亡き王女の為の…

色街アゲハ

前編

 遠い記憶。掴み取ろうと手を伸ばして、ふと、それが余りにも朧気で、何処に向けて伸ばせば良いのか。指先だけが空しく宙を彷徨う。

 過去? それとも未来? もしかしたら、今正に起きている現在の出来事かも知れない。何れであっても、それは何時しか過ぎ去ってしまう事の確定してしまった事柄であり、最後には皆等しく遠く遥か彼方の、仄かに青く翳んだ空の中に滲んで紛れて行く様が、薄らと閉じた目蓋の裏に幾度となく繰り返されては、又消えて行く。

 夢のあわいにも似たそれは、淡々と過ぎ去って行く日々の中で、容易く掻き消されて行くに過ぎない類の物の筈なのに、何故こんなにも繰り返し繰り返し自分の前に現われるのか。

 あたかもたった今仕方、止もうとしている雨の最後の一滴が幾度となくこの頬に降り掛かろうとするかの様に。まるで懇願するかの様に。

 耳を傾けなければ聞き逃してしまうだろう、消え入りそうなか細い声に誘われる様に、より深く、より遠くへと、今度こそ確かに届く様にと。


 薄い絹布を幾重にも重ねた様な意識の霧を抜けると、一転、一面の抜ける様な青空の中に、間延びした空気を纏いその身を横たえる巨大な雲。

 吹き下ろす風が緑濃い草原を薙ぎ、その瑞々しい香りをたっぷりと吸い込んだ空気が、四方を山に囲まれた城下へと流れ込んで行く。

 赤や茶の煉瓦の屋根が所狭しと並び、真っ白な壁に穿たれた出入口より次々と現れる人々が、轍に歪んだ敷石の上を、深草の香りを含んだ空気の流れに乗って、思い思いの場所に散って行く。

 その表情は喜々哀々様々に、御伽話の人物さながらに、彼等の物語を紡いで行く。


 そんな街をぐるりに巡らせたその中央に一際壮麗に立つ、白一色の、燭台の様な尖塔を幾つも従えた城の中、この世の憂いを一身に背負った様な沈痛な表情を絶えず浮かべる一人の王女が、城の外を虚ろな目で眺めていた。

 その目に映るどんな物も王女の心を晴らすには至らず、老いた王を始めとして、御付きの者に至るまで、全ての人々が心を痛め、何とかして王女に巣喰う憂鬱の病を癒す手立てを望んでいた。しかし、それは王女の身を案じての事だけではなく、王女の底冷えのする目に見詰められて、そこに何も映らない虚ろな眼窩を思わせる、深く大きな穴に落ち込んで行く様な思いから逃れたいが為でもあった。


 そんな折、この国を囲む山の向こう側より訪れた一人の若者が、城の新たな庭師として召し抱えられる事となった。

 山を挟んで、外の世界との交流の乏しいこの地にあってさえ、その名声が聞こえて来る程の才の持ち主で、此度の招聘に於いて、彼に寄せられた期待は決して小さな物では無かったのである。

 彼の若者の設計による庭園は、その細部に至るまで計算し尽くされた、さながら寸分の狂いも無く動き続ける精密時計を思わせる、閉じられた人工の楽園と呼ぶべき物で、訪れた者は皆、その対称的な造形、一律に切り揃えられた草木、花や果実の位置までもがまるで誂えたかの様に並び、果ては壮麗無比な噴水の、吹き出し飛び散る雫の一つ一つにさえ神経の通った強固な意志を見出して、それらの描き出す完璧な美の世界に圧倒され、知らず感嘆の溜息を洩らすのだった。

 

 名声を欲しいままにし、自然と云う名の混沌に己が世界を打ち立てた若者は、請われるがままにその腕を振るい、果てに自分の最後の仕事として選んだ地がこの国だった。

 聞けば、国の王女は物心ついた時より笑みを浮かべた事の無い、氷の心と瞳の持ち主だと云う。彼の王女に己の創造する世界で以て、その心に灯を点す。それこそが自分の最後の仕事に相応しい。まるで一端の騎士物語の様ではないか。

 しかし若者は、自信に溢れ高揚する心に、不意に自分の意志とは違った何か大きな運命の歯車が、自分を衝き動かしているのを感じ始めていた。その予感は、長い旅路を経て、城門の前に立った時、確信へと変わった。

