アンダートゥ

蛇藤ただの

なぜ夜闇は私を排するのか

第1話 死から生まで

 破滅の記憶だと思ったのかもしれない。

 私は一人、悪意で塗装された道を進み、そして手繰り寄せた。




 *




 初めの記憶はだ。匣のなか。

 一面の灰色が、視界を埋め尽くす。

 外から嵐の轟音と暴風が叩きつける。まるで恐ろしい怪物が殴りつけ、彼を引き摺り出そうとせんばかりに。

 水音に混じって聞こえる、地から響くような低音の叫び声が彼の中のなけなしの生への渇望を刺激した。


 その子は折れそうな体躯をしていた。何日も替えてない包帯を巻いた右腕を下に体を丸め、涙を飲んで横たわっている。痩せた体を痛めつけるように全身に力を入れて細い肩を震わせ、抑えた口元から悲鳴とも取れる吐息が漏れる。

 未だあどけない顔つきーー5、6の歳の頃だろうか?ビスケット色の柔和な髪が額に張り付くほどに怯えていた。


「神様…」


 匣の壁を隔て、救いを求める声が聞こえた。外にも人がーーいや、隣にも匣が。認識した瞬間、両脇から、上下から、震えが壁越しに伝播してきた。

 同じ状況の同士がいる。ほんの少し心強く感じる。しかし案の定それは続かない。


 頭の上の方。何かが横切った。

 つい先ほど神に祈る言葉を発した匣が、呆気なく破られる音がして。まさに断末魔と形容するしかない、とびきりの悲鳴が瞬間的に充満した。悲鳴の主は暴れながら少し遠ざかり、数秒もしない内にパタと気配が絶たれた。


 …どうしたことか、打ち付ける雨風は変わらないが確かにそれまで存在していた異形の気配は消えたようだった。

 時間が経つにつれ、彼の体から力が抜け呼吸が整っていく。彼はゆっくり瞼を閉じ、その黒い瞳を隠した。

 彼が不憫な犠牲者に向ける感情は哀れみではなかった。

 声を発したせいで怪物に目をつけられた愚か者の叫びに、釣られて声を上げそうになった。そのことに対する怒りに…


(もしあれに巻き込まれて僕の壕を破られていたら…良かった。死んだのが僕じゃなくて)


 悲劇を免れた安堵感と、明日をまた迎えられる多幸感。不思議と上がる口角。長めの呼気。



 目を開いた。

 そこに閉塞感はなかった。

 いつも通りの安息の場所だ。彼の暮らす家。


 姿形は幼子から変貌しており、おそらくは9、10の歳頃となっている。


 家族団欒の一間。お気に入りの椅子にいつもの様に座っていた。

 母代わりの女性がーー苦手な針仕事で指先を幾度か突きながら刺繍してーー作ったクッションの感覚があった。


(これは…夢?)


 彼は最近の悩みを思いかえした。

 それはもっぱら夢のことである。悪夢を見る。覚えのない光景に苛まされ、夢を夢と認識した後は…

「    」

 彼女がくる。

 必ず現れる白い少女。口にする音は、およそ人が口にできるものではなかった。何百人もの老若男女が一斉に喋りかけてきたかのようだ。

「     ーーみつけて…」

 彼より一回り以上小さな白く淡い透けた体。その短い腕を後ろから彼の首に回す。

 ひやりともしない腕をはねつけて彼は外へ逃げようと足早に歩いた。


 悲しみ揶揄う様に笑み、白い少女は彼の後をふらふらとやけに輪郭のはっきりした素足を滑らせて追いかけた。

 彼は玄関を焦燥感を抱きながら開く。その先に白い人型の影が揺らいでいる。


(きのうーー前は、もっと遠くにいたはずなのに)


 どうやら日に日に近づいてきているその影に、拭いきれない恐れが湧き上がる。醒めろ、醒めろと心の中で呟く。今もまた…白い影は玄関前の長い階段を登る途中だろう、手すりに指をかけず緩慢な動きでシルエットは滑る。


「ここまで来たら待てると思うの」


 白い少女が、彼の顔の目の前に逆さに顔を出した。彼女はさもそれが当然だと言わんばかりに、浮いている。開いた赤い瞳孔、口角の釣り上がりを抑えきれないのか歯を覗かせながら、口がするすると動いている。 


