ドリルと穴 または僕は如何にして心配するのを止めて妻を愛するようになったか
惑星ソラリスのラストの、びしょびし...
第1話
1.
「これが顧客が本当に必要だったもの、つまり穴なんです」
パリッとしたスーツを着た30代くらいの男が、糊の効いた笑みを浮かべてそう言った。おろしたてのシーツのようにシミひとつない笑顔だった。着ているスーツにはしわも、糸くずも、髪の毛もフケも何一つついていなかった。
まるでおろしたてのような男だな、と僕は思った。
四月の良く晴れた日曜日の午後に、僕と妻と、そのおろしたての男が、台所のカウンター前に置かれたテーブルを挟んで向かい合っていた。
テーブルは僕たちがこの部屋に越してきてから(つまり、一緒に暮らし始めてから)使い始めたものだった。僕はその表面の、ある部分を左手の親指の腹でそっと撫でた。そこには一目見ただけでは分からないのだけれど、「ぽこん」という感じの、親指ひとつぶんくらいの小さな凹みがあり、僕は時々無意識のうちにこの「ぽこん」を左手の親指で撫でる癖があった。
テーブルの上には、男が持ってきた“穴”が浮かんでいた。それはちょうど僕たちの目線の高さで静止していた。
“穴”は一言でいえば「メタリックな木星」だった。サイズはゴルフボールよりもやや大きく、テニスボールよりは小さい。そして表面は水道の蛇口みたいにピカピカだった。ただしその表面にはいくつもの渦があった。ちょうど木星みたいなやつだ。
その渦の中に、まるで鏡みたいに僕や妻、部屋のあちこち──カーテンとか、テレビとか、妻が買ってきたアンティーク調の飾り戸棚とか、テレビの前のローテーブルやソファや、カウンター越しの台所とか、そういった洗いざらい──が映っていた。それらは球の表面に沿ってひどく湾曲していた
「光が穴に向かって落ちる。この時にまあ、曲がる訳ですな。光が。そのせいで、鏡みたいな単純な反射にならんのです。いやはや。面白いでしょう?」と男は言った。
男が説明するあいだも、穴の表面では絶えず渦が現れたり、渦の中に映った僕らごと消えたり(より大きな渦に呑まれたり、渦同士が衝突したりして、だ)、また現れたり、といったことをえんえん繰り返していた。
それはちょっと壮観で、実に奇妙な光景だった。
僕はしばらくのあいだ何も言わず、渦の中に現れては消える僕や妻の顔を見つめ続けた。
「穴ってのは二次元的には円ですけど、三次元的に見れば球の形を取るんですよねぇ」
男が静かに微笑んだ。
「穴、というのはとりあえず置いておくとして……」と僕は言った。
「なんというか、ウチはいま、別に穴は必要じゃないかなって気がするんです」
「なんというか、ウチはいま、別に穴は必要じゃないかなって気がする」
男はそっくりそのまま、僕の言ったことを、僕と同じ声色で繰り返した。それから僕の顔を見て、「いや失敬、悪気があった訳ではないんです」と弁明し、パリッと笑ってみせた。シミひとつない歯が口の中で綺麗に整列していた。それは何となく現実的でない歯だった。男の一挙手一投足が、男そのものの現実性というか、奥行きのようなものを損なっているような気がした。そんなことを考えながら男を見ていると、彼は「では、お尋ねしますがね、いまお二人が必要としているものは何ですか?」と尋ねてきた。
僕と妻は互いに顔を見合わせ、しばらく考えてから、「クルマ」「ネコ」と答えた。僕はちょっと驚いて妻の顔を見た。ネコが欲しいなんて初耳だったからだ。
「クルマに、ネコ。なるほどなるほど……」
男はテーブルに肘をつけて顔の前で手をもむような仕草をしてから、
「言うなれば、いま仰られたクルマやネコというのは、ホームセンターに行って『すいません、ここにドリルは無いですか? 今すぐ必要なんです!』と言っているようなものなんですよねえ。分かります?」と言った。
「ドリルなんて、私ぜんぜん欲しくないわよ」と妻が言った。
「いやいや、お客様は必ずそう言うんです! ドリルよ、はやくドリル頂戴! って」
妻は顔を顰めて首をコリコリと傾げてみせた。男はそれを無視して、「しかしお客様が本当に必要としているものは、いったい全体、これっぽっちもドリルでは無いんですねぇ、分かりますか? 一体、何が必要なのか」と言った。それから教師がものを尋ねて、生徒のだれかが回答するのを待っている時のような顔をした。両方の手のひらを僕たちのほうへ広げて「さあ、さあ!」と促すような仕草さえしてみせた。もしかすると、手のひらのしわさえパリッと伸びているんじゃあないかと思い、僕は男の手をチラリと見た。そこには一応、取ってつけたような単純な線が何本か引かれているのが見えた。
男は手のひらを拡げた姿勢のまま動かなくなった(男は瞬きを一度だけした。そのあいだ、窓の外で鳥の声が聞こえた)ので、やむなく「ええと……顧客が必要としているのは、ドリルではなく、穴だった、ということですかね?」と僕は答えた。
男が弾かれたように動き出して指をぱちんと鳴らし、「正解」と言った。あんまり芝居がかった仕草に、僕はちょっと苦笑して、
「しかし、現実に僕が欲しいのはクルマだし、ええと妻は」「ネコ」「そう、ネコなんです。いや、あくまであったらいいなというだけで、お金なんてどこにも無いんですけど。ここだって、ペットは飼えないし……(妻の顔を見ると、それについてはどことなくぶすっとした顔をしているように見えた)。まあそれはそれとして、とにかく穴なんて、ちっとも欲しくは無いんですよ。実際」
「いやいや! 皆さん最初はそうおっしゃるんです。穴なんていらない、ドリルだ、ドリルをくれって」
