砂利山スライダー

鳥尾巻

あの頃きみはバカだった

 一時間に一本しかない寄合バスを降りると、梅雨時の曇天の下、白茶けた舗装のダンプ街道が遠くまで続いているのが見えた。周りは見渡す限り山。そして田畑。今にも朽ちそうなバス停脇の小屋の中には赤い前掛けを着けた地蔵が立っている。なんという田舎。

 故郷に戻ってくるつもりはなかった。しかし勤めていた会社が潰れ、三十路間際で職なしになった上、マンションに戻れば一回りは年下と思われる女が3年付き合った彼の上に裸でまたがっていた。私も気が強いので、当然ド修羅場になったものの、追い出されたのは私の方だった。


「しつこいんだよ! 來羽こはねのそういうとこがもう無理だっつってんの!」


 私に殴られて鼻血を噴き腫れあがった頬を押さえた男は最後にそう吐き捨てた。付き合う前は「君は頼りになる」とか「強くてカッコイイ子が好き」とか言ってたのに。そういえば浮気相手は小柄でいかにも男心をくすぐりそうな可愛らしいタイプだった。

 もう少し殴ってやれば良かった。思い出して腹立ちまぎれに足元の小石を蹴ると、粗い舗装に足を取られてヒールの踵が折れた。キャリーケースに掴まろうとするも手が滑ってそのまま膝をついた場所は、連日降り続いた雨で出来た水たまりの上。お気に入りのパンツに泥水が染み込んで、濡れた生地の感触が肌に纏わりつく。


「いったあああい!」


 誰もいないのをいいことに、大声で叫ぶ。どうせ聞いているのは石の地蔵とカラスくらいだ。間の悪いことに、どんよりとした鈍色の空から、雨粒が落ちてくる。電話で迎えを頼んだが、車は父と兄が乗って行ってしまって足がないそうだ。歩けばここから30分はかかる実家に戻らなくてはいけないのに、靴は壊れるし転んで膝は痛いし傘もない。都会と違ってタクシーなんて走っていない。近くにコンビニすらない。ないない尽くしでなんだか泣けてきた。


「おい、どした?」


 ドロドロのまま雨に打たれてボタボタと涙を零していると、急に後ろから声を掛けられた。

 雨音にかき消されて気付いていなかったが、いつの間にかバス停の横に軽トラックが止まっていた。中から大柄な男性が降りてくる。透明なビニール傘を私に差しかけ、心配そうに覗き込んでくる顔になんとなく見覚えがあった。


「……郷司さとし?」

「おー! なんだ、來羽じゃねえか。こんな雨ん中座ってるからお化けかと思った」


 小中高と同級生だった、野田のだ 郷司さとし。高校を卒業してから進路が別れ、私はほとんど地元に帰らなかったから、会うのは久しぶりかもしれない。

 郷司は頭にタオルを巻き、ずいぶん日に焼けてがっしりしているが、顔中クシャクシャにして笑う様子は、昔のままだった。典型的な田舎の悪ガキだった彼と気が強くお転婆だった私は、よく遊びはしたけど喧嘩も多かった。野球少年で毎日泥だらけだった彼と、今の私は逆の姿かもしれない。

 泣いてたの見られてないよね。雨で誤魔化せるかな。私は濡れた前髪をかき上げ、郷司の手を借りて立ち上がった。


「こんな美人なお化けがいる訳ないでしょ。ちょうど良かった。実家まで乗せてってよ」

「相変わらず口が減らねえ女だな」

「それが久しぶりに会う同級生にかける言葉ぁ?」

「わかった、乗せてってやるよ。このタオル使え」


 そう言って助手席側に立った私に傘を預け、自分の頭からタオルを外して渡してくる。


「ちょ、汗臭い、新しいのないの?」

「うるせえ、文句言うな。風邪引くよりマシだろ」


 タオルを外した郷司の頭は短く刈り上げられていて、さすがにあの頃の坊主頭ではなかった。荷台にキャリーケースを積んでもらい、私は助手席に座って土と汗の臭いの染み込んだタオルで申し訳程度に服と髪を拭った。

