな石の小屋の前で停止した。窓ガラスも扉もない、簡単な造りの石小屋。馬車の到着を察したのか、開きっぱなしの出入り口から三人の男が出てきた。

 三人は織部色の甲冑を着ており、甲冑の胸と背中にはこの国の紋章である剣と槌のデザインをしたエンブレムが描かれていた。その格好から彼らがこの街の王宮騎士であることがわかる。

 戦時には戦闘に駆り出される騎士だが、日頃は他の仕事を任されていることが多い。この石小屋は所謂関所の役割をになっており、国直属の部下である騎士達がその役人として働いているのだ。

 三人の騎士のうち一人は御者であるダニーの元へ。残った二人は後ろに回り込んで荷台を調べ始めた。

「ひっ」

 先に荷台に乗り込んだ騎士が驚きの声をあげた。荷台の暗闇の中に人影を見つけて驚いたのか、それとも単にこちらを睨みつけているアンナの形相が恐ろしかったのか。

 しかし彼はすぐに気を取り直して積荷を調べ始めた。もう一人も同様に荷台に乗り込み、じっと睨みつけてくるアンナの視線を避けながら作業をする。彼らの仕事は主に危険物や薬類の持ち込みが無いかを確認することだ。

 ある国は持ち込まれた麻薬によって国民の大半がダメになり、そして滅んだという。またある国はクーデターによって滅ぼされたという。そんなこともあり、持ち込みは法律で禁止されていた。

一方、ダニーの方では書類の確認が行われていた。

「あんた商人だな? 入街許可証と貿易許可証を」

 騎士の男が無感情に命令し、ダニーは言われた書類を彼に渡した。旅商人なら必須の貿易書類というものだ。輸入元の国からの書類。そしてロックバンド王国での商売許可証などが必要となる。これらが揃っていなければ物販の持ち込みは出来ないし、ロックバンド人でない者なら入街すらできない。

「おい、積荷の方はどうだ」

 書類に目を通しながら男が仲間達に聞く。

「危険物無し。薬類無し。床や木箱の二重構造も無し」

「同伴者一名。ロキロキの住人証を持っているため入街は許可できます」

 荷台の騎士達の報告に男は頷く。

「オーケーだ。手続きを済ませるから少し待っていろ」

 ダニーに書類を返却すると、彼は自分の石小屋へと戻って行った。その間も二人の騎士達は荷台から離れない。御者が協力者などを使ってこの隙に新たな積荷を積もうとする可能性があるからだ。そうなれば二人がかりで積荷を確認した意味がなくなる。

 暫くして金属同士の当たる音が聞こえてきた。さらに地鳴りのような音と共に重い金属の扉がゆっくりと開き始める。

「よしお前ら行っていいぞ。門は全開しないから、扉に当たらないように気を付けろ」

「一度開いたら三十秒程で自動的に閉まる。急いだ方がいいぞ。挟まったら大変だ」

 ダニーは返事の代わりに手を振ると、手綱を取って馬車を走らせる。歯車の仕掛けなのだろうか、門はひとりでに開いていった。先程の男はいつの間にか小屋から出てきていて、門へと続く道の横に立っていた。

「良い滞在を」

 そう言って男は軽くお辞儀をする。彼の気持ちなのか、それとも仕事で決められているだけなのか。ダニーは後ろに向かってありがとうと叫び、馬車は街へと入っていく。


 重い扉の閉まる音が真後ろから聞こえたのは門を通過した直後だった。防犯の理由上あまり長い間開けておく訳にいかないのは承知だが、それにしても危険すぎるとダニーは毎度思う。少しでものんびりしていたら荷台の後ろ部分が食いちぎられてしまっていた。

「おいアンナ、起きているか? 街だ」

「わかってる」

 こうして二人はロキロキの巨大な街へと辿り着いた。馬車上とはいえ、長旅はダニーの老いた体を十分に疲れさせた。彼は肩や首周りを動かし、なんとか疲労に抗おうとしている。久しぶりの人の地。休息というご褒美は彼にとってあまりに魅力的だった。

