31~最終話

第31話 決壊

 侯爵邸からの引っ越しを翌日に控えた昼、ケイはレダにヴォルクからの手紙を渡された。中を開くと、この世界の文字に不慣れなケイでも読めるように簡単な言葉で「夕方、薔薇園に来るように」と書かれていた。

 

 ちょうど夕食時で、ココを連れていくには微妙な時間だ。レダに相談すると、フィアルカを亡くしてまだ消沈していた彼女は快くベビーシッターを引き受けてくれた。



 日が陰りはじめた時刻にケイは一人で薔薇園へ向かうと、静かな温室に足を踏み入れた。ただようほのかな芳香の中、中央に置かれたベンチに腰かけている広い背中が見える。


「――ヴォルクさん」


「ケイか。私の帰宅後とはいえ、こんな時間に来てもらってすまぬな。ココは……預けてきたのか」


「はい。お腹がすいて機嫌悪くなりそうだったんで」


 ヴォルクに手招かれ、ケイもベンチの隣に腰を下ろした。ヴォルクと落ち着いて話をするのは、あのフィアルカの棺の前以来だった。

 あのとき感じた彼の体温と涙、そして自覚した自分の気持ちを思うとどうしても顔が火照りそうになるが、ケイがそわそわしてはヴォルクも気まずいだろう。なので努めて普段通りに接すると、ヴォルクもまたいつもの落ち着いた視線を向ける。


「実は、伯母の遺品を整理していたらそなたとラスタ宛の手紙が見つかってな。ラスタには後日渡すが、そなたには今渡しておこうと思う」


「えっ。……手紙なんて、いつ書いたんだろう……。字が書けることすら知らなかったです」


「右手は使えないが、左手で書く練習を以前していたのだろう。私やレダに宛てたものもあったが、レダも知らなかったとなると他の使用人に道具を用意させたのだろうな」


 ヴォルクに渡された封書には、表に震える文字で「ケイへ」と書いてあった。左手で書かれたのだろう、かろうじて読めるその文字からはフィアルカの努力が伝わってきてケイは胸が詰まった。

 便箋を開くと、さらにびっしりと書き込まれていたが字の歪みが強くケイには読めそうもない。ケイが見上げると、ヴォルクが便箋を受け取りざっと目を通した。


「……代読するか?」


「お願いします」


「……『親愛なるケイへ。あなたとラスタが来てくれて、本当に良かった。死を待つだけだったこの身がもう一度外に出られて、また薔薇園に行けるだなんて思いもしなかった。あなたとラスタは、新鮮な喜びを私に与えてくれました。本当にありがとう』」


「……っ」


 思いがけず流暢な文面にケイは驚き、そしてその内容に口を覆った。ヴォルクはそんなケイを見下ろし、静かに続ける。


「『ケイ。あなたを見ていると、召された娘を思い出します。あなたのように髪が黒く、素直で優しい子でした。娘は先に逝ってしまったけれど、あなたが元気にしていて笑ってくれると、娘に見られているようで生きる気力が湧いてくるのです。勝手に重ねてごめんなさいね。老婆のたわ言と思って許してね』」


「…………」


 目が潤み、喉の奥が詰まる。ケイが知らなかったフィアルカの本心と、以前はそうだったのかもしれない茶目っ気が文面に滲んでいて唇が震えた。

 ケイに便箋を返すと、ヴォルクは文面の最後を読み上げる。


「『この手紙が届いたということは、あなたが屋敷を去ったか、私がこの世を去ったかのどちらかでしょう。人生の最後にあなたたちと出会えたのは、この上ない幸運でした。本当にありがとう。どうかいつまでも息災で、幸せに――』 ……ケイ?」


「……う。……うーっ……!」



 こらえきれなかった。ケイはうつむくと、嗚咽を漏らした。ヴォルクの呼びかけにも答えられず、手で顔を覆うとボロボロと大粒の涙があふれる。


「フィアルカ様……っ。フィアルカ様……!」


「……っ!」


 ふいに、横から強い力で引き寄せられた。……ヴォルクの腕だ。そのまま胸へと抱え込まれると、後頭部を支えられて抱きしめられる。

 頬に感じるヴォルクの体温と薔薇ではない彼自身の匂いに、ケイの涙腺は崩壊した。


「うあ、あ、あ……! 私、知らなくて……っ! こんなに書けるなら、もっと文字を勉強してお話しすれば良かった……! もっとたくさん、フィアルカ様の気持ちを知れたのに……!」


「……ケイ」


「こんな気持ちで、いてくださったなんて――。私たち、きっともっとやれることがあったのに……! ……う、ううーっ…!」


 フィアルカの死に際しても、棺を前にしても、ヴォルクの涙を見てもケイは泣かなかった。こみ上げるものはあったが、「悲しんでいる親族の前で他人である職員が涙を見せてはいけない」という元の世界での規律に従い、一線を守った。