「いや、だからドリルも要らないんですけど」
「じゃあ逆にお尋ねしたい! お二人にとってクルマや、ネコというのは、つまり何ですか?」
「なんっ、な、何って?」
「例えば、ご主人はクルマが欲しいとおっしゃる。じゃあいったいぜんたい、クルマを手に入れてどうされたいんですか?」
「どうされたいってそりゃ……ドライブに出かけたりとか、買い物に行ったりとか」
男は腕を組んでうんうんと頷いてから、
「ご主人はクルマが欲しいと仰るけれども、実のところ本当に望んでいるのは、ドライブによる爽快感だったり、あるいは生活が便利になったり、そういうことですよね?」
「まあ、ええ」
男は我が意を得たりといった風に、再び指をパチンと鳴らし、
「つまり、それなんです。皆さん口ではドリルが、ドリルが! と仰る。しかし本当に必要なのはその先なんです、穴なんです! 僕の言ってること分かります?」
「ん? まあ、いや、うーん」
「奥さんもそう! ネコが欲しいんじゃなくて、本当は癒しだったり、愛情を注ぐ相手が欲しいと思ってるんですよ、ねえ?」
「私はネコが欲しいのよ」と妻が間髪入れずに言うと男は「んふっ」とだけ言った。それから何事も無かったように、
「結局、皆さんは自分が何を必要としているのかなんて、これっぽっちも分かってないんです。いや分かりますよ? 私だってそうだもの。つまりこれはある種の慈善活動なわけです。社会奉仕だな。だからこそ、私はこの四月の気持ちのいい日曜日の午後に、皆さんのお宅を一軒一軒回ってですよ? 皆さんが本当に必要としているものをご提供しているんです。僕だって本当はこんな天気のいい日曜日の午後は家内と映画にでも行きたいくらいなんです、いやウチはおふたりほど仲がよろしくないので、あくまでもののたとえ、比喩表現みたいなものですがね、いやはや」
男はそう言ってから「うん・うん」と赤べこのように何度も頷いた。
「しかし、本当に穴なんて要らないんです。第一、そんな金はどこにも……」
「お代は結構! しばらくこちらに、この穴を置いていただいて、真にご満足いただけた方からは、ほんの少し、お気持ちだけ頂戴するようになっていますので……」
それで話は済んだとばかりに、男はニッコリと笑いコップの麦茶をごくごくと飲み干し、「しかしいい天気ですなあ!」と窓の外を見た。僕も窓の外を見た。本当に気持ちのいい青空が広がっていて、牧歌的な雲が所々に浮かんでいた。やわらかな風が吹いて、カーテンの裾が波のように揺らいでいた。
それから僕は妻を見て、テーブルの上の穴を見た。穴の表面に浮かぶ渦のひとつでは、ひどく膨れた顔をした僕がこちらを見ていた。彼はいささか混乱しているようにも見えた。やがて渦はゆっくりと、中に映った彼ごと回転を始めた。僕は気づかぬうちに穴の表面に顔を近づけて渦の中の彼(つまり、僕だ)の顔をよくよく覗き込んでいた。すると急に、鼻先を「ぎゅっ」と引っ張られたような感じがした。僕はびっくりして身体を勢いよく後ろに反らした。その反動でテーブルの裏に膝をぶつけてしまい、コップが倒れて中の麦茶がどばどばと零れた。慌ててティッシュでそれを拭きつつ、「あの、今、なんか、引っ張られたというか……」と男に尋ねた。
男は糊の効いた声で「ええ、穴ですから。そりゃ近づけば、落ちますよ」と答え、シミのない笑顔を浮かべてみせた。
2.
四月の気持ちよく晴れた日曜日の午後(おろしたての男が穴を持ってきた午後)から、七月の、わざとらしいほどにあからさまな夏の朝(穴が消えた朝だ)まで、僕たちはその穴とそこそこ上手く暮らしていたと思う。
パリッとした男(彼の履いてきた革靴もまた、爪先が手鏡のようにピカピカに磨き上げられていた)が帰った後も、穴(球と呼ぶべきだろうか?)はテーブルの上に浮かんだままだった。とりあえず何処か、別のところへ動かそうとそっと手を近づけてみた。途端に指先の爪が「ぎゅっ」と引っ張られるいやな感じがして、僕は慌てて手を引っ込めた。
僕はじっと穴を眺めながら、彼はいったいどうやって穴をテーブルの上に置いた(実際は浮いているのだが)のかについて思い出そうとした。しかしその部分だけがぽっかりと、まるで穴に落っこちたように僕の記憶から消えていた。そもそも、男がいつ僕たちの部屋に現れたのか、いったい何と言って玄関扉の隙間から顔を覗かせた(こう見えても僕も妻も、この手の営業をかわすのは得意なほうだと思っていたのだ)のかもまるで思い出せなかった。まるであの男が、一切の過程(つまり、彼自身が何処かで生まれ、成長し、学校に行って、マスターベーションやセックスや恋をして、セックスをして、酒、煙草、セックス、エトセトラ・エトセトラ・エトセトラ……)を経ずして、僕たちの部屋に直接『おろされた』のではないか、という気さえしてきた。
しばらく僕と妻は向かい合ってその穴を見つめた。そこには先ほどと変わらぬ、実に驚嘆すべき光景があった。穴の表面には無数の渦が現れては消えていた。その無数の渦の中には、無数のわれわれと無数のわれわれのリビングがあった。
「ねえ、何だか音がしない?」と妻が言った。
「音?」
「そう、なにか……」妻は目を瞑った。
僕も耳を澄ました。窓から吹き込んでくる風でカーテンレールが静かに軋み、近所の公園で遊ぶ子供の甲高い声がした。それから、部屋の下の道路をトラックが通り過ぎる低い音がした。それらに交じって、
ほろろろろ
という、とても小さな音が、目の前の穴から聴こえてきたような気がした。
「洞窟の音みたいだね」と僕は言った。
