第31話 神在月の宴
目の前のこの人物から今すぐ逃げたい。
なのに、足が、動かない。
じっとこちらを見つめるジーヴォは、ひたすら玄の返答を待っている。
だが玄が口を開けても、出てくるのはひゅっ、ひゅっ、というか細い呼吸音だけだった。
じり、と段々とジーヴォの視線がさらに鋭くなっていく。
顎に添えられているのは細くしなやかな指だというのに、ギラギラと光を反射するナイフを突きつけられている感覚がする。
時間が経つごとに喉に刃が食い込むような、そんな心地になる。実際はそんなことないのに。
「はぁ、全く、君はまるで木偶のようだね。返答すらままならないと、は、ぁあ!?」
突然、玄を罵っていたジーヴォの体が揺れる。それと同時に、玄の顎に添えられていた指も外れた。玄はやっと、息が満足にできる気がした。ゆっくりと息を吸うと、もう喉から変な音はしない。
目を動かし、ジーヴォの方へと視線を移すと、そこにはなんと、彼に馬乗りになっている見慣れた秋の姿があった。どうやら玄に迫っていたジーヴォにタックルしたらしい。
タックルされたジーヴォは秋を支えきれず、床へと倒れたみたいだった。
予想外の人物の姿に、玄の体は再び固まる。
「ジーヴォくん、ダメでしょ怖がらせたら」
「…秋…」
先ほどの体の衝撃の正体は秋だと分かった途端、ジーヴォは顔を嫌そうに歪めた。
その顔のまま、秋の頭を鷲掴みにすると、無理やり彼女を横に退ける。
彼女の首からはコキリと嫌な音がした。
玄はその音を聞き、焦ってジーヴォから秋をひったくるように奪い、彼女を抱き寄せる。そして、彼女の様子を見ると、そこにはいつもと変わらぬ顔色で、キョトンとした顔をする秋がいた。
玄は秋に怪我がないことを確認すると、ほっと胸を撫で下ろした。
「ふぅん、木偶人形じゃなかったんだ」
そう自分に対して嫌味を溢すジーヴォを、玄は軽く睨んだ。
本来客である立場である者にこのような態度を取るべきではないが、玄の中で、すでに彼は客というカテゴリーに入れるべき者ではないと判断を下した。
ジーヴォはそんな玄の態度に目を見開くと、声を押し殺すように笑い、次第にその笑いは堪えきれないという笑いに変わる。
「っくく、ははは!客である僕にそんな態度を取るだなんて、君は本当に頭が弱いみたいだね」
「っ」
こちらを煽るようにそう言うジーヴォに、玄は口内をギリっと噛んだ。
そんな玄を至極面白そうな娯楽として見るジーヴォは、ふぅ、とため息をついたのち、
まぁいいさ、と言葉を続けた。
「君、久遠が言っていた新人の玄だろう?
彼の紹介ということに免じて先ほどの無礼は許してあげることにするよ。僕も、突然君に圧をかけてしまったしね」
傲岸不遜でどこまでいっても上から目線な彼に、玄は自分のイライラのボルテージがどんどん上がっていくのを感じた。
怒鳴らなかったのは、今ここに自分にしがみつく秋がいたからだ。
彼女がいなかったら玄はとっくに怒号をジーヴォに浴びせていただろう。
「部屋に入るがいいさ、どうせ、説明を求められるだろうしね、それにほら」
ジーヴォがそう言葉を切ると、廊下の向こう側から見慣れた人影が見えた。
「おいジーヴォ、これはどういうことだァ?」
人影の正体は久遠だった。
彼はジーヴォをじっと見据えながら問いかける。
玄は客が襖を吹っ飛ばしたとなれば、そりゃあ久遠さんが来るだろうな、と思った。
だが、ジーヴォはそんな久遠に対しても、調子を崩さない。
ジーヴォは自分と久遠、ついでに秋を部屋の中に招くと、各々を座らせて話を始めた。
「まず、襖についてはすまなかったね、少々頭に血が登ってしまった。修理代はもちろんだすよ」
「いや、それァそうだが…どうしてこうなったんだ?」
久遠がそう投げかけると、先ほどまで笑顔を貼り付けていたジーヴォの顔からごっそりと表情が抜け落ちた。
玄は肝が冷えるのを感じたが、久遠はそんな彼に眉一つ動かさない。
ジーヴォは三人の顔を、主に久遠と次に秋を見つめると、口を開いた。
「僕の気分を害した原因である彼女…アニマが言ったのさ、この旅館で【神在月の宴】をしたいって」
「!」
「…?」
「?」
ジーヴォのその言葉に、三人は三者三様の反応を示す。
久遠は目を見開き、秋はピンとこない顔をする。玄は完全に何もわからなかった。
「おや、そこの新人くんはわからなさそうだね?、久遠、僕から説明するかい?」
くすくすと笑いながらそう言ったジーヴォに、久遠は固い顔をしながら答えた。
「…あぁ、主な部分はお前がしてくれ、俺は補足で説明する」
「了解したよ。
まず、この旅館について話さないといけないね。この旅館の現在の支配人は久遠なんだけど、久遠の前に先代がいてね」
「先代…?久遠さんは二代目ってことですか?」
「あァ、そうだ」
玄の疑問に久遠が頷く。
この特殊な旅館に、久遠以前にも支配人となっていた人物がいたことに玄は驚いた。
そんな玄を尻目に、ジーヴォは話を続ける。
「その先代の頃に、よく行われていたのが、【神在月の宴】。
その時泊まっていた旅館の客の世界の楽器で奏でた色とりどりの音楽に合わせて、先代が歌い踊るという内容のものさ。
僕も数回ほどしか見たことがなかったけれど、すごく見事でね。
まるで月が地に落ちてきたのではないかと言うほどに、美しかったよ」