「私に縋るその時まで」 

 醒めろ。



 *




「毎日…ハッキリ思い出せないけど、赤い目の女の子が出てきて…白い影が日に日に近づいてきてるんだよ!」

「御神木の精霊さんかなぁ」 


 チーズがたっぷりのったパンを片手に、適当にあしらうように冗談ぽく言い放つ。彼女のかける大層ゴツゴツとしたゴーグルのレンズに、口を歪ませたアルバの顔が反射している。


「んな気味悪いのに付き纏われるいわれは…」


 村を守る御神体とされる大木。隆々とした根に入り口の隠れたこの場所は、彼女ーーセイカと数年かけて改造した二人だけの秘密基地だ。

 今は使われなくなった古い地下貯蓄庫だろうここは、初めて見つけた頃の面影を失っていた。夥しい量・種類のランプ。赤か青で揉めて結局二色並べた絨毯。村中回ってかき集めたガラクタ。

 その中でもとりわけ豪勢だと言える肘掛け付き一人用ソファーを取り合って、今日もまた低いテーブルを囲む。


「…神聖な場所にあんまり寄りつくなって言いつけを聞かなかったからかなぁ?」


 学者気取りの彼女は目の前の紙切れに夢中だ。チーズの油でべたつく指を舐め取りながら、 


「おかあ様たち大人はなンにだってそうやって口出ししてつまらなくするわ。実害ないなら大丈夫よ!怖くなってここのこと喋ったりしないでよ。

 ね、それよりこれって何に見える?」 


 古ぼけた巻き物の絵を指さした。


「竜が火を吹いてるように見えるけど」

「うーん、そうよねぇ。でもワタシたち火なんて吹けないし…何かの暗示?」


 セイカは一週間前からこんな調子だ。

 床下に続く梯子を見つけ、降りて行った先にあった書物の山々。見たこともない文字と独特な挿絵の入った文書を解読するのだ、と一端の学者を気取って意気込んだはいいが、結局読めず絵ばかりを追っている。


(読み書き習い始めたばかりのくせに…)


 セイカは頭に二つ突き立つ角を両手で掴み、ソファーの上で足裏を合わせてゆらゆら揺れている。


 こうなればもうつまらない。

 唯一の遊び相手が自分の世界に入ってしまったのだから。


(何だって隠し部屋なんて見つけてしまったのだろ)


 何十年以上、下手したら数百年眠っていた巻物たちは、不思議なことにかび臭さや埃っぽさがない。少し目を通すだけで、あまり治安の良くない内容だとわかる。獰猛な竜、後光さす黒塗りの偶像、夜空に浮かぶ巨大な…目?

 怖いし何より飽きた。だというのにセイカに熱は一向に覚める気配はない。


「セイカ〜…もう今日はいいでしょ。そろそろ…」

「もうちょっとだけ。これで最後!」


 最低でも日が暮れるまでには家に帰らないといけない。

 最近いっそう帰りが遅くなり、基地に入り浸り長い間姿が見えないことをすでに彼らの母は訝しんでいる。


「じゃあ先に帰って誤魔化しておくけど、長くはもたないからね…」


 石造りの階段を上がって天井の石の蓋を開く。

 外へ出るとまず土や草を足で適当にかけて入り口が分かりにくいように擬装した。


 夕日がまだ煌々と空を赤く染め上げる。御神木の木々の隙間から赤い光が差していた。


 太い幹に手を添え草木をかき分けながら進んでいると、先ほどのセイカの言葉が頭をよぎった。


(精霊…)


 すぐそばを流れる小川。今も踏みしめている草木…すべての''もの''に宿る目には見えない存在。


『精霊にも中には悪いものがいる』


 彼らの母の教えだ。


『悪いものにはそもそも関わらないことが一番。遊び半分で得体の知れないものに手を出してはいけないのよ』


(その時は難しくて聞き流したっけ。それに結局大人の言う事聞けって話に繋がって…)


 反抗期のセイカと母の言い争いを思い出し、クスと笑う。足下への注意が逸れ、うねった木の根に足を取られアルバは転んだ。


「いったた…」


 自分の影に飛び込む形で膝をつく。

 あれ、と気づく。御神木の反対側、夕日に向かうように歩いているのに…


 影の中の双眸と目が合った。


 水気に富んだ生々しい赤い色の眼球。驚きに心臓が跳ね上がり「ひっ!」という情けない声が漏れた。

 影が盛り上がっていき立体を成していく。手らしきものがこちらに伸びる。

 最後まで見届けたくない、と本能が足を無理やり動かして基地に逆戻りした。


(母さんに聞いておけばよかった!)


