3歳で死んだ父親の部屋で遺品エロゲしてたら躁鬱になってコロナにもなって腱鞘炎で片腕死んでピロリ菌で胃に穴空いて何だかんだで舞台脚本を書いて生活してる競馬好きの女子中学生の創作論

🔰ドロミーズ☆魚住

弱者共感 ~どうしてざまぁ系や追放モノが流行るのか~

 どうもドロミーズ☆魚住です。

 今回は創作論という事ですので創作している時の鬱モードで書こうと思います。


 基本的に鬱モードの私は全速力で後ろ向きに走る人間なので……まぁ……よろしくです……。

 


 さて、タイトルにあります追放モノやざまぁ系の簡単な説明なんですけれども。


①追放された主人公が『かわいそう』。

②だから、主人公がざまぁをして『気持ち良くなる』。


 ざっとこんな感じです。

 なので、今回は『かわいそう』と『気持ち良くなる』を主題に色々と書き殴ってみましょうか。




 さて、早速本題ですが、人間という生き物は基本的に自分よりも下の存在に感情移入するようにデザインされています。


 弱者への共感……より正確に言えば弱者への投影とでも言うべきでしょうか。

 だからこそ、私たち人間は社会的弱者に優しく出来る訳ですし、医療という素晴らしい技術が出来た訳だったりします。


 そして私たちはその能力を利用して日々読書を楽しんでいる訳です。


 であるのであれば、それを利用すればいい……題して『弱者共感』。

 

 しかし、私たちは基本的に共感の意味を勘違いしていたりします。

 私たちは相手に共感するつもりで『おぉ! かわいそうだ! 君は今まで大変だったのだな!』と同情をしてしまいます。


 まぁ、それが普通でしょう。

 ですが、それは貴方の感想です。

 只々、自分の感覚を相手に押しつけているだけです。


 共感とはそもそも『相手の関心に対して、自分が関心を持つこと』です。


 しかし、相手に同情するフリをして自分の感情を押しつける人間は、相手の関心ではなく自分の関心に関心を持ち、自分の関心を相手の状況に当てはめてしまう。


 要するに弱者を前にした事で比較し『目の前にいる弱者よりも、社会的にも、精神的に上位の自分』に酔っているだけなのです。


 まぁ、そんな事は別にどうでもいいのです。 

 実際、ニュースを見て死んでしまったかわいそうな人の名前を見たし聞いたっていうのに明日になったら忘れているのが私たちですしね。


 さて、共感を正しく定義するならば『相手の置かれている状況や考え方、意図、感情、関心などに関心を持つこと』と言えるでしょう。


 アドラー心理学の範疇になるのですが、アドラーは『共感とは、相手の目で見、相手の耳で聞き、相手の心で感じること』と定義していたりします。


 実際、本当の弱者とは本人から名乗るものではありません。

 弱者というのは『健常者の視点』から見て勝手に判断されるものです。


 それでは、今後から私たち作者は間違った共感から正しい共感に戻そう……という話をするつもりはありません。


 どうして間違いで通っている共感の方が大多数だっていうのに、少数の正しい意味を利用する必要があるのでしょう。


 そもそもです。

 小説は娯楽であり、娯楽とは相手を気持ち良くさせるモノでしかありません。

 娯楽無くして小説とは言えず。

 小説を書く以上、作者が娯楽を求めてはならない。

 作者は永遠に娯楽を求める第三者の奴隷です。


 小説における共感とは『相手の目ではなく読者の目で見、相手の耳ではなく読者の耳で聞き、相手の心ではなく読者の心で感じさせること』を意味します。


 寧ろ、その間違った共感を利用しないで何をするというのです。

 我々作者はメンタリストでもセラピストでもありません。

 我々は読者を気持ち良くさせるだけの存在でしかありません。 


 読者よりも惨めな主人公を用意してあげましょう。

 読者よりも悲惨な主人公を用意してあげましょう。

 読者よりも惨烈な主人公を用意してあげましょう。

 読者よりも凄惨な主人公を用意してあげましょう。


 そして、思わせるのです。

『なんて可哀想なのだ!』と。

 読者に優越感に浸らせ、キャラクターに同情させてあげましょう。

 同情すれば人間は自分の事のように思います。

 真なる意味ではなく、偽なる意味で共感した読者と主人公は精神的に一体化します。


 さて、ではそうなったら後は何をするか。

 気持ち良く接待をするだけです。

 ラブコメであればかわいい女の子とイチャコラを。

 ミステリーであれば安楽椅子探偵を。

 ホラーであれば自分以外の誰かの惨たらしい瞬間を。 

  

 いやいや、そんな訳がない!

 自分の知っている小説は、自分の大好きな小説はそんな事をしていない!

 

 そう思う方々もいるでしょう。

 ですがねぇ、プロの小説家っていうのは『相手に気づかれずに、相手を気持ち良くさせる』事に長けてる人なんですよ。


 これ、小説家じゃなくても言える事です。

 

 というかですよ『あ、これ接待してるじゃん』って思わせたら興醒めでしょう?

 どうして娯楽に耽っている最中の読者にそれを気付かせるんです?

 どうして夢を見ている人間を現実に引き戻すんです?