「そうねえ」と言って妻が視線を上げて「あなた、洞窟なんて行ったことあるの?」と聞いてきた。
ない、と僕が言うと、適当ねぇ、と妻が呆れた顔をした。
その日の夕食は焼き餃子と豚肉の入った野菜炒めと味噌汁だった。僕らは穴に近づけすぎないよう、慎重にそれらをテーブルの上に配膳したのだが、餃子の皿を受け取った時にほんの少しだけ油断した。「あっ」と言う間もなく、皿の上にふぐ刺しみたいに綺麗に盛り付けた餃子(それは焼き餃子のイデアともいうべき理想的な焦げとハネがついた、晴れ晴れとするような餃子だったのだ)がふわっと浮かび上がった。「くんっ」と餃子の先端(どっちだ? とにかく端という意味だ)が穴に向かって、針金みたいに細く伸びた。そして栓を抜いた風呂場の水のようにぐるぐると、穴の表面に浮かぶ無数の渦の中へ向かって回転しながら『落下した』。
つまり、消えた。
それは本当に一瞬のことだった。クイックモーションで投球するピッチャーのように一瞬だった。僕はカウンター越しに妻の顔を見た。妻もまた、僕と同じくらい「ぽかん」とした顔をしていた。
僕らはただ笑うしかなかった。
不用意に近づきすぎなければ、穴は僕たちの生活──ごくごく一般的で、ささやかで、そしてどこまでいっても予測可能なパターンに収まるものだ──に驚異と愉しみを齎した。表面の大小の渦に形を変えながら映し出される僕たちの暮らしぶりというのは中々に新鮮で興味深かったし、鼻をかんだティッシュなんかを穴の持つ引力の、ギリギリのところに近づける遊びというのも面白かった(ティッシュの端が紐のように引き伸ばされるのだ)(僕のこの遊びについて、妻はあまりいい顔をしなかった)。それでも、使わなくなったエアロバイクや、古い雑誌とか、燃えるゴミなんかを纏めて積極的に穴に放り込もうという気にはならなかった。僕もそうだし、妻もそうだった。
「穴の原理が分からないことが問題なのかな?」
ある夜、僕は何となく呟いた。ソファに寝転がりながら妻は、
「なにか、悪いことをしているように感じるからじゃないかしら?」と答えた。
「悪いこと? 穴に対してかい?」
妻は少し考えて、「向こう側に対してよ」と答えた。
僕は妻のその答えについて少し考え、穴の向こう側について想像し、やがてかぶりを振った。
3.
熱いシャワーを浴び、パジャマ代わりの間延びしたTシャツ(胸元に筆記体で何か書かれていたのだけれど、まるで読めなかった。このTシャツはいったいいつ、どこで買ったのだろうか?)を着てショートパンツを履き、歯を一本ずつ丁寧に磨いた。
リビングの明かりが消えていたので、妻は先に寝たのだろうと思った。窓の外から濡れた光が部屋の中に入ってきていた。
今日は満月だった。
明かりのないリビングで、妻はテーブルに座って頬杖をついていた。僕はちょっと驚いて、それからリビングの明かりをそっとつけた。妻は動かなかった。瞬きさえしなかった。ただじっと正面を見つめていた。妻の目線の先に穴が浮かんでいた。穴の表面には渦があった。その渦の中にテーブルに座る妻の顔があった。
僕は静かに妻の正面に座り、同じように穴を見た。こちらから見た穴はしばらくのあいだ行儀よく、湾曲した球面に沿ってひどく引き延ばされた僕の顔を映していた。それはやがてより大きな渦にかき乱されて消えた。そしてまた新しい渦が生まれた。その渦の中に、今度は反対側にいる妻の顔が見えた。僕は穴売りの男の言葉を思い出した。光が穴に向かって落ちる。この時にまあ、曲がる訳ですな。光が。そのせいで、鏡みたいな単純な反射にならんのです。
こうやって見ていると、まるで妻が穴の中にいるような気さえしてきた。僕は少し不安になって、首を横に傾けて妻の顔を直接見た。妻はじっと穴を見ていた。
僕は木星の表面の渦についての話をした。僕の話を聞き終えると、妻は一言「大赤斑」とだけ繰り返した。そのあいだ、妻はじっと穴を見ていた。
「そう、大赤斑。木星のそれは巨大な嵐なんだよ」
「渦を巻いているのね」妻がとろんした口調で言った。
僕は頷き、何となく落ち着かず、テーブルの上の凹みを左手の親指でなぞった。それはいつも通り「ぽこん」と小さく凹んでいた。
沈黙。
「呼吸をしているのよ」
と妻が唐突に言った。
「呼吸?」「そう。呼吸」「ええと」「穴よ」「ああ……穴が?」
「よく見るとね、膨らんだり、縮んだりしているの。これは息をしているのよ。生きているのよ」
膨らんだり、縮んだりしている? 僕は穴をじっとみて、それから妻を見た。妻はじっと穴を見ていた。
*
ひんやりとした海水が僕の膝から下を濡らしていた。波はその洞窟の入口まで、寄せたり返したりを同じ調子で繰り返していた。僕は洞窟の入口に立ち、その奥の闇を見ていた。月の光は入口からせいぜい数メートルのところまでしか届いておらず、そこから先には墨をありったけ零したように、グラデーションのない一面の黒があった。僕はその闇に向かって妻の名前を呼んだ。
闇の奥からは、
ほろろろろ
という音がした。
洞窟は曲がりくねって、下へ向かって延びている。
*
夢から目覚めるとじっとりと全身に汗をかいていた。僕は寝返りを打って隣を見た。妻はいなかった。手を伸ばすとそこだけが少し冷んやりとしていた。随分前に彼女はベットから抜け出したらしかった。
リビングに行くと、果たして昨日の夜、最後に見たときと全く同じ恰好で、妻がテーブルに座っていた。妻は穴を見ていた。
「ずっと起きてたのかい?」と僕は驚いて声を掛けた。
とても緩慢な動きで妻が僕を見て、つぎに窓の外を見て、しばらくの間のあと「ああ、朝なのね」と言った。
