いつも二人で

初心なグミ@最強カップル連載中

いつも二人で


 焼かれる様な暑さと、青々しい匂いを運ぶ涼しい風が吹く季節のこと。とある島のとある小さな村に、大人しい男の子と元気な女の子が同じ日に生まれた。そしてそれは小さい島の少ない人口では奇跡に等しく、二人は運命共同体として村の大人達に育てられたのだ。


―――

 

 小さい頃から一緒にいる二人の性格は正反対だが喧嘩はなく、互いが互いを補い合うといった仲睦まじい関係であり、女の子が僕を遊びに誘っては日暮まで遊び尽くすといった日々が続いていた。

 

 夏に二人がよく遊ぶのは、星空の様にまるで手の届かない水平線が、遥か彼方に見える海辺の砂浜。当時十歳だった僕たちは皮の靴を濡らさないようにと裸足で駆け回り、触ると気持ちの良いポカポカした砂に僕は腰を下ろした。砂とは別で、一瞬でも足を踏み入れるとその心地よい冷たさに暑さを忘れ潮風がかおる澄んだ空色の海に、女の子は肩まである髪を靡かせながら砂浜を駆け足で過ぎ去り飛び込む。女の子の、光が灯る黒く澄んだ瞳が瞼に消え目尻が下がると、僕の方を向いては頬を赤らめて微笑んだ。そんな愛おしい笑みを浮かべる女の子が水面を蹴るたびに、花びらの様に咲き乱れる水飛沫が女の子の吸い込まれるような海色の髪上に舞い散り、太陽の光を反射しているのか言葉に出来ないほど眩しく綺麗で、僕の目と心は女の子の全てに奪われていた。

 

 そんな一夏の日常を女の子は心と身体で楽しむが、僕の方は女の子に連れ回させ些か身体的な疲労が溜まっていくばかりだ。もともと身体が強いわけではない僕は家で本を読むのが好きで、父が近くの大陸から買ってきた本を一日中読み漁っていた。それでも女の子に連れ去られ外で過ごす日々は楽しいし、いつも明るく照らしてくれる女の子の笑顔はとても好きだ。だからこそ、殻に篭っていた僕を連れ出してくれた女の子には感謝しているし、運命共同体という肩書き以上に女の子は特別だった。

 

 この時から僕は、女の子のことが好きだったのだろう。だけど、当時十歳だった男の子には好きという感情は少し難しく、一緒にいると楽しい、一緒にいたい、一緒にいると安心する、一緒にいるとドキドキする、といった答えでしか持ち合わせてはいなかった。


ーーー


 それから五年の月日が経ち、十五歳になった頃。昔の身体の悪さは、すっかりと鍛えられていた。日々の日常は、よく食べ、よく遊び、よく寝るの繰り返しで、その内三分の二は女の子と過ごしていた。成長期の身体とは不思議なもので前とは見違えるほどに体力は上がり、大人たちと島の南方にある森に狩りに行くようにもなった。

 

 その森というのはかなり深く、鳥やら猪やらの動物やちょっとした薬草に木の実まで、ありとあらゆる自然の恵みが詰まっていて、いつも僕たちの生きる糧を譲ってもらっている。その代わりに僕たちは、特定の老木以外の大きい木を伐採し次の命が芽吹きやすいようにと手伝わせてもらったり、森の生き物を減らし過ぎないように家畜を飼っていると、森に入る前に村の大人が言っていた。その全部を理解していたかといえばそうではないが、表面上の内容だけは理解していたと思う。

 

 森で血抜きをした猪三匹と籠に入っている木の実数十個を採った帰路に、女の子の爽やかな海色の髪に似合う黄色の花を見つけた。その花を優しく摘むと少しでも傷つけないようにと、女の子から貰った僕の名前が刺繍されているハンカチにそっと包み込む。村に着くと血抜きされている猪を大人が、僕が木の実を調理場へとそのまま持っていく。

 

 調理場には腕の効く村の大人たちが居て、受け取った籠に入っている木の実を種類ごとに取り分ける。保存が効くもの、ジャムにするもの、調味料にするもの、そのまま食べるものに、飲み物にするものとそれぞれだ。僕と女の子は小さい頃から特に飲み物が好きで、夏場に大人からラズベリーをもらっては潰して飲んでいた。朝大人に頼んでいたラズベリージュースを二人分貰って、女の子がいつもいる薬草畑へと足を運んだ。

 

 高台にある薬草畑からは海を見ることができる。僕が狩りで遊べない日はいつもそこのベンチに座り、黒い瞳を艶めかせ、胸まである海色の後ろ髪を革紐で一つに結び、潮風に靡かせている。ここ2年間の女の子は何かに憂いていることが多い。僕はその姿を見る度に罪悪感に駆られながらも、その妖艶さに息を呑んでしまう。ほんの数秒間見惚れていた僕に気づいた女の子は、目尻の下がった瞳から雫が溢れだし、血色に染まった頬を潤わせながらこちらへと振り向く。女の子はこちらへ振り向くと同時に、溢れ出したそれを鎮めようとハンカチで優しく、それでいて無造作に拭う。僕はそんな女の子に対して焦りの様なものを感じたのだが、当時の感の鈍い僕にはその答えまで辿り着けなかった。

 

 一瞬立ち尽くした僕は少しずつ女の子の方へ進み、両手に持つラズベリージュースの片方を渡す。ジュースを渡した時の女の子の表情は、今さっきの出来事がなかったと思えるほどに明るく、感の鈍い僕でも無理していることだけは分かった。女の子が何に無理をしているのか、何故無理をしているのか、どのくらい無理をしているのか。昔から三日三晩一緒にいる女の子の知りたいこと、知らないことが僕には山ほどある。木製のコップに柔らかな薄紅色の唇を付けジュースを喉に流す女の子に、僕は心の中の蟠りを無意識的に曝け出していた。

 

 それは…

 何に憂いているのか?

 何に焦っているのか?

 何故泣いていたのか?

 ーーなんで、何もなかったように笑っているのか?

