第三回 明川太郎殺害事件 〜探偵の後継者争い〜

晴坂しずか

第1話 事件編

 万桜まおに呼ばれて事務所へ急ぐと、経理の明川太郎あけがわたろうがデスクに突っ伏して事切れていた。

 後頭部から出血しているのを見て、千雨ちさめがはっと息を呑む。千晴ちはるもまた心臓がばくばくと高鳴り、まさかこんなことが――という思いを抱いたところで、無意識に千雨と顔を見合わせた。

 無言で分かり合い、千雨は入口付近に立っている父の横をさっさと通り、明川へ近づいた。

「あっ、おい!」

 慌てる父にかまわず、遺体の口元に手を差し出して千雨は言う。

「生きてるわ、呼吸してる」

 明川の肩がぴくりと動いた。死体役というのも楽ではなさそうだ。

 父が苦い顔で咳払いをし、告げた。

「第三回後継者争い、明川太郎殺害事件を開始する」

「いつまでやるんですか、これ」

 と、さすがの千晴もうんざりしてしまう。梅雨入りが間近に迫った六月だった。月に一度の頻度で開催されているため、これからも続くのかと思うと辟易する。

 すると事務所に見知った顔が入ってきた。事務員の溝田みぞただ。

「すみません、もう始まっちゃいましたか?」

「いや、ちょうどこれから説明をするところだよ」

 所長である父が言い、溝田はほっとしたようにその隣へ並ぶ。何かに気付いたらしい万桜も彼女たちと横並びになった。

「事件の概要はこうだ。ある日の夜、高津探偵事務所で事件が起きた。被害者は経理の明川太郎、四十三歳。彼は一人で残業をしていたところを、何者かに後頭部を殴打されて殺害された」

 千晴は数時間前のことを思い出す。定時後に珍しく明川が残業をしたいと所長に話していたが、それがまさか事件の伏線だったとは。

「第一発見者は事務所の所長である私、高津英策たかづえいさくだ。事務所を閉めなくてはいけないから、帰る時に声をかけてほしいと伝えてあったのだが、いつまで経っても声をかけてこないから様子を見に来たところ、遺体を発見した」

 千雨が話を聞きながら事務所をぐるりと見回した。

「容疑者は事務員の溝田麟子りんこ、二十八歳。被害者とは職場の同僚だった。もう一人の容疑者は所長の娘である高津万桜、十九歳。現役大学生で、探偵事務所には時々顔を見せていた。もちろん被害者とは面識がある」

「万桜ちゃん、今回は容疑者なの?」

 と、千雨が不快そうにつぶやくが、父の耳には入らなかったようだ。説明を続けた。

「そして私も容疑者の一人である。今回はこの三人の中から犯人を見つけてほしい。証拠を提示することも忘れないように」

「了解です」

「分かりました」

 千雨は容疑者たちの前をわざと通り、千晴のそばへ戻ってきた。

「今回もやり方は問わないが、自分の力だけで挑戦すること。分かったね?」

「はい」

「悪いけど、あたしはもうだいたい見当が付いてるから、家に戻ってお風呂入ってくるわ」

 そう云うや否や、千雨は隣り合っている自宅へと戻って行ってしまった。

「早い……」

 溝田がびっくりした顔をし、所長は額に片手をやった。

「正答率九割だからいいものの、探偵としてどうかというとな……」

 千雨は幼い頃から観察力に長けており、あっという間に頭の中で推理を組み立ててしまう。彼女が愛してやまない名探偵シャーロック・ホームズさながらではあるが、父はそうした部分をこそうれえていた。

 彼女の姿を見送ってから千晴は問う。

「えっと、それじゃあ始めても?」

「ああ、いいよ」

 父の承諾を受け、千晴は事務所の中へ入った。


 被害者は自分の机に突っ伏しており、仕事をしていた途中で襲われたらしい。後頭部から出血している他、目立った外傷はなさそうだ。

 机には食べかけのフィナンシェが置いてあった。近くのコンビニで売っている、袋に入った食べきりサイズの小さなものだ。明川がこんなものを食べるのは少々意外だった。

 凶器に使われた木彫りの熊は隣の机にあり、頭部に被害者のものと思われる血が付いている。横になっているところからして、犯人が無造作に置いたと見ていいだろう。

 他にも手がかりがあるかもしれないと考え、千晴はしゃがみこんで被害者の周辺を観察する。脱げかけたスリッパ、床に置かれた被害者の鞄。そこから出入り口の方へ視線を向けると、小さな破片が落ちていることに気付いた。

「これは……?」

 そっと指で拾い上げる。ごく小さな朱色の破片だった。どこかで見たような気がするが、あまりに小さいために思いつかない。

 出入り口まで進んでみたがその他に怪しいものは見つからなかった。立ち上がり、破片を凶器のそばへ置いておく。

 くるりと事務所を見回してから、千晴は容疑者たちへ目を向けた。

「では、アリバイの確認をさせてください」

 一人目の容疑者、高津英策は堂々と語った。

「私が仕事を終えて事務所を出たのは定時後、確か17時10分頃だったはずだ。それから自宅へ戻り、夕食をとったのが18時30分。食事を終えたのは18時45分で、その後はずっと書斎にいた。まだ明川君が帰っていないのかと不思議に思い、様子を見に来たのが20時のことだ」

