第25話 ココ
それから数日後。久しぶりの休みを得たヴォルクは見回りを兼ねて、侯爵邸内を散策していた。
午前中に鍛錬と馬の世話は済ませた。たまには街に出てみようかとも思ったが、なんとなく気分が乗らず、かといって屋敷内に籠る天気でもなく結局そぞろ歩いている。
(たまには無心に釣りでもするか……)
敷地内にある池に向かって歩いていると、ヴォルクの耳に子供の泣き声が届いた。
「……?」
邸内ではあまり聞くことのない声だが、使用人の子でも泣いているのだろうか。
ふと足を向けると、子守り役の侍女が2歳ぐらいの女の子を抱きかかえている。そしてその横では、ココが地面に絵を描いていた。
侍女の腕の中で火が付いたように泣く子は、先日ココと共にいたココより小さい娘だ。たしかエナと言った。エナの泣き声に引かれ、ヴォルクは思わず侍女に声をかける。
「どうしたのだ」
「あっ、旦那様……! 申し訳ありません、お騒がせして」
「あー! おじちゃん!!」
「おっ、おじちゃん!?」
当然ココにも見つかり、ヴォルクは一瞬躊躇したがココの発言に仰天する侍女のもとへと足を踏み出した。小さなエナが侍女にしがみついて大きくしゃくり上げている。
「怪我でもしたのか?」
「違います……! マリノさん――お母さんが恋しくて、
マリノ、とは本邸に勤めるエナの母親のことだ。外で遊んでいるうちに思い出して、寂しくなってしまったのだろう。
「ごめんね、ココ。もう少し待っていてくれる?」
「ココちゅまんない……。おやしきかえって、おやつたべたい」
「一人じゃ無理よ。エナが落ち着いたら行くから――」
かなり長い時間エナをなだめていたのだろうか、侍女の顔にも疲労が浮かんでいた。
ヴォルクは少し逡巡したあと、彼女にある提案を持ちかける。
「ココは、私が少し預かろう。屋敷に連れ帰れば良いか?」
「そんな、旦那様のお手を煩わせるわけには――」
「ココ、おじちゃんといくー! いいの!? ねえ、いいの!?」
侍女の声を遮るようにココが歓声を上げた。とたんにヴォルクの脚にまとわりつくココに侍女はおろおろと惑う。
これは、
「気にするな。機嫌の悪い子供が二人になってはそなたも大変だろう。少し庭を回ったら連れ帰るから、先に戻っていなさい」
「は、はい……。ありがとうございます」
どこかほっとしたように侍女がエナを抱き直すと、ヴォルクはココの手を引きゆっくりと歩き始めた。
「おじちゃん、きょうおやすみなの!?」
「ああ」
「ママはね、きょうはおしごとなの。ねえねえ、またおうまさんのれる!? ココおうまさんのおせわしたい!」
「すまない、ここからだと馬がいる場所は遠いんだ。しかも今はグラースが連れ出していて、厩舎――馬の家にはいないはずだ」
「えー」
ココの表情がとたんに曇る。期待に応えられなかったのが少々申し訳なく、庭を少し歩いたら本邸に連れ帰ろうと思っていたがヴォルクは遠回りをすることにした。
「ココは、釣りをしたことはあるか?」
「ちゅり? ちゅりってなーに?」
「釣り、だ。棒の先に餌を付けて、魚を釣る遊びで――」
「おさかなちゅりなら、ほいくえんでやったことある! じしゃくつけて、エイッてするとおさかなさんとかタコさんとかちゅれるの!」
小さな手を一生懸命動かしてココが釣りの真似をする。磁石を付ける、の意味が分からなかったが、そのあどけない様子にヴォルクの唇は緩んだ。
ココを池に連れてくると、小さな釣り小屋に置かれた竿を2本持ち出す。
ヴォルクはたまにこうして、邸内の池で釣りをすることがあった。
もちろん食用にするためではない。頭を空っぽにしたいときや、逆に一人で静かに考えたいときに『じっと待つ』という無為とも取れる時間を欲する日があるのだ。
あえて『待つ』遊びが幼児に不向きなのは分かっていたが、飽きたらすぐにやめればいいと考え、屋根の下の椅子にココと並んで座る。
「良いか。絶対に、この場所から動いてはいけないぞ。池に落ちてもすぐに助けるが、濡れるし何よりお母さんが心配する」
「わかった!」
ん、とうなずきココが両手を差し出す。釣り糸の先に針を付けようとして、ヴォルクは迷った。食用ならともかく、遊びのために魚を傷付けるところを見せていいものか――自分の子ならともかく、ココはケイの子供だ。他人が勝手に判断すべきことではないと考え、結局針は使わずに糸に直接干し肉をくくりつけた。
自身の釣竿を軽く振って池に糸を飛ばすと、ココは「わー」と歓声を上げる。
「ココもやってみたい!」
「ああ。一緒にやろう」
ココの細い腕を握り、一緒に竿を動かす。身長差があるため補助が難しく、ほぼヴォルクが振る形になったが糸が遠くまで飛んだのを見るとココはぴょんぴょんと飛び跳ねて喜んだ。
ヴォルクの横に座り込み、両手で竿を持って見上げてくる。