 

 最初は無意識だったそれを、僕は次第に意識的に曝け出していった。女の子はそれらの疑問を静かに聴いていたが、女の子がそれらに答えることはなかった。何も答えてくれない女の子に対して、言葉にできないほどの無力感を抱いた。生まれた時から三日三晩一緒にいた女の子に、僕は絆を感じ、特別に思っていた。だからこそ女の子が何かに悩んでいるのなら力になりたかったし、力になれると心のどこかで思っていた…。

 

「悔しいなぁ…」と下唇を噛む僕に、静かにジュースを飲んでいた唇は、重々しく言葉を投げかける。「あの日まで…あと、ほんの少ししかないわね…」と、寂しげに。


ーーー


 今から二年と十一カ月前のこと。当時十二歳だった僕たちは、小さい島の普遍的日常を謳歌していた。しかしこの日の、一日という短い時間は僕達の人生においてのターニングポイントとなった。

 

 今日もいつも通り日の出と共に起床し、朝から図鑑などの蔵書を読み耽っていた。読書を始めてから大体三時間くらいだろうか、いつもの時間に部屋の窓からコンコンッとノックする音が聴こえてくる。そちらへ近づき、窓を奥の方へ開ける。窓を開ける時には、閉まりきった部屋に充満する重苦しい空気が、涼しくて青草の匂いが舞う踊る気持ちの良い空気へと変化していく。その自然で清らかな空気を大きく吸おうとした時、窓の下にしゃがんでいた女の子がいつも通りの元気さで「おっはよー!」と跳び上がり、挨拶をしてきた。毎度のこと驚かせようとしているのか、今日みたく下から飛び出したり、窓の上から逆さになってみたり、村の大人に変装してみたり…と、色々試行錯誤してきている。で、僕が驚かないと結構いじけたりするので、「ふぅ…う、うわぁ!!」とワンテンポ置いた後に驚いた振りをする。それでも本気で驚くこともしばしばあったり、驚かせようと頑張る女の子を見るのが好きなので結構楽しみだったりもする。

 

「お腹減ったねぇ…」と手を繋ぎ、村の唯一無二で皆の食事場に、歩幅を合わせて少しずつ歩いていく。食事場へ往くといつも通り、猪のステーキ、パン、甘い木の実のジュースをいただいた。食事場には僕たち以外にも何人か居ていつも通りなのだが、朝だというのになかなか騒がしかった。

 

「自然の糧をお恵みくださり、感謝します」と二人で食後の挨拶を終えると、外に出ていつも通りに女の子に好き好んで振り回される。今日は僕があと少しで狩り出るようになるからと、大人に行ってはいけないと言われていた森に冒険しに行く。大人達が狩りにいくのは朝頃で、僕が本を読んでいる時間だ。ということもあって、森の近くには大人は一人もいない。だから冒険し放題というわけなのだ。森に入り、無造作に育った草花を掻き分ける。風に揺れる木の葉の音、草花の青々しい匂い、木になる瑞々しい実、近くにある川の流れる音、島の上を渡りどこか遠い所へと旅立つ鳥の声、獣がいたことが分かる獣道。その全てが子どもの僕たちには初めてで、その新鮮さに胸を踊らせながら、互いに互いを離しまいと精一杯の力で手を繋ぎ、その夢とも思える時間をゆっくりと二人で謳歌した。

 

 日が暮れないうちにと、今日の出来事を噛み締めながら来た方向を戻り村に帰る。森に行ったことが大人たちにバレないようにと服についた葉っぱを互いに落とし合い、何事もなかったかの様に口笛を吹きながら広間へと出た。広間にはいつも一人はいるはずの村人の姿はなく、嵐の前の静けさの様だった。「どうしたんだろーねえ?」と楽観的に不思議がるいつも通りの女の子に安心しつつ、「そうだね…。少し探してみようか」と手を引いて村のあちこちを探した。村のどこにも人がいないことに気づくと、女の子は冷汗を掻きながら「もしかして、私達を探しに森に行ったんじゃ…あわわわ」と、焦り始めた。焦る女の子を見るのは久しぶりで、女の子に海に放り込まれた小さい頃の僕が溺れかけた時以来だ。溺れかけたと言っても、足が着く深さだったので大丈夫ではあったけど…。そんな、懐かしいことを思い出して「ふふっ」と軽く笑う僕に、女の子はきょとんとした表情で「急に笑い出して、どうかしたのー?」と歩いている横から顔を出すものだから、また可笑しくなって軽く流した。

 

 島の港の方へ少しずつ歩いていくと、微かに人の声が聞こえてきた。手を引いて駆け足で声の方へ往くと大きな船が見えたり、数十人という村人全員がガヤガヤと何か話していたりと、二人の子ども心を燻ってきた。釣り師のおじさんや医師のおばさん、料理人のお兄さん等々の横をすり抜けて、前へと二人で抜ける。人混みを抜けるとそこには、上等な布生地でつくられた服に身を包む男性を中心に、見たところ十数人位の人がいた。その異様な光景に僕は息を呑み、女の子は「なんだか凄いねぇ…」とあっけらかんとしている。今この島で何が起きているのか気になった僕は、直ぐ近くにいる狩人のおじさんに事の発端を聞いた。

 

「んー、とな。一ヶ月くらい前に、商人の兄ちゃんがラズベリーを大陸に売りに行ったの分かるだろ?んで。ラズベリーを売るところは珍しいし、そもそも寒い国では育たないしであそこにいる商人さんが買ったんだって」

 

「それで、質が悪くて…って雰囲気では無さそうだけど…」

 

「その逆だってさ。ここまでスクスク育ったラズベリーは珍しいから、もっと欲しい!でも当時の兄ちゃんは、そこまでの量持って売りに行かなかった」

 

「だから島に直接来ることで、量を買うことができる。って、ことか。なるほどね」

 

「ま。そーゆーことらしいよ」

 

 二人の会話にまるで入れない女の子は頭を真っ白にしながらも、「あー。うん。なるほどね…?」と相槌をうつ。その女の子らしいところに、二人は心からクスッと笑った。

 

 僕たちが笑っていると、会話の声がデカかったのか、笑い声がデカかったのかは分からないが、先程まで村の大人と話していた商人がこちらに向かってくる。何か癇に障ることをしたのだろうか?あの位金と権力を持ってそうな人だと、自分の機嫌次第で殺されてしまうのではないだろうか?と、その状況に戸惑い焦燥感を抱きながらも僕は頭を回転させ最善策を探る。あれは駄目、これも違うと秒単位で考える度に、こちらへ少しずつ近づいてくる。頭が極限まで回転され、脳がぐちゃぐちゃに溶けていると錯覚する程だった。