 ーーこちらが手を出さずとも、向こう側から手を伸ばしてきたその時は、どうすればいい?


 階段を転げ落ちて幼馴染の前に投げ出される。ぽかんと口を開けたセイカは僕を見下ろしていた。


「どうし…まさか誰か来たのっ?」

「違うよ!変なのがいたの!」

「変なのが…?」

「赤い目の黒い化け物だよ!」


 一瞬の沈黙をおいて、セイカはブッと吹き出す。


「きゃははは!さっきの話のせいだよねっ?臆病なんだからぁ!」

「笑いごとじゃなーい!」

「確かにぃ、日が暮れるこの時間は危険だって、魔物が獰猛になるっておかあ様が言ってたけどさ〜そんなの子どもを怖がらせるおとぎ話でしょ?

 白だの黒だの…自分の影でも見間違えたんじゃないの〜?」


 言いながら外に出る。

 落ちかけた夕日以外は同じ光景だった。


「ほらね。悪い精霊も、魔物も、作り話だよ。ワタシたちをこの狭い村に閉じ込めたいの」

「…じゃあ僕の話も作り話だって?」

「そこまでは言わないけどぉも〜また拗ねる!」


 ぎゅっとアルバの頭を両手で引き寄せて胸に抱きしめる。


「(硬い…)ちょっと歳上だからって弟扱いすんなよ!」

「してない〜お互い変な趣味分かり合える唯一の友達でしょっ?」


「…だから、ついてきてくれるよねぇ」

「何の話?」


 セイカはまだ秘密、と言って予告なしに走り出した。


「先に帰った方が今日の皿洗い免除!」

「あーずるいっ!!」


 セイカを追いかけた。骨の形が浮くぐらい痩せた体型のセイカは運動は得意じゃなく、簡単に横に並んだ。




 ーーここは阻む地、竜の泣き巣。

 誰がそう呼びはじめたかは分からない。

 彼らはこの閉ざされた楽園でささやかな日常を享受するばかり。偽物の楽園と知っていながら。





 第一話 死から生まで





 森を出て村の入り口、木のアーチに辿り着いた頃、日は落ち切って辺りは暗くなっていた。同時に引きこもり同然の彼らは体力が尽き、アーチの柱に手をついて肩で息をしている。セイカは家から持ってきていた携帯灯を点けた。


