第32話 はじまりの場所
ケイがカルム養老院に復職して、半月が過ぎた。その間ヴォルクの来訪はなく、あの黄昏時の出来事は都合のいい夢だったのかと疑いはじめた頃。
寮に、ケイ宛の手紙が届けられた。表面に綺麗な字で自分の名。裏面には差出人はなく、代わりに侯爵家の紋の入った封蝋が。その封筒を返す返す見て、ケイは自室で口を押さえた。
(ほ、本当に来た……。中身、読めるかな? 駄目だったらラスタに代読――はさせられないな、さすがに)
震える手で封を開くと、おおらかそうな読みやすい字で短い文面が踊っていた。ケイは幼児のように、それを一文字ずつ音読する。
「げ、ん、き、か。こん…ど、ココと共に、出かけよう。前日、に、是か非かを、送ってくれ……。……!?」
「ママー。どうしたの? おかお、まっか」
「そっ! そうかな!? ……あのねココ。ヴォルクさんが、今度一緒に遊ぼうって言ってきてるんだけど……」
「えー! おじちゃんが!? いく! ねえ、どこいくの? いついくの!?」
「いやそれはまだ分からないけど……」
短い手紙には、うっすら期待していたような甘い言葉は何もなく、ただ外出の誘いが記されていた。だがケイにも分かるようにとやさしく書かれた文面はたしかにヴォルクの字で、彼と初めて文字でのやり取りができてケイは胸がじんわりとした。
(デート……か? いやいや、ココも一緒にって書いてあるし。ちょっと外に連れ出してくれる感じかな……?)
なんにせよ、つながりを持ち続けようとしてくれたことが嬉しい。ココのことを気にかけてくれるのも嬉しい。
(いや、でもこないだの返事がまだ……。……ていうか、キス…されたんだよねぇええ。忙しくて考える暇もなかったけど、いや待って。拒まなかったってことはOKって見なされてるのでは――。待って待って、まだ心の準備が……!)
難しい顔で赤くなったり青くなったりするケイをココがじっと見上げる。敏い我が子は、とどめのような一言をケイに放った。
「ママ、おくちがニマニマしてるね! うれしそう!」
「うう……おじちゃん……」
「あー……。これは明日、駄目だね……」
ところが翌週、約束の日の前日。
ココが熱を出した。ザ・遠足が楽しみすぎて発熱する子供の図だ。
ケイはココの頭を撫でてため息をつくと、たどたどしい字で侯爵邸に延期をお願いする手紙を送った。するとその日のうちに、返信と可愛らしい花束が届けられた。
――大事にしてくれ。また来週に。
優しく香る淡い色の花々と、その中に一輪だけ添えられた赤い薔薇のかぐわしい香りにケイは無言で微笑んだ。
そして翌週。天気は晴れ。体調の回復したココと共に、ケイはヴォルクが指定した待ち合わせ場所に急いで向かっていた。
どこへ行くとも何をするとも聞いてないのでいつもの普段着だが、というか普段着しか持っていないのだが、綺麗めの格好が必要だったらどうしよう。出発した今になってそんなことが心配になりそわそわしたが、前方に立つ二人の男性の姿にココの手を引いて駆け出した。
「すみません、遅くなって……!」
「おじちゃーん! うまじい!」
「うまじい!?」
寮から少し離れた通りで待っていたのは、ヴォルクとグラースだった。二頭の馬の手綱を持ったグラースがココに手を振る。
おうまのおじちゃん→ココから見ればもはやおじいちゃん?が転じて「うまじい」になったようだ。ケイは反応にハラハラしたが、グラースは孫を可愛がる祖父のように顔をくしゃくしゃにしてココを迎える。
「ごめんなさい、お待たせしましたね」
「ココ、うんちしてた!」
「ちょっ――。そういうの、言わなくていいから……!」
堂々と宣言したココにヴォルクが噴き出し、グラースは声を上げて笑った。ケイが慌ててココの口を押さえると、ヴォルクは目を細めてココの頭を撫でる。
「元気になったようで何よりだ。ココ、また馬に乗るが大丈夫か?」
「おうまさん、またのれるの!? やったぁ!」
ヴォルクとグラースがそれぞれ一頭ずつ手綱を引いた。馬を使うだろうとは思っていたが、てっきり馬車で来ると思っていた。
荷物をくくりつけられた馬たちは、ブルル…と出立を待っている。
「どこに行くんですか?」
「郊外の湖だ。子供用の鞍を用意させた。ベルトを着ければ手を離しても安定して乗っていられる」
「あっ、すごい。助かります……。良かったね、ココ」
「うん!」