 

(子どもの僕では、何も分からないのか。何か策は…)

 

 と、外からきた得体の知れない存在に恐怖する。その間約五秒。もう、限界を迎えていた。駄目だった。何も出来ず、他所から来た商人に、煩いからと、無礼だからと、殺されでもするのではないか?そうなれば僕だけでなく……女の子も…?と、意識を女の子に向けた瞬間、僕は女の子のことを、無意識的に見ていた。

 

 さっきからずっと黙っていた女の子。女の子も、僕と同じように怯えているものだと思っていた。しかし、現実は違った。女の子は怯えてなどいなかった。むしろ、いたずらに怯えていた僕の背中を、優しく宥めてくれていた。考え過ぎで周りが見えていなかった。だけど今は、少なからず女の子を見ていて、感じている。そう思うと、頭の中の焦燥感は消え、スッと身体が軽くなった気がした。人というのはどうも、気持ち的に軽い方が、考えが出るらしい。刹那の一瞬、女の子に勇気を貰い、一歩、また一歩と前に出る。気づいた時には、他所の商人との距離は大体二メートル程度まで縮まっていた。

 

 僕は知っている。こういう場面では、相手に主導権を握らせてはいけないことを。

 

 僕は知っている。他所の礼儀を。

 

(……大丈夫!)

 

「商人様。はるばる遠いところから、足を運んでくださり誠に痛み入ります。小さい島ではありますが、皆様にはぜひお客様として、御寛ぎいただきたく存じます」

 

 胸に手を当て、腰を落とし、頭を三十度下げる。正直なところ、めちゃくちゃ緊張した。言葉の一つ一つに震えが混じりそうになって、そのたびに手や足も震えそうになったし、おでこからは冷汗が滴り落ちたりもした。だから一つの節目を終えられて安堵している自分がいる。少し深い呼吸をしてから頭を上げ、商人の目を見る。目があった時の商人の表情は想像以上に柔らかくて、とても優しい口調で返事をしてくれた。

 

「それはそれは、お気遣い感謝致します。この度は、この島のラズベリーについて、商談をさせていただきたく、参りました」

 

 僕と同じ様に、胸に手を当て、腰を落とし、頭を三十度下げ、上げた。その一連の動きは洗練されていたものであり、客観的に見ても主観的に見ても、僕のそれの一段上をいっていた。

 

 それからは商人の意向もあって、僕と女の子の二人で島のあれこれを案内した。案内する間はラズベリーのこと、あの作法は本で知ったこと、女の子のことをどう思っているのかなどなどを、僕たちはゆっくりと、それでいて楽しげに話した。それとは別に商人は、この世界の広さ、この島のラズベリーの品質の良さ、僕の作法に驚いたこと、字が読める人間は貴重であること、優秀な人材を商会のメンバーとして雇いたいこと、等々を真面目に話す。僕は商人の話の中で特に、世界は本で見るよりも複雑で広大なのだというところに惹かれた。外の世界を知らない僕にとって、ただ本を読み漁った僕にとって、想像するだけで胸躍り心奪われる領域。未知がそこにあったのだ。どうしても自分の目で、身体で、心で、味わってみたくなった。

 

「優秀な人材を雇いたいと、先程おっしゃいましたね?お願いします!三年後、僕が十五歳になり、成人した時。どうか、貴方の商会で雇ってくださいませんか!」

 

 だから、お願いした。頭を下げて。横目で女の子の方を見ると、「嘘でしょ…?」と言いたげな瞳と、表情でこちらを見ていたが僕の目線を商人に戻した。商人と目が合うと僕の肩に、ポンポンっと音が鳴る。それは、商人が僕の肩を叩く音であった。僕の肩を叩いた商人の顔は満足気に「良くぞ言ってくれた!」とばかりの表情で、僕は絆されるように「三年後よろしく頼みますね」と微笑んだ。

 

 だから、僕は心から喜んだ。自分の知識欲を満たすことができるのだと、舞い上がっていた。

 

 だから、僕は気づけなかった。女の子が今までに見せたことない様な表情をしていることを…。とても辛く、寂しそうな顔をしていることを…。

 

 女の子は何も言わず、ただただ僕たちの後ろを着いてきていた。そんな女の子に、浮かれていた当時の僕と商人は、見向きもしなかった。ただただ、二人の世界へと入っていた。僕は残りの三年間でより勉強したり、頼りない身体を鍛えると、興奮混じりに決意した。商人は村の大人に聞いた通りの優秀な人材に、先行投資ができて良かったと心の底から喜んでいた。

 

「商会に入ったら、もう……会えないかも知れないのに…」


※※※


 ある日私は、王都の東部にある市場を調査することにした。それは王都の優良商会として、よりニーズに応えた供給をしなければいけないからだ。とは言っても、技術的な面での真似事はしない。なぜならそれは、一朝一夕に成し得ることではないからだ。もちろん物資的な面でも、正当な契約に則り取引する。これは私のモットーであり、私の商会のモットーでもある。人がこれを聞けば、綺麗事だと笑うかも知れない。いや、笑うだろう…。確かに、権力を振るい、圧を掛け、自分達だけ儲かることもできるだろう。しかし、それをする商人が信頼されるだろうか?否、信頼されない。商人は信頼関係があるからこそツテができ、お得意様ができ、利用して下さった方々の笑顔が溢れてやり甲斐にも繋がる。特に、利用して下さったお客さまの、あの満足そうな顔が商人をやっていて良かったと思える証でもあるのだ。だから、誠実でなくてはならない。

 

