ペンギンは二足歩行者の夢を見るか?

人形使い

第1話

 木も草も土もない真っ白な大地が果てしなく続いている。

 しかし、動くものがわずかにある。

 上から見ればその姿は、雪と氷が延々と続くその大陸の上の黒い点にしか見えないだろう。

 目を凝らすものがいれば、黒い点は他にもあることが見てとれるだろう。他にある黒い点は動かない。屍だ。まだ動きを止めない黒い点は、群れとも言えないほどの数で寄り集まって歩き続けている。

 やがてその点を覆い尽くすほどの嵐が来た。極寒の環境と強烈な冷気を伴うこの嵐は、この場所におけるほとんどの動植物の生存を許さない。ほぼ全土が分厚い氷床に覆い尽くされ土壌が露出していないこの場所にはわずかなコケ類、藻類、地衣類しか生息しておらず、動物の姿も見られない。

 そんな過酷な環境の中で唯一動いている黒い点は、嵐を避けられる場所を探して移動し始めた。しかし、周辺にはあるのは平坦な氷の大地と降り積もる雪のみで、遮蔽物になりそうなものはなにもない。

 点はその場から動かずにいることだけに集中しているようだった。

 ややあって、吹雪が弱まり始めた。点は再び白い雪に覆われた大地を歩き始めた。

 彼らはこの雪と氷に閉ざされた1361万3000平方キロの大陸を渡り歩く、唯一の二足歩行動物。

 それこそが、彼ら「ペンギン」。

 赤道以北に活動領域を押しやられた人類の、南極調査隊である。






 人類の戦争とその文明に終焉をもたらしたのは、核ミサイルでも国家首脳の暗殺でもなかった。突如として南極点から発生したカビ、それが人類の栄華の終焉だった。

 後に「アスペルギルス菌」と名付けられたこのカビ菌は、気流、水流、そして戦争中であった各国の軍需物資の流れに沿って瞬く間に南半球に配備されたを軍を軒並み全滅させ、撤退させた。

 地球全土を飲み込むかと思えたこのアスペルギルス菌による侵食は、かろうじて赤道付近で食い止められた。

 しかしその時点で人類の経済・文化圏は赤道以北にまで後退。南半球から人類の姿は消えた。

 人類が赤道以南へ再び足を踏み入れるまでには、実に50年近い時間を要した。人類は少しずつアスペルギルス菌によって後退させられた版図を再び拡大させていった。10年、20年、30年と時代を経て最後に残った未踏査区域。それがこの2800mもの氷床の上に存在する大陸、南極だった。

 分厚い耐寒スーツを着装したペンギンたちは、かつての人類が踏破していた南端であるこの南極大陸を調査するために集った調査隊だ。アスペルギルス菌による経済・文化圏の後退によって過去に南極大陸に存在していたとされている調査基地はことごとく機能を停止。情報的断絶によって、この雪と氷に覆われた南極に関する情報はほぼ全てが失われていた。

 ペンギンたちの目的は、その情報敵断絶を回復し、南極大陸を再調査することだった。しかし、マイナス80度を超える過酷な環境下における調査は困難を極めていた。

 寒波による凍死、強風による事故、薄い氷床にそれとは知らず足を踏み入れてしまったことによる落下、吹雪の中での方向感覚の喪失による遭難など、ペンギンたちの死因は枚挙にいとまがない。

 しかし、ペンギンたちによる南極調査を妨害するもっとも大きな要因はそうした南極の環境や事故ではなかった。ペンギンたちによる南極調査を困難なものにしている最大の理由。

 それは、孤独だった。





 耐寒スーツのヘルメット内部に表示された天候データが安定したのを確認して、フクシマは体を起こした。

「行くか……」

 誰にも聞こえていないことを承知の上で、フクシマは立ち上がる。

 インジケーターに示されたマップを確認。強化プラスチック製のバイザー越しの視界は白一色にホワイト・アウトしており、マップなしでは現在地すら判別できない。

 当初はチームでの行動を原則としていたペンギンたちだったが、南極の過酷な環境はそれすら困難なものにしていた。ブリザードに巻き込まれて行方がわからなくなった仲間を探しに行き、ひとり、ふたりとチームが欠けていき、それまでの調査記録と高価な機材、そして人員が失われる。それが多くのペンギンたちの運命だった。

 その解決策として政府が決定したペンギンたちのルールが、単独・個人単位での調査だった。

 仲間を助けようとして芋づる式にチームが瓦解するのなら、最初からチームを作らなければいい。最初から助けるべき仲間がいなければ、チームが瓦解することもない。

 単独での南極調査が実行されるようになってから、ペンギンたちの間では「南極で自分以外に二本足で歩いているものがいたら絶対に近づくな」が原則となっていた。

 ここで自分以外に日本足で歩いているものが見えたとしたら、それは孤独による幻覚だ。幻覚でなかったとしても近づくな。決して助けようとするな。

 ある意味非人道的とも言えるこの原則に従えるものたちだけが、ペンギンの一員となってこの雪と氷の大陸に挑むことができるのだ。

 フクシマもそのひとりだった。

 グローブを嵌めた手でバイザーにこびりついた氷をこそぎ落とす。安定剤のお陰で、二本足で歩くものの幻覚は見えない。多くのペンギンたちが孤独に耐えられず、このわずかな地衣類しか生息しない極寒の地にいるはずのない二本足で歩くものの幻覚を見て、あるものは氷海に、あるものはクレバスに消えていった。

