第22話 退職届、燃ゆる



 玄、久遠、秋の近くの空気だけ周りと比べて5度ほど下がるのを玄は感じた。

 体にたらり、と冷や汗が伝う。


 ちらりと久遠の顔を伺うが、彼の顔はいつもヘラヘラしている笑顔がごっそりと抜け落ち、すんとした真顔でピクリとも動いていなかった。瞬きすらしていないその様子は玄の中の恐怖を煽る。


 玄は唐突な出来事で動かない頭を無理やり動かし、なぜ秋が自分が処分する予定だった退職届を持っているんだ、どこでとられたのか、と必死に考えた。




 どこだ、どこでとられた、

 一体、どこで____________




「!」



 考えているうちに、玄はいつ秋がこれをとったのかという答えに辿り着く。


 部屋からでない玄に痺れを切らし、玄の背中を押したあの時だ。

 秋が部屋に入り、退職届を玄からとるタイミングなんてそこしかない。


 おそらく小太郎とともに部屋に来た時、玄が隠すよりも早く退職届が秋の目に入ったのだろう。


 ビクビクしながら玄は今度は秋の顔を見た。

 秋は顔に笑みを浮かべていたが、目は全く笑っていない。赤い瞳にはひたすらに虚無が広がっている。

 何を思い、何をしようとしているのか全く検討がつかない。

 玄は初めて秋に得体の知れない恐怖というものを抱いた。



「玄くん、ね、これもういらないよね」



 疑問符すらつけず、有無を言わさぬ雰囲気で玄に詰め寄る秋。鈴のような可愛らしい声なのにも関わらず、まるで恐ろしい怪物の声を聞いているような心地だった。

 返答を間違えたらとんでもないことになることになると怯えながら玄はカクカクと首を縦に動かす。すると秋は満足そうに笑った。


 と、同時に秋の手の中にあった退職届から火花が散ったかと思うと、料理のフランベみたいに小さな火柱を上げ、ごうごうと音を鳴らしながら燃え始める。

 そして最後には灰すら残さず燃え尽きた。退職届なんて最初からなかったかのように。


 秋はゆっくりと手をにぎにぎすると、不意に玄の方へと空っぽになった手を向けた。


 目には相変わらず虚無が存在している。

 いや、虚無というより、言いようのない圧のようなものという言い方のほうが近いだろう。



「いらないものがあったら言ってね、私に任せて」



 何をどうやって、とは聞かなかった。聞けなかった。

 首をとにかく縦に動かすことだけに玄は意識を集中させた。


 するとこちらも忘れるな、言うように久遠が玄の肩を叩く。

 もしかして助けてくれるのか、と期待しながら玄は久遠の方へと振り向いたが、そんなことはなかった。


 久遠は藍色の瞳に涙を浮かべ、どこから出したかわからない扇子で口元を隠し、よよよ、とわざとらしく泣いていた。




「ぅっ、うっ、よよよ…、玄…お前、やめたかったのか?」



「っ違います!!!違います!!えっと、あれはそもそも処分するつもりでした!!」




 大声を出す玄に、なんだなんだと周りの視線も三人に集まる。

 久遠は目玉だけを動かし、周囲を見渡すと、もう一度、よよよ、と泣き始める。

 身長2メートルをゆうに超える大男の泣き姿だというのに妙に様になる見た目に玄はこの場には不相応だと思いつつも、イケメンって羨ましいな…と思った。




「本当か?無理をしているんじゃ…、別に俺は止めないぞ、よよよ…」




「無理してません!!僕は!!!この旅館に骨を埋める覚悟です!!!絶対、絶対やめません!!!!」




 なんか違和感を感じなくもないが、とにかく誤解を解かないと、と思い、深く考えず勢いのままに玄はそう叫んだ。

 あたりはしぃんと静まりかえり、広い食堂には、先ほどの言葉とぜえぜえと玄が息を切らす音だけが響いた。


 久遠は玄の言葉を聞くと、パチン、と扇子を閉じ、先ほど涙は嘘だったのではというふうにニヤリと笑う。




「言ったな?」




 久遠のその様子に玄は意味がわからなかったが、周りの反応でこの男が何を狙っていたのかを察した。



「玄くんのやる気、すごいわ!!私、先輩として負けていられないわね!」


「…ほぉ〜、久遠さんも人が悪いねぇ」


「チッ、あいつのやりそうな手口だ」


「人間くぅん、そんなに張り切って明日から痛い目見るかもよぉ〜?っはは」


「げんさん、げんきいっぱいですね!」




「あいつ、すげぇな、旅館に対する熱意…!!」


「人間って、寿命100年くらいしかないんだろ?、なのに骨を埋めるって…」


「なんだか頼もしい…!」


「彼が加わってこれから楽しくなりそうだね」




 あちらこちらから玄に対する好意的な言葉が聞こえてくる。

 玄は察した。この上司、外堀を埋めやがった、と。




「…狙いましたね」


「なんのことやら」




 引き攣った顔をする玄に、久遠は、

 けらけらと笑いながら言った。

 しかし目が暗に退職することは断固受け付けないということを語っている。

 玄は、長い長いため息をついた。

 だがまぁ、やめるつもりははなからなかったため、この状況を甘んじて受け入れることにした。