 市場調査をしていると、一つの露店を見つけた。その露店にはスクスクと育った、光沢のある瑞々しいラズベリーが商品として並ばれていたのだ。ラズベリーとは育てるのがとても難儀で、成長してはあちこちに蔦を生やし、他の作物にも影響を与える。だから、ここまで育ったものを見るのは、商品としてはかなり珍しいのだ。店前で顎に手を当て、ラズベリーをまじまじと深く見つめる。見れば見るほど驚かされた。二十過ぎとは言えど、私も男の子だ。好奇心に抗えるはずもなく、一つ買って食べることにした。お金を払い、ラズベリーが数個入っているカゴを受け取って早速口にする。ラズベリーの甘さと、それに負けない程の酸味が混ざり合っていて、紅茶が欲しくなる程にとても美味だった。これは商会で加工したり、ブランドで付加価値をつければ、より周りに広まるのではないか?そうすれば、この感動も共有できるのでは?と考え、採取地はどこなのかを尋ねた。もちろん、情報も商品の内なのだから、求められた対価を払うのは当たり前のことだ。だが、対価は要求されなかった。怖いほどにすんなりと、自分の島で収穫したのだと教えてくれた。いや、本当に怖かった。商人にとって、情報とは命に等しいもの。それをすんなりと、しかも無償でとは何かあるのではないかと勘繰った。おそらく、この時の私は難しい顔をしていたのだろう。ラズベリー屋のお兄さんはそれを察したのか、島の話をしてきた。島には森があってそこで狩りをして生活していること。島には同じ日に生まれた二人の子どもがいて、その内の一人は島の大人より賢くて、本が好きなこと。だから、島に留まるには惜しいということ。もう一人の方は太陽みたいに明るくて、周りも照らしてしまうほどだということ。つまりは、二人に世界を見せてほしいということだった。ラズベリーは幅広く扱われ、あれほどの品質であればかなりの儲けが出ると予想できる。ならばそれに対価を払うのが筋というものだ。だから私は、ラズベリー屋のお兄さんの優しさに心から感謝し、了承した。「分かりました。では、また後日」と了承したときの彼の顔は、和やかさに満ち満ちていて、商人とは思えないほどに眩しく思えた。

 

 日差しに照らされ、それとは逆に涼しい風が潮の匂いを運ぶ季節になった頃、私は島へと赴いた。大陸から島へは船で数十分のところで、遠目から見ても自然に溢れている場所だと分かった。波で船が揺れるたびに、辺りには潮風がチラつく。私はこの心地良い揺れと嗅ぎ慣れた潮風が、言葉にはできないが好きだった。島に近づくと、遠目にこの船を見た島の住民達が、手を振って出迎えてくれていた。私は、それが嬉しかった。誰しも、拒絶されるより受け入れてもらいたいものだ。だから、受け入れてくれることが伝わってきて、本当に嬉しかった。

 

 島に着くと村の大人が数人、前に出て来て歓迎してくれた。その中には、この前会ったラズベリー屋のお兄さんもいて、ホッとする様な懐かしい気持ちになった。歓迎されたからには、こちらも礼を尽くさなければならない。胸に手を当て、腰を落とし、頭を三十度下げ挨拶をする。村の大人達は、その優雅な立ち振る舞いに驚きつつも最敬礼を返す。頭を上げた村人と目が合うと、ラズベリー屋のお兄さんに改めて挨拶をし、ラズベリーの売買取引や例の子どもの話を聞いた。その間周りの人等は大雨に吹かれ無数の木々が掠れ合う様な、そんな、ガヤガヤとした騒がしい音を発していた。その音には、好奇心や少々の不安を孕んでいる空気感があった。

 

 ラズベリーの売買取引は上々で、まだ正式な契約は交わしていないものの、年単位での継続的な取引も可能となった。子どものことについては、世間話感覚で色々と聞いたり、真剣に頼まれた。

 

 男の子は文字の読み書き、算術、生物、地理、商業等を独学で覚えたこと。小説などの物語をよく読み、そちらの方にも長けていること。昔は比較的体力が少なくて身体が弱かったけれど、最近は体力がついてきて健康体そのものであること。本人は気づいてないけど、世界を見てみたいと思っていること。

 

 女の子は学力こそないけれど、男の子とは運命共同体で互いの支えになること。コミュニケーション能力が高く、比較的誰でも仲良くなれること。

 

 そして二人は無意識的に、互いが互いに特別な感情を抱いているということ。だからできればで良いから二人共面倒を見てほしいこと。

 

 この話を通して、私は男の子に対する興味を抱いた。読み書きをできるだけでなく、各方面に優れていて、しかもそれを独学で修めている。世界中を探しても、ここまでの逸材は限られているだろう。私は二人の話を聞いている時、表面上は平然を取り繕っていても、内面ではどうしようもなくワクワクしていた。

 

 その話が終わる頃、雑木林の様に乱れる人々の中から、二人の男女が顔を出していた。その男女は私に興味があるらしく、二人合わせて周りをキョロキョロしては、近くの大人と話し出した。ラズベリー屋のお兄さんと話しているときに、近くで補足をしたり、相槌を打っていた村の老人が、詳しい話は座りながらしましょうと、大方そんな話をしていたときに男の子と村の大人の話が聞こえてきた。その内容を聞いた私は、驚きを全て隠しきれず、子ども達の方へ視線が向いた。先程まで話を聞いていなかった十二歳の男の子が、大人との少ない会話の中から要点を合わせ、自分から補足するという異常さを持ち合わせていたのだ。話の要点を合わせ予想し、自分なりの補足や解釈をすることは別に難しいことではない。だがしかし。それはあくまで要点ごとの経験則であり、たかが十二歳が簡単とは言え商業のことで口を出すのは異常と言うほか無いのだ。

 

 彼のことで、あれこれ頭を働かせていると彼の方から笑い声が聞こえてきた。その声は無邪気で、元気があって、楽し気で、子どもであることを分からせてくれる、そんな声だった。その声を聞いて男心が刺激され、私の心の一部に好奇心が孕んだ。その好奇心とは、男の子と直接話をしたいと言うものであり、それ以外の何ものでもない。だから私は、仲間に合図を出して私の代わりに対等な契約することを命じ、男の子の方へと歩みだした。背筋を伸ばして堂々と、一歩一歩ゆっくり歩く。

 

 彼との距離が少しずつ縮んでいくと、彼自身が私に近づいて来た。一歩、また一歩。彼と私の距離は、ある一定の距離で留まった。それに対し私だけでなく、後ろで控えている仲間まで驚愕していた。それもそのはずだ。十二歳の子どもが、しかも、本で知識をつけているとはいえ、はじめての経験のはずなのに、踏み込んだ剣先がわずかに届かない位置で留まったのだから。どんなに育ちがよくても、ここまで警戒して、剣先一寸たりとも届かない位置で留まれる子は、どれだけいるだろうか。驚愕を超えて、もはや感動さえ覚えるほどだ。

 

