第10話 変化
「これは侯爵……。こんなに間を空けずにいらっしゃるのは珍しいですね。何か気になることでも?」
「ああ、いやケイの様子を見にな。体調はもうすっかり良いのか?」
「はい。今日は食堂で面白いことをしていますよ」
ケイの部屋を訪れてから約半月後。ヴォルクは再びカルム養老院に足を運んでいた。
出迎えた院長――ヘレナは少し驚いたあと、目尻にシワを刻んでヴォルクを手招く。
「ヘレナも息災か? 何か不便なことがあったら言ってくれ」
「いつも通りでございますよ。皆元気に働かせていただいております。……ほほ。あの愛想笑いもできなかったぼっちゃまがずいぶんと成長したこと。この老婆にも気遣いをしてくださるとは」
「……ぼっちゃまはやめろ。それにまだそんな歳ではないだろう」
ヘレナはかつて、ヴォルクの養育係として侯爵邸で働いていた。第二の母とも言える彼女には、幼少期からのあれやこれやを握られている。ヴォルクが額を押さえると、ヘレナはホホホと微笑む。食えない笑みだ。
「それにしても、ずいぶんとケイを気にかけているのですね。あなたが最初に『恵みの者』を働かせてほしいと言ってきたときは、何を言っているのかと思いましたが」
「いや、私も紹介してはみたものの、まさか興味を持つとは思わなかったのだ。元いた世界で同じような仕事をしていたとは、なんという偶然か――。……?」
入居者の居室が並ぶ廊下を歩きながら、ヴォルクはふと違和感を覚えて足を止めた。いつもと何か感じが違う。
居室のドアが薄く開かれ、室内までは見えないものの換気がされている。それから廊下や部屋の入り口に、素焼きの皿や布の巾着が置かれていた。先日来たときにはなかったものだ。
「臭いが、減ったか……?」
「ああ……。外から来た方にも分かりますか」
養老院は、いくら入所者の清潔に気を遣ったり清掃をしたりしていても、独特の臭いがあるものだ。軍の男たちの体臭や戦場の悪臭に慣れたヴォルクにはそれほど気にならないものだが、これを嫌う者は多い。まして貴族ともなればなおさらだ。
しかし今、その臭いは完全ではないものの大幅に軽減されていた。ヴォルクが指摘するとヘレナはゆっくりとうなずく。
「何が入ってると思います?」
素焼きの皿を持ち上げ、ヘレナが問いかける。中に入っている茶色い粉は、土ではない。鼻を近付けるとわずかに嗅ぎ慣れた匂いがした。
「コーヒー……か?」
「はい、コーヒーかすです。それと消臭効果のあるハーブが少々。ケイが提案してくれて。……まさかゴミだと思っていたものに臭いを消す効果があるなんて、驚きました。それから日中は換気をしたほうが臭いが籠もらないと」
「ケイが……」
ただ職を得て働くだけではなく、元の世界の知識を活かして助言をしているのか。落ち着かない様子で話していた先日とのギャップにヴォルクが驚くと、ヘレナは食堂へと歩みを進める。
そこに集まっていた入居者たち、そして職員の様子にヴォルクは目を見開いた。
「はーい、皆さんパートナーは決まりましたか? それじゃ現役時代を思い出して、ステップはゆっくりで! 歩けなくても、私たちがリードしますから手だけでも楽しんでください。今日の演奏は、元宮廷音楽家のアルルさんです!」
食堂の中央に立ったケイの口上を合図に、隣でバイオリンの
もう何十年も前に社交界で流行ったダンス曲だ。公の場でも久しく聞いていないその音色に合わせ、食堂に集った老人たちがゆっくりと動き出す。
「これは――」
「酸いも甘いも噛み分けた大人のための、舞踏会ですって。……ふふ。そんな機会、もう何十年となかった人ばかりですのに」
アルル
ほとんどの者は職員とペアを組んでいるため転倒する危険はなさそうだが、中には現役顔負けのステップを踏んでいる老婆もいた。……あれは確か、2階に入所しているいつも怒りっぽい夫人ではなかったか。
立てない者は座ったまま職員と手を取り合って。それすらできない者は手拍子口拍子だけで。その場にいる者が皆、思い思いのスタイルでこの『舞踏会』を楽しんでいるようだった。
「ケイ〜。わしゃもう指が上手く動かんよ。こんな演奏では聞くに耐えん」
「そんなことないですって。間違っても、ラスタが合わせてくれますから! それにやっぱりアルルさん、すごい! こんな素敵な音聞いたことないです」
「そ、そうか……? そう言うなら、少しテンポを上げようかの」
「あっ、ほどほどで! 皆さんが付いてこられるように」
「当たり前だ。わしを誰だと思うておる」
演奏がのってきたようで、曲が少し高揚感のある音色に変わる。
アルル翁のつるりとした頭の向こうに、ヴォルクは自信に満ちた若き宮廷音楽家の面影が見えた。ヴォルクさえその現役時代は知らないというのに、彼の皺だらけの手の動きには往時を忍ばせる高揚感が見て取れた。
