第6話

 メアリは、目の前にいる男を知っていた。

 名を、セドリック・アールグレーンという。


 先王の弟である彼は成人と同時に臣下へ下り、それ以降、逃げるように隣国の神殿へ身を寄せていた。

 その理由については、類い稀な美貌で国王あにの婚約者を誘惑したせいだと言われている。


(今は確か……三十八歳だったかしら)


 ゆえに彼は、姿が見えない【幽霊公爵】と揶揄されているのだ。

 メアリの【奇婦人】以上にひどいあだ名である。


 それが今から二十年も前のこと。

 メアリが生まれる前のことである。


 セドリックは昨年、誘惑されたとうわさの王太后が亡くなったのを機に、国へ戻ってきた。


 真昼の月のような白に限りなく近い金の髪、湖面に張った薄氷のような淡い青の目。スッと通った鼻梁びりょうに口元のほくろが妙に目を引く。そのほくろのことを街の人たちがこっそり「エロぼくろ」と呼んでいることは、うわさ話に疎いメアリの耳にさえ届いていた。


 しかし、メアリがセドリックを知っているのは、うわさ話のせいではない。

 うわさを聞く以前に、彼のことは何度も見かけていた。


 来客がない限り、飽きもせず店の奥にある作業部屋で機械いじりばかりしている彼女は、働いているという免罪符を掲げて、舞踏会にすら参加していない。

 物言いたげな父には「婚約破棄されて傷心の娘に舞踏会へ行け、なんて言いませんよね?」と泣きまねでもしておけば問題なかった。


 貴族令嬢としての義務を放棄し、街の人たちとも最小限しか交流しない彼女が、なぜこの男を知っているのか。

 答えは簡単。

 彼女の行動範囲に、セドリックがいたからである。


 この町には、国に貢献してきた英霊たちが眠る有名な墓地があり、隣にあるルフナ教会が彼らの安らかな眠りを守っている。

 セドリックは今、そのルフナ教会に身を寄せているのだ。王都には、彼のためのタウンハウスが用意されているにも関わらず。


 さて、ルフナ教会の墓地にある墓石のひとつに、メアリが心から尊敬してやまない、偉大な発明家の名前が刻まれている。


【ルカ・ブレゲ】


 ブレゲとは縁もゆかりもない間柄だけれど、メアリは彼のことを崇め、師匠と慕っている。

 彼への尊敬の意は、誰にも負けないと自負していた。


 機械いじりが思ったようにうまくいかなくて煮詰まった時、メアリは彼の墓の前へ座り込み、彼と対話する──つもりで自問自答を繰り返す。


 すぐに答えが出る時もあるし、答えが出ない時もある。

 だけど、作業部屋で一人悶々もんもんとし続けているよりは早く解決するので、メアリは師匠のおかげだと思うようにしていた。


 冷静に考えてみれば、店から墓地までの間の散歩にしては長い距離を歩いたおかげで脳が活性化されただけなのだろうとわかるのだが、メアリはあえてそう思うことにしている。

 彼女は現実主義のようでいて、妙なところでロマンチストでもあるのだ。


 墓地へ行ったときはたいてい、セドリックを見かけた。

 どうやら彼は、高齢の神父の代わりに墓地を管理しているらしい。


 墓地の周囲をぐるりと囲むバラの木の手入れをしていたり、故人に会いにきた人と立ち話をしていたり。メアリは直接話したことはなかったけれど、何度も通えば名前くらいは耳に入ってくる。


 はじめて名前を知った時、あれがうわさのエロぼくろの人か、とメアリは感想を抱いた。

 確かに、うわさ通りの綺麗な男だ。幽霊公爵とさげすまれながらも、多くの女性が目で追ってしまうのもうなずける。


(まぁ、私には関係ないですけれど)


 メアリはセドリックに対して、それほど興味が湧かなかった。

 彼を見ようと貴婦人たちがこぞって墓地の見えるカフェに押し寄せる中、メアリはその隣をブツブツつぶやきながら通過していったし──奇婦人メアリの出現に貴婦人たちは引き潮のようにサッと彼女に道を譲った──意を決したある未亡人が墓地に足を踏み入れ、胸が張り裂けそうなくらいの緊張を抱えてセドリックを待っている時も、彼女は目の前をスタスタと歩いていった。女性は黒猫が前を横切った時のような気持ちになって、その日告白することを諦めたとかなんとか。


 とにもかくにも、メアリはセドリックおよび彼の周囲にはこれっぽっちも興味がなかった。


(好きにしていて。私には関係ないし)