「おーい…」


 汗を拭い顔を上げる。街灯が声の主を照らしていた。


「おじいちゃん!」


 二人して祖父の腰に抱きついた。


「おーほほほ、おかえり。また森に行ってたのか。禁足地には入ってないだろうな〜?」

「入ってない!」


 セイカが躊躇いなく嘘をつくのでアルバは少し安堵した。自分は嘘をつかなくていいからだ。 

 二人祖父の両側に回り、手を繋いで帰路に着く。


 街頭に照らされた石畳。奥地にある丘の上の我が家まで誘うように連なっている。

 亀裂の入った石畳を除ける遊びをしながら歩く。


「族長、お早いお帰りですね。どうぞ、お嬢さんたち」


 露店に差し掛かると、店主が族長に声をかけ、両脇の子どもたちに飴を渡した。


「ありがとう!」


 アルバは嬉々として受け取りすぐ頬張った。セイカは祖父の脇にぴったりくっついて顔を赤らめながら小さくお礼を言った。


「これ、一本だけな。お母さんの作った夕食が入らなくなってしまうぞ」

「育ち盛りですから、これくらい大丈夫でしょう。な、坊や」

「坊やじゃないよ!もう立派な大人なんだ」

「そういえばお嬢さんはもうすぐ成人の儀。楽しみですな」


 人望のある祖父は村人に必ず声をかけられるし、隣にいれば今みたいにおやつを貰えることもある…アルバはにっこり笑った。

 露店を抜ける頃には、バリバリと音を立てて飴を割り食べる。対してセイカは恥ずかしそうにちまちま舐めていた。


「ねーぇ、おじいちゃん。成人の儀って何するの?」

「アルバも大人になる時分かるじゃろうて」

「他の子も一緒に受けるの?」

「うむ。同年と協力して受けるんじゃ」

「ワタシ…嫌よ」


 セイカが足を止めて言った。


「同い年の子たち、意地悪だもん…」


 セイカの同年の二人はどちらも男子で、変人の彼女とは''合わなかった''。彼らだけとじゃない、子どもの少ないこの村のたった一つの学び場にセイカは馴染めなかった。

 繋いでいた手を離して言う。


「やらないからね、そんなのなくったって大人は大人だし…!」


「ねー!あれどうしたんだろっ」


 祖父がセイカを咎め出す前に、アルバが声を張り上げて指差した。

 暗がりの中、数人の大人がたむろっている。ちょうど丘の麓の辺りだった。


「あれは…」

「あっセイカ!」


 セイカは丘の向こう側、裏口に続く道の方に走っていった。悪態に居た堪れなくなったんだろう、とアルバは思った。


「どうも恥ずかしがりで困るの。どれ、行ってみるかな」


 裏道は急な階段になっていて、中腹には階段の脇に腰掛けられるくらいの段層ができている。そこに座って、谷の間から月を眺めるのがセイカは好きだった。


(この村を飛び出して、学者になる…きっとそんな夢をずっと見てる)


 ローブを纏った男たちの一人が、振り返って祖父に話しかけた。


「族長、何かご用がおありですか」

「いや用は…」


 黒い前髪をあげた男の額に生えた、祖父とお揃いの金の角はひどく目立っていた。

 男が片手をサッと振ると集っていた人影が離れて消えた。


「何かあったのかね?」

「報告はまとめて致します。いつも通りに」

「今日は家に帰るのだな?息子よ」

「不純物を取りのぞかぬ限りあり得ないと私は言ったはずですが」※族長は家をあちら側の意味で使っているが、息子は家を族長宅だと勘違いした。息子にとって家といえばそっちなのだ


 冷たい目でアルバを一瞥した。


「お前はいつまでも…アルバ、先に帰っていなさい」


 促される通りに足早に離れた。セイカの叔父にあたるその男の冷めた目つき…慣れることはないだろう。


「後ろに立たないでくださるか」

「相変わらず背後にばかり気を取られおって、お前がこちらを向けばいいだけの話だ」


 坂を登ることだけ考える。途中、不穏の影に呼ばれるように一度だけ振り返った。


 坂の下には白い影がゆらめいていた。


 目にしたものを認める訳にはいかないと、気づかなかったふりをしてアルバは前を向いた。進む速度が鼓動に合わせてだんだん早くなった。


(やっぱりおかしい。夢、ただの夢だったはずなのに…!)


 最後の方には走っていた。慌てた手つきでドアノブを回す。ガチャガチャと音を立てた。


「な、なんで!?」 


 すぐ後ろにまで迫っているような気がする。

 開かない、開かなーー


「待って、すぐに開けるから」


 聞き馴染みのある落ち着いた声色だった。


「もう。壊れちゃうでしょ」

「なんで鍵閉めたの!母さん!」


 金髪を頭の後ろに一つに留め、毛束は肩を通り胸の辺りまで垂れている。暖色のエプロンの花柄に、昔セイカが飛ばしたトマトスープの小さな染みが混じっている。


「鍵は閉めないと。悪いものまで迎え入れちゃ嫌でしょう」


 毛束を手の甲で背中にはねて言う。

 母はアルバの後ろに目をやったので、一瞬でアルバはどっと汗をかき体が固まった。


「あらお父さん。早かったのね」

「おじいちゃん!!気配消して後ろに立たないでよ!」

「お、すまんの…」

「早く!はやく閉めて!」

「どうしたのこの子ったら」


 扉が閉まる途中、夜闇の中に白い影が変わらず揺らいでいるのが見えた。




 *




「さ、神様に感謝して。お祈りしてね」


 母の作った夕食がずらりと食卓を埋め尽くしている。隣に座ったセイカが俯き目を瞑って両手を組んでいる。

 村人は信心深く、朝晩の食事の前には必ず神に祈りを捧げた。


(美味しいご飯は神様じゃなくて食材と母さんのおかげ。そっちに祈ってるのは内緒)


