温泉 7
ドアがノックされた。
誰だろうか。
特に訪ねてくる人間に心当たりはない。
さっきのスタッフかな?
何か伝え忘れでもあったのだろうか。
「ロルフ様、お帰りなさいませ」
「あ、女将さん。わざわざ挨拶なんていいのに」
「いえ、大事なお得意様ですから」
「そう?」
ドアを開けると、この宿の女将さんがいた。
あぁ、なるほど。
そういえば心当たりあったわ。
さっきの案内してくれたスタッフが知らせたのだろうか?
俺が泊まりにくると毎回挨拶しに来てくれる。
まるでVIP扱いである。
ただ、ちょっと申し訳ないんだよね。
確かに常連ではある。
あるんだが、お得意様ってほど金を落としてはいないのだ。
毎回泊まるのも普通の部屋だし。
だから、少々の罪悪感が。
ま、この時期だからってのもあるんだろうけど。
閑散期なのだ。
冬に毎年来る客というのも、貴重ではあるのだろう。
「湯船の方準備出来ますが、いかがいたしますか?」
「あれ……、もう入れるの?」
「はい。清掃の方も既に終了しております」
へぇ、珍しい。
この宿は大抵湯船を朝風呂の時間まで解放していて、そこから清掃に入るんだが。
だから、この時間は普通清掃中。
まぁ、スタッフも増えてるっぽいしね。
効率が上がったのかもしれない。
昨日泊まる人が少なくて、という説もあるが。
悲しいから考えるのはよそう。
新しく雇ってるんだし。
経営の方は順調なはずである。
でも、今からか。
どうしよっかな。
「先に宿を取って、後は街を散策でもしようかと思ってたんだけど」
「あ、すみません。気が利かなくて」
「いや、もともと温泉入りにここ来てるからね」
「では」
「うん。散策前に、ひとっ風呂浴びてくよ」
昼間から入る温泉というのも贅沢だよな。
時間に余裕がある人間。
定年後の人生の楽しみ方だ。
まぁ、俺の場合定年まで30年以上残して死んだからな。
そんな楽しみは味わえなかったんだけど。
……ん?
そういや、俺このあいだ35歳になったな。
そういう意味じゃもう定年か。
前世と合わせりゃ約70年だもんな。
十分おじいちゃんだ。
そこまで老成出来てるとは思えないが。
ま、結局は俺だしね。
体に引っ張られてるとかではなく。
多分、体が老人になってもあんま変わらない気がする。
女将の案内で湯船まで来た。
場所は知ってるんだが。
まぁ、スタッフが俺を部屋まで案内した理由と同じだ。
それに接客も好きなのだろう。
何人も使える人間がいるのに。
わざわざ、自ら案内してくれるぐらいだし。
扉は一つ、湯船も一つしかないから当然なのだが。
そう、この宿は混浴なのだ。
といっても、この時期じゃ女なんていないだろうけど。
異世界で女性の外出はリスクを伴う。
わざわざ観光しにここに来る人間は少数派。
しかも、冬だし。
混浴なのは、多分必要ないからってのが大きいのだと思う。
少数のために用意するのはね。
ホスピタリティーとしては素晴らしいんだけど。
どうしても効率が悪いし。
端的に言って、金の無駄なのだ。
服を脱ぐ。
なかなかにだらしない生活をしてるというのに、腹が出ていたりはしない。
アルコール三昧だからね。
ビール腹になっててもおかしくないのだが。
チート様様である。
もしくは、二日に一度の薬草採取がいい運動になっているのか。
まぁ、理由はどうでもいい。
浴槽にタオルを持ち込む文化はない。
手ぶらだ。
全員フルオープン。
丸見えである。
人によるだろうけど、俺は気持ちが良くていいと思う。
中に入ると、木の匂い。
熱気。
そして大量の湯気。
浴室に人影は見えない。
一番乗りかな?
ラッキー。
まぁ、わざわざ女将教えてくれたぐらいだしね。
この時間は大抵清掃中。
そりゃ既に入ってる人も居ないか。
そもそも、この時間宿にいる人間も多くは無いのだろう。
まだ日も高く、お昼と言っていい時間帯。
大体の客は外出中だ。
街自体が観光街だから、ね。
前世と違って、一日中温泉に浸かって過ごす人は珍しい。
いや、もしかしたら前世でも少数派だったかもしれないけど。
湯を汲み、体を流す。
これはこっちでも一緒。
最低限のマナーだ。
そっと、足先から湯船に浸かる。
そのまま腰を沈め、肩まで。
頭以外の全身を湯に沈め、思いっきり伸びをする。
あぁ〜、気持ちいい。
凝り固まっていた筋がほぐれて行く感覚。
全身がじんわりと温められ。
さいっこう!
やっぱり、温泉っていいよね。
「湯加減、いかがですか?」
女将の声。
ドア越しって感じじゃない。
なんか、普通に入って来た。
ま、混浴だしね。
別に問題にする人間はいないだろう。
そもそも俺しか入ってないし。
手に持ってるのは……、酒か。
なるほど。
気が効く女将だ。
前回、ダメもとでわがままを言ったら聞いてくれたのだ。
テレビなんかで何度も見た光景。
その度に羨ましく思っていた。
湯船に桶を浮かべて、温泉に入ったまま好きに酒を飲む。
酒飲みには憧れの飲み方だ。
前世でも結局やった事は無かったんだが。
出来るならやりたいと思うだろ?
試してみて、実際最高の気分だった。
酔ったまま女将にもそんな感じの事を話した気がする。
それを覚えていてくれたのだ。
今回もどうぞと。
そういう事。
頼むまでもなく、わざわざ持ってきてくれた。
「いい感じ」
「また、ロルフ様はアバウトですね」
「それぐらいがいいの。細かいこと気にするとリラックスも出来ないからね」
「そうかもしれないですね」
酒を呷る。
やっぱり、一口目は特に美味いね。
別格だ。
それに、アルコールが回るのが早い。
体が温まり、血行が良くなってるからだろうか?
もう酔ってきた気がする。
そこまでの即効性はないと思うんだが。
まぁ、気分の問題だ。
「お背中流しましょうか?」
「冗談」
「あら、酷い。冗談で言ったつもりはありませんのに」
「この後も仕事残ってんだろ?」
「ですね」
「ほら。そんなことしたら、仕事戻れなくなっちゃうかもしれないよ?」
「相変わらずですね」
「それを知ってて言う女将も女将だ」
「まだまだ若いものに任せっきりにする訳にはいきませんので」
「そりゃ、残念」
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