異世界シンママ ~モブ顔シングルマザーと銀獅子将軍~

多摩ゆら

1〜10話

第1話 転移

「――というわけで、あなた方はこちらの世界に転移してきてしまったようなのです。分かりますか? 恵みの者よ」


「はい? ……え、ちょっ、待っ――。……すみません、全然分かりません」


 冷たく硬い大理石の床の上で、けいは幼い娘を抱きながら間抜けな声で首をかしげることしかできなかった。






 その日は、いつもと同じように慌ただしい朝だった。


「マ~マ〜。くちゅした、どこぉー?」


「さっき自分で出したでしょ! あっ、それ裏表!」


 頬に米粒をつけた娘の問いかけに歯ブラシをくわえたまま答えるのも。


「はいできたね。遅れちゃうから行くよっ」


「……おトイレ」


「はい!? えええ……保育園まで我慢できない?」


「むりぃ。もれちゃうよぉ!」


 今まさに出かけるというタイミングで引き止められるのも。全部、いつも通りといえばいつも通りのことだった。トイレが大きいほうだったこと以外は。


(ヤバいヤバいヤバい、今日こそ遅刻する……!)


 引きずるように娘、心――ココを抱え柚原蛍ゆはら けいはアパートの階段をおりた。運の悪いことに先ほどからどしゃ降りの雨が降っており、ところどころ歩道が冠水している。


「危ないな……。ココ、長靴はいてるけど気をつけてね」


「うん。ココ、らいじょうぶ!」


 いつもと違う濡れた道に、ココは目をキラキラさせて蛍から手を離した。歩道から車道に飛び出し、車は来ないもののピンクの長靴が水たまりに数センチ浸かるようになり蛍はハラハラと追いかける。


「ココ、先に行かないで」


「ママもはやくー!」


 バチャバチャと水音を立ててピンクの長靴が跳ねる。靴とおそろいのレインコートがひるがえり、ココが笑顔で振り返った。


「ママ、たのしいねえ! どうろがうみになっちゃったみた――」


「ココ!」


 ココの姿が、ふっと沈んだ。転んだのではない。二つに結んだふわふわの髪が真下に落ちるように逆立ち、蛍はとっさに手を伸ばした。


(マンホール!? こんなとこにあった!?)


 小さな手をすんでのところで掴み、その代わりに自分の傘を手放した。ココを抱きとめた瞬間、蛍自身も足元の地面を失い真下へと引きずり込まれる。マンホールよりも暗く、そして果てしなく深い水の中へと。


(うそっ。溺れる!? 苦し……っ。ヤバい、これは死ぬ……)


 近所のマンホールで溺死だなんて笑い話にもならない。せめてココだけでも上に、と思うが水の重みは暴力的で抗うことは不可能だった。

  

(くっそ……養育費の支払い、今日が初だったの、に……。もらいそこねた…………)


 どうしようもないクズ男だった元夫への恨み言を最後に、蛍の記憶は途切れた。






 そして現在。どこぞの屋敷の広間の真ん中である。中年の、やたら迫力のある美女に見下ろされた蛍は我が身に起こったことを一から説明されていた。


 気を失って目覚めたら、まず知らない家のベッドの上にいた。命があって体にも異常がないことには感謝したが、そこはどう見渡しても病院ではなかった。

 ヨーロッパ風の小洒落たホテルのような――いやむしろ、テレビや電話などホテルにあるべきものが見当たらず、まるで本当に中世に来てしまったかのような、そんな部屋だった。


 わけが分からないまま横を見ると、隣のベッドにはココが寝かされていた。こちらも目に見える怪我がないことを確認し、蛍は膝から崩れ落ちるほど安堵した。

 寝てはいるが、呼吸も安定している。ココが無事でさえあればとりあえず一安心だ。そうして外の様子を窺おうと足を踏み出した瞬間、扉が外から開いたのだった。


 それからはあっという間だった。驚愕するスタッフの女性に強引に案内され、深い眠りに入ってしまっているココと共に屋敷の中の広間に連れ出された。

 そして大理石の床の上で所在なく待っていると、先述の迫力美魔女が登場したのだった。


「――ですから、あなた方は元の世界からこちらの世界に偶然飛ばされてきたようなのです。我々の言葉では転移と言いますが、分かりますか?」


「いや言葉は分かりますが……すみません、意味が分かりません。その前に、あなたは誰ですか?」


(転移? 転移ってあれ? ネトクリのアニメとかでよく見る異世界なんちゃらってやつ? ……え、この美女いい歳して中二びょ――)