 アルバは母親と自分の血肉となる材料に感謝して祈った後、口いっぱいに詰めこんだ。


「ゆっくり食べるのよ」


 アルバは自分の背がセイカより低いのが嫌で早く大きくなりたいと努めて小さな胃袋にものを詰めるようにしていた。が、母の忠告を素直に聞いて少し速度を落とすことにした。

 母は曽祖母にものを食べさせ、自分は後回しにしていた。アルバが代わろうとしても、いつも『作る途中味見いっぱいしてるからいいのよ』と言う。

 セイカはゆっくりというよりのろまに具材を選んで口に運んでいた。


「セイカ。好き嫌い」


 シチューの人参を避けているのは明らかだ。セイカはひそめた眉で人参をよりのろまに咀嚼した。

(いつも思うけど、さっさと飲み込めばいいのに…)

 食器同士が擦れる音だけが響く。


「そうだ。お父さん、セイカの成人の儀のことだけど…」


 沈黙を破ってくれたのは母だったが、その話題が最悪だとアルバは思った。


「占星で今年の13月は…」

「ワタシ、儀式はやらないわ」


 アルバはごくっとパンのかけらを飲み込んだ。


「どういうこと?」

「どうもこうも、そのままの意味よ」

「それじゃ分からないわね。説明するのよ」

「…」

「母さん、あなたが集いに来ないのは責めないわ。勉強は家で母さんが教えてあげられるし、人付き合いは働き出せば嫌でも学ぶでしょ」


 母は学舎まなびや(竜族の学校のことだ…)で子どもに物を教える仕事をしている。

 そうやって毎日朝から昼まで働き、帰ってからはセイカやアルバに教え、家事をこなし老いた母の面倒をみる。端的に言えばいるのだ。アルバは二人の争いをなんとか止めたいと思った。


「でもこれは違う。これはあなたが私たち竜族の一員だって認められるのに必要なことなのよ。できなきゃ良くて追放よ、分かっているの?」

「分かってる、出ていけばいいって話でしょ?同じ歳頃で従兄弟は出ていったんだから、ワタシも」

「誰にどこまで聞いたか知らないけど、あの子は特例よ。あなたはそうじゃない、自惚はよして」

「…じゃあ今から特例になってあげる」


(一員だと認められる…? じゃボクには儀式いらないのかな)

 考えたことをすぐ口にするきらいがあるアルバの考えは喉まで上がって、そして詰まった。

 見たこともない義理の親の表情に臆したからだ。視線の先にはセイカが持ち出したのだろう巻き物が。


「それはなにーー」

「外に出たら死ぬ」


 祖父が肉を切りながら無粋に言い放つ。片腕は名誉の負傷とやらで動きにくいためキリキリと皿を鳴らしていた。


「大げさだよ」

「言い換えよう。必ず殺される」

「…外界には魔物がいっぱいいるってこと?知能の低い生き物なんでしょ、どうとでもなるよ。それにアルバもいるから」

「え?」


(ボク!?ついてきてってそういうこと!?)


 バン!とテーブルを叩いて母が矢継ぎ早に攻め立て始めた。


「私は随分あなたを甘やかしたようね。

 ナイフ一つ扱えない、戦い方も分からない子ども二人でどうやって生きていくというの?物事には順序というものがあるのよ」。

「あなた達が今学ぶべきは文字の読み書きと簡単な算数と生活の知恵、そして生きるために必要な分だけの処世術。歴史や神学は成人したら!」。

「それがこの村の教育よ。何百年と続く後続の育て方、実に合理的なね!」。


「合理的?こんな窮屈で窒息しそうな山奥に死ぬまでこもらせるための合理?

 ここにいるのは竜族家族だけ、似たような毎日が過ぎて…!

