第32話

 いったいメアリに何をさせようというのか。

 どう見てもろくでもないことを考えているようにしか見えない男に、メアリのつぶやきは聞こえなかったようだ。

 良かった、と彼女は胸を撫で下ろす。


(もしも聞かれていたら……。アールグレーン様に迷惑がかかるかもしれないもの)


 こういう品のない男は、何をしでかすかわかったものではない。

 たった一つでもヒントを与えれば、ゴシップを追いかける新聞記者のように、あることないこと探し当てるに決まっている。


 きっと、セドリックは付け狙われることになるだろう。

 そのうち、彼があやしげな店に通っていることが公になってしまうかもしれない。


(そして、誤解が誤解を生んで……!)


 恐ろしい妄想が止まらない。

 実際は、毎日せっせと茶菓子持参でやって来るのは彼の方だが、世間はそう見ないだろう。


 王太后が亡くなって、ようやく自国へ戻って来られたセドリック。

 これまでの苦労を考えると、新たな醜聞は彼の首を絞めかねない。


 幽霊公爵のうわさをものともせず、街中の貴婦人が夢中になるような魅力ある彼に、みんなから遠巻きにされている奇婦人のメアリが特別な思いを寄せている。

 それだけならば、「あの子も人を好きになることがあるのね」と影で笑い種にされて終わりだっただろう。


 それだけでなく、セドリックがメアリをそばへ置いていて、それを良しとしているのが問題なのである。

 メアリの存在は、彼の経歴に泥を塗ることになるかもしれない。

 やり方次第では、コンラートのようにメアリをまともにしようとしている人として、称賛されるかもしれないが。


(アールグレーン様のことだから、正直に真実を話すに決まっているわ。私が笑われるのはいつものことだけれど、彼が馬鹿にされたり笑われたりするのは嫌。だって彼は、大切な人なのだもの)


 セドリックのことを考える時、メアリの気持ちはなぎのように穏やかだ。風に吹かれてそよそよとしている、金色の麦畑みたいに。


 生まれたばかりのひなが初めて見たものを親と認識するような感覚、というのが適切だろうか。

 くすぶっていた承認欲求を初めて満たされて、それだけでも一目置くに値するというのに、さらにメアリが喜ぶことばかりしてくるのだから、好意を抱かずにはいられない。


 けれど、非常におこがましいことではあるが、彼はメアリの伴侶にはなり得ない。

 身分の差はどうにかなるとして。権力、能力、容姿。セドリックは優れたものをたくさん持っているが、メアリが求めているものは持っていないからだ。


(なんといっても、私の好みは多少の無理をしても病院のお世話になることのない、健康的なお金持ち! アールグレーン様のような、吹けば飛ぶような線の細い方は射程範囲外なのです)


 メアリの脳裏に、求人広告風のポスターが思い浮かぶ。


『求む! メアリ・ベケットの婚約者。健康的でお金をたくさん持っている方。年齢、容姿問いません!』


 むしろセドリックよりメアリの方がお断りなのだと、彼からしてみれば失礼千万なことを考えた──その時だった。


 メアリの横を、一陣の風が吹き抜けていった。

 そうかと思えば、風を切るような鋭い音がして、急に男が後ろへ吹っ飛ぶ。

 顎を掴まれたままだったメアリも一緒に飛ばされそうになったが、すぐさま彼女の体は引き戻され、柔らかく抱き止められた。


「⁉︎」


 メアリの目の前で、男は、まるで投石器で飛んできた石を受け止めたような体勢で吹っ飛んでいった。

 おなかを中心にくの字に曲がった体は、やがて濡れた道に投げ出される。

 その瞬間、べチャリと泥のかたまりを踏みつけた時のような音がして、


「イッテェ……」


 と、男がうめいた。


 男はおなかを押さえながらヨロヨロと立ち上がり、メアリを抱きかかえる人物に気がついて、目を見張った。

 そうだろうな、とメアリは思う。

 彼女だって、驚いているのだ。声も出ないほどに。

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