 走り出した軽トラが、ダンプの轍にタイヤを取られてガタガタと揺れる。どこまでも変わり映えしない景色とガラスを叩く雨滴が横に流れていく。私は郷司が勝手に喋る自分や同級生たちの近況をぼんやり聞きながらそれを眺めていた。気もそぞろで相槌も適当な私に、郷司は何も聞かない。盆でも正月でもないこんな中途半端な時期になぜ戻って来たのか聞いても良さそうなものなのに。

 今は建築関係の仕事に就いていること、休みの日は実家の農業を手伝っていること。野球は趣味で続けていて、今は草野球のチームに入っていること。今日は休みで畑からの帰りに偶然私を見かけたこと。そんな他愛もない話が続く。

 そういえば昔からそうだった。普段はガサツで遠慮ない物言いをするくせに、なぜか私が落ち込んでいる気配を察するのが上手く、そこに触れないように気を遣うのだ。郷司はハンドルを操りながら、チラリと横目で私を見た。


「そういえばよ、雨の日に採石場跡で遊んで怒られたな」

「ああ。砂利山スライダーね」

「そうそう。どろんこになってさあ。毎回親にはスライディングの練習したって言ってたけど」


 懐かしそうに細める目尻に軽く皺が寄るのを見て、月日の流れを感じる。私も服をドロドロにするたび母に叱られた。

 農作物の他に、この辺一帯で採れる堆積岩たいせきがんは建材として広く全国に流通している。その為、採石場跡なども多いのだ。細かくなった石を集めた砂利山や、掘り返して穴の開いた地面が多い採掘場跡で遊ぶのは危険なので禁じられていたが、私も郷司も大人しく言うことを聞く子供ではなかった。

 あの時は子供用のソリを持って砂利山を駆け上り、下の水たまり目掛けて滑り降りたのだ。雨が降って足元は崩れやすくなっていたし、今思えば危険な行為だ。小さな山の天辺から滑り降るのを競い、盛大に上がる泥水の飛沫に大笑いして、水たまりの中を転げ回った。

 地面に寝転がって、ものすごい速さで流れていく雨雲を眺め「地面が動いてる!」と叫ぶ郷司はかなりバカだった。いや、地球は自転しているのだから、間違いではないのか。しかし何が面白かったのか今となってはさっぱり分からない。


「2人ともバカだったねえ」

「……親に見つかって怒られた日さぁ。お前足に怪我したよな」

「ああ、あれでバレて禁止されたんだよね」

「あの後、女の子なのに傷が残ったらどうすんだって父ちゃんにすげえ怒られてよ」

「今どきそんなこと気にしなくていいのに。もう傷跡だってほとんど目立たないよ。見る?」

「ばっ、やめろ! 運転中だ」


 助手席で足に手を伸ばす私に、郷司は慌てた声を上げた。裾に緩みのあるパンツなので、まくればすぐに傷跡は見える。この年で女の生足を見るのは初めてでもあるまいに、何を赤くなっているんだか。

 傷は白っぽくなってほとんど目立たなくなっているが、あの時はかなり血が出て郷司は真っ青になっていた。罪悪感でも覚えているとか?


