第12話
伊野崎の家を訪問するのは、編集担当の雨宮だけという以前の状態に戻った。
玄関に現れた雨宮は、靴を脱ぎながら訊く。
「前回のこと、どこまで覚えてますか?」
「生憎、記憶は飛ばないんです」
伊野崎は理性を失うだけで、記憶は飛ばない。
猛省した。
外で発言していい言葉ではなかった。
「二人には、ご迷惑おかけしました。申し訳ない」
「先生が、あんなに口が悪いなんて思ってませんでした。近所から苦情は来ませんでしたか?」
「なかったです…」
もし、あんな場面を目撃されていたら、白い目で見られるどころではない。
「名の知られた作家なんですから、トラブルになりかねないことは今後やめてください」
雨宮の苦言は至極もっともだった。
「はい」と伊野崎は素直に返事をした。
雨宮は、敢えて柴が誰だったか聞かないらしい。
伊野崎はそんな雨宮に感謝する。
柴のことを人に説明できる自信がなかった。
仕事部屋に案内し、雨宮が紙袋を差し出す。
「ファンレターとサイトに寄せられた感想も印刷しておきました。やはり、神楽は人気ですね。あと、これは参考資料のまとめです」
「ありがとうございます」
受け取りながら、パソコンの電源を入れた。
次回作の練り合わせは、休憩を挟みながら二時間で終わった。
雨宮は帰り支度を済ませ、腰を上げる。
「社内は年末進行が始まってます。先生とは今日が今年最後かもしれません」
頭を下げ合い、年末の挨拶を交わし、雨宮を見送った。
朝が来て夜になりを繰り返し、クリスマスがきた。
カットされたケーキとチキンを一人で黙々と食べて過ごす。
もう正月だ。
元旦に一度だけ実家に顔を出しただけで、年末年始を一人で過ごした。
そして、一月も過ぎていく。
仕事の合間、どうして柴は会いに来ないのだろうか、と不意に不審を抱く。
柴のマンションの近くを通る時、何かを期待するかのように鼓動が早くなる。
もう二ヶ月、姿を見せない。
毎日、雨の日も現れた柴が、突然いなくなった。
なぜ、会いに来ない。
そして、どうして自分は柴を待っているのだろうか、と自問する。
「幸せになって」と言われ、涙が出たのは、なぜだろう。
ポストを開けても、柴からの手紙はない。
捨ててしまう手紙なら、待たななくて良いはずだ。
寒い日が続いた、ある日、ポストを開けると、クラス会案内の葉書が届いた。
高校三年のクラスだ。
柴が学級委員長だった。
一ヶ月後の日程を確認する。
伊野崎は、出席に丸で囲み、葉書を投函した。
柴が出席するかは、わからない。
それでも、会える機会を逃すことができなかった。
三月初旬。
クラス会の会場は、貸切のスポーツバーだった。
受付を済ませ、奥に入ると、すでに二十人以上の男女が集まっている。
黒と赤の内装でカウンター席とソファ席があり、席のない丸テーブルも点在し充分な広さがあった。
卒業したのは、十五年前だ。
高校生に戻ったような感覚になる。
「伊野崎」と呼ぶ声。
「足立。久しぶりだな」
仲が良かった足立は、前回会った時よりふっくらしていた。
「お前、相変わらず年齢不詳だな」
と、足立に言われる。
開始時間になり、乾杯の合図を幹事の葉山がすると、自由に飲食が始まった。
伊野崎は足立と共に歩き回った。
たまに名刺をもらうが、伊野崎には、渡す名刺がない。
小説家デビューを知っている同級生もいた。
柴がいない。
幹事を捕まえて、訊いてみた。
「葉山。柴は欠席か?」
「柴は遅刻して参加だよ。伊野崎、卒業以来だよな。久々」
葉山は、陽気でスポーツ万能な高校生だった。
「十五年ぶりだな」と伊野崎は応じた。
「小説家になったらしいな。今度買うよ。その髪型似合ってるな」
「あ、ありがと」
伊野崎は、長めの黒髪を首の後ろで縛っていた。
葉山がニカッと笑った。
店員に幹事が呼ばれると「また後で話そう」と言って葉山が離れる。
一通り同級生と会話し回った後、カウンターに落ち着き足立とビールを飲む。
入口に近い席の伊野崎は、一時間遅れて柴が入ってきたのを、目の端でとらえた。
スーツ姿だから、土曜日でも仕事だったのだろう。
柴と目が合う。
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