「……面白いですよね。れくりえーしょん、というらしいです。週に2、3日、こうして食堂に集まって体操をしたり
「それも、ケイが?」
「はい。あとはラスタなどノリの良い職員が一緒になって。……でも不思議ですね。それほど難しいことをしているわけではないのに、これを始めてから皆さんの顔がいきいきしてきた気がするのです。アルルさんなんて、右手が少し麻痺しているのに特訓されたのかあんなにお上手にお弾きになって」
「そうか……」
曲が終わり、休憩時間になる。腰掛けた老人たちは笑顔の者が半分、照れくさそうにしている者がその半分、あとは表情がつかめない者たちだったが、席を立って部屋に帰る者はいなかった。
「水分補給しましたかー? それじゃ二曲目はワルツで。パートナーはさっきと変えてくださいね。来週はシルフィーさんのピアノで『カラオケ』しますから、歌いたい曲考えといてくださいね!」
再び手を叩いて老婆の手を取ったケイを目に収め、ヴォルクは応接室へと引き上げた。
「ヴォルクさん!? 来てたんですか……!」
レクリエーション『前略・舞踏会』を終えて昼食を済ませたケイは、院長に呼ばれて向かった応接室で目を丸くした。
あの風邪の日の差し入れ以来となるヴォルクの来訪に、院長を振り返る。
「あなたの考えた消臭剤や『れくりえーしょん』に感心されていましたよ。侯爵からお話があるそうですから、戻りは少し遅れて構いません。それじゃ、ごゆっくり」
ふふ、と意味深な微笑みを残して院長が退出する。ケイはそれを見送ると、赤い顔でヴォルクの前に腰かけた。
「うわー、見られてたんですか……。恥ずかしい……」
「何を言う。堂々としていて驚いたぞ。そなたはああいう才能があったのだな」
「いや、才能じゃないです。元の世界でやっていたことをちょっと持ち込んだだけで……司会やるのとか、ほんっと苦手なんですけど言い出しっぺだから仕方なく……」
調子に乗って盛り上げていたのを見られていたなんて恥ずかしい。ケイが顔を手で扇ぐと、ヴォルクは意外そうな顔で瞬く。
「緊張していそうには見えなかったが」
「そう見えてたなら良かったです……。職員が恥ずかしがってたら、利用者さん…じゃなくて入居者の人たちはもっと恥ずかしいじゃないですか。だからスイッチを入れるというか、盛り上げ役を演じる!みたいな気持ちで毎回ヒーヒー言いながらやってます。ああでも知り合いに見られるのはやっぱりちょっと恥ずかしいですね」
「そうか……。しかし、そなたが入職したことでこの院にも良い影響が出ているようだ。偶然ではあったが、紹介して良かった」
穏やかにそう言われ、細められたグレーの瞳にケイの鼓動が跳ね上がった。熱がなくてもときめいてしまうとは何事だ。
ケイは顔を扇ぎながら邪念を打ち払った。他人の旦那さんに懸想してはいけない。
「そ、そういえば。アルルさんのバイオリン、すごかったですよね!? 私、バイオリンとかまともに聞いたことなかったけど感動しちゃって」
「ああ……。元宮廷音楽家と言っていたな。たしかに老いてなおあの腕はすごいな」
「ですよね? しかも演奏してみて分かったんですけど、ここ石造りだから音響が良くて。アルルさんの昔のお知り合いとかに声かけてコンサートでもやったら、すごくいい感じになるんじゃないかと――」
照れ隠しに振った話題に同意をもらえて、ケイは勢い込んで話を続けた。が、ヴォルクがじっと見つめていることに気付き声をすぼませる。
「す、すみません。しゃべりすぎですよね……」
「いや。……ケイは仕事が好きなのだな」
「え? うーん……どうでしょうか。仕事しないと生きていけないから必死にやってきましたけど、どうせやるなら少しでも楽しくなるようにした方が自分の精神衛生上いいかなって。それを好きっていうのかどうかは分かりませんけど……」
仕事は嫌いではない。けれど、好きと言い切れるほどでもない。
でも異なる世界に来て、最悪、国の世話になるとか他の職を探すとか違う道もあったはずなのに、それでも似たような仕事を今続けているのはそういうことなのかもしれない。
ケイがあいまいに肯定すると、ヴォルクは静かにうなずく。
「あ、そういえば私に何かお話があるとかって。すみません、お忙しいのに余計な話して」
「いや、良いのだ。こちらこそ仕事中にすまん。実はな――今度、共に城に来て国王陛下に謁見してほしいのだ」
「……えっけん、ってなんですか?」
わずかに迷うような顔で告げられた言葉にケイは首を傾げた。ヴォルクは一つため息をつくと、ケイに分かりやすいよう嚙み砕いて言い直す。
「王に挨拶する、ということだ。私的なものではあるが、正装をして共に王宮へ行ってほしい。院長には話を通しておいた」
「……え。ええー!?」
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