カミ殺しの凶蟲

彼岸花

カミ殺しの凶蟲

 その虫は、鬱蒼とした森のような場所に暮らしていた。

 森のようといっても、生えているのは樹木や草ではない。真っ黒で細長く、表面に鱗のようなささくれが無数にあるものだ。それは真っ直ぐ天へと伸び、しかし自重を支えられずぐにゃりと曲がっている。

 長く伸びたものはほぼ真横に倒れ、それが幾重にも重なって厚みのある層を作る。層の下まで光は届かず、何時でも夜のように暗い。

 そして暗闇に閉ざされた大地は、異臭を放つ。

 臭いの正体は酸化した油分。大地から粘り気のある油が染み出しているのだ。大地には白い肉塊も点在しており、油分と混ざり合って独特な腐臭を発する。

 なんともおぞましい環境だが、生命は多い。白い肉塊や油分は、食べられれば栄養満点の有機物だからだ。大半が細菌であり、『彼等』のような虫は少数派だが。

 彼等は白い体色をしており、身体は頭・胸・腹の三つに分かれている。腹部が特に大きく、全長の三分の二ほどを占めていた。身体に棘や翅はなく、甲殻は柔らかで弾力のあるもの。脚は六本、頭部には細長い針状の口が一本ある。

 この針のような口は、大地を突き刺すのに使う。この黒い森の地下には大量の、どろどろとした鉄臭い液体が埋蔵されていた。これを吸い上げ、彼等は日々の糧としている。

 仲間との関係は希薄。群れる事はなく、かといって縄張り争いもしない。異性と出会えば交尾し、そうでなければ関わらない。親が子を守る事はなく、生んだ卵は黒いものに付着させたらそれっきり。知性のない、正に虫であった。

 そんな彼等の生活は、安定しているとは言い難い。

 この森に天敵と言えるような生き物はいないのだが、天災には頻繁に見舞われる。特に多いのは、虫達の何十倍もある巨大な『何か』が幾つも、地表を削るように押し寄せてくるものだろう。その何かの正体は、虫である彼等には見当も付かないが……その圧倒的な破壊力は、彼等の身体を容易に押し潰す。『何か』自体は然程硬くなく、彼等の身体も弾力があるため、押し潰されても助かる事は多いが、助からない事も珍しくない。

 『何か』よりも危険なのは、洪水だ。

 一日に一度(夏など暑い時期には偶に二度ある事も)膨大な水が、一気に押し寄せてくる。彼等は大地や黒いものにしがみついて耐えようとするが、洪水の力は凄まじい。黒いものに付着させている卵は助かる事が多いが、幼体や成体は少なくない数が流されてしまう。

 更に洪水の後、大抵の場合得体の知れない毒液が流れ込む。

 それは多種多様な化学物質を含んだ液体で、森全体を覆い尽くす。化学物質自体の毒性もあるが、一番の問題は虫達の身体を包み込んでくる事だ。ただの液体なら、虫達の身体にある気門には油があるため弾き、簡単には溺れないが……その毒液は気門の油を溶かしてしまうため、中まで入り込んでくる。これにより多くの仲間が日々死んでいた。

 森の奥深くであれば、洪水や毒液が及ばない事もある。此処に逃げ込めれば、成体や幼体が助かるが……そこまで広い範囲ではなく、時にはそんな場所がない事もある。その時に生き残るのは僅かに産み付けた卵だけ。卵から孵った幼体が、どうにか毒液と洪水を生き延びたら産卵し、また不運に見舞われて幼体と成体が全滅する。毎日数個ずつ産卵する優れた繁殖力がなければ、彼等は今頃絶滅していただろう。

 そんな危うい生活史を送っている彼等であるが、ある時一つの『突然変異体』が生まれた。

 それは身体から、油分が染み出すというものだ。

 染み出した油分は身体を覆い、薄い膜……油膜として展開される。この油膜はかなりベタベタしており、酸素に触れるとすぐに凝固。彼等の身体にこびり付いた。重くてネバネバ、しかも離れないそれを背負っていてはろくに動けない。黒いものに登る事も出来なくなり、突然変異体は地面を這うように動き回るだけとなった。