妻の様子を見て僕はちょっとうろたえつつ朝食の準備をした。トーストを二枚焼いた。目玉焼きは途中で二個とも黄身が割れてしまった。インスタントのコーヒーを二杯いれたところでようやく妻は立ち上がり、大きく伸びをし、それからとても自然に、なめらかに、毎日欠かさずにこなしてきたルーティンのように、テーブルの上の穴に向かって右手を伸ばした。穴のへりに触れるか、触れないかのところで、妻の右手の細やかで白い人差し指が穴の表面の渦に向かって「きゅっ」と引き伸ばされるのが見えた。
そのあとはあっという間だった。妻の手、手首、腕、肘、肩、胸、首、顔、お腹、腰、右の太腿、左の太腿、両方の膝、ふくらはぎ、足首、足、つま先。妻の身体は、るつぼから出したばかりの熱したガラスのように、にゅーっと細く引き伸ばされ、穴の表面に浮かぶ無数の渦へと落下していった。
つまり、消えた。
穴の表面ではなおしばらく、いくつもの渦のなかで僕たちの(今となっては僕だけの)リビングの様相が場所も時間もめちゃくちゃに組み合わされ、あちこちで回転運動と消失と出現を繰り返していた。やがてそれらすべてがひとつの大きな渦に呑み込まれた。最後には「きゅぽんっ」と栓の抜けるような音を残して、穴そのものがその大きな渦の中へと落ちていった。
つまり、消えた。消えてしまった。僕だけを残して。
僕は二枚のトーストにバターを塗り、目玉焼き二つ(それは黒く焦げてしまっていた)とともに平らげた。コーヒーも二人分飲んだ。そのあいだ、僕はテーブルの上のぽこんとした凹みを、左手の親指の腹で何度も撫でていた。テレビをつけると小ざっぱりとした見た目のMCがオープニングのコメントを述べているところだった。
「なかなか煮え切らない天気が続いてまいりましたが、今朝はもう目が覚めるようなカラッとした気候で、ああ、夏だ、夏がやってきた、やってきたのだなあ! と僕はちょっと嬉しくなっちゃって、といいつつ、各所では昨夜の豪雨の影響があるようで、心配だなあ。早速参りましょう、まずはこのニュース……」
4.
手元にあるのは一枚の名刺だけだった。名刺には男の名前と、会社名(まったくもって当たり障りのない単語の組み合わせで、今ですら名刺を引っ張ってこないと思い出せない)とその住所、電話番号、隙間を埋めるために置かれた、そっけない、シンプルで抽象的な図形がふたつほどあしらわれていた。裏を返すと真っ白だった。僕はまずその番号に電話を掛けた。名刺の番号を何度も確認してダイヤルしたはずだが、一度目は「ムラヤス」という人の家に(人の良さそうな、または気の弱そうな中年女が出た)、二度目は動物病院(「ワンちゃんのお注射ですか?」と二度ほど尋ねられた)に繋がった。僕は名刺の番号を口に出して読み、次にそれをメモ用紙に書き写し、それらをじっくり三回見比べ、もう一度それぞれを読み上げ、深く呼吸をしてから三たびその番号をダイヤルした。三度目は何処にも繋がらなかった。
オフィスは空だった。ビルを出るときに管理人らしき男に声を掛けられた。僕はその会社の名刺を見せ、(妻が穴に落ちて消えた、などとは言えないので)「受け取った商品のことで、聞きたいことがある」とだけ答えた。男は名刺に書かれた住所を睨み、次に僕の恰好(Tシャツとジーンズ、それにくたびれたテニスシューズを履いていた)をじろじろ眺め、それから鼻をちょっと啜るような音を出して、「勝手に入られると困るんだけどねえ」とだけ言って管理人室へと引っ込んでいった。
ビルの一階にはコンビニがあり、隣の横断歩道を渡ると広い公園があった。公園の東西を横切るように広い道があり、両側にはケヤキの木が等間隔で並んでいた。僕はコンビニでカチカチのソフトクリームを買い、公園のベンチに座ってそれを舐めた。夕方6時を過ぎても太陽の光がギラギラと地上を照らし、僕の身体からねっとりとした汗が噴き出た。「しゃりしゃり」とした蝉の声がどこか遠くの方からくぐもって聞こえてきた。非現実的で奥行きのない夏だ。
ふと気がつくとソフトクリームが溶けて地面に落ちていた。僕はしばらく地面に落ちたそれをじっと眺めた。大きなアリが一匹、溶けたアイスの周りをぐるぐると回り、どこかへ立ち去った。そして日が暮れた。
このようにして、僕と妻を繋ぐ手がかりの一切は消えてなくなった。
妻が『落下』してからも生活というものは依然として存在していたし、僕はやってくる仕事(商品に関するちょっと気の利いたコピーや、コピーよりはちょっと長い文章なんかを書いた。それらが最終的にどんな風に修正され、どう使われるのかは分からなかったし、あまり興味も無かった。つまりその程度の仕事をしていたということだ)を機械的にこなし、合間に買い物へ行き、洗濯をし、料理をつくり、テーブルの凹みを左手の親指で幾度となく撫でた。ぽこん。風呂に入り、歯を磨き、髭を剃った。レコードを掛けながらウィスキーを舐めた。
一度だけ妻の実家から電話が掛かってきた。お義母さん、あなたの娘さんは穴に落ちたんです。ええ、穴です。ドリルと穴。顧客が本当に必要だったものへ落ちたんです。そう話そうかと逡巡したものの、結局は当たり障りのない会話をし、電話を切った。
仕事が暇なときは駅前の喫茶店に入り、何時間も煙草を喫いながら窓の外を眺めた。そうしていると、ふと窓の外を行きかう無数の顔の中から妻が現れるんじゃあないかという気さえした。夕方になると僕は店を出て部屋に戻り、夜になるとベットに潜り込んで眠った。朝が来て僕は目覚めた。隣に妻はいなかった。
5.