 だが一方で、その長旅を徒歩でこなした者もいる訳である。

 ロックバンドの国面積は首都ロキロキの何十倍も広い。そしてその九十パーセントをも占めているのは手付かずの自然である。勿論、人の道なんて殆ど無い。

 あちこちに点在する町村はそれぞれが結構な距離離れており、遠ければ歩いて二週間。近くても一日以上歩き続けなければいけない場合が殆どだ。

 アンナが何処に行って何処から戻ってきたのかをダニーは知らないが、それでもその旅路が一筋縄でいかないほど大変であったことは想像に難しくない。その旅を終えてなお、眠るどころかまともな休息すら取ろうとせずにただ荷馬車の壁を睨みつけ続けているこの見知ったはずの少女が、ダニーには何故かとても恐ろしい存在に見えた。

「なぁ、長旅だっただろう。どうだった? 大変じゃなかったか?」

「…別に」

「久しぶりの故郷はどうだ? この三年間、一回も戻らなかったんだろう? お前を見かけたら商人仲間が真っ先に教えてくれるからな」

「…」

「そうか。わしも今回は一ヶ月ぶりぐらいだ。やっぱり凄いよな。さすが王都だ」

 既に高く昇っていた太陽が街を照らす。

 王都、そこは人々の賑わう場所。生まれて初めてここへ来れば、その者は間違いなくこの光景に圧倒される。

 他では見ないような大きな家々がいくつもいくつも連なっている。丸太や藁で造られたものではない。すべての家は赤レンガで造られており、見渡す限りの赤色が日に照らされてなんとも美しい。三角形の屋根も同様に真っ赤で、そこから伸びる太い煙突からは煙がもくもくと立ち昇っていた。丁度朝ごはんの時間だ。きっと各家ではお母さんがペチカでスープでも作っているのだろう。

 連なる家々の間を縫うように道は伸びている。砂利や土などではない。びっしりと敷き詰められた丸石の立派な街道だ。それが何本も、細かく枝分かれしながらあちこちへと伸びていく。一体いくつの丸石が必要だったか。一体どれほどの時間と労力がかかったのか。それを考えるだけで頭が痛くなる。

 道は街のあらゆる場所へ届くようにと分かれていくが、その中でも一本、太くてまっすぐな道がある。ダニーの馬車はその道を進んでいった。それは街の中心へと向かっていく道。道端の家の数もどんどん増えていき、人の往来も多くなってきた。早朝だというのに凄い賑わいだ。道は沢山の人で溢れかえり、通行人の協力無しでは馬車を先に進めさせることは不可能になっていた。

 ダニー達の他にも馬車は通っており、すれ違うたびに御者とはジェスチャーで挨拶を交わす。道はいつの間にか馬車同士がすれ違っても大丈夫なほど広くなっていた。道なのか、それとも広場と呼ぶべきなのか悩む程である。

 ここまでくると住居ではない建物が殆どになってきた。幅の広い四、五階建ての建物には入り口が何箇所もついており、その扉の上か横には決まって大きな看板が見られた。靴屋、食事処、雑貨店など、その種類は様々である。国が建てた建物に、幾つもの店がそれぞれ部屋を借りて入っているのである。

 店は建物の中だけではなく、路上にもあった。屋台だ。牛や馬をつけた荷台型の木造屋台が道のあちこちに展開していて商売を行なっていた。客が一人も来ない屋台もあれば、小さな行列ができている屋台もある。売っているものは野菜や甘ナッツ、ホットワイン屋なんかもあった。

 道はいよいよ円形となり、完全に広場としか呼べない広さになった。街で最も賑わう中心部、大広場だ。ダニーの馬車は広場の奥の方へと進んでいき、とある建物の前で停止した。