 立ち止まってから、一二秒ほど経っただろうか。これ以上は彼に遅れをとってはいけないと直感的なもので闘争心を燃やした。しかし、たった一秒だ。たった一秒の差で、彼に遅れをとった。大商会の代表として、島の子どもに負けた気がした。彼が優秀だという話は聞いていたが、ここまでとは思っていなかった。侮っていた。そんな私を、私自身が愚かだと思った。それもそのはずだ。たった一秒速く、先手を打たれたそれが、貴族の挨拶だったからだ。剣先一寸たりとも当たらない間合いをとるのは、別に出来ない芸当じゃない。まぐれの可能性だってある。でもその挨拶だけは覆すことのできない真実であり、彼の学の高さを示しているのだ。この挨拶も私の仲間だってできなくはない。しかしそれは、教えているからだ。それに、仲間の場合はもっとぎこちないだろう。それを初めての実践で、完璧に近い形にして見せられるのは、まさに鳩が豆鉄砲を食らった様な心情だ。相手の礼には、こちらは最大の礼を返さなければならないと思った。彼のそれは、限りなく完璧に近い。だが、それは完璧ではない。だから私が、完璧を魅せる。彼と私の差、それは経験の差だ。手の位置や礼の角度は完璧だが、足の方がほんの少しだけオボついていた。その少しは、見る人が見ればすぐに分かる。だから完璧ではないといけないのだ。

 

 私が彼に、完璧を心の中で求めてしまったのは、私が彼に、どこか可能性を感じたからだろう。彼が私の商会に来ることがあれば、凄まじい風を吹かせ、新たな可能性という名の種を蒔いてくれる。そんな気がしたのだ。

 

 それからは、彼と、彼の彼女さんと、小さな島の全般を少し散歩した。散歩している最中は彼に様々なことを聞いた。ラズベリーのこと。二人のこと。未来のこと。小さな声でこっそりと、君は彼女のことをどう思っているのか?とか。その質問に、真っ直ぐな顔で「かけがえのない宝物です」なんて答えられて、耳が赤くなるくらいに、聞いたこっちが恥ずかしくなったし、羨ましいとも思った。女の子との会話は、全部男の子との思い出ばかりで、間に私を挟みながら無意識に惚気るのは勘弁してくれと、歳不相応に照れてしまったりと結構楽しかった。互いが互いの話をするときの表情といったら満遍の笑みで、これでまだ男女の関係じゃないと言うものだから驚きだ。そもそも私自身が恋だの何だのと、腑抜けている暇がなかったのだから、耐性が低くて然るべきである。

 

 しかし、私は悪い大人かもしれない。男の子に私の経験談を語り、他所の世界に興味を持たせ商会に引き込み、成人した三年後に迎えに来ると約束した上で、男の子と二人きりになる。そして、彼が私に頼んだ女の子も一緒に連れて行く条件として、三年後の朝まで女の子には秘密、という条件を出すことでより香ばしい青春の味付けをすることにより、二人の行方を私が楽しむといった大人にあるまじき下品さを発揮したのだから。

 

 女の子のところに戻ったときの彼の顔といったらぎこちなくて、女の子に対する好感や、好感からくる罪悪感が見え隠れしていて、それを眺めてる私が心の底からドキドキするといった新たな自分の一面に、わずかな高揚感を抱いていた。

 

 それからのことは、特に語る必要もないだろう。部下から情報を集めて整理し、状況確認をする。その後は荷運びをし、島の住人と挨拶を交わしてから、大陸の方へと帰路に着く。

 

 水平線の彼方には日が沈み、海は闇を孕み始める。潮風に髪を揺られながら胸いっぱいに吸った空気には、肺を威圧するほどの冷気が纏われていた。普通なら気にも留めない様な日常の一部に私は、まるで誰かの人生を示唆している様な、そんな気がしてならなくなった。


※※※


 とある島の小さな村に、女の子は生まれた。女の子の両親は、聞いてもいないのに女の子の生まれた日のことを、日常的に口にする。お母さん曰く、潮や青草の匂いが周りを包み込む、とても暑い日だったと。お父さん曰く、その日は奇跡的にニ人、男女の子どもが生まれたと。

 

 女の子は夏になると毎回の様にふと考える。女の子自身が、生まれたときのことを。とは言っても、結局のところ少し考えたら、女の子はいつも考えるのをやめる。思い出してもしょうがないことなのだと、自分に言い聞かせて。

 

 一歳になった頃、女の子たちは四足歩行できるようになっていた。女の子は、身に余るほどの元気さで辺りを駆け巡り、何かしらやらかしては泣いていた。男の子は、赤ん坊とは思えないほど大人しく、村の大人達に何かあるのでは?と心配されていた。しかし対極な二人の仲は良好で、たまに二人で遊ばせては男の子に突っかかる女の子が男の子に宥められていたり、女の子が男の子の指を握って寝ていたり、泣いてる女の子が男の子にヨシヨシされていて満更でもなかったりと、大人たちは二人を見て和んでいた。

 

 六歳になった頃、男の子はあまり部屋から出なくなっていた。それは、生まれつき身体が弱いのと本を読んでいたからだ。男の子は、村で二人しかいない商人のお父さんから本を貰っては、噛み付く様に読んでいた。そのときの男の子の頭には本のことしかなく、女の子は男の子の部屋の窓から様子を見ては年甲斐もなく妬いていた。つまるところ、この頃から女の子は男の子に対して恋心を抱いていたのだ。一緒にいると、心の底から安心すること男の子。泣いていたら、優しく背中をさすってくれる男の子。女の子の我儘に、文句も言わず付き合ってくれる男の子。眠くなったとき、頭を優しくさすってあやしてくれる男の子。私が楽しそうにしていると、そっと微笑む男の子。女の子は、そんな男の子のことが好きであった。

 

 十歳になった頃、男の子のお父さんは急に死んだ。死んだ理由は、村の医師が言うには癌らしい。男の子はお父さんの死から、余計に部屋から出なくなり、女の子と遊ばなくなった。不器用だけど優しくて、家族思いで、文字を教えてくれて、本を買ってくれる、そんなかけがえの無いお父さん。その死は、男の子にとって自分が死ぬことと同じくらい辛く、苦しいことだった。しかし女の子には、辛そうにしている男の子を見るのは、今の男の子の苦しみの倍近く苦しかった。好きな男が辛そうにしてたら、誰だって苦しい。それは女の子とて同じなのだ。だから女の子は、男の子の部屋の窓下に来てはコンコンとノックして、あの手この手で驚かせ気を紛らせようとしたり、顔を出した男の子に抱きついて背中をさすったりと、部屋の中の男の子に外にいる女の子が、昔自分がしてもらったようなことをして、少しでも昔の男の子に戻ってもらおうと奮闘した。その結果として男の子の心の雨は晴れ、また昔の様に一緒に遊ぶようになった。