 今は綺麗でも、いつかは老いていく。それはセドリックだって、例外ではない。

 メアリは、そんなものに夢中になる彼女たちの気がしれなかった。


 それよりも気になるのは中身。しかもメアリの場合、内面や性格といった意味合いではなく、言葉のまま骨や内臓を意味する。

 つまり、健康的でお金をガッポリ稼いできてくれる人ならば、誰でも良かった。


 雲が多いロディムの空の下では、セドリックの白い肌は不健康そうに見える。

 初めて視界に捉えた時はゴーストかと思って喜びかけたくらいだ。生身の男だとわかるとすぐに興味を失ったが。


 幽霊公爵という呼び名は、メアリが知らないだけで別の意味もあったのかもしれない。

 メアリは別段、興味もないが。


 それに、うわさによれば彼は服従、無欲、童貞の三つに要約される誓いを立てており、独身を貫く予定なのだとか。

 独断と偏見かもしれないが、そういう人は慎ましやかな生活を送るものだろう。

 余分なお金があったら、貧しい人たちに配ってしまうイメージがある。


 メアリの家が復興するほどの大金なんて持っているわけがないし、これからだってないはず。

 つまり、彼の見た目がどんなに優れていようと、メアリにとっては射程範囲外の男なのである。


(清廉潔白が服を着て歩いているような方が、こんな珍妙な店にやって来るなんて……)


 黒猫横丁は、セドリックが訪れるような場所ではない。

 思い出あずかり屋も、しかり。

 むしろ一生縁がない場所なのではないだろうか。


 つとめてミステリアスな微笑を浮かべ続けるメアリを前にして、セドリックは落ち着かなげに視線を巡らせる。

 何か言いたいことがあるのに言う決心がつかない、もしくは言いづらいことがあるけれどどうしても言わなくてはならなくて困っている、とそんなところだろうか。


(……一体、どういった用件なのかしら?)


 その時ふと、メアリは思い至ってしまった。

 この店は見るからに胡散臭い。


(若い女性がこんな店にいるなんてけしからん!と説教するつもりなのでは……?)


 そんなのはごめんである。

 メアリの眉間に皺が寄り、無意識に警戒する。

 その姿はまるで、懐いていない猫がシャーッと威嚇しているようだ。

 もっとも、おっとりとした親しみやすい顔だちをしているメアリの威嚇なんて、子猫レベルではあるのだけれど。


(説教なんて不要なのです! それに、セドリック様がうちに来たと知られたら、彼に恋する貴婦人たちが何をしてくるか……。さっさと帰ってもらわなくてはなりません!)


 メアリは無言で「帰れ〜帰れ〜」と念じた。

 にらむような強い視線に、セドリックがたじろぐ。

 彼のしぐさにこれは効果があるのかもしれないと思ったメアリは、もっと強く念じた。


 まさか彼女は思いもしなかっただろう。

 熱心に念じるあまりに彼女から香る匂いが強まり、セドリックの理性を揺るがしていたなんて。


 セドリックは帰るどころか「うっ」と小さくうめいて顔を背けた。

 それから言いづらそうに首の後ろをこすったあと、メアリと視線を合わせないようにしながらこう言った。


「ここは思い出をあずかる店なのだろう? 私も、依頼することは可能だろうか?」


 セドリックの申し出に、メアリはパチパチと目を瞬かせた。

 虚をつかれて思わず、


「ええ。可能、ですけれど」


 と言ってしまう。


(ああ、さっさと帰すつもりだったのに……!)


 奇婦人が店に幽霊公爵を連れ込んだ──なんて、そんなうわさはごめんだ。

 セドリックに恋する貴婦人たちが、連日連夜嫌がらせしてくるのが目に浮かぶようである。


(ああ、終わった……)


 投げつけられるのは石だろうか。

 腐った卵のほうが生存率は高そうなので、そちらにしてもらえるとありがたい。

 あとできれば、トマトもやめてほしい。酸っぱくて、好きじゃないから。


 嫌がらせについて考えているメアリの前で、セドリックが爽やかに微笑む。


「ああ、良かった。では、さっそくお願いしても?」


「……お高いですよ?」


 悪あがきだとわかっていても、言わずにはいられない。

 これで逃げてくれと一生懸命逃げ道を用意してあげたのに、メアリの気持ちは彼に届くことはなかった。


「大丈夫だ。それなりに持っている」


 セドリックは小切手を取り出した。

 小切手を見るだけで動揺するデンバーとは違う。明らかに慣れている、大人のしぐさ。


(聖人、というわけではないのかしら)


 記載された金額を見せられて、メアリは言葉を失った。


「…………うわぁ」


 あ、と気づいてももう遅い。

 恥ずかしそうにうつむいたメアリに、セドリックがクスリと笑う。


「足りるだろうか?」


 形勢逆転。

 失敗した子どもを微笑ましそうに見ているような視線を浴びて、メアリは弱々しい声で答えた。

 

「十分足ります」


「では、よろしく頼む」


「かしこまりました」


 その日、メアリは思い込みって怖いなと思った。

 慎ましやかな生活とは?と頭にクエスチョンマークが無数に湧いてくる。


 ──小切手には、メアリが欲しいと思っていた蒸気自動車が何台も買えるくらいの金額が書かれていた。

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