「着いたぞアンナ。俺は今からここで仕事だ。仕入れた物を搬入しなくちゃならない」

「大変そうだ。手伝うか?」

「いや、すぐに終わるから大丈夫だ。糸巻きの入った小さな木箱を一つだけ。簡単な仕事さ。受け取りのサインをもらったら今日の仕事は終わり。宿でも探して今日は休むさ」

「なら馬車のお礼に宿をとっておくよ。いつもの宿でいいな?」

「あ、ああ。勿論構わないが、別にお礼など…」

 しかしアンナは既に荷台にはいなかった。馬車を降りて人混みに消えていく彼女の背中をダニーは少し寂しそうに見つめる。

「また会えて本当に嬉しかったよ、アンナ。生涯二度会えないんじゃ無いかと心配していたことなんて、君は思いもしないだろうな」

 彼は安堵と寂しさの混ざったため息をついた。

「アンナが昔好きだった梨のタルトでも買っていこう。きっと喜ぶぞ」

 彼はアンナの喜ぶ顔を想像して少し笑った。明るく笑う記憶の中の小さい少女。しかしどうしても、今の彼女が笑う姿は想像できなかった。複雑な心境のまま、彼は仕事を早くやっつけてしまおうと箱に手を伸ばす。


 この広場とそこに集まった商店はこの街に住む人々の生活の中心だった。当然、往来する人はかなり多い。混み合う程ではないが、沢山の人がそれぞれ好き勝手に歩いているため、少しでも気を抜けば人にぶつかってしまう。

(人混みは嫌いだ)

 アンナは不機嫌そうな顔をしながら少しでも早く人混みから抜け出そうと早足で歩く。そんな彼女の剣幕に怯えてか、向かってくる人達は次々と彼女を避けていった。ギョッとしたような顔で見られ、少女の心はさらに不機嫌になっていく。

(何だ、化け物でも見たような顔をして)

 舌打ちをし、それがさらに通行人を怖がらせた。人の群れはまるで狼を前にした羊のように彼女を避ける。それほど自分の表情と放つオーラが怖いということに彼女はあまり気づいていない。

 暫く進むうちに人の往来は減っていき、道も細くなる。分かれ道も増え、ここからどんどん街の細部へと枝分かれしていくのだ。円形の広場は街の心臓であり、全ての道が集まってくる場所でもあった。よって、一度広場に来さえすれば、街の何処へ行こうにも困らない。 

 アンナは一本の路地へ曲がっていった。先ほどまでの賑わった雰囲気とは逆に、暗くてどこか静かな雰囲気の路地だ。彼女は特に迷う素振りも見せずにその路地の奥の方へと進んでいく。

 ここの建物はどれも二、三階建てで、横幅が広くて入り口が多い。まだ住宅地ではない。いくつもの看板とすれ違ったが、その殆どには「宿」の文字が入っていた。宿屋が多いから静かなのか、静かな場所だから宿屋が多いのか。とにかくここはそういう場所だった。

 アンナの目的地はその中の一軒。看板には「安眠宿屋グリーン」とある。アンナやダニーにとっては馴染みの宿屋だ。値段が安く、食堂もあるうえに昼も泊まれるので、昼夜逆転しがちな旅商人には人気の老舗である。ダニーや彼の商人仲間と仲の良かったアンナは子供の頃よくここに遊びに来ていた。もう何年も前の話である。

 アンナは木製の扉を押し開け、物静かな室内へと足を進める。扉の動きに連動した鐘がカランコロンと軽快な音を立てた。

「いらっしゃいませ」

 カウンター越しに若い受付嬢の明るい声が出迎えてくる。ニコニコとした笑顔の、可愛らしい金髪の娘だ。愛想もいいし、この店自慢の看板娘といったところか。しかしアンナは彼女を知らなかった。ここ数年で雇われた新人だと予想する。