 なんとも不利な生き方に見えるが、これは今の環境にとても適していた。

 まず最大の脅威と言える、洪水から身を守るのに役立った。水は油によって弾かれる。油膜で身体全体を覆えば、押し寄せる洪水を弾き、生存率を高める事が出来た。更に油膜がべたべたしていた事で、大地に張り付きやすくなり、流され難くなった。

 その後押し寄せる毒液は油分を溶かす効果があり、虫が纏う油膜も溶けてしまう。しかし油分はじわじわ染み出し続けるので、ちょっと剥がれたぐらいなら一日で元通り。毒液が森を満たす時間は一日に数分もないので、その数分さえ耐えられれば生き残るのに役立った。

 日々の食事にも、別に困らなかった。彼等の食べ物は大地から得られるどろどろした液体。元々地上に張り付き、適当に口を刺せば得られるものだ。身体が重くなっても、餌を取るのに大きな支障はない。

 唯一の欠点が、栄養消費の大きさだ。油膜の成分である油は無から生じているのではなく、彼等の身体から漏れ出しているだけ。脂肪というのは高カロリーであり、これが常に出ている状態は、常に全力で走り回っているようなものだ。突然変異していない個体よりもたくさんの餌を食べねばならず、これでも足りないため、生涯で産める卵の数も大きく減った。雄は雌を探すため歩き回らねばならないのに、膜の重さであまり遠くまで動けず、繁殖相手を見付けるのに苦労するようになった。

 それでも、身体に油膜を纏う突然変異体は数を増やしていった。洪水と毒液から生き残る事は、多少身体が痩せても、子供の数が減っても、子孫を残すのに役立ったのである。

 数が増えると、突然変異体の子孫の中でも多様性が生じた。より厚い油膜を纏う個体や、卵を小さく産む個体が誕生した。それらは洪水や毒液の洗礼を受け、より生存に適した個体が生き残り、また子孫を残し……洪水と毒液に耐えられる、環境に適応したものへと変化していく。

 勿論完璧には耐えられず、時には流され、毒液に溺れて死ぬものもいた。不運にも異性に出会えなかったもの、体長に見合わない油分を出して動けなくなったものもいた。大地を抉ってくる『何か』によって吹っ飛ばされたり、押し潰されたりするものもいた。決して順風満帆な暮らしではない。

 それでも少しずつ、彼等は数を増やし、生き方を変えた。何世代も過ぎた頃には油膜は家のように身体を覆い、繁殖や移動など特定の時期以外その中に引きこもる生活が定着。かつてとは異なる『種』として繁栄しつつあった。

 ――――つまるところ彼等には悪意などなく、偶然の変異に頼りながら生き延びていただけ。しかし意識なんてものは、さして重要ではない。重要なのは何をしたのか、である。

 数を増やした彼等は、その大部分が地上に張り付くように暮らしていた。単純に纏う油膜が重く、地上から伸びる黒いものに捕まっていられないため。それでいて油分は毎日出てくるため、身体に乗せられない分は溢れるように落ち、地上を汚していく。

 少量であれば大した問題はない。一日一度やってくる洪水と毒液によって、彼等が残した油分は綺麗に洗い流される。しかし彼等の数が増えてくると、大地に落ちる油分の量も大きく増え、厚みのある膜となってしまう。こうなると毒液でも全ては流せない。

 余った油分は、細菌など小さな生き物の餌場となる。細菌が少ない、または一時的なものであれば悪臭程度で済む。だが大量かつ長期間となれば、それは汚物として大地を傷めてしまう。

 大地の傷みは、そこから生えているもの……黒く細長いものに影響を与える。黒いものは大地に深く根を張り、そこから栄養分を得ていた。大地が傷めば黒いものは正常な成長が出来ない。根自体が細菌に荒らされてしまう事も問題だ。