 

 十二歳になった頃、外の世界から商人がやって来た。商人は私と男の子だけの空間にズカズカと入り込んでは、男の子のことをたぶらかし男の子のことを商会へと入るように約束を取り付けた。私は、言葉にできないほどの嫌悪感に苛まれた。私だけの男の子をたぶらかし、私から遠ざけようとした商人を心の底から嫌悪したのだ。ずっと一緒にいたい。手を繋いで笑い合っていたい。将来は村に、二人だけの家を建てたい。幸せなときは隣にいたい。辛いときは支え合っていたい。

(離れたくない離れたくない離れたくない離れたくない離れたくない離れたくない離れたくない離れたくない離れたくない離れたくない離れたくない離れたくない離れたくない離れたくない離れたくない離れたくない離れたくない離れたくない…………………。一緒にいたいよぉ…)

この日ほど、女の子が憂鬱になった日はなかった。


 十三歳になった頃、男の子は狩りに行くようになった。あの憂鬱だった日から、大体一年が経つ。あの頃と比べ和らいではいるがそれでも心の奥深くでは、もの言えぬ怪物同様なそれが蠢いては私を楽にはしてくれなかった。しかし男の子が大人と狩りに行くようになってからは体力が付き、服の下には触ると何とも言えぬ安心感を抱く筋肉がそこにはあった。そうだ、安心できるのだ。だから私は悪くはない。偶然を装って筋肉を触るのは不可抗力なのだ。はぁ、安心するぅぅ…。触っているときは男の子を肌に感じ、体温を感じ、幸福を感じる。こんな日が、いつまでも続けばいのになぁ…。

 

 十五歳の夏、約束の日まで残り一日。私は男の子に胸の内を何も言えずにいた。そうだ、言えなかったのだ。

「ずっと一緒にいたい」

「私と一緒にいて」

「私とずっと一緒にいたいって言って…」

「離れたくない」

なんてことを女の子が言えるわけなかった。言葉にしないと、行動に移さないと、伝わりやしないのに…。私は私が嫌いだ。ただ憂いてるだけの私が。男の子自身が言葉にして、行動にして、私の心と身体を安心させてくれると思ってる私が、嫌いだ…。ただ泣くことしかできない私が嫌いだ。泣いていたら気に留めてくれると、優しさに漬け込むようなことを考える私が嫌いだ。そんな私を、私が嫌いな私を、好きになってくれるわけがない…。ましてや、好きなわけがない…。もし男の子が一人で、私を置いていくのなら死のう。彼の部屋で、彼の匂いに包まれながら、安らかに…と、そう本気で思えるほどに私は、男の子に依存していた。

「離れるなんて、嫌だよぉお…!」


ーーー


 約束した日の朝になった。朝起きて、窓を開け空気を変える。密閉された空間に溜まり込んだ重々しい空気を、外の青々しい爽やかな空気で浄化する。一口深呼吸すると凝り固まっていた血液が絆され、サラサラとした血が全身を流れた。青草の匂いに包まれながら、重い足取りをどうにか動かし家を出る。家を出てすぐのところにある男の子の家へと重苦しい何かに取り憑かれながら、一歩また一歩と進むにつれて、木々や草花の聞くに耐えないザワザワとした騒音に苛まれ、自分のヒビ割れた器からよどろよどろしく溢れ出す感情が、今にも私の全てを支配しようとしているかの様にジワジワと侵食し蝕んできた。

 

「なんか、朝から息苦しくて、身体のあちこちが重いや…。私、どうしちゃったのかな…。私が、私じゃないみたい…」

 

 男の子の家に着くと、先程までの凝りはまるで最初から無かったかの様に消えていた。部屋の窓の前まで来るとコンコンと窓を叩き、部屋中の男の子に私の存在を知らしめる。ノックをしてから最初の数秒は優しくするが、ノックが長くなる度に無意識的に拳に入る力が強くなっていく。コンコンと鳴っていた音がゴンゴンという音に変わっていくころに、男の子の顔は窓から出てきて、私の顔のすぐ目の前まで寄ってきた。いきなり近くに寄せるものだから「きゃあ!近っ!」と、私らしくもない言葉を男の子に投げかけつつ一歩後ろに退いては、その後ほんの二・三秒の間男の子と見つめ合った。私は硬直が解けると、話があるから海辺まで来てほしいことを伝え、その場から走り去る。その際に男の子が何か言った気がするが私が振り返ることはなかった。

 

 海辺にある岩に座り水平線を眺めていると、左肩に思いやりの篭った優しい手がそっと載せられる。その手に私の手を添えつつ後ろを振り向く。そこには、何か覚悟を決めた様な顔をした男の子がいた。その顔を見た私は、身体の芯が震えるような不安感に襲われた。何故なら今日が、その日だからだ。

 

「お前はいらない」

 

「着いてくるな」

 

「これでお前とは最後だな」

 

「うざかったお前の顔を見なくて済むなんて、なんて嬉しいんだ」

 

なんて言われると思うと、朝の、あの言葉に出来ぬ負の感情が、私の安らいでいた心を一瞬にして再び蝕んだ。

 

 私の瞳からはハイライトが消え、闇に蝕まれた瞳には何も映らない。私の代わり様に驚いた男の子の口は、先程の覚悟がまるで無かったかの様に震え、固く結んだ。私はこんな男の子の顔を見たことがないし、見たくもない。だけど男の子は強かった。固く結ばれた唇は解け、私に一言呟く。

 

「海はいいよなぁ…」

 

 そのたった一言に、何の意味があるのだろうか。私は考えた。頭の良い男の子だ、何か意味があるに違いない。海…水平線…大陸…別の世界。そうか、そういうことか。男の子は世界に憧れている。海とはそれすなわち世界を繋ぐ路であり、夢への架け橋だ。だからこそ男の子はこんなことを言うのだ。

 

 嫌だ、そんなのは嫌だ。

 

 嫌い、私から男の子を遠ざけ様とする海が嫌いだ。

 

 怖い、もう一生会えないなんて思うと怖いよぉ…。

 

