差し伸べられなかった手で空を覆った

楠富 つかさ

わたしは考える何なのだろう?

 目を閉じれば今でも鮮明に彼女を思い出す。心の奥底を見通す瞳に、何度も口づけを交した唇、艶めかしい肢体も、甘く高貴な香りも、その熱も……。けれども最後は真っ赤に塗りつぶされてしまう。

 生きることの意味を、彼女は問い続けていた。誰かに命じられているわけでも、騙されているわけでも、頼まれているわけでもないけれど、多くの人は自分の生を疑わない。

 けれど、わたしは違う……。頼まれたんだ。彼女に。生きて、と。

 だから……悔いてはいけない。あの時、手を差し伸べられなかったことを。助けることも、後を追うことも出来なかったことを。

「……ヒガンバナ」

 彼女が好きだと言っていた赤に一陣の風が吹く。わたしは不意に、秋空を手で覆った。



 一目見たときから、否。その姿を視認せずとも惹かれていた。真後ろに感じるそのオーラに、私はプリントを渡す時すら振り返ることを躊躇ったくらいだ。

 市内トップの進学校に入学し、まだ間もないというのにわたしはすっかり孤立してしまった。もとから人と打ち解けることなど大の苦手だったが、背後にたたずむ圧倒的なオーラがそれを加速させている。

 出席番号一番のわたしは自発的に声を掛けられない性格がたたって、席から立つことはトイレや移動教室など最低限のみ。加えて背後に近寄りがたいオーラを放つ人物がいれば、誰もわたしに声をかけてくれない。そんな日々が一週間強も続けば、クラス内にはある程度のコミュニティが形成されるのもやむなしだ。


「……次、美術かぁ」


 この学校では選択芸術として美術、音楽、書道の三項目から一つ選ぶことが出来る。わたしは部活動が強制された中学時代に美術部に所属したこともあって美術を選んだのだが……。そこでなら誰かと話すことは出来るだろうか。

 初めて入った美術室は中学のそれより広く、それでいて油絵具の臭いが懐かしく感じられた。


「皆さん初めまして、美術を担当します丹下あさみです。初回から持ち物を指定してしまってすみませんでした」


 美術の先生は若く綺麗な女性だった。細腕だというのに、段ボールから取り出した二十冊近いスケッチブックを教員用の机に載せる。


「2Bより濃い鉛筆、ありましたか? 持ってないよっていう方は、これからスケッチブックを取りに来てもらいますので、その時ついでに持っていってください。鉛筆は授業終了後に返してくださいね。じゃあ、こっちが三組。相田くんから。で、こっちが四組。猪俣さんから」


 選択美術は人数の都合で二クラスまとめて行われる。窓側に座っていたわたしから四組の生徒がスケッチブックを受け取りに行く。学年色の緑色のスケッチブック、その表紙に取り敢えずクラスと名前を記入する。


「じゃあ、初回……というか今月の課題を発表します。皆さんには、今向かい合っているクラスメイトの似顔絵を描いてもらいます。雑談も自由。これを機に仲良くなってください。勝手にペアを変えちゃだめだよ。じゃあ、取り敢えず挨拶して」


 ……ずっと隣を向けなかったのは彼女がいたから。視界の端に入るくらいに留めていた彼女を、まじまじと見ることなんて出来るだろうか。

 まずは……挨拶をしよう。そしてそのまま俯いていよう。


「えっと、猪俣、愛弥です」

「貴女、ずっと怯えているわよね。私は卯花彩瑛。あいみってどういう漢字?」


 問われてわたしはスケッチブックの書いてあった自分の名前を見せる。卯花さんも同じように名前を見せてくれた。


「俯いていたら描けないでしょう? ほら、面を上げなさい」


 日常的には言わない言い回しだというのに、彼女が言えばすごく自然に思えてわたしはすっと顔を上げた。


「……綺麗」

「ふふ。なによ?」


 きっと、どれだけ言葉を飾り立てようと彼女の美しさを半分を表せないだろうし、わたしなんかが描くなんて畏れ多いことなのかもしれない。


「貴女だって綺麗な顔をしているじゃない。ほら、前髪を上げて……眼鏡を外してごらんなさい」


 彼女の白磁のような手が伸びてくる。綺麗な指に薄ピンクの爪、冬服の袖から覗くメタリックピンクの腕時計が上品でありつつ可愛らしくて、あげくになんだか良い香りまでして……。圧倒的な美に飲み込まれてしまいそうだった。ただ、


「眼鏡は……返してもらわないと、描けないですよ……」

「ここまで近付けば見えるかしら?」


 卯花さんが徐に机に肘をつけて前屈みになる。顔をぐっと近づけられ、わたしは恥ずかしくて視線を下に逸らすのだが……そうすると今度はセーラー服の隙間からぱっくりと胸元が見えてしまって首ごと顔を逸らさざるを得なかった。


「貴女、キスしたことないでしょ?」


 頬を両手で押えられ、まじまじと目を見られる。もう逃げ場なんてなく、宝石のように艶やかな双眸に射貫かれるばかりだった。卯花さんが僅かに舌なめずりするのが見えた。


「まぁ、私もしたことないんだけど。にしても、他人の唇なんてそうそう見る機会ないけど……猪俣さん貴女、唇の端が少し荒れているわよ。生活リズムが崩れているんじゃないの?」


 やっと解放してくれた卯花さんだったが、思いも寄らないお小言を言われてしまった。


「まぁいいわ。ひとまずデッサンを始めましょうか」


 イーゼルなんて無い、ただただスケッチブックを机において絵を描いているだけだというのに、彼女の姿は一幅の絵画のように輝いて見えた。


「貴女、絵は得意? せっかくなら綺麗に描いて欲しいじゃない?」

「い……一応、中学では美術部だったけど……」

「そう。どこ中?」


 ……あたりさわりがないというか、こういった定番の会話が出来ることが少しだけ嬉しい。


「空野二中。えっと、卯花さんは?」

「相摩西中学校。美術部だったわ。ここでも美術部に入ろうと思っているけれど、貴女は?」


 こ、これは所謂お誘いなのでしょうか……? けれど、卯花さんみたいな眩い人の傍にいたら、紛い物の翼は溶けてわたしはきっと地に堕ちてしまう。わたしはそっと首を横に振った。


「そう。それも自由よ。ここは部活動強制じゃないもの」


 わたしたちが通う空の宮高校は学問重視。実際、部活動の数も少ない。商業施設も民家もある雑多な地域で、土地の確保が難しかったのだろうか。いや、歴史がある学校だから地主と折り合いがつかなかったのだろうか。とにかく敷地が狭い。野球部もサッカー部もない。炎天下の応援に行かなくて済むからとてもありがたいことなのだが。


「ほら、手が止まっているわよ。……猪俣さんは、私のこと忘れないでいてくれるかしら?」

「……え? きっと……忘れられないと思うよ」

「そう……なら、いいわ」


 その時の優しい笑みが心にひっかかって、少し遠くから……けれど他の人たちよりは近くから、見ていたいと思うようになったのだ。

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