第17話

 最新鋭だという飛行船の操縦席は、メアリの想像を上回るものだった。


 見るだけのつもりが、メアリの熱心さに困惑した操縦士がついうっかり「えっと……座ってみます?」と口を滑らせてくれたおかげで、操縦士の気分まで味わうことができたのは、思いがけない幸運である。


 バッスルが邪魔をして中腰で味わうことになったのだが、それでもメアリを興奮させるには十分な出来事だった。


 ああ、早くこの素晴らしい経験を誰かに話したい。

 それならシェンファが最も手軽な相手なのだが、しかしパッと浮かんだのはセドリックの顔だった。


 当然か、とメアリは思う。

 だってセドリックは、誰よりも丁寧にメアリの話を聞いてくれる。

 素人で申し訳ないと謝りながらも、質問する内容はきちんと理解しようとしていることがうかがえるもので、だからつい先輩風を吹かせて多弁になるのだ。


 しつこかったかしらと心配して態度を改めると、セドリックは甘えるように「もっと」とねだってきた。


 甘やかすのも、甘えるのもうまいなんて、なんて羨ましいのだろう。

 人生経験が豊富で、世の中のことをいろいろと知っているから、できることなのだろうか。

 その機能が少しでもメアリに搭載されていたのなら、かわいげのある女性になれていただろうに。


『かわいげのない女だな。ないならないなりに、装え。私の婚約者でいたいのなら』


 コンラートに言われた言葉を不意に思い出し、メアリは苦虫を噛みつぶしたような顔になった。


 元婚約者のコンラート・ヴェルマーは、表向きは紳士だったが、メアリには厳しい人だった。

 趣味の機械いじりを容認する代わりに、多くの貴族男性が望むような、理想の貴族女性像をメアリに求めたのだ。


 奇妙な令嬢をまともにした、良識人。

 周りからの評価に、ふんぞりがえっていたコンラートの姿を思い出す。


 じわりとむしばむ嫌な気持ちに、メアリは自然と拳を握った。


(紙切れ一枚で終わった関係よ。もう関わることもないのだから、気にする必要はないわ)


 良いことがあると、戒めのように悪いことを思い出すのはメアリの悪い癖だ。

 気を取り直して、乗船を終えた飛行船を見送ることにする。


 飛行船の窓の向こうでは、身なりの良い貴族たちが優雅に談笑している姿が見えた。

 その合間を、従僕の格好をした青年たちが、スイスイと泳ぐように歩いている。


 おそらく青年たちは、この旅の門出にふさわしい飲み物を準備しているのだ。

 紅茶か、それともお酒か……メアリやセドリックが愛飲する、コーヒーでないのは確かである。


 選ばれし乗客たちを乗せて上昇した飛行船は、ゆったりと霧の街の上空を移動し始めた。


 曇天の下、銀色の船体が鈍く光る。

 それはまるで、小魚たちの群れに突っ込んだ大きな鯨のよう。空はさながら、深い海の底だろうか。


 メアリはそれを羨ましそうに見上げながら、遠ざかっていくのをただ眺め続けた。


 やがて、雲に吸い込まれるように見えなくなった銀色から、名残惜しげに視線を戻す。

 ふぅ、と満足げに息を吐いたメアリに、芝生に寝転がって待っていたシェンファが「ふふ」と笑んだ。


「なあに。何がおかしいの?」


「おかしくはないサ。相変わらず機械バカだなって思ったダケ」


「失礼ね」


 言いながらも、メアリの胸はときめいたままだ。

 キュンキュンと高鳴る鼓動を抱え、シェンファの隣へ寝転ぶ。


 朱に染まる頰に、潤んだ目。緩んだ口からうっとりと男の名前がつぶやかれたとしても、シェンファはちっともおかしいと思わなかっただろう。

 だが悲しいかな、メアリの口から出たのは最新鋭の飛行船の名前だった。


「ああ、なんてすてきなの……空のお魚スカイフィッシュ号」


「メアリ……」


 シェンファはつい、非難するような声で彼女の名前を呼んだ。


 だって、仕方がないではないか。

 シェンファだって、年頃の娘。恋の話の一つや二つ、してみたい時もある。

 だというのに、親友は恋どころか機械のことばかりで──だからこそシェンファは彼女と付き合うようになったのだけれど──いまいち盛り上がりに欠けるのだ。


 一方的に話すだけは、おもしろくない。

 こういう話は、ああだこうだと秘密を披露し合うのが楽しいのだから。


 さて、どうしたものか。

 雲間から差し込む光をぼんやりと眺めながら、シェンファは思案する。


 そういえば、雲の切れ間から太陽の光が漏れ、光線の柱が放射状に地上へ降り注いで見える現象を薄明光線、またの名を天使のはしごと呼ぶそうだ。


 シェンファの脳裏に、一人の男の姿が浮かぶ。

 街でうわさの、美貌の公爵様──セドリック・アールグレーン。

 白に限りなく近い金髪は東の国ではめったに見ないもので、シェンファの目には神秘的に映るのだった。

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