「責任取って結婚しろって脅された」

「へえ、そりゃ気の毒に」


 私は鼻白んで素っ気なく答えた。疵物きずものだとか考えたこともないけど、未だに親世代ではそういう考えの人も多いのかもしれない。


「ところで來羽……、いやなんでもない」

「何、気になる」

「大したことじゃない」

「そう?」

「ああ」


 元気な時なら問い詰めて吐かせるところだが、なんだか疲れてそんな気力もない。それきり会話が途切れ、軽トラはいつの間にかなだらかな道路に出ていた。空はずっと暗いので分かりにくいが、点在する家々に灯る明かりが夕暮れに近いことを教えてくれる。帰って来たという感慨もないまま眺めていると、長旅の疲れも相まって眠くなってくる。うとうとと舟をこいでいたら、郷司がぶっきらぼうに言った。


「疲れてるだろ。シート倒して寝てな。着いたら起こしてやる」

「……うん。そうする」


 湿った泥と何かの機械油の匂い、タオルに染みついた郷司の匂いもする車内はなぜか妙に落ち着く。私は心地良い揺れに身を任せ短い眠りに落ちた。


「着いたぞ、ほら起きろ」


 しばらくして肩を揺すられ目を覚ますと、そこは実家の納屋の前だった。郷司はエンジンを停めて外に出ると、助手席のドアを開けて私にビニル傘を差しかけてくれる。意外と紳士に育ったな。

 ヒールが折れて歩きにくいので、ついでに荷台からキャリーケースを降ろして玄関まで運んでもらう。平屋建ての家の引き戸を開けると、奥から母が出てきた。小柄でぽっちゃりした母は、ちょこまかとした足取りで私たちに近づいてくる。


「郷司くん、ごめんねえ」

「いえ」

「ありがとうね。ほら、來羽もちゃんとお礼言って。今日うちに野菜届けてくれてね。あんたが帰ってくるのにお父さんも出かけてて車ないって話したら、わざわざ迎えに行ってくれたのよ」

「あ、そうなの? ありがとう」

「別に。暇だったんだよ」


 と言ってなかったか。気まずそうに横を向いた郷司の耳の端が赤く染まっている。揶揄いたい気持ちがムクムクと湧いてきたが、母の手前それもはばかられる。


「そうだ、郷司くん、うちでご飯食べて行きなさいよ」

「いや、あの、來羽さんも疲れてるでしょうし、母が夕飯用意してますので失礼します」


 おしゃべりな母に捕まってはたまらないと思ったのか、郷司は首を振りながら後退った。そのまま雨の中を走って行ってしまったので、私は慌ててサンダルに履き替え傘を持って追いかけた。


「郷司! 傘忘れてる」

「いいよ、今返したら家に戻る時濡れるだろ」

「あ、そうか。でも近いし走って戻れば大丈夫」

「いや、持ってて。そんで今度会う時返してよ。しばらく実家にいるだろ?」

「まあね。こっちで職探すし」


 私は慎重に言葉を選びながら答えた。母はどこまで話したのだろうか。余計なこと言ってなきゃいいけど。郷司は運転席に乗り込んで、ハンドルに手をかけながら私を見上げた。


「ふーん。じゃあ当分暇なんだな」

「暇じゃない。職探しするってば」

「前みたいに遊びに行こうぜ」

「砂利山スライダーはやんないわよ」

「たりめーだろ」


 郷司はまた顔をクシャクシャにして笑いながら、エンジンを掛けた。私は少し下がって方向転換する軽トラを見送る。この町に帰ってくるのは気が進まなかったけど、懐かしい友達と会ったことで、ささくれた心が少し和んでいたのは確かだ。ゆるく発進した軽トラックのブレーキライトが灯り、窓から郷司が顔を出した。


「行くならデートだよ、砂利山よかいいとこ連れてってやる!」

「はあ?」


 何を偉そうに言っているのだ、あの男は。デートって? 軽トラで? まさかね。何年も会ってなかったのに、急にそんなこと言われても頭も心も追いつかない。

 あれは郷司なりの慰めか、はたまた昔の悪友を揶揄いたいだけか。どちらにせよ今はまだ先のことは考えられない。でも、郷司と遊ぶのは昔に戻ったみたいでなんだか楽しそうだ。

 透明なビニル傘の水滴に滲む赤いテールライトが次第に遠ざかる。雨粒のぷつぷつと鳴る楽し気な音を聞きながら、私は少しだけ軽くなった足取りで家に戻った。


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