 千晴はメモに書き留め、空白の時間があることに気付く。彼が本当に書斎にいたかどうか、証明する人がいなければ犯行は可能となる。

「ありがとうございました。では、次に溝田さん。お願いします」

「はい。私は定時になってすぐに帰宅しました。17時ちょうどだったと思います」

 彼女は普段通り、明るくてきぱきと答えていたが、しきりに片手でもう片方の手を握るようにこすり合わせていた。

「それから自分の家へまっすぐ帰ったので、家についたのが17時45分くらい。最近お気に入りのVtuberの配信が18時からで、それに間に合わせるために早く帰ったんです」

「それからはずっと家に?」

「はい。私は一人暮らしなので、アリバイを証明してくれる人はいません」

 そう言って溝田は少し苦笑した。

「なるほど。それじゃあ次、万桜ちゃん」

 と、千晴は妹へ視線を向けた。

「えっと、わたしは大学から帰ってきたのが18時50分くらいで、事務所にまだ明かりがついてたから、誰がいるのかなと思ってのぞいたの。そうしたら明川さんが残業していたから、声をかけて少し話をしたよ」

 万桜は少し不安げな口調だった。

「少しってどれくらい?」

「五分くらいかな。で、帰り際にお仕事頑張ってくださいって、コンビニで買ったフィナンシェを差し入れしたんだ」

 明川が食べていたのは万桜からもらったものだったようだ。

「それで家に帰って、夕食をとったのが19時ちょうどくらい。19時半にはもう、自分の部屋にいたよ」

「19時半、か。顔を合わせた人物は?」

「母さんだけかなぁ。あ、でも書斎の方から父さんがいつも聞いてるクラシックが聞こえた」

 書斎は一階にあり、夫婦の寝室でもあった。プライベートな時間にはクラシック音楽を流すのが父の定番だ。これで父のアリバイが証明されたが、今度は万桜が本当に部屋へ戻ったかどうかが疑わしくなる。

「なるほど、ありがとう」

 千晴は三人のアリバイを見比べつつ、父へたずねた。

「被害者のスマートフォンを見てもいいですか?」

「ああ、もちろん」

 一度メモを置き、被害者の鞄からスマートフォンを取り出した。指紋認証を被害者の指で突破すると、画面に現れたのはメッセージアプリだ。

「うわ……」

 溝田とのやり取りが残っていた。操作して前の画面へ戻ると、万桜とのやり取りもあった。しかも新着表示のまま、未確認だった様子だ。

 おそるおそる開いてみると、被害者が一人で残業していることを知らせていた。それに対して万桜は、50分頃には着くという内容を送っていた。

 それ以前のやり取りは日付こそでたらめだが、二人が親密な関係にあったことを演出している。溝田の方も同じだった。

 スマートフォンを机へそっと置いて、千晴は「うーん」と、苦笑いをしてしまう。そもそも明川は既婚者で子どももいるはずだ。問題を出すためとはいえ、その現実を無視した設定はいかがなものか。

 万桜と溝田の方を振り返って、父へ文句を言おうかどうかと迷ったところで、ふと千晴は気付いた。彼女たちの後ろに見える簡易キッチンに置かれた電気ポットだ。いつも溝田か千晴が帰る前にコンセントを抜いているはずなのに、何故か差されたままになっている。

 しかし今日も確かにコンセントを抜いたはずだ。後から誰かがコンセントを差したことが明らかだった。被害者がコーヒーでも淹れようとして差したのだろうか?

 考えてみてすぐに否定した。鞄の中に飲みかけのお茶のペットボトルが入っているからだ。そもそも被害者は電気ポットをあまり使わない。

 千晴は首を傾げ、あらためて考えてみることにした。


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 17:00 定時で溝田が帰る

 17:10 高津が帰る

 17:45 溝田、帰宅

 18:30 高津家夕食

 18:45 高津、夕食を終えて部屋へ

 18:50 万桜、事務所に顔を出して被害者と会話する

 19:00 万桜、帰宅後に夕食をとる

 19:30 万桜、この時にはすでに自分の部屋にいた

 20:00 高津、事務所へ様子を見に来たところで被害者を発見


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 木彫りの熊で後頭部を殴打されて殺害された。

 被害者は万桜と溝田、両者と親密な関係にあった。


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 小さな朱色の破片。

 何故かコンセントが差されている電気ポット。


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「これだけで犯人が分かる、んですよね?」

 と、不安になった千晴が父を見ると、彼はにやりと笑ってみせた。

「さあ、どうだろうね」

 さすがに肝心なことは教えてくれないようだ。

 もしかしたら他にも何か手がかりがあるのかもしれない。どこかに見落としていることがあるのかもしれない。

 千晴は再び事務所の中を調べ始めた。

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