第22話 逡巡
ココとヴォルクが戻ってくると、大興奮のココをケイはヴォルクから抱き取った。
地面に下ろすと、初めての乗馬がいかに楽しかったかを早口で話す。そんなココを馬上から優しく見下ろし、ヴォルクがケイに声をかけた。
「ケイも乗ってみるか?」
「え? わ、私もですか!?」
「ああ。この国で生活するなら、多かれ少なかれ馬とは関わりがあるものだ。慣れておいて損はないと思うが」
「…………」
そう言われては、ケイも迷ってしまう。たしかに、街中でも馬を見たり馬車に乗ったりする機会は多い。こんなに丁寧に乗せてもらえるなら、好意に甘えてしまっても良いのかもしれない。
(で、でも、使用人としての距離感~! そうだ、グラースさんが微妙な顔してるかも……)
「ああ、そりゃあいい。ちょっと待ってくんろ、踏み台持ってくっからよ!」
(ノリノリー! 他に人はいないし……まあ、いいか……)
「あの、じゃあお願いします。あ、まさか一人で乗るわけじゃないですよね!?」
「はっ……。もちろんだ。初心者の、しかも女人にそれをさせるほど私は厳しくない」
あわあわと告げるとヴォルクに笑われた。そうこうするうちにグラースが踏み台を持ってきてくれてその上に立つが、どう乗ればいいのか分からない。
「女人はだいたい横乗りをするが、どうする?」
「横乗り……」
そう言われてもピンとこないが、昔の映画などで淑女が横向きに馬に乗って、背後からイケメンヒーローに包み込まれている図がケイの頭にぽんと浮かび、ケイはぶるぶると首を振った。
ヴォルクの前でそんなヒロインのようになるなど滅相もない。こんな薄い顔とパンツ姿だし、何よりまたがらないと振り落とされそうで普通に怖い。
「またぎます。履いてるんで!」
「分かった。グラース、手伝ってやってくれ」
「はいよー。お嬢ちゃん、そこで待っててくんろ。母ちゃんが乗ったらオッチャンと引き馬しようなあ」
グラースに言われるまま、左足をあぶみに掛けて体を引き上げる。だが馬上にヴォルクがいるため思い切り足を振り上げてまたぐことができず、ケイはバランスを崩した。
「うわっ……」
「危ない! ……大丈夫か」
「は、はい……っ」
ヴォルクの左腕に強く抱きとめられ、ケイは馬上へと引っ張り上げられた。背中がヴォルクの上半身に包み込まれ、その密着感にケイはひっと肩を強張らせる。
(む、胸、掴まれた……! のは仕方ないけど、近い近い近い……!)
「……すまない、触ってしまった」
「いえ、それは全然っ! ありがとうございます。すみません、運動音痴で……」
ヴォルクの息遣いが分かるほど、背中と胸で密着してしまっている。少し距離を取らねばと思うが、思った以上の高さと微妙な揺れでケイは固まってしまった。
「ケイ、そんなに緊張すると馬に伝わる。手綱に掴まって、落ち着きなさい。遠くを見るんだ」
「は、はい」
「ママー。おうまさん、こわくないよー。ゆっくりユラユラすると、きもちいいよ!」
ココにまでアドバイスを受けてケイは大きく息を吐き出した。ヴォルクに必要以上に寄りかからないようにしながら、馬の呼吸に合わせて顔を上げる。
すると高い視界が開け、地上から見るのとは異なる景色にケイは目を見開いた。少し傾きはじめた木漏れ日が間近に落ち、木の香りが地上よりも濃く感じられる。
「綺麗……」
「馬上から見る木々も良いものだ。……歩くぞ」
ココとグラースに見送られて、馬が歩き始める。はじめは先ほどのようにゆっくりと。ココのときと同じコースを一周回ると、ヴォルクは馬の腹を軽く蹴った。
「わっ……」
「軽く走る。グラース、ココを見ていてくれ」
「はいよー。気を付けてー」