 本当は大人になろうが何だろうが、ワタシたち一生ここから出られない…」


 感情が昂りひとりでに流れる涙の粒が重なって水たまりを作った。


「っほら厄介払いできて、叔父さんも戻ってくるし嬉しいでしょ?」


 アルバはその言葉を聞いて少しだけ傷ついた気がした。という言葉が頭をよぎった。


「…」


 場が沈黙に包まれたかと思うと、異様な空気を察知した。その方を見ると、拳を握ってわなわなと震える母親の姿があった。

 すると突然セイカのそばにあった暖炉の炎が燃え盛った。火の粉がセイカの右半身に散りばめられる。


「あっ…!!」


 後退りし食器棚にぶつかった拍子に何枚かの皿が落ち割れた。


「インシオン! 落ち着きなさい、娘を焼き殺す気か!!」


 一喝に我に帰った母は「あっ」と一転青ざめた顔色になった。


「水だアルバ…」


 暖炉の火は小さく燻る。一方引火したセイカの服の裾や淡い水色の髪の毛を見て、祖父の指示より一歩早くアルバは側にあった水差しの中身を慌ててぶちまけた。


 セイカの頭には毎朝母が生ける花が乗っていた。アルバが水差しだと思っていたそれは花瓶だった。重さのある花瓶が足元を転がる。

 火は消えて焦げた臭いがうっすら香った。


「セイカ!大丈夫、ごめんね…!すぐ冷やさないと!」


 母がセイカに駆け寄る。伸ばした手をセイカははじきとばした。


「もういい! もういい〜!」


 頭の上の萎れた花を投げ捨てる。ちょうどアルバの顔に当たって張り付いた。

 セイカは部屋を飛び出して、階段を駆け上がっていった。


「…今の何?」


 アルバは花を握りしめながら祖父に捲し立てた。


「火がいきなり手みたいになって掴もうとして…!今のって…どうやったの!?」

「お前は大物になるなぁ。どれ、アルバ。ごらん」


 祖父は手のひらを上に、人差し指をクイと引いた。

 花瓶の水が染みた絨毯。そこから拳ほどの水の玉がいくつも浮かび、宙を漂った。祖父に促されて、花を放って花瓶を拾う。水玉は細口につっかえつつ、吸い込まれていった。


「魔法と呼ばれる危険な代物じゃ」


 花瓶のずしりとした重み。自分の顔はさぞ期待に満ちていることだろう。


「ボクにもできる?」

「残念ながら無理じゃ!これ以上は学舎でお母さんに教わりなさい。

 セイカのとこへお行き。追いかけてくるのを待っとる」


 アルバは少し考えてから、側の棚を漁って薬箱を取った。ためらいながら言った。


「あのね…追いかけてきて欲しいのはボクじゃないんじゃないかな…」

「それは…」


 割れた皿の破片を集める母に向かってアルバは両手を伸ばした。



 傍、族長は別のものを見ていた。

 放られた、一輪の黒く萎びた花。食卓を色鮮やかに飾っていたものの変わり果てた姿だった。


(呪われた人間の…)




 *




「セイカ…」


 鍵のかかっていない部屋を開けた。インシオンはそれを意思表示だと思った。


「あのね、さっきは…」


 窓から明るい月の光が差し込み、厚い羽毛布団がまるまると盛り上がったのをしっかり照らしている。


「セイカ?どこかな〜っと」


 うずくまって小刻みに震えるそれをインシオンは布団越しに抱いた。


「やめてよぅ…」

「ごめんね」

「嘘つき…」

「母さん嘘つきたくないよ。本当よ」


 セイカは布団を勢いよく剥いで言った。


「じゃあ嘘つかないで答えて!」


 頷くとまた頭から布団をかぶって俯いた。


「ワタシって本当にお母さんの子なの?」

「…?」


 あまりに突拍子もない我が子の問いに、戸惑いを隠し得ない様子だ。


「何言ってるの?まごうことなき私の子よ!…なんでそう思うの?」

「…みんな言ってるんだって」


『先生って注意ばっかでうざいよな』

『あいつの母ちゃんな。似てないよな。暗くてすぐ黙ってうざいし』

『あ、血繋がってないんだろ?』

『え?それってあの人間のことなんじゃない?』

『違うって!母ちゃんが言ってた。外界で拾ってきた子なんだってよ』

『あーだからかあ。あいつ俺らの中で一人だけ竜になれないし』

「どういうこと?」

『うわっ、びっくりした。なんだよ』

「ワタシも貰われっこって、そんな嘘誰が言ってるの?」

『誰って、みんな言ってるよ』

『ああそれに、嘘だっていうなら証明してみろよ。ほら!』


 幼馴染二人は、そう言って形を変え、空を飛び去っていった。翼の影に覆われて幼かったセイカは泣いた。


 みんな 言ってるよ。


 それは呪いの言葉になった。

 内気で人見知り。そんな自己評価は、いつしか「他人が怖い」という感情に自然に姿を変えていた。

 どこを歩いても、この狭い世界では誰かが自分を見ている。

 吐き気がするほどの閉塞感。


「みんなって誰?そんなのは妄想よ!顔も知らない誰かより私を…家族を信じればいいの」

「叔父さんにも言われたわ」


 数年前、家に人間を引き取ってすぐの頃。叔父は妻と息子を引き連れて出ていった。


『叔父さん、アルバは家族だよ。酷いことするのやめて!』

『愚かしい。面倒を見て救われた心地か?