 こうなると黒いものはどんどん弱り、最後には

 黒いものが抜ける事は、彼等にとって好ましい事ではない。黒いものがあるから洪水や毒液の届かない範囲があるのに、それがなくなってしまうのだから。しかし彼等が望んでいなくても、仲間の数が増えればこの問題はどうしても生じてしまう。

 問題が起きれば、やがて彼等の存在が。知られてしまうが、彼等は『幸運』だった。


「んー……なんか、また髪の毛いっぱい抜けてる……それに痒い」


 彼等のいる地上頭皮は、まだ幼い小学三年生の女児なのだから。

 彼等――――アタマジラミの変異種(ここではアタマジラミ変種と呼ぶ)が発生したのは、この小さな女の子の頭部だった。

 シラミというのは感染症のようなものである。不潔だから患うものではなく、シラミのいる者と肉体的接触があればそこから渡ってくるだけ。この少女も学校で、友達からもらってきてしまった。

 少女は長髪であり、幼さ故に髪の手入れがまだ未熟。洪水シャワー毒液シャンプーが不十分で、中々シラミの根絶が出来なかった。それ故にアタマジラミ変種達は、進化と繁殖をする時間的猶予があったのである。


「……もっとちゃんと洗おう」


 決心をしたところで、意味はない。アタマジラミ変種達は丈夫な油膜により、シャワーもシャンプーも耐えてしまう。シラミ駆除用の薬用シャンプーであっても、分厚い油膜の内側に閉じこもるアタマジラミ変種にはほぼ通じない。全くではないが、全滅には程遠い。

 それでも此処で専門機関に発見されていれば、適切な治療を受けられ、早期対応が出来たかも知れない。

 しかし彼女は小学生中学年。アタマジラミなんて知らず、それでいて頭が痒いのは自分が不潔だからだと思う。抜け毛があるなんて恥ずかしくて言えず、頑張って洗えば解決すると考えてしまう。

 アタマジラミ変種は幼い少女の自己判断により、絶滅の危機を免れた。

 ……そしてアタマジラミ変種達は、やがて子供らしい密なコミュニケーションを通じ、少女の学友の頭へと移っていく。子供達に感染したアタマジラミ変種はその親へと移り、親達は満員電車のお隣さんや不倫相手などに感染させる。それらの人々は馴れ馴れしい観光客に渡すか、或いは自身が旅行客となって国外へとアタマジラミ変種を運ぶ。

 存在が明るみに出た時には、もうアタマジラミ変種達は世界中に拡散。シャワーやシャンプー、薬用シャンプーなど既存の対処法はほぼ効果がなく、被害拡大が全く止まらない。

 頭で繁殖したアタマジラミ変種は、大量の油分を頭皮に撒き散らす。酸化した油分は黒いもの頭髪の根を傷め、猛烈な脱毛を引き起こす。男も女も、老いも若いも関係ない。頭皮環境は破壊され、次々と禿げ上がる。あまりの痒さからシラミ対策としてスキンヘッドにする者も続出する有り様。

 今後、三十年で全人類の七割の頭髪が喪失する。

 一部の国の若者では髪を剃るのがマナーになるなど、文化的変容を引き起こした。そしてシラミへの偏見による差別や、散々批難した自分が当事者となる絶望、差別される事への恐怖が社会の分断と混乱を生んだ。あの人種がシラミを運んだ、移民が元凶だとの噂が飛び交い、根付いていた差別感情が燃え上がる。暴動が起き、行き場のない不満が政府に向き、社会体制さえも崩壊していく。

 アタマジラミ変種は、ただ脱毛を引き起こしただけ。病気の媒介などはしていない。されどこの種は後に人類文明に消せない傷跡を残し、数多の死者を生む。

 四十年後に効果的な駆除剤が出来上がるまで人類を翻弄した、小さな虫けら。人類の栄華を終わらせ、衰退へのきっかけとなったこの生き物を、後の人々はこう呼んだ。

 髪殺しの凶蟲、と。

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