 そんな事したら作者として駄目でしょう?

 

 故にこそです。

 この能力を鍛え上げたいのであれば市販の本を買って読む事です。

 幸い、この弱者共感の導入部分は序盤にあるので簡単に見つけられると思いますし、この知識があって初めて弱者共感に気づける作品というものもあります。


 本が面倒であればアニメや映画もいい。

 それもまた娯楽であり弱者共感をふんだんに利用した作品です。


 ドラマの人物が着ている服の色がシーンごとで変わってはいやしないか?

 ライトの光量はどれぐらいか?

 天気は?

 家族構成は?

 社会での立ち位置は?

 主要人物の顔の向きは? 


 全ての物事には意味と意図があります。

 リアルであれ、創作物であれ、何であれ。


 普通であれば気づけない意図に気づき、気づいたそれを如何に自分のモノとして取り込み、他者に対して気づかせないようにデザイン出来るか、如何にしてその弱者共感のレパートリーを増やせ続け、新たな可能性を開拓出来るかどうか……それが創作者としてあるべき姿だと私は考えています。


 如何にして、相手を気持ち良く騙せるか? 

 それが私たちが真に目指すべき場所でしょう。

 




 さて、では弱者共感の基礎が分かったところで応用と行きましょうか。

 要するにコレ、弱者じゃない人間には共感できないっていう意味合いなんですよ。


 で、これを上手く利用と応用したキャラが『鬼滅の刃』の『煉獄杏寿郎』やら『宇髄天元』。


 彼らは俗にいう『雨の日に捨て猫を拾う不良効果』を利用したキャラだったりします。


 不良と言う社会の逸れ者がたった1つの善行をしただけでなんか良い事したように見えるっていうアレですアレ。

 もっと創作的に言うのであれば『0点という加点しか出来ない状態にさせる』という事です。


 勘の良い方はもう分かった頃合いなのではないのでしょうか?

 さて、皆大好き煉獄さんや宇髄さんは『主人公との初対面で良い人』でしたか?


 始めからそうだった……と言いたいところですが、原作では煉獄さんは妹に対して『殺そう』と発言してますし、宇髄さんは『戦えない人を拉致』してますし、共感が全く出来ないようにデザインされてますフシギダナー。


 そして、彼らの特徴としてあるのは『柱』という社会の立ち場。

 主人公であり一般隊士である炭治郎と社会的にも優遇された別次元の存在であると社会的立場の時点でほのめかしています。


 実際他の柱たちも大体そんな感じだったりします。

 基本的に共感が出来ません。

 共感をさせるつもりがありません。

 こんな頭おかしい人に囲まれて主人公がかわいそうですねぇ。


 とまぁ、柱の存在は主人公に感情移入させる為の舞台装置の役割も兼ねています。


 話が逸れましたが、こんな状態で柱たちに対して共感なんてとても出来ません。

 じゃあ、どうして読者たちはあのキャラに共感できたのか?

 弱者じゃないのに、どうして?


 その大きな理由が『雨の日に捨て猫を拾う不良効果』。

 人間っていうのはね、自分の胸の中で相手の事を好き勝手に減点や加点したりする生き物なんですよ。


 その点数の結果によって、その人物が好きか嫌いを決める知的生命体なんですよ。


 であるのなら、はい、もうやることは決まってます。

 好感度のスコアが0点になったのだから、後は加点するだけの事。

 読者が感情移入している主人公を助けてあげたり、主人公が倒せない敵を倒したり、色々としてやれば宜しい。


 ヘイトを集めないといけない敵にも同じ事が言えますし、これの応用は出来ますねぇ。

 実は良い人……と思わせておいてぇ! というのもお約束ですし、逆に全く共感できないように徹底的に減点処置に取らせ調整したりとまぁ、出来ますねぇ。


 悲しいことに、私たちの好きっていう感情は意外と打算的だったりするんですよねぇ。

 

 小説やらシナリオがもっと上手くなりたい……そうであるのであれば、自分の好きを追及しましょう。


 どうしてその『好き』が好きになったか?

 その『好き』は本当に『好き』なのか?


 錯覚ではないと断言できますか?

 嘘ではないと断言できますか?

 本当に好きだと断言できますか?

 絶対に忘れないぐらいに好きですか?

 1番に好きですか?


 その『好き』を紐解き、自己捜索をするのが創作のあるべき姿と言っても過言ではないでしょう。


 まぁ、その『好き』が嫌いになってしまったのがこの私なのですが!


 中々に苦痛ですよぉ? 

 好きだと信じていたものが『どうでもいいものだった』と気づいた時の激痛というのは!


 知りすぎた所為で、私はもう二度と作品を読者視点で楽しめられない身体になってしまいましてね……。






 









 とまぁ、嘘で読者の方々に『かわいそう』と思わせたところで終いです。


 余談ですが、嘘っていうのはリアルでも創作でも比率は『本当:嘘=95:5』が1番バレないのですっごくオススメですよ! まぁ、それも嘘ですが。


 それでは是にて。

 好評でしたら続きを書くつもりですんで、コメントとかでこれについて書いてほしいとかありましたら残して頂けますと、次の創作論のテーマにしますんで、そこのところ宜しくです……。

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