グラースが先に騎乗し、その前方にココを座らせた。自転車のチャイルドシートのように持ち手とベルトが付いていて、これなら見ていて安心だ。
(……ん? ということは――)
「では我々も乗ろう。ケイ、あとから乗ってくれ」
当然のようにペアにさせられ、先に乗ったヴォルクが前のスペースを空ける。ケイが足をかけてなんとか体を持ち上げようとすると、馬上から手が伸びてきて腰をすくい上げられた。
二人乗り用の鞍の前側に着座すると、背後から落ち着いた声が響く。
「少なくとも、一人で騎乗はできるようになったほうがいいと思うぞ」
「はい……。練習します……」
(予想はしてたけど、タンデムか〜! こないだの今日で、気まずいな……。返事も保留してるし)
先日の出来事を思い出し、背中が緊張に強張る。
手綱を握るヴォルクの手にふと視線を落とすと、今度はフィアルカ危篤の際に、背後から抱きすくめるように支えてくれたその腕の力強さがよみがえってケイの耳が赤く染まった。そんなケイを見てヴォルクがつぶやく。
「……緊張するな。先日の件ならいったん保留で良い。今日はそなたとココをある場所に連れていくのが目的だ」
「はっ、はい。……すみません」
ヴォルクに緊張を見抜かれてケイの首がうなだれる。ヴォルクは背後で笑うと、先に行ってしまったココとグラースを追うべく馬の腹を蹴った。
ゆっくりと馬を走らせること30分ほど。ケイたち4人は、王都のはずれにある湖のほとりに着いた。
草原の先に静かな湖面が広がり、穏やかな風が吹き抜ける。ケイは馬を降りると、陽光を映してキラキラ輝く水面に感嘆の声を上げた。
「綺麗なところですね。ここが目的地ですか?」
「……まったく覚えていないか?」
「え?」
「ここは、そなたとココが最初に倒れていた場所だ。あの水際あたりで、そなたがココを抱きかかえていて――」
「えっ!?」
ヴォルクの発言にケイはぎょっとその指で示されたあたりを眺めたが、どれだけ記憶を探っても何も出てこなかった。ヴォルクが当時の状況を説明してくれても、他人事のようでピンとこない。
「いや……ヴォルクさんたちが、たまたま来てくれてて良かったですね。水際で気を失ってたとか、下手すりゃそのまま溺れて死んでますよ……。あっ、実際死にかけてたんでしたっけ」
「そうだな。だからそなたに――」
「……あ」
今になって、思い出した。そういえばそのとき、ヴォルクは自分に人工呼吸をしてくれたのだった。
ケイにはまったく記憶はないが、ヴォルクに口付けられたのは先日が初めてではなかったのだった。ヴォルクと視線が合うと、二人は互いにあさっての方向を向く。
「あの、本当にありがとうございました……。生きてて良かったです。助けてくれたのがヴォルクさんで、本当に良かった。ここがはじまりの場所だったんですね」
「……そうだな。私も、そなたを一番に見つけられて良かった」
二人の間に、温かいがどこかむずがゆい空気が流れた。それを突き破るようにココの高い声が響く。
「ママー! おじちゃーん! こっちきてー!!」
「あっ、はいはい。今行くね!」
「旦那様~。イチャついてねえで手伝ってくんろー」
「してない!」
二頭の馬には、軽い荷物が積まれていた。湖のほとりで敷物を広げ、持参されたバスケットを開くと中にはサンドイッチや果物が入っている。覗き込んだココが目を輝かせた。
「うわぁ~。ピクニックだぁ!」
「わ、すごい。わざわざありがとうございます」
ココが風邪を引いたときに「いつかピクニックに行こう」と約束していたのが、思わぬ形で叶ってしまった。
ケイはバスケットから料理と皿を出して並べると、少し離れた場所に座ろうとしているグラースを手招く。
「グラースさんも一緒に食べましょうよ。ヴォルクさん、いいですよね?」
「もちろんだ」
「うまじい、ココのおとなりきて! はいこれ、うまじいの
気安い関係だが一応は使用人のグラースが一歩引こうとするのを引き留めると、ヴォルクとココが後に続いた。
グラースは嬉しそうに寄ってくると、ココからとうもろこしもどきを受け取った。ココと一緒にかぶりつき、顔を見合わせて笑う。それはまるで、本当の祖父と孫娘のようだった。
ヴォルクとケイもパンを手に取ると、青空の下で遠慮なくかぶりついた。
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