第3話 恋愛
「なあ、少年」
「なんですか?」
「君は恋愛をしたことがあるか?」
「いえ…全く無いですね」
「では、『源氏物語』という物を知っているか?」
「……これ知らないって言ったらどうなるんですか?」
「義務教育からやり直せ」
「ですよね、そうなりますよね。流石に知ってます。詳しい内容となると、流石に厳しいですけど……平安の中期頃の歌人である紫式部が書いた、唯一の物語なんですよね」
「概要はそんなところだ。そして『源氏物語』とは言わば、世界最古の恋愛小説だ」
「先生は読んだことあるんですか?」
質問の途中で、先生はタバコに火を点けた。
「…フー……。一応は、原文で読んだな。大学生の頃に」
「えっ…すご…。どんな話なんですか?」
「現代の価値観に照らし合わせると、プレイボーイな主人公によるドロドロのハーレム物だな。ハッキリ言って地獄だ」
「……えぇ…」
「あと、とにかく長い。気軽に読めるものでは無かったな。ただ、ああ言った物語を好む者が沢山居る事も、理解はできた。面白いといえば面白いからな」
「…面白いんだ…」
「世の中には『英雄色を好む』という言葉もあるが、まさにそれを体現したような物語だろうな」
言いながら、先生は珍しくベンチの背もたれに寄りかかった。
「ところで綾川少年、君は恋をした事は無いと言ったな」
「そうですね」
「光源氏は男女問わず虜にする美貌の持ち主だったが、その一方で多くの女性を愛していった。君は男として彼と同じ事が出来るか?」
「普通に無理ですけど」
「それはなぜ?」
「いや、価値観とかもそうですけど…。それが許されるのであったとしても、そんな甲斐性のある人間じゃないんで」
「世間ではなく、君自身の問題だと」
「許される、という前提があればの話ですからね…。なんにせよ、自分には無理かなと」
「自身を客観視できるのは良いことだな」
「……ところで、源氏物語がなにか?」
「あぁ、いや。その話がどうこう、という訳ではなくてな…。最近、日本人の結婚率が急激に低下しているというニュースを見かけたんだ」
「あー…。なんかそうらしいですね。あと少子化とかもそうですか」
なんだろう、あまりお昼時に弁当を食べながら話す様な内容の会話ではない様な気がしてきた。
「神薙先生も独身ですか?」
「教員になると決めてからは、勉強ばかりだったからな。あまり、社会も恋愛も知らずに生きて来た…。私もしばらくは独身のままかも知れないな」
「…先生はモテそうですけどね」
「今思えば、学生の頃はそうだったかも知れないな。私はあまり優秀じゃなかったから、勉強に必死でそれどころでもなかったが」
美人で努力家でちょっとダウナー。
モテ要素の塊みたいな人だと思うのは、自分の好みがそっちに寄ってるからなのだろうか。
「……お陰で、教員にはなれても教師陣に馴染めないからこのザマだ」
「……愚痴ならいつでも聞きますよ」
神薙先生はいつも携帯している、洒落たステンレスの灰皿でタバコの火を消すと、ベンチを立った。
「いいや、これ以上は止めておく。綾川少年との時間は、もう少し有意義な物にしたいからな」
俺の後ろを通りながらそう言って校舎に戻る先生の後ろ姿は、いつもより少しだけ背筋が伸びている様な気がした。
神薙先生は今日もたばこを咥えている 雨夜いくら @IkuraOH
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