「今から一泊予約したい。二人だ」

「今部屋の清掃中なので、入室可能は一時間後ですけど大丈夫ですか?」

「問題ない」

「はーい」

 可愛らしく返事をすると、受付嬢は手元の紙に鼻歌を歌いながら何かを記入し始める。リズムを取るようにお尻をふり、まるで接客中なのを忘れているかのような気楽さだ。

「では、こちらに署名をお願いしまーす。あ、あと宿代が二人分で二十∵なのでそのお支払いもお願いしますね」

 アンナは少し考え、差し出された紙に「アリス」と記入した。偽名である。ここ数年で彼女は偽名を使うようになっていた。

「はい、ありがとうございますー」

 受付嬢はアリスから紙と銀貨を受け取ると、それを後ろの棚に仕舞った。

「待ち時間どうしますか? 今なら食堂空いてますけど」

「ならそこで待っているから清掃が終わったら呼んでくれ。確かこの奥だったな」

「はい、そうです!」

 受付嬢は元気に答え、両手を振りながらアンナを見送る。

 ああいった所作が男の人気を釘付けにするのだろう。彼女目当てで来る男性客も居るに違いない。若くて可愛いらしい彼女の人生はきっとそれ相応に楽しいものだろうとアンナは考える。

(私にはもう関係ない)

 カウンターの奥は壁で区切られており、開きっぱなしの扉のその先が食堂だ。寝室があるのは二階と三階で、一回には食堂とキッチン、そして先ほどのカウンターだけがある。浴室は部屋にも無く、体を洗うにはサウナ屋に行くしかない。安宿なら浴室がないのはどこも当たり前である。水を引くのも大変なのだ。

 食堂はそこそこに広く、幾つもの長机と丸椅子が並べられていた。アンナの他に客が二十人程居たが、席はまだまだ空いている。アンナは他の客からできるだけ離れた端っこの席に腰掛けた。団体客が何やら騒いでうるさかったが、これ以上離れることもできないので我慢することにした。

「何を頼まれますか?」

 従業員らしい女性がメモ用紙片手に声をかけてきた。食堂に入ってきたアンナを目聡く見つけてやってきたのだろう。彼女は先の受付嬢によく似た容姿をしていた。姉妹か何かかも知れない。

「キノコ料理は何かあるか?」

「キノコシチューなんてどうでしょう。色んなキノコが入ってるやつです。熱々で美味しいんですよ」

「じゃあそれを。付け合わせのパンは要らないから」

「かしこまりましたー」

 彼女は注文を紙に書き記して、厨房へと戻っていった。

 アンナは荷物を床に置いて、料理が運ばれてくるのを待つことにした。長机に肘をつき、ぼーっと待つアンナ。静かに座っていると嫌でも周りの音が耳に入ってくる。

「おいジョシュア、一人で猪のを仕留めたってマジかよ⁉︎」

 先から騒いでる例の団体客だ。三十代ぐらいの男達が何やら興奮気味に叫んでいる。

「あったりまえだろう? 俺様の手にかかればこんなもんよ」

「やっぱりジョシュアさんは凄いや。さすがギルドの冒険者だ!」

 察するに、どうやらジョシュアとかいう男の獲物自慢で盛り上がっているようだ。しかし周りの迷惑も考えずに騒がしい連中だ。アンナは舌打ちをして男達を睨みつけるが、彼らは気づかない。

「俺こんなでっかい変異歹見たことないぜ。触ってみてもいいかいジョシュア?」

「ああ。お前ら如きには絶対に捕まえられない獲物だろうしな」

 男は全部で五人。皆揃って武装していた。体にはちょっとした防具を着ており、腰や背中の鞘には剣が納められている。あの屈強そうな大男がジョシュアだろうか。五人は向こうの円机を取り囲んで話していた。

 円机の上には風呂敷が広げられており、件の獲物がその上に寝そべっていた。可哀想に、既に息はない。

 それは全長二メートル程の猪…のような生き物。どうみても普通の生き物ではない。

 なんと胴体の半分近くの肉が溶け爛れていた。首にはジョシュアの剣で斬られたと思われる跡があったが、胴体のはそれと違って明らかに人の手によってできた傷ではない。爛れた内部に内臓は殆どなく、腸のようなものが少しあるだけであった。しかも体内は染色したかのように鮮やかな紫色をしていた。肉も骨も、少し残った腸も、体内に見える全てのものが同色であった。

 肉が無くなって胴体にできた空洞からは同じように真紫色の、血のような体液が流れ出ていた。猪が死んでから暫く経っていそうだが、液体は止まることなく流れ続けて風呂敷を染めあげている。