 けれど今、守るべきその規律は崩れ、この世界に来てからこらえていた様々な感情が一気に噴き出し、熱い涙となってあふれた。


 フィアルカはとうに、ただの介護対象者ではなかった。彼女はケイの大事な人の、大切な家族だった。だからこんなに寂しくて悲しい。


 泣きじゃくるケイの頭をヴォルクが撫でる。その手の温かさと力強さにまた泣けて、ヴォルクの胸にいくつもの染みができる。


「すまぬな……。私が無理を言ったばかりに、結局そなたらにつらい思いをさせてしまった。深入りさせるべきではなかった」


「それは……違います。絶対に違う……。フィアルカ様に会ったから、できたこともたくさんあります……」


 車椅子を作ることも。新しい介護用品を考えることも、彼女のような人を外に連れ出すにはどうすればいいか考えることも。フィアルカ一人とじっくり向き合う時間がなければできないことだった。

 そして、これほど近くにヴォルクを感じて彼を深く知ることもなかった。


「……そうだな。そなたらが来てからのこの2か月で、伯母は見違えるように変わった。言葉を交わし、視線を交わして――伯母が言うように、幸せな時間だったのだろう」


「…………」

 

 ヴォルクがもう一度ケイを抱き寄せる。泣き濡れたケイの目を見つめると、ヴォルクは灰色の目を優しく細めた。


「……ありがとう。そなたに来てもらえて良かった。伯母はたしかに、孤独ではなかった。……そなたの言った通りだったな」





 静かに涙を流し続け、やがてそれが落ち着いた頃。ケイはようやくヴォルクの胸から顔を上げた。

 気分はすっきりしていたが、顔はひどいことになっていた。さらにはヴォルクの上着が皺になり染みがいくつもできていることに気付き、慌てて離れる。


「すみません。えっと、ハンカ、チ――。……っ」


 顎を取られ、持ち上げられた瞬間。グレーの瞳が近付いてきて目を見開いた。

 動く間もなく吐息が触れて、唇が重ねられた。


(え――。え……?)


 固まったケイの唇の表面をなぞるように触れ、いったん離れたそれは、まつ毛が触れるような距離から視線を合わせたあとにもう一度重ねられた。思わず目を閉じると、その乾いた感触がダイレクトに感じられてじわじわと思考が追い付いてくる。

 今、ヴォルクに――口付けられている。


「……っ。ヴォル――、んっ……」


 二度目のキスは一度目よりもずっと長く、頬に口付けてから離れると、くすぐったさに鼻から思わず吐息が抜けた。

 ケイが言葉を発するよりも早く、もう一度抱き寄せられる。


「……行くな」


「え――」


「養老院に、帰したくない。……行くな」


「ヴォルクさん……」


 ヴォルクが体を離し、ケイを至近距離から見つめる。薄藍に染まりつつある温室の中で、色の薄い瞳がケイを映し切実な色を帯びた。


「喪が明けるまでは、言わずにいようと思っていた。だがもう無理だ。……私は、そなたが愛しい。そなたもココも愛おしい。そなたたちのいない生活はもう考えられない。……誰にも渡したくない」


「……っ」


 紡がれた言葉にケイは息を呑み、頭が真っ白になった。

 ヴォルクが、自分を……? 同じ気持ちで?


 明かされた強い想いと滲む独占欲に鼓動が跳ね上がったが、動揺が先に立ち、すぐに言葉が出てこない。

 赤い顔で眉を寄せるケイを見下ろし、ヴォルクが小さく苦笑を浮かべた。


「……などと急に言われても、困るだろうな。返事は急がぬ。だが……考えてもらえると嬉しい」


「……っ。ヴォルクさん、私……っ」


 拒絶ではない。それだけは伝えたくて口を開くと、ヴォルクの人差し指が唇に当てられた。ケイの言葉を封じ、拒否を許さぬそれは不思議な強さを持ってケイの心を絡めとる。


「返事は、またの機会で良い。だが、私も軍人の端くれなのでな。あまり待たされすぎると、強襲に転じるかもしれぬ」


「!?」


 ふ、と今まで見たことのないような鋭い笑みを浮かべ、ヴォルクの指が離れる。その瞬間、魔法が解けたようにケイは脱力し顔が耳まで真っ赤に染まった。


「行きなさい。ココが待っている。……明日は気を付けて向かってくれ。また追って便りを出す」




 ヴォルクに見送られて薔薇園を後にすると、清浄な夜の風が頬を撫でる。

 それでもケイの脳裏では、甘い薔薇の残り香とヴォルクの言葉が何度となくよみがえった。



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