 だからこそ私は、私の心に気づいて貰えるように、昔の私に戻ったかの様な素直な気持ちで水平線上の大陸を眺めつつ、返答をした。

 

「わたしは、こわいわ…」

 

「何言ってんの、昔一緒に遊んだじゃん!君が僕を海に誘ってくれたから、僕は海を好きになったんだよ?」

 

 男の子は私の手を、優しく、それでいて確かに力強く、大きくて暖かい手で包み込んでくれた。そうだ、違ったのだ。男の子は、単純に海が好きだったのだ。私と一緒に、日が暮れるまで遊んだこの海が。自分のネガティブさに嫌気がさした。しかし、私との思い出の場所を好きと言われるのは、それを打ち消せる位に、どうしようもなく嬉しかった。

 

「そっか。そう言ってくれてると、嬉しい…かな」

 

「うん、好きだよ。それでぇ、何で海がこわいの?あんなに遊んだのにさ」

 

(言えないよ。本当は、海じゃなくて、男の子と離れるのがこわいなんて…)

 

 私は尻込みした。どうしても言えなかった。もし言ってしまったら、思いを伝えてしまったら、今までの関係を壊してしまうんじゃないかと思った。本当に男の子に拒まれたら、重くのしかかる様な悲しさで、私は私ではいられなくなってしまう…………。

 

(………でも、言えなかったら後悔する…)

 

 私がウジウジしてる間も男の子は、私の手を握り、私の目を、真っ直ぐ見てくれていた。だから深呼吸をして、冷静に、それでいて感情的にこの思いを伝える。

 

「違うの!私がこわかったのは、貴方と離れること…」

 

 私は、一歩前に出る。私の顔と男の子の顔が触れそうな距離。男の子の顔と耳が赤くなっていた。握っている手も濡れてきた。目が泳いでいるのが分かった。少しずつ、少しずつ、男の子の息が荒くなっていくのが分かった。

 

 何をそんなに緊張しているの?

 

 あぁ……私もドキドキしてる。

 

 男の子の匂いがする。安心するなぁ。

 

 男の子なら、我儘言っても大丈夫だよね…。

 

 その瞬間、私は心の蟠りを、八切れんばかりの思いを、男の子にぶつけた。

 

「私、貴方と離れたくない!ずっと一緒にいたい!貴方がこの島を出て世界を見てみたいのは知ってる!貴方がこの島に収まる器じゃないのも分かってる!だから…だからせめて、私も連れてって!私、貴方の隣にいたいの!だから私を貴方の隣に、いさせてよぉぉ……」

 

 今まで溜めていた思いは、この15年間の思いは、涙と共に溢れ出した。それは、どうしようもなく身勝手な気持ち。でも、それが私の本音で。後悔はない……。

 

「……!?」

 

 男の子はそっと優しく、私を自分の胸へと抱き寄せた。

 

「ごめん。他でも無い君に、そんな思いをさせちゃって。僕ね、君には感謝しかないんだ…。身体が悪い僕の手を引いて、外で遊ぶ楽しさを教えてくれてありがとう。お父さんが亡くなった時、悲しくて泣いていた僕の背中を優しく、私がいるから大丈夫だよって、慰めてくれてありがとう。いつも僕の隣で微笑んでくれて、ありがとう。いつも僕の話を楽しそうに聞いてくれて、ありがとう。君って、僕が大変なとき、いつも近くにいてくれるよね。それがね、僕はとっても嬉しいんだよ。だから、ありがとう」

 

(違う。それは貴方がいつも近くにいてくれたから…)

 

 ハイライトの戻った瞳から溢れた涙が止まらなかった。そんな風に思ってくれているなんて思わなかったから。もっとうざがられていると思っていたから…。

 

「僕といるとき、いつも元気で、いつも笑顔で、いつも楽しそうにしてくれる。そんな太陽みたいな君の隣に、堂々と立てる様な男になりたかったんだ。でもそのせいで、涙が似合わない好きな子に泣かせちゃったね…。僕、この15年ずっと言いたかったことがあるんだ」

 

 男の子は深く呼吸をすると真っ直ぐな真剣な眼差しで見つめ、言葉を紡ぎだす。女の勘…いや、違う。確かな思いを言葉で、行動で、今まで示してくれていた。男の子は私のことを…。

 

「君が好きだ。君がいるから今まで頑張れた。僕の隣には君に居てほしいし、君の隣には僕が居たい。だから…僕と一緒に、来てくれませんか?僕の夢を一緒に叶えてはくれませんか?」

 

 男の子が、言葉で好きだと言ってくれて嬉しかった。私が号泣している間、ずっと頭を撫でてくれた。そこには私への彼の優しさが沢山つまっている。だからこそ許せなかった。男の子を騙す様な真似をしている私が…。それでも好きでいて欲しいと思う、卑しい私が…。

 

「私、そんなんじゃないの。商人が来たあの日からずっと、言葉にしなかっただけでネガティブなことばかり考えてた。貴方が好きな、ただ明るいだけの娘じゃないの。私も貴方のことが好き。でも、だから。貴方のことが好きだから。私じゃ貴方にふさわしくないって、私なんかじゃ貴方を支えられないって、貴方の言葉で、貴方の行動で、ここに来てから、そう思ったの……。だから私は、貴方の隣には居られ…」

 

 男の子は、何も言わずに聴いてくれた。私が唇を震わせながら精一杯振り絞った言葉と涙を、男の子は優しく受け止めてくれていた。だから、嬉しかった。私が最後に言おうとしていた言葉を、男の子の言葉で塗り替えてくれたから。

 

「僕の隣には居られないなんて、言わせない!君は、自分のことをネガティブだって言うけど、それって僕のことを思ってくれてたからでしょ?そんなの、嬉しくない訳ないじゃん。僕は君の、全部が愛おしいんだよ。それに本当は三年前のあの日から、君に来てもらうつもりだったんだ。商人との約束事で今日まで言えなかった…。ずっと言えなくてごめん。不安にして、ごめん…」

 

「……………」

 

私は……

勝手に勘違いして疑って……

勝手に落ち込んで……

勝手なことを言って……

心配させた…。      

 

 それでも男の子は、私の全部が好きだと言ってくれた。そんな男の子が、どうしようもなく好き。

 

 でもどうしてかな。男の子のことを好きになる度に、自分が嫌いになるのは…。

 