 体が溶けていて、体内は真紫。先ほど男はこの可哀想な猪を変異歹と呼んだ。今やこの世界で変異歹を知らない者はいないだろう。アンナも勿論知っていたし、過去に何度か遭遇したこともある。屍の変異体と書いて変異歹。その恐ろしい見た目をよく表したこの名前はあっという間に浸透した。

 その変異歹を取り巻きの男達は面白半分で剣や矢でつついたりしている。ジョシュアとやらが、狩った獲物を自慢するためにわざわざ持ってきたのだろう。獣の死体を室内に、それも食堂に持って来るなんてマナー以前にモラルの問題だ。しかし食堂にいる他の客も、従業員の娘も何も言わない。ただ取り巻き達が褒め称えている。

「くだらない…」

 アンナは舌打ちをした。その顔は嫌悪感に歪んでいた。 

 それから数分が経ち、ウエイトレスの娘の手によってアンナの元に料理が運ばれてくる。

「お待たせしましたー」

 お盆を長机に置き、その上に乗せられていた木の器をアンナの目前へと移す。木製の大きな器の中には注文したキノコシチューがなみなみと注がれていた。具材は四種類程のキノコの他ににんじんや玉ねぎも見える。

「ごゆっくりどうぞ」

 ウエイトレスの娘は笑顔でお辞儀をし、お盆をとってキッチンの方へと戻っていった。

「命に感謝を。大地に恵みを」

 アンナは手を握り合わせると、木のスプーンでシチューを掬って口へと運んだ。熱々のシチューが彼女の食道を通り、体が内側から温まっていく。程よい塩加減とミルクの優しい味が好評の人気メニューなのだが、アンナの表情がその美味しさにとろけることはなかった。まるで最初から味になんて興味がないかのように、ただ淡々と口に運び続ける。

「熱くないんですか?」

 耳元で突然声がした。

「⁉︎」

 アンナはびっくりして思わず立ち上がる。

「いえね、そのスープ熱そうなのにパクパク食べるので気になりまして」

 彼女の席の隣には真っ白いローブを着た人物がゆったりと座っていた。

(い、いつの間に)

 驚きもしたが、何よりも不可解だった。アンナはわざと人の居ない席を選んだし、途中誰も隣に座ってきた記憶はない。誰かが近づけば間違いなく気づいていた。そもそも他の席も空いているのに、わざわざこんな不機嫌そうな少女の隣に座ろうとは思わない筈だ。

「なんだお前…」

 真っ白いローブは頭部から爪先までの全身を覆っており、顔どころか体格すらわからない。声色も少し不思議な感じで、性別の判断がつかない。エコーのかかったような独特な声だ。

 第一印象は喋るパースニップだが、一箇所だけ純白ではない箇所があった。それは背中に背負った黒い筒状の布袋。長さと太さからして剣や棒のような物が入っていると思われる。

「答えろ。なんなんだお前」

 アンナは警戒しながら尋ねる。人物は座っていたが、座高からして身長二メートル前後はあるだろう。性別は不明だが、どちらにせよ武器を持たないアンナが素手で敵う相手ではなさそうだ。

「あの男達は何をしているのでしょう?」

 男にも女にも聞こえる不思議な声で人物は尋ねる。アンナの質問は無視だ。彼女は不快に感じて怒りすら湧いたが、相手の素性がわからない以上は下手に争わない方がいい。この人物の正体を知るためにも、最初は行儀良く会話をしてみることにする。

「変異歹を殺したから自慢してんだろ」

「へんいたい…?」

「お前知らないのか? 動植物が突然変異した存在。体の肉が腐ったように溶け爛れていて、体の大半は骨格が剥き出しになってしまっているのが特徴だ。簡単に言えば化け物だな」

「肉体が溶けていても、生きているんですか?」

「ああ。中には内臓ごと溶けている個体もいるがそれでも生きている。体の構造が既に違うんだろ」

 彼女の説明した内容はその専門家でなくとも、今や近所の主婦ですら知っている内容だった。それをこの白ローブが知らないということを怪訝には思ったが、この時は警戒していて深くは考えなかった。