厩舎を離れ、ヴォルクは庭園へと馬を走らせた。走ると言っても歩くより少し速度を上げただけだが、上下の揺れが加わりケイは内腿を締めてバランスを崩さないようにするので必死だった。
徐々に体勢を保つのに慣れてくると、舌を噛まないように気を付けながら背後に話しかける。
「う、馬に乗るのって……大変だけど、楽しいですね」
「そうだな。単なる移動手段ではなく、心を通わせる喜びもある。体も鍛えられるしな」
「たしかに……」
ちゃんと乗ったら内腿だけでなく体幹もすっきりしそうだ。ダイエットに良いと言われるのも分かる。産後、下腹の緩みが気になるケイはがぜん乗馬に興味が湧いてきた。
姿勢を崩さないように注意しながら、ケイは肩越しにヴォルクを振り返った。
「あの、ヴォルクさん。色々良くしていただいて……ありがとうございます」
「なんだ、急に」
「ココが本当に楽しそうですから。あの子のあんなに真剣な顔とか喜んだ顔、初めて見ました。色々な経験をさせてくれて、ありがとうございます。……でもいいんですか? たまたま助けられただけで、こんなに面倒を見てもらうなんて――」
この世界に不慣れな親子に対する庇護とか、責任感とか、一使用人に対する待遇を大きく越えてしまっている気がする。純粋な好意でしてくれているのは分かるが、過ぎた行いは良からぬ噂のもとにならないだろうか。
(再婚、とか――勧められないのかな……)
王都にこれだけの敷地の邸宅と、そして地方には領地を持つ侯爵家の当主だなんて、たとえ本人が望まなくても周りが黙ってはいないだろう。ケイが知らなくとも、そういう話が実際に出ているのかもしれない。もしかしたら今この瞬間も。
ケイの胸がぎゅっと締まった。……勘違いしてはいけない。ヴォルクの好意は男女のそれではない。だから、近付いてこんなにドキドキするなんてあってはいけない。
「……迷惑か?」
「え……?」
うつむいたケイに、背後から声がかけられた。その沈んだ響きにはっと顔を上げると、ヴォルクの灰色の瞳がケイをじっと見つめている。その近さと真剣な眼差しにケイの心拍数が一気に跳ね上がった。
「そっ……そんなことはないです! それは絶対に……! すみません、誤解させました。あの、本当に嬉しいし楽しいんです。ココだけじゃなくて、私も。でも忙しいヴォルクさんの貴重な時間をいただいてるんじゃないかって、申し訳なさもあって――」
「……? 執務時間は減っていないが」
(いやそういうことじゃなくて、プライベートな時間をもらっちゃってるしー!)
オフィシャルな場面で時間を作ってもらうのは、まだ分かる。けれど今は完全にプライベートだ。そこに踏み込ませてもらうのに戸惑いを感じているのだが、ヴォルクには今一つ伝わらない。
なんと言おうか迷うケイに、ヴォルクは続けて告げる。
「……私も、楽しいからな。ココと……そなたと過ごすのが。娘…というとおこがましいが、もう親戚の子供のような気持ちでいるし、それでココが喜ぶならいくらでも付き合う。……ココだけではない。そなたにも、楽しんでほしいし安らいでほしい。はっきり言えば、頼ってほしいのだ」
「……っ」
背後から落とされた低い声に、ケイはぎくしゃくと前を向いた。カーッと顔が赤くなるのをヴォルクに見られたくなかった。
実は耳は隠れていなかったが、短く深呼吸して頬の赤みを落ち着かせるとケイは振り返って告げた。今度は誤解を生まないように、心からの感謝を込めて。
「ありがとうございます。……嬉しいです」
「……うむ」
少しずつ日が傾いて、夕方になってきた。庭園を折り返し、厩舎へと馬を走らせる。その頃にはケイも馬の揺れに慣れ、ヴォルクと会話をする余裕も出てきていた。
「そういえば、フィアルカ様のお世話を引き継いでくださる方、見つかりましたか……? 募集されてるんですよね」