九月が終わると殺人的な暑さはようやく引いていった。年々秋は短くなっていた。
その日、僕は喫茶店で男と向かい合っていた。男はパリッとしたスーツの代わりに、ひどくよれたポロシャツ(それはどことなく黄ばんでさえいた)と、履き古したジーンズ、スニーカーという格好だった。スニーカーのソールには古い泥がこびりついていた。頬は少しばかり痩せこけ、不精髭がうっすらと生えていた。つまり大概において彼と僕は似たり寄ったりの見た目をしていた。
四月の気持ちよく晴れた日曜日の午後から実に半年近い時間を経て、僕は再び穴売りの男と相まみえていた。
アイスコーヒーが運ばれてくると、男はそれを一口啜って「いやはや、ホットでも良かったくらいだ」と言った。僕は黙ってアイスコーヒーを啜り、男をじっと見た。男は胸のポケットからくしゃくしゃの煙草の箱を出し、中から煙草を一本取り出して口にくわえ、火をつけた。落ち着かない様子で二、三口、立て続けてに喫い、すぐに灰皿にこすりつけた。
「あの映画館」と男が言った。「あの映画館、良く行かれるんですか?」
「ええ、まあ、たまに。あなたは?」
「は?」
「だから、映画館ですよ」
「映画館? ああ、まあ、たまたまですよ、たまたま」男はそう言うとぼんやりとした目つきで窓の外を見た。
僕はコーヒーをもう一口啜ってから、「妻が、穴に落ちたんです」と言った。
男はゆっくりとこちらを見て、「えっと、何です?」と言った。
妻が・穴に・落ちたんです。と僕ははっきり区切って言ってやった。
男はしばらくのあいだ、焦点の合わない表情をしていた。やがてゆっくりと、水が土に染み込むように、男の顔にちょっとした、さざめきのようなものが浮かんだ。だがそれだけだった。
「そうですか……それは、お気の毒に」
男はようやくそれだけ口にすると、それでおしまい、といった風に黙りこくった。僕はテーブルの端に置かれたカトラリーケースの中のフォークを、
男の目に思いっきり突き刺すところを想像してみた。それは比較的現実味のある光景に思えた。少なくとも妻が穴に落ちて消えるよりは遥かに現実的だ。
そういったことを考えているのが顔に出ていたのかもしれない。男は僕の顔をちらりと見て、なんだかひどく狼狽え始めて、視線を泳がせた。煙草を指に挟んで口に近づけ、かと思えばテーブルに下ろしたり、をニ三度繰り返した。それから、言葉を一つひとつ絞り出すように、「いや、あのですね、本当に、お気の毒、だと思います。たいへん、ええ。うーん、ひどい、ことだ」と言った。言い終えると、アイスコーヒーの残りを一息に飲み干した。
「いま目の前にいるあなたを除いては、僕にはもう妻へ繋がる手がかりが無いんです。それに、ちょっと今の僕は正常とは言い難いかもしれないな……僕が言いたいことが、分かりますか?」と僕はなるべく静かに、ゆっくりと男に言った。
男は「分かります、分かります。おっしゃるとおりだ」とひどく神妙な顔つきになって何度も頷き、コーヒーを手に取り(それはもう空だった)、お冷をごくごくと飲み干した。それから煙草を口にくわえて火をつけようとした。ライターを持つ手がぶるぶると震えていた。僕は男の手を取った。男は気の毒なくらいにびくりと跳ね上がり、分裂した左右の目で僕を見た。僕は男の手からライターを取り上げ、煙草に火をつけてやった。男は震えながら、煙を肺いっぱいに喫い、咳き込んだ。そしてまた二三口、せわしくなく喫うとその煙草も灰皿にぎゅっと押し付けた。それからはぁーっと息を深く吐き、胸を大きく膨らませて息を吸い込んだ。
落ち着きを取り戻してから、「しかし、大変申し訳ないのですが、私があなたの力になれるとは思えんのです」と男が言った。
「それは……どういう意味ですか?」
カトラリーケースの中のフォーク。眼球はどの程度硬いのだろうか?
