第03/15話 コミュニケーション
東本町伽織は北通研究所の主任室にいた。デスクにつき、新聞の夕刊の二面を読んでいる。「米国務長官 暗殺される」や「ロンドンで暴動」、「琵琶湖 ついに完全渇水」といった記事が並んでいた。今日の昼に神津大学で起きた拳銃殺人事件に関する記事は、まだ載っていなかった。
伽織の目つきはきりっとしていて、いかにも知性が高そうだった。一つ結びにまとめられた長い黒髪と合わさり、聡明なオーラを漂わせている。身に着けている紫色系統の長袖ブラウスやロングスカートは地味なデザインで、学者の雰囲気を構築するのに一役買っていた。
(……ちょっと目が疲れたわね)
新聞を閉じてデスクに置き、椅子を回転させた。後ろの壁にある窓の外に視線を遣る。すでに日は落ちていて、真っ暗だった。研究所の隣は広い公園で、中央に大きな柊がそびえていた。
扉をノックする音が聞こえた。伽織は椅子を元の向きに戻すと、「はーい」と言って腰を上げた。扉の前に行き、開ける。
廊下には部下の
小島の七三分けに整えられた短い黒髪からは性格の真面目さが窺えた。身に着けている橙色系統の長袖シャツや長ズボンも機能性を重視したものだ。右腕には分厚い文書が収納されたフォルダを二冊抱えていた。
「入ってちょうだい」扉を全開にした。「明日の実験の打ち合わせを行いましょう」
伽織たちは応接スペースに移動した。中央に脚の低いテーブルが据えられ、それを左右から挟み込むようにしてソファーが二台置かれている。二人は向かい合わせに座った。
小島は所持しているフォルダのうち一冊を伽織に渡した。伽織はフォルダから文書を取り出しつつ喋り始めた。「まず、実験の第一段階で使用するコンピューターの件だけれど──」
打ち合わせは一時間半ほど続いた。
小島は文書を読みながら「──その場合は例のアプリケーションを動かすと」と言った。「一昨日の話のとおりですね。わかりました」首を縦に振った。
「そういうこと」伽織は顎を引き、文書に視線を落とした。「……うん、今のが最後ね。もう確認事項はないわ」小さく息を吐いた。
「今日の打ち合わせはせいぜい三十分くらいで終わるだろうと思っていたのですが、一時間半もかかってしまいましたね」小島は文書をテーブルに置いた。「……それにしても、なんというか──わくわくしますね。明日の実験が成功すれば、『ナハトムジークの第一予想』の解決に一歩近づくのですから」
「ええ、そうね」
伽織はテーブル上の器に右手を伸ばした。そこには「プチろまんチョコ」という菓子のパックがいくつか入れられていた。
「とはいえ、完全な解決にはまだまだ遠いけれどね。ナハトムジーク予想は第四予想まであるし……。もちろん、研究している人はわたしだけじゃないけれど。まあ、わたしが生きている間にすべての予想が解決される可能性は低いでしょう」
プチろまんチョコのパックを取った。包装の一部を破く。中のチョコレートスナックを摘まみ、口に投じた。
「全部のナハトムジーク予想が解決されれば、この世の時間を巻き戻す、なんていうSF小説のようなことが可能となるわ。……といっても、じゃあ実践できるかどうか、は別の話だけれどね。それ用に装置を製作したりエネルギーを調達したりしないといけないわけだし。
だいいち、ただ単に時間が巻き戻るだけであって、タイムトラベルのようなことはできないもの。なにせ人の意識や記憶を含むすべてが過去の状態に返ってしまうわけだから」
しばらく雑談を続けた後、小島は退室した。伽織は「んんん……」という唸り声を漏らしながら伸びをした。
スマートホンからメール受信音が聞こえてきた。スカートのポケットから端末を取り出す。ロック画面の通知メッセージによると、送信者は妃乃だった。
(どうしたのかしら? 例の拳銃殺人事件には巻き込まれずに済んだ、って聴いているけれど)
一抹の不安を抱きながらメールを見た。「神津大学前駅から電車に乗ったところ」「あと一時間くらいで自宅の最寄駅に着く」「お母さんはそろそろ研究所から車で帰るところじゃない?」「もしそうなら途中で拾ってほしい」という内容だった。要らぬ心配だったとわかり、安堵した。