そう言い、うっとりとする表情を浮かべるジーヴォだったが、ふと目を伏せて暗い表情になった。横をチラ、と見ると久遠の顔も、暗く沈んでいる。部屋の中で重い空気が漂い、玄はなんとなく息がしづらくなった。すると、隣にいた秋がそっと体をを動かし、玄の膝の上に乗った。
突然の彼女の行動に玄は驚いたが、彼女から香る金木犀の香りに少しだけ息がしやすくなったため、彼女をそのまま膝の上に乗せることにした。
そんな二人の様子を黙って見つめていたジーヴォは、はぁ、とため息をつきながら言葉の続きを吐いた。
「美し、かった、本当に。
悲しいことを言ってしまうけれどね、あの人は、先代はもうこの旅館にいないのさ。」
玄は静かに息を呑んだ。
だが、冷静に考えると納得した。
久遠が旅館をその先代から継いでいる以上、その先代には旅館の支配人を辞めざるを得ない何かがあった筈。
それがどんなことであれ、その何かがあり、今、久遠が支配人になっている。
玄は、久遠やジーヴォと同じように己の表情が暗くなるのを感じた。
「どのような経緯でいなくなったかは、僕は知らないけれど、少なくともこの旅館にもう先代はいない、そうだろう、久遠」
「…あァ、あの人はもういない」
久遠の顔が俯き、彼のサラサラとした藍色の髪が顔にかかった。そのせいで、表情はよく見えなかったけれど、暗い顔をしていたことだけはわかる。
「【神在月の宴】は先代がいたからこそ行えた。あんな輝くような歌と踊りが出来る人は、あの人以外いると思えないからね。
だが、アニマは、僕の話を聞いて【神在月の宴】を再現するとほざいた。
僕は反対した。
あの宴に焦がれる者はたくさんいるが、あれが行えたのは、重ねて言うことになるけど、先代がいたから。
それで言い合いになって…ってことかな。
これがあの襖の経緯だよ」
ジーヴォはそう言い切り、会話を終わらせる。その場には、痛いほどの沈黙が落ちた。
玄は何を言っていいのかわからなかった。
突然、先代という言葉を知り、少し困惑していたともいう。
だが、このことが決して明るいことではないということはわかっていた。
久遠やジーヴォの表情が、それを物語っている。
特に久遠に関しては、玄の退職届が見つかったとき以上に表情が暗い。
これは表情が抜け落ちたという表現では足りないだろう。久遠はまるで能面のような顔をしていた。
「…そうか。確かに、俺もアニマという子の意見には反対だな」
そんな表情のまま、久遠はそうこぼした。
玄は、先ほどのアニマという女性の表情を思い出した。
芯が強そうな、何かを決意したような光を宿したエメラルドの瞳を。
それを思い出し、玄は少し残念に思った。
久遠やジーヴォがそれほど言うということは、先代とやらが行った【神在月の宴】は本当に素晴らしいものだったのだろう。
だが、先代が素晴らしかったといって、これから行うもの全てがそれを上回ることができないと決めつけることは、それは、どうなのだろうか、と。
悶々と玄が考えていると、場に、幼い声が響いた。
「久遠ちゃんやジーヴォくんは、本当にできないと思ってるの?」
秋の声だ。
久遠やジーヴォは、何を言っているのかわからないという表情で秋を見つめた。
「アニマちゃんが、本当にできないと思ってるの?」
秋を閉じ込めた瞳をゆらゆらと揺らしながら、心底疑問そうにそう言った秋を、ジーヴォは忌々しげに睨む。
「同じことをアニマにも言ったけれどね、君は、先代の宴を見たことがないから言えるんだよ、そんなことを」
「…」
秋は少しだけ黙り込むと、思いついた、と言う表情をして、ぽんっと手を叩いた。
「なら、私、アニマちゃんに協力する」
きらきらと瞳を輝かせてそう言い切った彼女に、ジーヴォは舌打ちをし、彼女の胸ぐらを掴んだ。
玄は咄嗟に止めようとしたが、ぐい、と服を後ろに引っ張られる感覚がして止められた。誰だ、と思い後ろを振り返ると、そこには部屋の右側にいた少女、レジェロがいた。
首をふるふると横に振る彼女の表情は必死だ。どうやら玄がこれ以上ジーヴォによって怖い思いをして欲しくないらしい。
彼女の心情を察した玄は、歯痒い思いで、秋とジーヴォの様子を見た。
「あのね、君一人が協力したところでどういう風に解決すると言うのかい?」
「解決?解決ってどういうことを解決っていうの?先代さんと同じような宴をすることだけが解決だというのなら私はそんな解決、糞食らえだと思うよ」
秋がジーヴォの胸ぐらをつかみ返す。
赤い瞳と赤い瞳が交わる。
「同じことを繰り返すことを正解だと思っているなら、それはきっと停滞と一緒だよ。
同じことを繰り返す中で、妥協とか手応えを感じることがきっと正解なんだよ」
「黙りなよ」
ジーヴォがより強く、秋の首元を締め上げる。彼の手はブルブルと震えており、よほど強く力を入れていることが窺えた。
白い顔にはうっすらと赤みが差し、今にも激昂して、秋に手を上げてしまいそうだ。
だが秋は苦しそうに、はふはふと息をしながらも、彼に対して言葉をかけ続けた。
「ねぇ、やってみようよ、もう一度。
やってもないのに決めつけるなんて、そんな勿体無いこと他にないもん」
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