第20話 日常

「フィアルカ様、今日は髪を洗いましょうか。見て下さいこれ、ラスタの旦那さんが作ってくれたんですよ」


 ケイとラスタがフィアルカの介護を始めてから、早くも半月ほどが経った。朝食を終えて着替える前に、ケイが木でできた水筒を見せるとフィアルカはよく分からなさそうに首を傾げる。


「ここにお湯を入れて蓋をしてー、ほら、反対側がシャワーになってるんです。これで流すと気持ちいいですよ」


 元の世界で言うところの竹筒のような、中が空洞になった木に複数の穴を開け、即席のシャワーボトルを作ってもらった。ラスタの旦那さんは木工職人で、ケイの頼みでこれまでにもいくつかこの世界にはまだない介護用品を作ってもらっていた。


「器用ですよねえ。……あ、これ革袋か何かと接続すれば水量の調節もできるかも。ちょっと改良してみますね」


「……ケー。あお、あえないえ」


「はい、顔にはかけないよう気をつけますね。……始めます」


 たった半月ではあるが、毎日同じ人に接していればだいぶ意思疎通もてきるようになるものだ。薄いながらもわずかに浮かぶ表情の変化と、歪みつつもゆっくりと紡がれる言葉からフィアルカの気持ちを汲み取り、ケイは付かず離れずの距離でフィアルカに接していた。

 白髪にぬるま湯をかけ、髪洗い粉をふりかけて寝たまま髪を洗う。防水布代わりに敷いた薄い革と厚手の布から湯が染み出さないよう注意しながら、ゆっくりと頭皮をマッサージした。


「……いおち、いい」


「本当ですか? 良かったー。私、前の職場でもシャンプーはよく褒められたんですよね。美容師に転職しようかなって一瞬思いましたけど、美的センスが全然ないから『いや無理だな』ってすぐ諦めましたけど。娘の髪も今は私が切ってますけど、この前も前髪ガタガタになっちゃってヴォルクさ――侯爵様に、笑われちゃって」


 スーパーオン眉ぱっつんになってしまったココを見て、ヴォルクが噴き出したのを誤魔化そうと咳払いした光景が忘れられない。ケイが苦笑しながら告げると、フィアルカはぽつりとつぶやく。


「……オーヴ、……ああうの」


「え? すみません、もう一度お願いできますか」


「……わ。わー、らー、うー、……の?」


 寝ながら上目遣いで尋ねられ、ケイは言葉を止めた。頭皮をほぐしながら、優しく告げる。


「……笑いますよ。大笑いはしませんけど、特に娘にはよく笑いかけてくれると思います。優しい方ですね」


「…………」


 フィアルカの唇の左側だけが、震えながら少しつり上がった。……笑った。


「おおなの……。……よあっあ」


「フィアルカ様……」


 昔は伯母と甥として、一般的なその関係以上に親しかったであろうヴォルクとフィアルカの、現在のどこか他人行儀な雰囲気。

 それがフィアルカの病気を発端にしたものだとは想像がつくが、病に倒れたあともフィアルカは、自由にならない体と思考でヴォルクを案じ続けてきたのだ。そのことがヴォルクに伝わりきらないのがもどかしい。


 深入りしてはいけない。自分は一介護者でしかない。そう思うが、以前自分で言ったようにケイもまた人間だった。事情を知ってしまうと、深入りしたくなる相手はどうしたっている。

 もう少しだけ、気持ちに寄り添いたい。フィアルカにも――ヴォルクにも。


(近付きすぎると、ここを離れるのがつらくなるのにね。……でも、できるだけのことはやってさしあげたい。せっかく呼んでくれたんだから)


「他にかゆいところはないですか?」


 丁寧に洗い終えて声をかけるとフィアルカは小さく首を振り、安堵したようにケイの手に頭を預けた。






 午前の仕事を終えてラスタにあとを任せると、ケイは少し早めの昼食を取った。食後の散歩を兼ねて広大な敷地内を歩いていると、聞き慣れた声が聞こえる。


「ココねー、かくれんぼがいい!」


「えー。かくれんぼは、きのうやったじゃん! オレ木のぼりがいい!」


「ココ、きのぼりやったことないもん……」


「てつだってやるよ! せんせーもそれでいいよな?」


「そうね。あの木だったらいいわよ。エナもいらっしゃい」


「エナちゃん、いこー。ココがおててつないだげる」


 ベビーシッター係の若い侍女と、前髪ぱっつんのココと、侯爵邸に勤める使用人たちの子供が二人。一人はココより年上の男の子で、もう一人はココより小さい女の子だ。

 ケイはとっさに植木に身を隠した。葉っぱの間からこっそりと四人の様子を窺う。

 男の子がココの手を引き、ココが女の子を手を引いていた。仲良く並んだ三人は手をぶんぶんと振り回してその場でくるくる回り始める。


(かっ、かわ……! 幼児の集団可愛い! 尊い…!)