 そしてその後、久遠に案内されるまま、食堂のど真ん中の席に座らされると、本日の主役と書かれたタスキをかけられた。



「どこで調達してきたんですか、これ…」



 玄が呆れと諦めを含んだ声で問いかけると、久遠が言うには泊まっている人間のお客さんにも協力してもらったとのことだ。

 そこまでするのか、こんな新人に、と呆れ果ててしまうと共に、自分なんかをここまで祝ってくれる旅館の人たちの暖かさに口が緩みそうになった。


 ふと、周りを見渡すと蓮太郎と目が合った。

 彼は玄の心を読んだのかニヤニヤながらこちらを見てきた。

 なんとなくイラッとしたため蓮太郎からそっと目を離し、後ろを見ると、今度は御化と、見覚えのないオレンジ色の頭が目に入った。


 おそらく男性であろう。

 彼は旅館の制服である和服を着ていた。だがその和服の色は他の人があまりきていない黒色だった。


 御化は玄の視線に気づくと、ひらひらと手を振った。すると隣にいる彼も玄に気付いたのか、首をぐりんと動かしこちらを向いた。そして、なんと玄の姿を捉えたと思ったら、玄がいるところまで突進してきたのだ。


 そのまま机にバンッと手をつき、じいぃーと玄の顔をガン見する見知らぬ人物。

 彼の瞳は御化の黒い目よりも真っ黒で、底なし沼のようだった。


 そんな目に見つめられ続けた玄はいたたまれなくなり、助けを求めるため視線を横に動かすと、そこには玄の様子を見てゲラゲラと笑っている久遠がいた。


 恨みがましく久遠を見つめると、彼は笑った笑ったと目元の涙を拭き取りながら玄の方を向いた。



「久遠さん…!」


「っくく、まぁ落ち着けって、ほれ、お前も玄からいい加減離れな」



 面白おかしそうに言う久遠に玄は本気で困り果てたが、その人物は玄を見つめたまま動かない。このままではどうにもならないと思った玄だったが、久遠が彼に離れるように言ったことにより、彼は玄から離れた。

 と言っても、玄の真ん前の席に座ったためあまり離れていないが。



 その後も観察するようにこちらを見てくる彼に玄は、正直もっと遠くのところに行って欲しかった…と思いつつ、前を向かないように視線をずらす。


 すると、トコトコと秋がこちらに歩いてくるのが見えた。


 秋はそのままオレンジ頭の彼の隣にちょこんと座ると、彼の頭をよしよしと撫でてあげた。




「夕日くんいたいた、おー、いい子だね」



「…!!!???」




 玄は自分の目を思わず見張ってしまう。


 秋はこの男のことをなんと言った?

 夕日、だと?


 玄の中でその名前に該当する人物…もとい人外は一人しかいない。


 小屋を破壊し、玄の目の前で生きたリスをむしゃむしゃと食ったあの化け物だ。


 まさか、目の前の彼がその化け物とでも言うのだろうか。



「玄くんはこの姿の夕日くんに会うのは初めてだよね」



 秋がなんでもないようにそう言ったことにより、玄は己の考えていたことが当たったことがわかってしまった。

 だが脳はなかなか受け入れてくれない。

 あの化け物の姿と目の前の人物の姿が合致せず、脳みそがバグを起こしそうになる。



「あれ、玄くんどうしたの?…もしかしてこっちの姿の方が好み?」



 様子のおかしい玄を秋は疑問に思ったらしく、何かを考えたあと、夕日になんらかの指示を出した。

 すると、夕日の体が黒く、ドロリと溶ける。


 玄は体をぴしりと固め、その様子を見ていると、溶けた液体はだんだんと人の形を取り始めた。だが、先ほどと違うのは、その大きさがなんだか小さいということだ。


 完全に形を取り終わると、黒い液体はすっと消えていき、そこには先ほどの夕日より幼い、少年バージョンの夕日の姿がそこにはあった。



「玄くん、どお!?」



 秋がこれならどうだ、と夕日を玄に差し出しながら期待した顔で見つめるが、玄は余計脳みそが混乱してしまった。



 この子はもしや、自分が子供大好きな人間だと思って夕日にこうなるように指示したのか?



 改めて文面として考えてみるとあまりに酷すぎる内容に玄は目を覆った。

 自分はロリコンでもショタコンでもない。


 ぐるぐると無数の言葉が脳内を駆け巡る中、二人に何か言わねばと思い、やっと搾り出した言葉は、



「…だ、い、じょうぶ、でも、気遣ってくれてありがとう…」



 と言う言葉だった。

 秋の気遣いは斜め上にかっ飛んだものだったが、玄のことを気遣ってしてくれたことには変わらないと思い、とりあえずお礼だけでもと頑張って言葉を捻り出したのだ。



 玄のお礼に秋は嬉しそうに笑い、夕日はよくわかっていなさそうな顔をする。



 あまりにいろんなことが起きていい加減頭が限界になってきた玄は久遠の方を向く。


 久遠はどうやらずっと玄の様子を見ていたらしく、困り果てている玄の今の状況がツボに入ったのか、わざと助けずにずっと笑っていたのだ。


 玄は久遠が上司であることを少しだけ後悔した。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る