「や、力になりたいのはやまやまなんですが、いまは失業中の身でして」
「──」
「あの会社。四か月ほど前に、潰れた、というか、うーん、とにかく、消えた。そう、消えたんですよ。突然。ええ」
ウェイターが隣を通り、男はお冷を追加で頼んだ。
僕は男に、代表者か、事情を知っている人間の連絡先を知らないか尋ねた。男はかぶりを振り、「改めて思い出しても、本当に分からんのです。私にも、いったい、なにが、そもそも、いつから、なんだ、なにが……」と暗い顔をした。
沈黙があった。
「私もその、あの穴については良く知らんのですよ」と男が独り言のように呟いた。
「……しかし、あなたはあの穴を売って歩いていたじゃあないですか、あんなに自信満々に……」
「セールスマンというのは、別に売り歩く商品が何からどう出来ているかまで、事細かに理解している訳じゃあ無いんです。その必要があったら、あなた、世の中のセールスマンは皆博士号か何かを持ってないといけなくなりますよ」
男は「いやはや」と苦笑し、肩をすくめた。
「私のような人間にとっては、穴だろうがボールペンだろうが化粧品だろうが何だろうが、なんも変わらんのです。やることは一緒だ。一定の流れで、ボタンを押す。ただそれだけなんです」
ウェイターが水の入ったコップを持ってきた。男はその水を、実にうまそうに飲んだ。
結局、男から妻につながる情報は何ひとつ得られなかった。
僕たちは店の前で別れた。別れ際に男が「ところで、今日見たあの映画、どうでした?」と聞いてきた。
それは長いうえにひどく退屈な映画だった。映画自体が何かのエクスキューズのようだった。僕と男は上映後の込み合う男子トイレで鉢合わせた。そういった意味では決して無意味な映画とは言えなかったかもしれなかった。
僕が黙ってかぶりを振ると、男は唇の端をぎゅっと歪めて笑ってみせた。それから少し迷うような仕草のあとで、僕の電話番号をたずねてきた。「あまり期待しないでもらいたいんですが、もしかしたら、ということもありますので……」と男は番号を手帳にメモした。ちらりと見えた手帳には子供の落書きのような、ぐるぐるとした渦がいたるところに書かれていた。
*
洞窟は奥に行くにしたがって下に向かって延びていた。
ごつごつとした岩肌が、徐々に僕の顔や体を磨り潰すように近づいてきた。奥に行くにしたがって狭くなっているのだ。僕は背を屈め、体をよじり、最後には四つん這いになりながらその洞窟を進んだ。
ほとんど腹ばいになって僅かな隙間を抜けた先に、少しばかり開けたところがあった。他に通れそうな穴や裂け目は見当たらず、そこがこの洞窟の終わりらしかった。僕は手にした松明で周囲を照らした。
正面の壁にくぼみがあり、そこに電話がひとつあった。僕はその電話を取って、ダイヤルを押した。呼び出し音が十度鳴り、向こう側で誰かが受話器を取った音がした。
僕は受話器を持ったままリビングにいた。テーブルの中央には電話があった。僕は受話器を置いた。テーブルを挟んで向こう側に妻が座っていた。僕は何故かそれを妻だと認識していたのだが、実際のところ、それは穴だった。穴の表面には無数の渦があり、渦の中に無数の僕が見えた。
僕は妻(実際には穴なのだけれど)に向かって声を掛けようとしたのだけれど、なんの言葉も出てこなかった。妻を目の前にして、僕は何を話せばいいのか、まるで分らなくなっていた。共通の話題も知人も持たない女の子と二人っきりで食事をしているような、ひどくいたたまれない気持ちになった。けれども彼女は確かに僕の妻のはずだった。
電話が掛かってきた。僕は受話器を取った。「貴方が本当に望んでいるのは穴なんです」と糊の効いた声がした。
「違う、僕が欲しいのは妻なんだ」と僕は受話器に向かって叫んだ。
「本当にそうでしょうか? それはあなたにとってのドリルなんじゃあ無いですか?」
じゃあドリルだって構わない。僕には妻が必要なんだ。
目の前の“妻”の表面がぼこぼこと泡立ち、次の瞬間「きゅぽん」と音を立てた。穴は内側ではなく、外に向かって一気に膨張した。爆発といっても良かった。僕の全身が膨張した穴に呑み込まれた。そして僕の身体は、外へ向かってどこまでも拡がり続ける無数の渦に巻き込まれ、引き延ばされ、バラバラに解けた。
私はネコが欲しいのよ、と渦のどこかで声がした。
6.