(今から向かうと駅の近くで少し待つことになるけれど……まあ、いいでしょう。いくら大丈夫と言われているとはいえ、この目で無事を確認したいし)
伽織は承諾する旨の返信をした。フォルダを棚にしまうなり濃い紫色のコートを羽織るなりして、帰宅の準備をする。
主任室を後にし、建物からも出て駐車場に行った。自家用車──黄色の軽SUV──のロックを解除し、運転席に乗り込む。
出発してから十数分後、駅に到着した。無料パーキングに駐車すると、スマートホンを取り出し、電子版学会誌を読んで暇を潰す。妃乃の乗っている電車の到着時刻が近くなった頃にやめ、改札口を眺め始めた。
妃乃が駅から出てきた。伽織はその様子をよく観察した。(……うん、見たところは問題なさそうね)眉間から力を抜いた。
駐車場所は事前に知らせていた。妃乃は軽SUVの客席に座り、伽織はエンジンを始動させた。
伽織は車をパーキングから出しながら「それで、妃乃」と言った。「大丈夫とは聴いているけれど、本当? 事件のせいで精神的な調子を崩したとか、そんなことはない? その……血を見ちゃったとか」
「心配してくれてありがとう」妃乃は微笑した。「でも、本当に大丈夫だよ。まあそりゃ、ちょっとはショックを受けたけれど……」二秒ほど沈黙した。「メンタルを悪くするほどではないかな、うん。いや、強がっているわけじゃないからね」
「そう、よかったわ……」
伽織は胸を撫で下ろしたくなった。これ以上は事件の話をしないほうがいいでしょう、と考え、雑談の話題を探す。
「……妃乃、寒くない?」
一瞬だけ助手席に視線を遣った。ブランケットやサンシェードが置かれている。
「うん、寒くないよ」
会話は終了した。再び雑談の話題を探す。
「……新北野くんとはどんな感じ? 上手くいっているの?」
「上手くいっていないわけじゃないけれど……」妃乃は眉間に軽く皺を寄せた。「一つ、悩みがあるの」
「悩みって?」
「紺斗くん、なんというかこう、わたしとの恋愛について非積極的──というより、はっきり言って消極的なんだよね。例を挙げるとしたら……二人でいる時、ぜんぜん手を握ってこないんだよ。たまたま握ることがあっても、すぐ引っ込めちゃうし。わたしのほうから繋ぐと、照れ臭いのか、仕草がぎこちなくなったりよくわからないことを口にしたりするし」
「なるほどねえ……たしかにちょっと困るわね」
「それに、紺斗くんからは『好き』だとか『愛している』だとか、そういう類いのことをまだ一度も聴いていないんだよ。あなたのことが好きです、恋人として付き合いましょう、って言ったのもわたしのほうだし──」
妃乃は台詞を中断し、大きな欠伸をした。
口を閉じてから「というわけで、いろいろあるけれど全体としては上手くいっているほうなんじゃないかな」と言い、雑談を打ち切った。シートに背を預け、まぶたを下ろす。数分が経つ頃には寝息を立てていた。
(寝顔を見るなんて久しぶりね)
しばらくして我が家に到着した。伽織はガレージに車を停め、エンジンを切った。
(あ、しまった。先に妃乃を起こさないといけないんだった……)
再びエンジンをかけるのも面倒に感じられた。運転席から降り、客席に乗り込む。
「着いたわよ、起きてちょうだい」
伽織は妃乃の肩を揺すった。しかし目を覚まさなかった。試しに頬を弱く摘まんだりまぶたを持ち上げたりしてみたが、それでも眠ったままだった。
(やれやれ、昔から変わらないわね、この熟睡っぷりは)
伽織は運転席に移動し、エンジンをかけた。カーオーディオを操作すると、インストールしてある音楽データの中から「メイロン行進曲」を選択し、再生した。
冒頭のトランペットの音が流れた。それから一秒も経たないうちに、妃乃が「んん……」という唸り声を漏らしながらまぶたを開けた。
「着いたわよ」伽織はメイロン行進曲の再生を終了させた。
「ふぁい……」
妃乃は欠伸をしながら客席から出た。伽織もエンジンを切り、降車した。妃乃と合流し、玄関に向かう。
妃乃が「それにしても紺斗くんはいつになったら『愛してる』って言ってくれるんだろう」と呟いたのが聞こえた。
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