 はわ~と口に手を当て、ケイはちびっ子たちが遊ぶ様子を見守った。自分といるときのココももちろん可愛いが、親の目を離れて子供たちの輪の中で遊ぶ我が子もまた可愛い。なんならよその家の子も可愛い。

 いっこうに移動しない四人を離れた位置から見守るケイに、そのとき背後から声がかけられた。


「――ケイ? 何をしているのだ」


「あっ、ヴォルクさん。すみません、しゃがんで……!」


「……っ?」


 今日は休日だったのか、たまたま通りがかったヴォルクが声をかけてきた。ケイは振り向くと、挨拶もそこそこにヴォルクを手招きした。

 茂みに身を隠すよう手で示すと、高い上背をかがめてヴォルクが隣に並ぶ。困惑するヴォルクにケイはしー、と人差し指を立てた。


「どうしたのだ……。ああ、ココか。声をかければ良いではないか」


「しー! 駄目です。邪魔しちゃ駄目……! こっそり見てるんです」


「……それは覗きと言うのではないか?」


 この邸宅の主であるヴォルクが身を隠す必要はまったくないのだが、ヴォルクはしぶしぶケイに付き合ってくれた。大きな手で枝をかき分けて、四人の様子を窺う。


「あの侍女に、何か問題でも……?」


「え、ないですよ。よく見てくれててありがたいです。ああ、あんなに走り回って……私じゃヘバって無理だなあ」


「ではなぜ声をかけないのだ」


「子守りの邪魔しちゃ悪いじゃないですか。私もそろそろ戻らないといけないですし……。あと、こうやってこっそり見るのがいいんですよ。は~、みんな可愛い~」


「……そうだな」


 うっとりと子供たちを見つめるケイに、ヴォルクが小さく苦笑した。ふと横を見るとヴォルクが大きな体を縮ませてヤンキー座りをしており、ケイは思わず噴き出した。横目で見られるとメンチを切られたようで、もう一度笑いそうになるのを口を押さえてこらえる。


「どうした」


「いえっ……、なんでもないです」


「それで、ここからどうするのだ? いつまでも隠れているわけにもいくまい」


「いや、ほんとそれで……。すぐ移動すると思ってたんですけど」


 ケイはともかく、当主その人に仕事の様子を見られたとあってはあの侍女が気の毒だ。結局二人はこそこそと茂みに身を隠しながら少し離れた場所まで移動し、ようやく立ち上がった。



「ふー。付き合わせてしまってすみません。ヴォルクさんは今日はお休みですか?」


「ああ。そなたはこのまま戻るのか?」


「はい。今日はフィアルカ様、頭も洗って機嫌が良さそうですよ。良かったら会いにいらしてください」


「分かった。あとで寄らせてもらう。――あ」


「え?」


 ふっと視界が陰り、ヴォルクがケイの頭に手を伸ばした。ケイの耳の上に触れ、離れていく。

 急に近付いた距離にケイが目を見開くと、ヴォルクは手のひらを開いた。


「葉がついていた。ああ、こっちもだな」


「あ、ど、どうも……。ありがとうございます」


 ちょいちょいと何度か、ヴォルクの指がケイの髪をつまんでは離れる。自分の方が先にヴォルクの首に触れたことはすっかり忘れ、ケイはどぎまぎと礼を言った。

 老人たちからは触られ慣れているが、同世代の男性に触れられるのには慣れていない。ヴォルクが一瞬触れた耳がじわじわと熱を持つ。


「あの、そろそろ行きますね。それじゃ失礼します」


 ヴォルクの手が止まると、ケイはそそくさと挨拶を述べて別邸へと急いだ。




「――あ、帰ってきた! ねえねえ見てよ、フィアルカ様! ちゃんと結うとますますお綺麗よね」


 別邸に帰り着くと、フィアルカがひじ掛け椅子に座ってラスタに髪を結われていた。既婚の貴族女性がよくしているように髪をアップにしたフィアルカは、顔の半分が麻痺しているとはいえ生来の気品がにじみ出ていた。

 普段よりも意思の感じられる瞳で、フィアルカは不思議そうに首を傾げた。


「……ケー。おおい、あの?」


「顔赤いわよ。何かあった?」


 二人からの追求に、ケイは頬を押さえて「なんでもないです……」と答えたのだった。



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