 聳え立つ城を見上げ、並び立つ尖塔の一つ一つに目を向けながら、早くもその配置に見合った庭園の構想に考えを巡らせていると、その内の一つから此方を見据える視線を感じた。

 

 改めて其方に目を向けて、そして二つの視線が交叉した。互いの姿が良く見えない程離れているにも拘らず、若者も塔の上より見詰める王女も、二人とも目を逸らす事が出来なかった。互いが密かに、恐らく自分達でも気付いていなかった、心の内で感じていた欠けていた何かを埋め合わせる物を持っていると感じ取っていた。

 この出会いは運命的な物。出会わなければそのまま何も起こらなかった筈の。しかし、出会ってしまった以上、運命の歯車は噛み合い、避けられない結末に向けて動き続けるしかない、そういう出会いだったのだ。


 謁見もそこそこに、追い立てられる様に仕事に取り掛かった若者は、今までに覚えた事の無い感覚を味わっていた。まるで導かれるかの様に手が動き、既に見えて居るかの様に思える完成に向かって、なぞる様に図面を引いて行った。

 設計図の出来た端から取り掛かられて行った作業までもが、まるで図面からそのまま流れだしたかの様に為されて行き、敷地内の様相を瞬く間に塗り替えて行った。


 殆ど分からない程の高低差に刈り取られた草原は、庭園全体の空間を巨大な擂鉢型に切り取り、見る者に錯視を起こさせた結果、空との距離感を狂わせ、佇む者に空の中に迷い込んだ様な感覚を起こさせた。

 絶妙な曲線と勾配により、実際よりも更に広く見える様に配置された白砂利の道々に居並ぶ灌木が、通り過ぎる度に空に向かって伸び上がり、その内に抱かれる様に咲く色とりどりの花々が、空の中で咲いている様に花弁を一杯に広げる。

 道の曲がり角に設置された様々な動物、人物、幻獣を象った彫像が、空と庭園との間を思う様行き来し、散策者は彼等と共に空の世界へと連れ出される。

 空に向けて大きく羽を広げた白鳥の像が、もたげた頭を空に突き出し、伸び上がった姿のまま、嘴を軸に巨大な円を描く雲を従えた空に真っ逆様に落ち込んで行き、岩座に座った羽を持つ獅子が、雲の中で安らい、穏やかな眠りの中で、誰にもその内容を覗えない夢を見る。

 天空の中心に向けて突き出した噴水の先から、吹き出した水の華が空の中で咲くと、それの描き出した虹が大写しになり、やがて雲となった水飛沫が雨となり地上へと戻って来ると、その度に草の上や噴水の上、空の中へと、至る所に大小様々な虹が現われて、見る者の目を楽しませる。

 夜ともなれば、夜空一杯にちりばめられた星々の光が、噴水周りに集い、その光が飛び散る滴と共に散らばって、さながらそれは夜空の星が地上に舞い降りて来たかの様。そして、一頻り噴水の周りで戯れた星は、吹き上げられた水に乗って、再び空へと還って行く……。

 

 若き庭師は、この前例の無い驚くべき庭園を王女と共に歩きながら、その出来栄えを披露し、その効果を一つ一つ丁寧に説明しながら、落ち着き無さ気に何度も振り返り、王女の反応を覗っていた。何となれば、彼の説明に一々相槌を打ちながらも、王女はその表情を些かも変える事が無かったからだった。

 王女の身体から発せられる冷気を纏った雰囲気に、周りの草々が脅えた様に身を捩り、道から外れ遠ざかって行くと思える程に、その姿は冬その物を背負ったと評される常の王女であったのだから。

 しかし、一通りの案内を終えて、結局は己の一代傑作と信じたこの庭園を以てしても、王女の心に何ら変化をもたらせなかったと打ちひしがれる庭師に向けて掛けられた言葉は、その場に居合わせた者全ての度肝を抜くに充分な物だった。


〝今日は、本当に良い物を見せて頂きました。宜しければ、また案内をお願いしても?″

 

 そう言った王女の目には、ごく僅かではあったが、確かにこの庭園全体を覆い結び付いていた、何処までも果て無く広がって行く空の色を写していた。

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