「あとは? あとはどうするの?」
「こうやって持って、ひたすら待つ。竿が引っ張られる感じがしたら、釣り上げる」
針が付いていないため実際に釣るのは無理だろうが、説明するとココは真剣な顔で水面を睨んだ。だがものの1分もしないうちにその体はゆらゆらと揺れ始める。
「……ちゅまんない」
「早いな」
予想はしていたが、早すぎる。ヴォルクが思わず苦笑すると、ココは足をぷらぷらさせてヴォルクを見上げる。
「ココ、おなかすいた。おやつたべたい」
「おやつか……。……そうだ、飴があるぞ」
「アメ!?」
ヴォルクの一言にココが目を輝かせた。ころころ変わる表情は見ていて飽きない。ヴォルクはベルトに付けた小物入れに忍ばせていた飴を一つ取り出すと、ココの口に入れてやった。
「んー! おじちゃんのアメ、おいしーい!! ママのとあじちがう!」
「そうか」
なぜ、ヴォルクが飴などを携帯しているのか。それはケイの真似をしたからに他ならない。
ケイがポケットに飴を常備し、ココがぐずったときなどに与えていたのを知っていた。それを見て、なんとなく真似してみたのだ。緊急時には非常食にもなるし喉が痛いときにも有効……とは後付けした理由だが。
ケイのがどこのものかは知らないが、ヴォルクの飴はソコルに頼んで用意させたものだ。ヴォルクは知らなかったが、それはかなりの高級品だった。
初めて食べる『お高い飴』の味にココは感嘆し、満面の笑みを浮かべた。ニコニコしながらヴォルクを見上げる。
「えへへー。パパといるみたい」
「……っ」
唐突に繰り出された言葉に、ヴォルクの頬が強張った。
ココは邪気のない顔でヴォルクの腕にゆらゆらと頭をぶつけてくる。ヴォルクは表情を取り繕い、ココに問いかけた。
「……『パパ』と、よく遊んだのか?」
「え? んーん。パパ、たまにしかこないからあそんだことない。あのね、みうちゃんがゆってたの。パパとこうえんであそんだら、ジュースかってくれたって。だからこんなかなーって」
「…………」
ケイは、元夫に不貞をされたと言っていた。子育てにも協力的ではなかったと。
彼女は過去のこととして笑い話にしていたが、子供の口から実際にそれを聞くと胸が塞がる気分になった。
ヴォルクは迷いながらも、重ねてもう一つ聞いてみる。これは適切な距離を越えた質問だと自覚しながら。
「パパは……どんな人だ。優しいか?」
「んー。……おぼえてない! ココ、パパのおかおわかんなくなっちゃった」
「……そうか」
ココは特段寂しがる様子もなく、あっさりとそう言った。ケイが元夫といつ別れたかは知らないが、3歳児にとっては数年前どころか数か月前だって立派な過去だ。
ココが父親のことを覚えてないという事実に胸が痛む反面、どこかほっとした。
(ケイも、忘れてしまえばいいのに――)
「おじちゃん?」
「……っ。ああ、すまない。――ああ、ココ、糸が揺れてるぞ。魚が食いついてる。上げてみよう」
「えー! どこどこ!? おじちゃんてつだって!」
ふいに頭をよぎったほの暗い思考を、ココの高い声がかき消した。ココの釣竿が引かれているのを見て手を添えると、一緒に糸を引き上げる。
餌に食らいつく魚が一瞬見えたが、針がないので餌だけ奪われて魚は宙から池へと水音を立てて落ちた。
「おちたー! でも、おさかなエサたべたよね!?」
「そうだな。もう一回やってみるか?」
「うん! おじちゃん、またエサつけてビューンってやって!」
糸の先に餌をまた付けてやると、今度はココに竿を振らせてみた。先ほどよりだいぶ手前に落ちたが、ココは満足したようにヴォルクのすぐ隣に座る。
ふいに、コテンと丸い頭がヴォルクの腕に寄りかかった。初めて感じる子供の重みに、ヴォルクはもう片方の手でその頭を撫でた。ふわふわとしたくせ毛が柔らかく、温かい感触だった。
「ふふふー。おじちゃんのて、おっきいねえ」
「……ココは、寂しくないか? 元いたところの友達や、おじいさんおばあさんとも離れ離れだろう」
「んー。さいしょはちょっとさびしかったけど、へいき。おじちゃんも、ママもいるもん。おじちゃんち、おうまさんもおうまのおじちゃんも、レダおばあちゃんもいてたのしい!」
顔を上げてココがヴォルクを見つめる。ココは愛らしい顔立ちでケイとは正直あまり似ていないが、おっとりした優しい眼差しの色はそっくりだと思った。
ココがちょいちょいとヴォルクを手招く。顔を寄せると、とっておきの秘密を教えるようにココは耳元でささやいた。
「あのね、ココがさびしいときは、ママがむぎゅーしてくれるの。ママにぎゅーされると、こころがポカポカってなるんだよ」
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