十二月のその朝は、ひどく陰惨とした色の分厚い雲が空を一面覆っていた。「今日は今年一番の冷え込み、朝から雨、もしくはところどころでみぞれか雪が降るでしょう」とテレビが言った。洗面所の鏡を見ると、今日の空と同じくらいひどく陰惨とした顔がこちらを覗いていた。
ドアチャイムが鳴った。
荷物を持ってきた四十代ほどの配達員(背が低く、がっしりとした体つきだった)は僕の顔を見ると少しばかり目を見開き、言葉に詰まった。僕はそれを見て「ああ、すいません……このところ風邪で引きこもってまして」と言った。配達員はそれを聞いて多少は納得したようだった。
引きこもっているのは本当だった。この二週間ほど、僕は部屋に閉じこもって仕事もせずただじっとしていた。たまに水道水を飲むか、ウィスキーを舐めるか、気が向けば冷蔵庫の中のしなびたレタスやキュウリなんかを齧った。ここ数日でようやく仕事相手からの電話が途絶え始めたところだった。
配達員は僕のサインを受け取り、僕は配達員の持ってきた荷物を受け取った。「今日はひどく冷えますから、お大事に」と配達員は言って、駆け足で去っていった。
リビングに戻りソファに座って僕は荷物の箱をあらためた。片手で掴めるほどの、小さな段ボールの箱だった。見た目のわりに重さがあった。軽く振ってみると、緩衝材か何かのあいだを、重く硬いものが往ったり来たりする感触があった。僕は差出人の名前を見て、しばらく頭の中の箱を片っ端からひっくり返してみた。何も出てこなかった。
とりあえず熱いシャワーを浴びて、髭を剃った。顔はいくらかマシになった。コーヒーをいれ、湿気たパンとしなびたキュウリのサンドイッチをつくって食べた。ハムは無かった。信じられない不味さだった。食べ物というよりは文房具か、事務用品でも名乗るべきサンドイッチだった。
僕はその事務用品的サンドイッチをそれでも1/3ほど食べ進め、残りは諦めてゴミ箱に捨てた。それから二杯目のコーヒーをいれた。コーヒーを啜りながら頭の中の箱のなかで何かが「かちり」と音を立てた。
僕は仕事部屋へいってテーブルの紙束を床に落とし、そこに引き出しの中身をぶちまけ、その中から一枚の名刺を見つけた。何の当たり障りもない社名、隙間を埋めるためだけの図形、パリッと糊の効いた名前。その名刺をもってリビングに戻り、先ほどの荷物の宛名と見比べた。
荷物は穴を持ってきたあの穴売りの男から届いたものだった。
箱の中身を説明するとこういうことになる。全体は金属製(僕はこの手の方面に疎いので、それが何という金属なのかは知らない)の棒で、棒の中央部分がコの字の形に曲がっている。中央部分と片側にはそれぞれ握りやすいように把手がついていている。グリップと、ハンドルに相当する部分だと思う。もう一方は、まず円を描くように大きく膨らんで、先端に向かって螺旋状に渦を巻いていた。よく出来たソフトクリームのような見た目だった。
それは先端のソフトクリームから、尻尾のグリップまで、ただ一つの金属を捻じ曲げて作られていた。
それは顧客が、つまり僕が、いま何より必要としているものだった。
それはドリルだった。
手に取ってみるとずしりとした重みがあった。尻尾のハンドルと、コの字部分のグリップは実にしっくりと手に馴染んだ。僕は試しにハンドルを右手で握り、中央のグリップ部分を軽く回してみた。ドリルの先端は宙に浮いていたにもかかわらず、グリップを握る手にはまるで何かを掘り進めようとしているかのような、しっかりとした抵抗感があった。
ためしに僕は力を込めてみた。すると、フローリングの上で重いテーブルか棚なんかを無理やり引きずるときのような、ぎっ・ぎっ・ぎっという感じの、とても厭な音が鳴った。部屋の空気や、天井や、床やテーブルやソファや椅子や棚やテレビや僕自身なんかが、無理くり捩じられ、引っ張られているような、とても奇妙で不快な感覚があった。僕は慌ててグリップから手を離した。“捩じられ”はすぐに収まった。僕は何度かグリップを握り、慎重に力を込めて回してみた。そのたびに僕を含んだ部屋全体がある一点──ドリルの先端──へ向かって捩じれるように引き攣れるのを感じた。
これに近い感覚をかつて数度、僕は味わったことがあった。
この感覚は、あの穴に引っ張られる時のそれに似ていた。
ドリルの入っていた段ボール箱には男の名前と僕の名前、僕の部屋の住所以外は何も書かれていなかった。箱の中は緩衝材替わりの新聞紙(与党の議員がなにかの釈明をしていた。政治家はいつも誰かが釈明しているので、いつのものなのかぱっと見では分からなかった)をくしゃくしゃに丸めたものが幾つか入っているだけだった。メモ書きひとつ無かった。
僕はドリルをテーブルの上に置いて、じっと眺めた。ソフトクリームの先端が鈍い光を返していた。
夜になると雲が切れて月明りがリビングに差し込んできた。僕は明かりもつけず椅子に座って、ウィスキーをちびちびと舐めながらテーブルの上のドリルを睨み続けていた。アパート全体も、部屋の外にあるはずの街も、そこに誰もいないように静かだった。海の底のようにとてもしんとしていた。誰もかれもがじっと息を殺して、耳を澄ませているような夜だった。僕はテーブルの上を左手の親指の腹で撫でた。ぽこんとした凹み。
僕はドリルを手に取り椅子から立ち上がり、なにもない宙に向けてそれを構えた。右手で尻尾のハンドル部分を握り、左手で中央部分のグリップをしっかりと握った。先端が空気が引っ掛かる感覚があった。
貴方が本当に望んでいるのは穴なんです。
そうとも、僕は穴を手に入れるんだ。
グリップに力を込め、ゆっくりと回した。ぎっ・ぎっ・ぎっ、と部屋全体が軋む音がした。子どものころ、近所の公園にあった回転するタイプの遊具でめちゃくちゃに回った後のように、耳の奥がどろどろとかき回された感じがした。胃の中のもの(事務用品的サンドウィッチ、コーヒー、ウィスキー)が喉のところまでせり上がってきた。僕はそれを飲み込んでから、さらにグリップに力を込めた。ドリルが半回転した。湖のうえに張った氷のごく薄いところを歩くときのような、ぴしぴしという音が聞こえてきた。