 フクシマは訓練中に嫌と言うほど聞かされたペンギンたちの事故事例を頭の隅で反芻しながら、マップに従って白い世界をひとり歩いていく。

 マップを頼りに、先行調査によって判明した氷床の薄い部分や切り立った氷山などの危険区域を迂回しつつ、フクシマは進んでいく。視界が真っ白な雪と氷だけなのが、逆に安心できる。進むことだけしかしなくていいことに救われる。

 ここには、雪と氷以外にはなにもない。これまで自分を縛っていた父や母とのしがらみ、周囲の人間との衝突、社会との軋轢、そうしたものは全てこの吹雪の向こう側だ。

 ここにいるのは自分だけだ。それがたまらなく心地よい。

 一時期は大きな社会問題ともなっていたペンギンの単独・個人単位での南極調査が行われると知ったとき、フクシマは歓喜した。自分のいるべき場所を見つけたと確信した。事実、フクシマがペンギンとして認められたのは学力でも体力でもなく、孤独を志向するその精神性だった。自分以の人間に関心を持たないその精神性こそ、ペンギンの生存率を大きく向上させる要素だった。

 マップを確認する。間もなく、グリーンで示された踏査済み区域とレッドで示された未踏査区域の境界線だ。フクシマはためらいなくそのラインを超えた。

 見える風景は相変わらず雪と氷のみ。ブリザードが収まっている今のうちになるべく距離を稼ぎ、周辺の地形情報を収集しなくてはならない。

「……!」

 地形データ収集装置 《ジオ・マッパー》を確認したフクシマの目に、久しく目にしていなかった雪と氷の白以外の色が飛び込んできた。ぼんやりと見える、黒い色。

 周辺地形を慎重に走査し安全を確かめたうえで、フクシマはその黒いものに近づいていく。

 氷に埋もれるようにして氷原に横たわっているそれは、物言わぬ屍。破損した耐寒スーツだった。

 スーツ内部を循環している耐寒ジェルが外気にさらされ、冷気と未だ南極大陸に蔓延しているアスペルギルス菌によって変質して硬化、黒変し、石を積み上げた塔のようになっている。

 ペンギンたちの間で「ケルン」と呼ばれるそれは、名も知られずに死んでいったペンギンたちの墓標だった。南極大陸に送り込まれたペンギンたちに課せられた任務のひとつが、このケルンを目印に先行していたペンギンたちの調査データをできる限り回収することだった。

「よう、先輩」

 ヘルメットの中に響く小声でフクシマはそうつぶやき、データ回収に取り掛かった。

 ケルンをピッケルで割り砕き、耐寒スーツの無事な部分を確認する。各種の記録装置は外的な衝撃や環境変化に強く、極端に大きなダメージを受けない限り内部データは保存可能となっている。一説では、耐寒スーツの生命維持機能よりも耐久力を優先して作られているという噂もあった。しかし、それはフクシマにはどうでもいいことだった。

 砕いたケルンの破片の下から破損した耐寒スーツを引っ張り出し、接続端子を探る。自分のスーツから引き出したケーブルを接続し、データを回収する。

 このデータを収集したペンギンの素性を、フクシマは知らない。男か女か、出身地はどこか、どんな経歴かいっさい知らない。どのようにして死んでいったのかも知らない。関心がない。

 フクシマにとって他人はノイズの塊だった。性別、出身、経歴、社会的地位……そうした雑多な情報に翻弄されて生きてきた。しかしここには、これには、そうしたノイズがない。

 氷と雪と、そしてケルンという墓標。それだけの要素で構成される、シンプルな世界。他人というノイズを感じる必要のない、心地よい世界。

 今この場所で、二本足で歩いているものは自分だけだ。

 地形データ収集装置 《ジオ・マッパー》に周辺の地形データが正常に収集されているのを確認しながら、フクシマは歩みを進める。

 再びブリザードが強くなってきた。強風に吹き飛ばされないように姿勢を低くし、かかと部分のアンカーで氷床に体を固定する。

 ヘルメット内のインジケーターに警告アラート。左足部のアンカーが正常に稼働していない。硬い氷がこびりついてスーツの可動部や関節部が動かなくなるのはよくあることだ。冷静に対処すればどうということはない。

 動作確認をしようと身をかがめたその瞬間、フクシマの側頭部を衝撃が襲った。

 警告アラートと出血で視界が真っ赤に染まった。横ざまに吹き飛ばされながら、ブリザードに紛れて飛んできた氷塊が激突したことをフクシマはかろうじて認識した。

 耐寒スーツの生命維持機能が作動、自動的に麻酔薬と治療薬が注射される――はずだった。しかし、氷原に転がっているフクシマを襲う激痛は収まらない。赤く滲んでぼやけた視界でかろうじてインジケーターを確認する。

 生命維持機能が損傷していることを確認しても、フクシマはどこか他人事のように「ああ、そうか」と思っただけだった。

 起き上がれない。仰向けでブリザードにさらされながら、フクシマは動けずにいた。

 意識が朦朧とする。次第に時間の感覚が失われていき、自分が100年前からこの場に身を横たえているような気持ちになっていく。

 雪と氷の白だけがある視界に、ぼんやりと見えるものがある。人影だ。

 それを幻覚だと自覚するだけの認識が、フクシマにはまだ残っていた。ここにはいるはずがないのだ。自分以外に、二本の足で歩いている生き物など。

 体が、そして心が本能的にその幻覚を自分の仲間だと思おうとしている。その衝動を、フクシマはひとり嘲笑で抗う。

「いらないんだよ、お前らなんか」

 死の訪れは、フクシマにとって救いだった。安堵すら覚えた。

 二本足の幻覚を追い払いながら、フクシマは眠りに落ちる。自分もまた、誰でもない墓標になることを祈りながら。

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