「そんな可哀想な生き物をどうして彼らは殺すのですか?」

「冒険者だからだ」

「なんです?」

「変異歹は凶暴で好戦的だ。森や畑を荒らしたり、人や家畜を襲うことも珍しくない。毎年沢山の人が命を失っている。そんな変異歹を討伐するため、五十年ぐらい前に組織されたのが「冒険者ギルド」と呼ばれる組織だ。で、そこに所属して働いているのが「冒険者」ってわけだ」

「なるほど。変異歹と冒険者ですか。お姉さんお詳しいんですね」

「こんなのは誰でも知ってる。お前が変だ」

「ふむ。もしかしてあなたもその冒険者なのですか? とっても強そうですし」

「あんな奴らと一緒にするなっ‼︎」

 ドンッ‼︎ 

 思わず壁を殴っていた。拳に走った痛みで感情的になっていたことに気づく。我に帰って辺りを見渡すと、既に食堂中の視線が彼女に向いていた。皆不思議そうにこちらをジロジロ見ている。

「もういい…」

 アンナは荷物を拾い上げると食堂の入り口へ向かっていった。

「あ、あの、お客さん…?」

「宿泊は一人分キャンセルだ。老いた商人が後から来るからそいつの分は空けとけ」

 アンナはウエイトレスにシチューの代金を投げ渡すと、早足で宿を出て行ってしまった。

 宿内に不穏な空気が流れる中、ただ一人、くすくすと満足そうに笑う者がいる。

「あれがアンナ・ミロスフィードですか。なるほど、確かに利用できそうですね。ふふふ…」

 白ローブの人物は嬉しそうに体を揺らす。

「またお会いしたいですね」

 そして次の瞬間だった。あまりにも奇妙だった。その体が一瞬でそこから消えたのだ。まるで蝋燭の火を吹き消したかのように、跡形もなく消え去った。誰にも気づかれずに現れた謎の人物は、また誰にも気づかれないまま居なくなった。


 アンナは街中を早足で歩いていた。もはやどこへ向かっているのかは彼女自身もわかってはいない。ただ宿屋から離れようと、足に任せて出鱈目に進んでいた。

 彼女は酷く動揺していた。人の前で恥をかいたからではない。言葉一つであそこまで取り乱す自分がまだいる事に驚き、そして恐怖していた。

(ダニーすまない。でも私は…もう…)

 ドスンッ。

 前も見ずに急いでいた彼女は何かにぶつかり、尻餅をついた。

「っ…」

 目の前で彼女と同じように倒れていたのは一人の幼い少年だった。身長の低い子供の接近に気づかず、ぶつかってしまったらしい。

「大丈夫か?」

 アンナは立ち上がり、少年を持ち上げて立たせてやる。幸い彼に怪我はなさそうだし、泣いてもいない。

「こーちゃん‼︎」

 名前を叫びながら一人の女が慌ててこちらへ走ってきた。この子の母親だろう。

「あぁっ! お怪我はありませんか⁉︎ だからママ、走ると危ないって言ったわよね? ほらこーちゃん、お姉さんに謝りなさい」

「ご、ごめんなさい…」

 親子はアンナに向かって深く頭を下げた。

「いいや、私の方が悪かった。…だがあんた、親なら子供から目を離してやるな」

「はい、すみませんでした」

 母親はもう一度頭を下げた。それを見たアンナが小さなため息をついた。

「本当にいいから。じゃあな」

 それだけ言って、アンナは人混みに消えていった。

 母親はそんなアンナの後ろ姿を気の毒そうに見つめる。

「…まだ若いのに、随分怖いお姉さんね」

「でもあのお姉さんこれくれたよ!」

 少年が嬉しそうな声をあげ、手のひらを開いて見せる。

「いつの間に…」

 そこには兎の形に彫られた可愛い木彫りが握られていた。兎の背中には小さく、「親を大事にな」と書かれていたのだった。

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