これは世界の割れる音だ、と僕は思った。
もしかすると、僕は今、なにか取り返しのつかないことをしているのではないだろうか? 穴を開けたとして、本当に妻は戻ってくるのだろうか? そもそも開いた穴はどうやって塞げばいいんだ? もし、穴が塞がらず、それどころか外へ向かって拡がっていったとしたら……。
今は、今ならまだ間に合う。いましがた歩いてきた氷のうえを、慎重に、陸に向かって一歩ずつ後退りすればいいのだ。それで元通りになる。ドリルなんて燃えないゴミの日でも出してしまえばいい。明日になったら仕事先に電話を掛けてひたすら謝り倒せばいい。体調が悪く、ずっと倒れていたんだ。原稿は必ず間に合わせるから。実は急に妻がいなくなってしまって、大変なんだ、エトセトラ、エトセトラ、とか。
そのあと街に出てバーに行くのもいい。飛びきりの美女ではないけれど心があたたかくなるような、そんな可愛らしい女の子を見つけて声を掛けてもいい。上手くいけばその子と寝ることだって出来るかもしれない。そして次の朝、ベットの中の彼女を見て、なぜ僕はこんな女と寝たのだろうか? と疑問を抱かないようなら(そういうことは若い頃、本当によくあったのだ)、連絡先を交換してもいいだろう。そしてウチに帰って熱いシャワーを浴びてウィスキーをちびちび舐めて眠る。僕は仕事をする。僕は掃除をして、洗濯をして、買い物に行く。そしてある日曜日にふと思い立って例の彼女に電話をするのだ。すると受話器の先で女の声がする、「私はネコがほしいのよ」。
僕はかぶりを振って、苦笑した。そしてグリップを回した。
「かちり」と音がした。
部屋の中が一瞬で真昼のように明るく、真っ白になった。かすかな温かみのある光が僕の全身を貫いた。それから、耳をつんざくような轟音がした。あまりにも大きすぎて、逆に何も聞こえていないような音の塊。
それらは本当に、一瞬のあいだに僕の部屋を満たし、そのまま世界の果に向かって永遠に飛び去ってしまった。
ドリルはバラバラに砕けて床に落ちた。「ごとん」といった固い音の代わりに、乾燥させる前の陶器を地面に落としたような「べとり」という音がした。
目の前に女が立っていた。
女はまず頭をぐるりと振って、いまいる部屋の様子をじっくりと観察していた(カーテンとか、テレビとか、彼女自身がいくつもの店を巡って買ってきたアンティーク調の飾り戸棚とか、テーブルとか、カウンター越しの台所とか、そういった洗いざらいを、だ)。それは老練の警視のような、疑り深く凝り固まった目つきだった。彼女が部屋の中を注意深く検分するあいだ、僕は僕でじっくりと彼女を見た。この五か月のあいだ、ずっと探し求めていた女のはずなのだが、こうしていきなり目の前に現れると、喜びよりも奇妙な、釈然としない、何かちぐはぐな印象を受けた。指や耳たぶの形、すらりと伸びた首、シャツの首元から見える鎖骨のライン、背丈、胸のふくらみ、腰のライン、足の指(両方の小指が横に寝ているのを妻は気にしていた)、それらの部分部分は確かに妻なのだが、全体の集合としての彼女はひどく曖昧で漠然としていた。フォーカスの合ってない写真のようだった。
彼女はまるでこの部屋に馴染んでいない、と僕は思った。
部屋の検分が一通り済み、彼女はようやく僕のほうを見た。僕も彼女を見た。彼女の目の奥は固く閉ざされていた。その固い目の奥を覗き込んでいるうちに、僕の頭の中のとてもぼんやりとした違和感の解像度が急速に上がっていった。
彼女の目や、顔や、肩や手のひらや左右の足の開き具合や体重の乗せ方に何かがあった。それは不安であり、恐怖であり、完膚なきまでの拒絶であった。
彼女は僕を恐れているのだ。
何か誤解があるに違いない。僕はそれを解くために彼女に声を掛けようとした。優しく微笑み、彼女の名を呼ぼうとした。しばらくまともに動かしていなかった表情筋はみっともなく痙攣し、開いた口からは言葉にならない掠れた風が「ひゅう」と飛び出ただけだった。そしてたったそれだけのことで、彼女の肩がびくりと跳ね上がった。彼女は音も立てずに半歩ほど後ろに下がった。それを見た瞬間に、僕の頭の中の違和感がくっきりと鮮明なかたちをとった。
つまりそれはこういうことだ。
「彼女は、僕の妻ではない、僕の妻」だった。
彼女は、僕のところから穴に落ちて消えた妻ではなく、どこか別の渦の果にいる僕の妻なのだ。
僕は、間違ったところに穴をあけてしまったのだ。
頭をバットで思いっきり打ち抜かれたような気持ちになった。それから我に返り、僕は慌てて床に落ちたドリルの破片を探した。バラバラになったドリルの破片が、僕が見ている目の前で夜の影の中に溶けて沈んでいくのが見えた。まるで真夏のアスファルトに落ちたアイスクリームみたいに。消えた。跡形もなく。
それで、終わりだった。
明かりもつけず、僕と彼女はテーブルを挟んで座っていた。彼女も僕も何も言わなかった。この世界の誰もが消えてしまったようにしんとした夜だった。窓の外から月の光が注ぎ込んできた。影が、カーテンの裾に沿って柔らかなラインをつくっていた。今夜は満月だった。
随分長くそうやって、僕たちは黙って座っていた。僕は何だか一気に、何十年分も歳を取ったような気持ちになった。そしてひどく凍えていた。
僕はテーブルの上に置かれた彼女の手を取った。彼女の肩がびくりと跳ねたのが見えた。彼女の手はすっかり冷たくなっていた。僕はその手を強く握った。
「明日になったら、ネコを買いに行こう」
僕は妻を見てそう言った。妻はしばらくのあいだ僕の顔をじっと見ていた。それから、不安げに小さく頷いた。
そこから、何もかもをもう一度始めるしかないのだ。
例えそれがドリルだろうと、穴だろうと。
ドリルと穴 または僕は如何にして心配するのを止めて妻を愛するようになったか 惑星ソラリスのラストの、びしょびし... @c0de4
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