「あ、ああ……。いや、それがまだなのだ。ケイとラスタには世話をかけるが――」
ケイの問いかけにヴォルクが歯切れ悪く答えた。その内容にケイは軽く首を振る。
「いえ、私は全然。……良かった。やっと慣れてきてくださったので、今変わったらちょっと寂しいところでした。もうすぐ、前に頼んでたあれもできますし」
「そうか。……ありがとう。そなたたちが来てから、伯母は前より明るくなった気がする。私が無骨なばかりに寂しい思いをさせていたが、そなたらのおかげで少しは彼女の言葉が分かるようになって会話ができるようになった」
「言ってることを全部分かろうとしなくてもいいんですよ。頻繁にお会いになって、しっかり目を合わせれば結構色々伝わりますよ。少なくとも、気持ちは」
「……そうだな」
厩舎が見えてくると、ココが手を振って待っていた。頭の上に、グラースが作ってくれたのか可愛い花冠が乗っている。
「ママー!」
「ただいまー!」
グラースが馬をつなぎ、先にヴォルクが下りた。ヴォルクの真似をしてケイが下りようとすると、突然バイアリーが横に揺れた。餌を見つけてしまったのだ。
「ひゃっ!」
「ケイ……!」
馬上から滑り落ちたケイがたたらを踏む。そこをヴォルクにまたしてもがっちりと抱えられ、グラースがぴゅうと口笛を吹いた。
「バイアリー、いい仕事すんなぁ~。旦那様、いくらデカいからってチチ揉んじゃ駄目だっぺ~」
「揉んでない! ……すまん」
「は、はい……」
再び胸を掴ませてしまった気恥ずかしさにケイが頬を染めると、同じくヴォルクも気まずそうに咳払いをした。
その夜、ヴォルクは書斎で侯爵邸に届いた書簡を確認しながら、今日の出来事を思い返していた。
久々に屋敷内で一日を過ごした休日だったが、充実していた。馬の世話もできたし、何よりココとケイを馬に乗せてやれた。
前妻は馬車には乗るが、女が乗馬などとんでもないという考えの持ち主で厩舎に近寄ることはなかった。そのため、誰かと一緒に馬に乗るのはヴォルクにとっても初めての経験だった。
ココのいたいけな満面の笑み、そしてケイが慣れぬ様子で手綱に掴まっているのを思い返すと、自然と口元が緩む。
(二度もバランスを崩して――。まったく危なっかしい)
とっさに抱きとめ、そして掴んでしまった体の柔らかさを手のひらで思い出しそうになり、ヴォルクは邪念を追い払った。それでもずっと目の前にあったケイのうなじとか赤く色づいた耳とか柔らかい声が浮かんできて、目を閉じて眉間を押さえる。
『ありがとうございます。……嬉しいです』
そう振り向いた時の、夕陽に照らされたはにかんだ笑顔が。驚くほど綺麗に見えて一瞬言葉を失った。
ケイに言った言葉に嘘はない。彼女たちといると、楽しい。そしてそれ以上に、ケイとココの存在にヴォルクは深く癒されていた。
『恵みの者』と救護者。労働者と後見人。そして使用人と当主。そのいずれもの距離感を、越えてしまっているのは自覚していた。
ココの成長を見守りたいから。ケイが介助者として有能だから。どんな理由を並べても、そこに私心が入っていないとは言えない。ヴォルクはヴォルクの意思でケイを侯爵邸に招き、そして留めていた。
机の上に、フィアルカの介助者候補の身上書が何枚も置かれていた。
……募集はした。応募も来た。けれど、選定は後回しにしていた。ケイのフィアルカへの好意と責任感に甘えて、今この時間をできるだけ長く続かせようとしている。
「そなたの貴重な時間を奪っているのは、私の方か……」
浮ついた心で振り回していい相手ではない。何より自分には、そんな気持ちを抱く資格もない。
苦く呟くと、ヴォルクはランプの火を吹き消した。
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