(もう、私は、私のことが何も、分からないよぉ……)

 

 私の瞳からはハイライトが再びなくなり、涙が渇いていた。


ーーー


 約束の日の前夜のこと。僕は、女の子にどうやって着いて来てもらうかを考えていた。今も昔も僕の隣には女の子がいて、それは未来も同じが良くて。それはあまりにも身勝手な思いだけど、僕の本音で…。もし女の子に断られたらと思うと、どうにも心苦しくて…。そんな気持ちを紛らすために本を読んでいると、気疲れからかぐっすりとした眠りに僕はついていた。

 

 いつもの合図で起床すると、窓を開け顔を覗かせる。その時、昨夜の僕の頭は女の子でいっぱいだったからか、その存在に僕の胸は高まり、より近い距離で感じたくなった。女の子に顔を近づけると、その可愛さに僕の胸はよりドキドキしたのに、女の子が可愛い声で、可愛い仕草で驚くのだから、僕の心臓は更に八切れんばかりの速さで鼓動を打っていた。ほんの数秒の間女の子と見つめ合っていると、女の子は話したいことがあると僕に伝え、二人の思い出が詰まっている砂浜の方へと走り去っていった。

 

(話したいことって、あのことだよね…。来てくれると、嬉しいなぁ。離れたくないなぁ)

 

 僕はある花を持つと覚悟を決めて、女の子の待つ所へと向かった。涼しい潮風に背を押されながらゆっくりと、でも確実に。女の子の所に着くと、僕は女の子の肩に手を置いた。本当はいつもみたく後ろから抱きつきたかったけど、今は真面目に、真摯に接しなくてはならない。これは僕たちの未来に関わることだから。甘ったれた接し方ではだめなのだと。そう思っていたからこそ、僕は後悔した。小さい顔を僕に向け、大きくて可愛らしい瞳で見つめるはずの女の子の瞳が曇っていたから。綺麗だった瞳からは光が消え、闇が侵食していたのだから。

 

(僕は、こんな悲しそうな女の子は見たくない。幸せそうに、楽しそうに、あの頃みたく笑ってて欲しい。僕を海辺へと連れ出して、初めて笑ったあの頃の様に…。だから…)

 

 僕がどうしようもなく身勝手にあの頃の、海で遊んでいた頃の思い出を蘇らせては「海は好きだなぁ」なんて呟くと、「わたしは、こわいわ……」なんて昔の女の子みたいに言うものだから、一瞬だけ、ほんの一瞬だけついさっきの事を忘れ、昔に戻ったかの様に無邪気に、言葉を交わした。が、僕はそこでも後悔した。僕が海の何が怖いのかを聞くと、女の子は泣きじゃくりながら僕と離れるのがこわいと言う。僕の隣に居たいのだと言う。僕はそれが、どうしようもなく嬉しかった。でもそれと同じ位、自分が馬鹿で愚かだと思った。だからこそ、不安そうに震えている女の子を僕は、自分の胸に抱き寄せて頭を撫でた。

 

 それからの僕は冷静に、けれど感情的な言葉を女の子と交わす。そこには、互いに嘘偽りのない本心だけが交り合っていた。僕は女の子の言葉を受け止める度に、楽観的だった自分が、女の子の心の蟠りを察することの出来なかった愚かな自分が許せなくなった。でもだからこそこれからの女の子には、悲しい思いをさせてしまった三年間を忘れられる様な人生を歩んで欲しい。でもそこに、出来ればで良い、悲しい思いをさせてしまった僕を許してくれるのなら、僕が女の子を幸せにしたい。一緒に、「幸せだね」って笑える未来を築いていきたい。それはどうしようもない僕の我儘だけれど、僕の本心だから。

 

 そんな我儘な僕に女の子は、いろんな気持ちを吐き出してくれた。

 

 自分はただ明るいだけの女の子じゃなくて、不安になったらネガティブなことを考えてしまうこと…。

(僕のことで悩んでくれるなんて、男冥利に尽きるよ)

 

 僕が好きだということ…。

(僕も好きだよ)

 

 女の子は僕にふさわしくないと思っていること…。

(君以上に素敵な女性はいないよ)

 

 でも、これだけは言わせない。僕の隣には居られないなんて、言ってほしくない。だから僕は、女の子の言葉を遮った。僕の言葉で塗り替えようとした。でも僕は、ここでもまた間違えてしまった。何故なら女の子の瞳からは、光と涙が失われていたのだから。涙で濡れていたはずの瞳が渇き、闇で包まれていたのだから…。間違えに気づいた瞬間僕の意識がプツンと解け、ほんの一瞬意識が僕から消え、自制が効かなくなっていた。

 

『………!?』

 

 僕の意識が覚醒したとき、女の子の目が、鼻が、耳が、頬が、髪が、先ほどまでこ抱き合っていた頃よりも、近くにあった。そして僕の唇には、僕の人生で経験したことのなかった感触があったのだ。僕はそこで、はじめて気づいた。僕が女の子と、はじめてのキスをしていることを。気づいた瞬間、羞恥心に駆られ「う、うわぁあっ!!」と声を荒げながら大きく後ろに退いた。そのときは今までの人生で経験したことがない位、僕の顔が紅くなっていて、僕の心臓の鼓動は波の音を掻き消す程に大きく鳴っていた。

 

 でもそれ以上に、顔の至る所を紅くし、目尻に涙を浮かばせながらも、今までで一番の笑顔で僕に微笑み君が、とっても、綺麗だった……。


ーーー


 ここに来てから、男の子の胸の中で図々しくも泣き、自分勝手な物言いで男の子を困らせた。男の子が、私を置いて行かないことは分かっていたのに。ただ自分が、確信することで安心しようとしていた。そんな私に、私が絶望していた。何もかもが自分勝手な私に。だから、これ以上自分に絶望したくないから、男の子と離れようとした。ここから離れて、男の子が行った後に本当に死のうとした。しかし、そうはならなかった。最初は男の子の言葉より、気持ちより、自分への絶望が勝っていた。だからなのかも知れない。男の子が行動を起こしたのは。私はこの日、はじめてキスをした。その瞬間、私の心と身体は男の子に染められていた。それだけで私の三年間の憂いの全てが、どうでも良く思えてきた。

 

 そして、この三年間で初めて私は、本当の意味での幸せを感じたのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る