 お前こそ不純物、妹の不義理の証。見るたび吐き気がする、人間のーー』


「あの頃は意味がわからなかったけど、今なら少しは…」


 インシオンは涙ぐむ娘を見て腑が煮え繰り返る思いがした。


「母さん、何にも分かってなかった。そりゃ嫌だよねぇ。 母さんも嫌だったなぁ…ここで一生、なんて思ってさ。あなたと同じ。外へ…」


 水の膜が張った親譲りのセイカの赤い瞳。インシオンの心を打つのには十分だった。


「母さん誰よりあなたのこと分かっていたはずなのに…! いつも、ずっと、ごめんね。セオンテイカ」


 ぐっと力を入れて抱きしめた。

 セイカはあれほど強かった真実を知りたい気持ちが失せていくのを感じた。子どもみたいに慰められるだけで誤魔化される、と自身を簡単に思った。


 アルバは扉の外で聞き耳を立てていた。

 話す気配は伝わるが内容まで聞き取れない。それでも悪い雰囲気でないことに安堵して離れた。


(人間のボクは置いてもらってるだけで感謝しないと)


 黒い感情が心を痛ませた。

 彼はこの竜族の村においてたった一人の人間だった。


 一番角の部屋が自室だった。最低限の物を詰めた自分だけの城…一つだけある窓に沿わせ配置したベッド。

 食べた後の重い腹を抱えるのに疲れて、ベッドに辿り着く前に絨毯の上に緩慢に倒れ込んだ。

 ゴロッと回って大の字になる。手が触れたのは蝋燭台だった。面倒くさがりの自分は、マッチもすぐ側に置いてあるはず…暗い月明かりの中探り当てる。二本も無駄に擦って、やっと点いたゆらめく小さな火はやけに綺麗に見えた。


(一人だけ異質ってのも楽なもんじゃないんだぞ)…。


 ふと目の端にとらえたものを目一杯手を伸ばして角を掴みよせた。


「日記…?」


(そういえば、ここに来た頃書かされてたっけ?)


 アルバにはそれまでの記憶はない。そのため余計に鮮明にその頃のことが思い出される。





『ここがお前の新しい家じゃ。新しい家族、新しい人生…』


 その家は灰色をしていた。


 もっと言えばその老人の顔もだ。何もかもが朽ち果てるのをギリギリで保っているかのような、そんな不穏感。

 それがの世界だった。


『あの子不気味ではありませんか。子どもなのに…あんな嫌な目をしている』

 好奇と憎悪に塗れた視線。今も変わらない。


『俺らの仲間にして欲しければここから飛んでみろ!』

 崖から突き落とされてできた枝の切り傷の痕。腿裏にくっきり残っている。木がクッションになって助かった…


『おにーちゃんに角つけてあげる!』

 ずっと年下の少女が善意で頭にめりこむように力強く押し付けてきたヤギの角は、実はまだ持っていたりする。


『人間を生かすなんて、正気ですか?必ず災いを呼びますよ…父上私は認めません』

 自分のせいで壊れる一つの家族。それでも居場所はここしかない。


 悪夢を見て毎朝身体中をかきむしった。

 なぜ生きているのか。生きているのか?

 なぜここに在るのか。在るのか?

