嫌いになりたい
犬白グミ ( 旧名・白 )
第一章 夏生
第1話
誕生日の七月十三日の夜、時計の針は、とうとう十二を過ぎてしまい、正解には、昨日が誕生日になってしまった。
記念すべき二十一歳の誕生日の夜を、
一人暮らしの部屋で、重く長い息を吐き出した。
午後十時過ぎに、仕事で行けそうにない、とメッセージを受信した後、健からの連絡が途切れた。
何時でもいいから来て欲しいと、返信したが、既読すらつかない。
社会人二年目の彼が、恋人より仕事優先するのは構わない。
会う約束が前日や当日になくなっても、責めたことは一度もない。
ただ、誕生日ぐらいは無理をしてほしかった。
一週間前に夏生から何気なくを装い、十三日に会う約束をした。
誕生日だから会いたいとは、言わなかった。いや、誕生日だと言っても、キャンセルされたら、もっと怖くて知らせなかったのだ。
二人でお祝いした去年の誕生日も忘れらたようで、健の心の中も疑ってしまう。
せめて、声を聞きたい。
健の携帯番号の発信をタップする。一時間前にもかけたが、呼び出し音が鳴るだけだった。
まだ仕事中かもしれないと諦めかけた時、繋がった。
「健、仕事終わった?」と、夏生は訊く。今から会えるだろうかと少し期待する。
しかし、返ってきた男の声は、健ではなかった。
「
「あ、いえ、起こさなくて大丈夫です」
夏生は慌てて、すぐに切った。
誰だろう。どこだったんだ。寝てるって言ってなかったか。実家暮らしの健が、どこのベッドで寝てるんだろう。
頭の中で消しては現れる浮気という言葉を、ビールを飲んで消していく。
誕生日に一緒に乾杯しよう、と言われたのは、いつだっただろうか。
翌朝。
スマホのアラームで目を覚めると、床で寝ていた。
夏でなければ、風邪をひくところだ。
健からのメッセージを携帯の中に探すが、何もなく落胆した。
寝不足の体で自転車を飛ばし、全国展開するカフェを目指す。
平日の午前中、夏生は駅前のカフェでバイトをしている。
大学と駅の中間に位置する学生マンションから、自転車で十五分かからない距離だ。
通勤通学の混雑する七時から十一時まで、注文カウンターの後ろで、機械的にドリンクを作り、番号札の順番に渡す。
客足が途絶えほっと息をつく頃、健が来店した。
「いらっしゃいませ」と、挨拶する。
白いシャツに濃紺のネクタイ姿だった。短めの黒髪が、いつもより乱れていた。
注文したアイスカフェラテ二つを渡す。
健が殊勝に謝った。
「夏生。昨日ごめん。打ち合わせが長引いて。終わったのが深夜だった」
健の声は低いのに軽い。
曖昧に頷き、夏生は目を逸らした。
遅くなってもいいと、メッセージを送ったのだけどね。
昨日は誕生日だったんだ、と言うのを堪えた。すっかり忘れている健の様子に、ぶつけたところで虚しいだけだ。
「また、連絡するから」
アイスカフェラテを受け取ると、健はすぐに店を後にした。
連絡するから、連絡するなってことですか。夏生は卑屈な自分に隠れて苦笑した。
昨日の誕生日の惨めさが、黒い靄になってぐるぐると頭の中を旋回し、バイトが終わっても、着替えて大学に行っても、付き纏った。
夏生は経済学部の三年生だ。
健とは、大学のボランティアサークルで知り合った。
夏生が入学した年、健は四年生で一年間だけ一緒に活動した。
ゲイの夏生は、異性も同性も恋愛対象だと公言する健と、視線が合うとどきっとした。
健が夏前に出版社の内定が決まると、夏生と顔を合わせることが増えた。
なぜか隣に健が腰を下ろし、会話を楽しんだ。
泣きぼくろがある健は、笑うとくしゃと目元が細くなり愛嬌がある。
ある時「まだ男と付き合ったことはないんだ」と健がぼそっと言った。
夏生は、徐々に健を好きになっていた。
付き合いはじめたのは、一年半前、健が卒業した時だ。
「付き合おう」と、言ったのは健の方だが、最後に告白しようと呼べ止めたのは夏生だった。
自転車置き場から近い、大学の中で二番目に広い学食に迷わず入った。
学食の扉を開けると、夏生が最も会いたくない人物と遭遇してしまった。
踏んだり蹴ったりだ。
美香は健の元彼女で、夏生と付き合う一年前、今から三年前に別れたらしい。
夏生より一つ上だ。可憐な容姿をしているが、気が強かった。
美香が近寄ってくる。
「小野田くん久しぶりね」
「久しぶりです」
仕方なく夏生も、挨拶する。
美香は何十本も小さな針を含んだ声で言う。
「健に、また浮気されちゃったりしてない?」
夏生がバイセクシャルの健と付き合う難しさを理解したのは、恋人になった半年後だった。
順調に進んでいたはずだった。夏生は、そう疑っていなかった。
しかし、今から一年前、元彼女の美香は「昨日、健とホテルに行ったわ」と、わざわざ夏生に報告した。
どこから夏生のことを知ったのかわからなかったが、健の現恋人が男だと聞き、嫌悪したのだろう。
「別れたら」と、美香は言い放った。
頭の中がまっしろになった。
すぐに健に問いただすと、頭を下げ謝罪された。
ホテルに行ったのは、事実。「酔っていた」と言った。「何もしてない、未遂だから」と言った。
その時、夏生と健は、まだ挿入までの行為に慎重になっていた。健も、アナルセックスは未経験だった。
初めての恋人と、キスをし肌を触れあうだけで満足していた夏生は、なんて馬鹿だったのだろう。
異性なら簡単なんだろうな。
そもそも、なんで会っていたのかと問うと、二人で会ってはいないと返された。
「浮気はしてない」と言う健と「浮気されたのね」と笑う美香。
「信じてほしい。夏生と別れたくない」と健は、肩を抱き懇願した。健の体温に安心した。
結局、健を信じて別れなかったが、これで良かったのかと、夏生の中で、今もなお燻っている。
学食の前で、美香が「それとも、もう別れてた?」と笑い、流石に夏生もカチンときた。
その時、背中を押す力に振り返ると友人の
「相手にするな」
芳田は腕を引き、美香から逃げるように学食を進む。
「大丈夫」
夏生は、握りしめた拳を緩めた。
人の波に乗り、カレーライスとサラダをトレイに乗せて支払いをし、奥の四人掛け机に並んで座った。
「女子じゃなかったら、殴ってるとこだよな」
そう言って、芳田は炒飯とラーメンを食べ始める。
男を好きだと隠していた夏生だったが、健と繋がりのあるサークルメンバーには知られてしまった。美香や芳田も、その一人だ。
美香が今でも健を好きだとは思えないが、夏生を嫌いなのは確かだ。
芳田は先に食べ終わった。
「これから、駅前の書店で作家のサイン会があるんだ。夏生も行かないか?」
「誰の?」
夏生は、カレーライスを飲み込む。
「伊野崎しょう」
「あ、健が担当してる作家だよ」
サイン会の準備の途中で、健は夏生のバイト先に寄ったのかもしれない。
そして、昨日の電話口で伊野崎と名乗った人物が誰かわかった。
次の講義がある夏生は、悩んだが行くことにした。
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