「よろしい。わたくしはこの国の大神官、アデリカルナアドルカと申します。この星読みの館のあるじをしております」


「アデリ――あ、はい」


(やばい、全然覚えられそうにない)


 舌を噛みそうだ。ひとまず心の中では美魔女と呼ぶことにする。

 若い頃は目もくらむような美女だったであろう美魔女は、迫力あるわがままボディをゆったりとした上質なローブに包み、蛍を無表情に見下ろす。


(いや、ツッコミどころはたくさんあるけどさ……神官て、神主とか神父的なものだよね? 女性だからシスターか。のわりに、化粧濃くない!?)


 残念ながら、目の前の美女からは神々しさとかありがたみのようなものはまったく感じられなかった。良く言えばゴージャスな、悪く言えば俗物的ないでたちに蛍は逆に少しホッとした。こちらのほうがまだ緊張せず話せるかもしれない。


「森の湖であなた方が倒れていたという話を聞き、館で保護させてもらいました。……ああ、あなたを助けたのはヴォルク将軍という方です。いずれ会うこともあるでしょうから、後日お礼を言うと良いでしょう」


「将軍……」


 なんだかまた中二くさい単語が出てきた。げんなりする蛍にかまわず、美魔女は淡々と続ける。


「確認ですが、あなたはソムニウムに住む人間ですか?」


「いえ……日本在住です。あ、地球の」


「二ホン? 聞いたことがないですね。チキュー……少しお待ちになって」


 美魔女は手にした本をパラパラとめくると、綺麗に引かれた細い眉をしかめた。そしてため息をつき、蛍に向き直る。


「やはり、転移ですね。あなたのいた世界…チキューと、このソムニウムがなんらかの原因で繋がってしまったようです。そしてあなたが、この世界に飛ばされてしまった」


「あの、どうして分かるんですか? 地球から来たとか、転移したとか」


「星の動きが尋常ではありませんでしたから。それに前例があるのです。わたくしの代では初めてですが、過去にチキューからこの世界に降りてきた人びとの記録が残っておりますから。その者たちは『恵みの者』と呼ばれ、このソムニウムに新しい知識や技術をもらたしたとか」


(えっ。……そんなのないけど)


 転移だかなんだか知らないが、妙な期待をされても困る。相変わらず眠りこけているココを抱きしめ、蛍は無表情の美魔女に慎重に問いかける。


「あの、それで……私たちはどうすれば帰れるんですか?」


「帰る方法はありません。道が開くことはあっても、それは星の気まぐれでいつ起こるかもどこで起きるかも分からないもの。ですので、今まで帰った者はおりません」


「うそ……」


「わたくしは嘘は申しません。星と月に誓って」


 そのときだけ、美魔女が不機嫌そうに眉をしかめた。態度はあれだが、たしかに嘘はつかなさそうだ。美魔女は蛍とココをのぞき込むと、こちらを見定めるように目を細める。


「あなた、お名前は?」


「あ……柚原蛍です。娘がココで」


「ユハラケー? 変な名前ね」


「蛍です!」


 あんたには言われたくない。少し強めに返すと、美魔女はふうとため息をつく。


「そう、ケイ。……あなたの身柄はこの館で一時預かりとしますが、七日のうちに出て行ってもらいます。その間に住む場所と仕事を探してくださいね」


「はい? えっ、七日!?」


「ええ。星の動きが次の周期に入りますから、外部の者は置いておけないの」


 急にハードな展開になってきた。だらだらと汗をかきながら見上げると、美魔女は寂しそうに、いやむしろ当てが外れてがっかりしたような顔でつぶやいた。


「それにしても、恵みの者はみな眉目秀麗と記されていたのだけれど――あなたは、ずいぶんとあっさりとした顔立ちなのですね」


「……はぁ。えっと……すみません」

 

(言い方……! 事実だけど!)


 本当に、嘘はつかない人らしい。嘘だと思いたかったが彼女の言ったことを信じるしかないようだ。

 こうして柚原蛍は、異世界で無職のケイになったのだった。



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