 毛布にくるまり、手足を出すのすら怯えていた。

 けれどそんな僕を強引に毛布ごと引っ張り出す人がいた。


「や、やあ。初めまして、ワタシはセオンテイカです。おじいちゃんの孫です」


 もじもじと体がくねっていた。

 老人は「緊張しすぎじゃな」と優しい表情を浮かべていた。


「あの子はのーあんな感じじゃから、あまり周りと打ち解けられんでの。毎日森で一人遊びしとる寂しい子じゃ。面倒見てやっとくれ」

「僕よりお姉さんなのに?…」 

 老人は僕が初めて喋ったことに目を見開いた。それをすぐに隠して、

「そういえばお前いくつなんじゃ?」

 冗談ぽく笑った。


 セイカは僕を唯一の弟として、友達として、同志として可愛がった。相変わらずボクは自ら喋り出すことはなかったのだが…それでも構わなかったようだ。

 森での一人遊びとやらに精を出すこともなく、族長の元で連日悪夢に震えて泣く僕を気にかけ毎日ベッドを訪ねてきた。

 ここぞとばかりにの話を聞かせるセイカを諌める彼女の母親ーーおばさんは温かいスープとパンで言葉の代わりに僕を慰める。

 ただ純粋に、セイカと僕は友達だった。セイカは変わっているけどそれが面白くて、僕はとても好きだ。空っぽの頭は徐々に染まり急速に色づいていった。



 時間が経った。

 やがてボクはおじいちゃんの服の裾を握れるようになり、人数は減ったが家族と呼ぶべき人たちとは食卓を囲めるようになった。


 ある日朝日と共に目覚め、誰に言われる訳でもなくそれが当然のように誰より早く食卓の席についた。差し込む光に照らされながらただじっとボクは座っていた。家族で一番早起きのおばさんが珍しく少し遅く起きたのか、急いで朝食の準備をしにパタパタと足音を立てる。


「ジャムはあったかしら」


 独り言を呟きながらカーテンを分けたその先に、そんなボクの姿を見つけ彼女は足を止める。

 束の間の沈黙を切り裂いて、震える声が自分の背の向こうから聞こえた。


「おはよう。…早いのね…」


 ゆっくり近づいてくる気配。


「そう、もういいのね?」


 その意味は分からなかった。振り返ろうとすると、彼女は後ろからボクを抱きしめた。


 ボクはこの時初めて…そう。

 実感が生まれた。

 ボクが生きているという実感が。なぜこの時だったかは説明ができない。黒い瞳に生気が宿った瞬間、灰色の世界が終わりを告げた。

 顔を照らす太陽の光の温かさが、冷たい朝の空気が肺に満ちるのが、ボクの背丈に合わせたクッションの柔らかさが、首筋に落ちる涙と吐息の温もりがーー傷が膿んだボクの心の痛みが! 

 遂に気づいたと言わんばかりにいっせいに、全部の感覚がこぞるように溢れかえった。


 両目から大粒の水滴が垂れ、回された母親の腕に降り注ぐ。

 なぜだろう?こんなにも、痛くて、悲しくて、嬉しいのは…!

 苦手な針仕事でついたろう刺し傷と、水仕事で赤くなったその手が、なんて嬉しい。なんて綺麗なんだろう。朝の澄んだ空気を目一杯取り込んで、醒めるような気持ち。見上げた瞳に反射する眩しい光、痛いくらいだ。


 これが、生きているということなんだ。この胸を張り裂かんばかりの感動が、ボクの存在をボクに知らしめる。



 後から聞いたことだ。ボクは戦災孤児というものらしい。

 どこからか現れた体の半分が焼けた女性が、ボクをおじいちゃんに預けたという。


「戦に巻き込まれたのだろう。 気の毒に…怪我で朦朧とするお前を診る一瞬の間に、女は去ったがーー恐らく生きてはおらなんだ。死ぬ瞬間を我が子に見せるのが忍びなかったのやもしれぬの。ついぞ遺体は見つけられなかった」

「お父さん…」


 母さんは咎める様に心配する様に、口を出さないと決意したのに我慢しきれなかった様子で言った。


 その話を聞いた時、朧げな記憶が浮かんできた。赤い空を背負った、女の人の顔。抱かれたボクが見上げたその顔は、拙い輪郭ではっきりと思い出せなかった。

 何度思い出そうとしても、その顔は…


(その顔は…)



 白い少女の顔が脳内を埋め尽くした。



「あっ!」


 ビクッと体が跳ねる。



 アルバはいつのまにか眠り落ちていた。時計の針は12時を指していて、絨毯の柄に頬が凹んでいる。


「…寝るの嫌だな」


 夢見が悪い。それまでの短い人生で十分証明済。はあーと息を吐いて今度はベッドに、布団を抱くようにして飛び込んだ。手にしていた日記は窓から投げておいた。

 どこにしまったかも忘れていた、とにかくもう必要のない物だったからだ。


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