雨空の下の泣かない少女

さなこばと

第1話 気になる女子

 わたし、ずっと、雨に打たれているみたい。


 授業が自習になった騒がしい教室の片隅で、そう話したのは千崎佳那ちざきかなだった。

 佳那は当時のクラスメイトで、同じ小学四年生の中でも頭が良い、背の低い女の子で――最後にはきっと友だちになれていたと思う。

 こちらとしては初めて言葉を交わしてからずっと、友だちという認識だったのだけれど。


 六年が経った高校一年生の春。

 夜も更けた曖昧な時間、戸島秋人としまあきとは自分の部屋のベッドに寝転んで、ぼんやりとした目を天井に向けていた。

 耳朶を打つのは大雨が降りしきる音だ。

 室内にこもって響く激しい雨音は、秋人の気をそぞろにさせ、なかなか眠りに入らせてくれない。

 長雨が降ると、秋人は決まって佳那を思い出すのだ。


 眠れることを望み、目を閉じる。

 夜の闇を騒がしているこの雨も、予報では明け方には収まりを見せるはずだ。

 体を布団にくるませて、何度目かの寝返りを打った頃。

 不意に枕元に置いているスマホが音を鳴らした。

 半目になって通知の内容を確認して、秋人は一気に目が覚めたような心地になり、飛び跳ねるようにして起き上がった。


 四月の終わり、ゴールデンウィーク初日の夜だった。


  ***


 六年前、新四年生になったばかりの秋人はひとつ前の席の女子にキレていた。まだ話したことはないけれど、きっとろくでもない奴だと思っていた。

 千崎佳那。クラスで一番背の小さい女子。

 そしてクラス一の不届き者。

 授業態度がとにかくひどいのだ。

 黒板の前で先生が話しているのを聞きもせず居眠りするのは当たり前。朝の一時間目は遅刻ばかり。昼休みはどこかへと姿を消し、授業開始直前で戻ってきては机に突っ伏してしまう。

 教室では誰とも話さないし、どんな子なのかもわかっていないけれど、秋人は不真面目な奴が嫌いだった。

 秋人は席についたまま腕組みして、前に座る彼女の後頭部を見やる。

 もの静かで賢そうなのに。

 月の半ばにある学力テストも、こいつは最下位だろうなと、内心見下した目線を向けていた。


 だから、ゴールデンウィークを目前に控えた四月の最終週にテスト結果が返ってきて、ふと前を向いて盗み見してしまった佳那の点数に、秋人は椅子から転げ落ちそうになってしまったのだ。自分が正答率九割で満足していたことを恥ずかしいと思うくらいだった。

 佳那の解答用紙の右上に書かれたのは、一〇〇という最も偉大な数字。

 唖然とした。

 なんだこいつ、と思った。

 得体の知れないホラーを、目の前の席に座る佳那の背中に感じたのだった。

 それで、放課後に声をかけてみようと決めた。

 化けの皮を剥いでやるという気持ちがあったのは確かだし、それとは別に心のどこかで怖いもの見たさがちらついていたのも本当だった。

 秋人の単純な興味関心が、佳那への嫌悪感を越えていこうとしていた。


 休み時間には決まって教室にいない佳那。

 様子をうかがう秋人は帰りの会が終わってチャイムが鳴り終わるとともに、席を立って前に座る佳那に声をかけようとしていた。

 が、それは果たされなかった。

 秋人がランドセルに目を向けて「よし」と意気込んだ一瞬に、佳那は立ち上がっていて、自分のランドセルの肩ひもを手で握りしめ足早に教室を出ていったのだ。

 呆然とするしかなかった。

 佳那はどこに行ったのか。

 忸怩たる思いで秋人もまたランドセルを持ってドアへと急いだ。

「アッキー、これから校庭でサッカーしない?」

「ごめん! 今日はダメだ、じゃあな!」

「あ、うん。じゃあね!」

 友だちの誘いもこのときばかりは内容をしっかり聞きもせず、秋人は駆けるように廊下へと向かった。

 右にはいない。

 左の階段付近に、いた。

 上ろうとしている。

 なんでだ。上の階は五年生のクラスが並んでいるのに。

 疑問符を浮かべながら、秋人は児童が賑やかに行きかう廊下を早歩きで進んでいく。

 階段を一段飛ばしで上って、上階にたどり着き。

 佳那の小さな背中を追おうと周りを見回し。

 廊下の隅の目立たない場所で、うずくまっている佳那がいて。

 上級生たちに足蹴にされているのを見た。

 秋人は混乱し、何も考えられなくなった。

 それから我に返って、真っ先にしたのは、バレないようにその場から離脱することだった。


 佳那はいじめられている?

 こんな目のある場所と時間帯に。

 先生も絶対に気づくはずなのに、もしかして黙認しているのだろうか?

 その日の夜、秋人は家の自室のベッドに転がって、答えの出ない問いをひたすらに投げかけていた。

 よくよく考えれば、佳那が授業中に居眠りしているのも先生たちから何か言われているのを見たことがない。

 佳那の不真面目にばかり目がいっていたけれど、やっぱりおかしなことだったのだ!

 ……それなら。

 実態を知ってしまった俺が何とかするしかない。

 天井を見つめる秋人はただならぬ不安とともに、心の奥が燃えてきた。

 弱きを助けるヒーロー願望を、秋人は持ち合わせていたのだ。


 翌日、秋人は思いついた一つの案を実行に移すことにした。

 佳那が授業に何をしてもお咎めなしなら、それを利用すればいいのだ。

 一時間目は国語。担任の篠田先生が教科書を片手に物語の読み解きを話している最中、秋人は机の下から足を伸ばして佳那の席を蹴った。

 机でお休み中の佳那がゆっくりと顔を上げて、ちらりとこちらを振り向いた。

 秋人はアイコンタクトのつもりでまばたきをぱちぱちさせると、無言でノートの切れはしを差し出した。

 教卓のところにいる先生はこの様子を視界に入れているはずだけれど何も言わない。

 少しの間があって、佳那は頷いてから紙片を受け取ってくれた。

 秋人が書いたのは、こうだ。

『元気?』

 佳那は筆入れからシャーペンを取り出して、紙にさらさらと書きだした。

 そしてリレー競走のバトンパスの練習を思わせる後ろ手で、そっと渡してきた。

 返って来たのを見ると、自分の書いたメッセージのすぐ下に、

『おはよ。元気だよ。ねむねむzzz』

 と、可愛らしい丸文字で書かれていた。

 ちゃんと返事があったことに秋人は喜びが募った。これで佳那のことを知っていって、いつか救い出してやるんだと、それが自分に課せられた使命なのだと思った。

 秋人はその志を信じたのだ。

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