第21話 宴の始まり、嵐の始まり
退職届を手に取った玄は、これをどうしたもんかと考えた。
やはりシュレッダーにかけて捨てるべきか?と思いながら、手の中にあるこれの処分に頭を悩ませる。
なぜ玄が退職届を持っているのかというと、理由は単純明快で、この退職届はパソコンをカチカチして玄が作ったものだからだ。
玄は就職先が決まった時、同時にいつでも辞められるように就活が始まった時に退職届も一緒に作った。自分に合わない会社だった時にすぐに辞められるようにと。
…まさか不採用の嵐に陥りしばらく地獄を見るとも知らずに。
これを作ったあの時の自分を殴りたいとも今更ながら玄は思った。
実は旅館への就職が決まったと同時に玄は万が一があるかもしれないと思い、昔自分が書いた退職届を机から発掘し段ボールに適当に詰め込んでおいたのだ。
だが、
「…心配とかしながら来たけど、まさか人外だらけのトンデモ旅館だったとはなぁ」
思わず笑いがこぼれる。
今日あったことだけでも、すごいことに巻き込まれたもんだ、他人に話しても信じてもらえないだろう、とヘラヘラと口から勝手に声が漏れる。
だって笑うしかないだろう、こんな状況。
最初は夢だと思った。だが夢じゃなかった。
すごい場所が存在するなぁと、今もどこか他人事のように思っている部分はある。
だが玄は自分の中にすでに芽生えたこの旅館への愛情のようなものを自覚していた。
不思議だ、と思う。
初めてきたはずの場所なのに、どこか懐かしいと思う。それはこの旅館の雰囲気がそう思わせるのか、それとも、
「価値観の違うやつら、それを楽しむ」
何回目かもわからないほど思い出した秋の言葉を思い出す。
確かに、うざったいや面倒くさいなど、思わなくはない。
だけど、全部、そんな部分もひっくるめてこの旅館の個性なのだと玄は考えた。
もちろん、嫌なことはあった。
例えば、御化の悪戯や、夕日のあの姿などだ。
正直、旅館に来てからではなく、元の世界にいたままあんな目にあったらと考えたら確実にトラウマになっていたと玄は思う。
だが、それらも最終的に、それらは旅館を形作る者たちの一つである事を理解した。
そんな面白く、素敵な旅館に、今日一日で玄はすっかり心を奪われてしまったのだ。
退職届なんて必要ないと思うほどに。
意外と自分って神経が太いのかもしれない、と玄は自分に対する認識を改めた。
やはりあの地獄の就活生活のおかげかもなぁとも思った。
「はぁ〜、これどうすっかな?」
横になり、考え込みつつ、しばらく手の中で退職届を弄んでいると、不意にベシベシと襖を叩く音が聞こえた。
「(小太郎くんかな?)」
もうそんなに経ったのか、と思い、どうぞ、と返事をすると控えめに襖が開かれた。
「にんげ…げんさん!むかえに、きました!」
「…私もいるよ」
そこにいたのは尻尾をちぎれんばかりに振り、ニコニコしている小太郎と、秋だった。心なしか小太郎の顔は輝かしいのに対し、秋の顔はややげっそりしている。
玄は小太郎はともかく、秋がくるとは思っていなかったのでびっくりした。
手に持っていった退職届を段ボールの隙間に咄嗟に隠す。
「迎えに来てくれてありがとう、小太郎くん、でもなんで秋ちゃんも?というか、秋ちゃん顔色良くないけど大丈夫?」
顔色の良くない秋を心配する玄だったが、秋は気まずそうに目を逸らし、大丈夫だと言った。
「玄くんが気にすることじゃないよ」
そう言った秋だったが、その直後に小太郎がうっかりなのかわざとなのかはわからないが、
「あきちゃん、ほごしゃさんにおこられちゃったんです!、だから、おちこんでるんです!おちこんでるから、きぶんてんかんに、ぼくについてきたんです!」
と、秋が隠そうとしていたことの真相を話した。
「小太郎??」
お前は何をバラしているんだと言わんばかりに小太郎を睨みつける秋だったが、睨まれているというのに、小太郎は対して気にしてなさそうだった。寧ろ、秋の意識がこちらに向いたことに喜んでいる様子だ。
秋はそのことを察したのか、死んだ目をしながらそっと小太郎から目を逸らし、玄の方を向いた。
それに合わせて、小太郎も玄の方を向く。
二人はそれぞれ、紅葉のようなふくよかな手を玄に差し出し、こう言った。
「玄くん、私たちと一緒に食堂まで行こう」
「あんないはまかせてください!」
玄は二人のそのセリフと仕草になんだか、
えもいわれぬ気持ちになり、
なるほど、これが尊いという感情か、と、玄は心の中でその感情を噛み締める。
なんとかお礼の言葉を言おうとしたが、言い切る前に部屋に入ってきた秋に背中を押され、最後まで言い切ることはできなかった。
背中を押されて部屋の外へと出た玄は、二人の小さな手を取り、子供である二人の歩幅に合わせて食堂まで歩き出した。
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二人の歩幅に合わせていたら、食堂に来るまでかなり時間がかかってしまった。
玄はそのことを心配したが、二人が大丈夫だというので、二人の言葉を信じ、ゆっくり食堂まで来た。
だが、食堂の前まで来たというのに、なんだか人気がない。妙に静かだ。
「なんか静かなような…」
そんな疑問をこぼすも、二人が早く入って、と玄にねだったため、玄は特に気にすることもなく、はいはい、と言いながら障子に手をかけ中へと入った。
次の瞬間、パンっという破裂音がなり、玄に対する歓迎の声が響いた。
『
玄が驚いて目を瞬くと、目の前には旅館の従業員が勢揃いしていた。
その真ん中には久遠がいる。
…なぜか面白眼鏡をかけた。
「ぶっ!!」
あまりの視覚の暴力に吹いてしまった玄に、従業員たちは目を輝かせる。
「やった!!笑ったよ!!」
「人間のお客さんに協力してもらった甲斐があった〜!」
「フン、人間如きが、もっと喜び給え!!」
「お前、威張るか、嬉しがるかどっちかにしろよ」
「よかったです〜」
「久遠さんのソレ、やっぱいいっすよね〜、俺もつけてぇ〜!」
次々に喋り出す従業員たちに、玄は状況が飲み込めなかった。
ふと視線を上に上げると、そこにはデカデカと、『歓迎パーティー』と書いてある紙が貼り付けられていた。
「ここでは新しいやつが入ったら宴を開くんだよ」
面白い目隠しをした蓮太郎が笑いながら言う。隣にいるパーティー帽子を被った海もニコニコしながら頷く。
「みんな、すっごく張り切ってたのよ!、珍しく岩さんも動いてたし!」
そう言って岩の方へ向く海だったが、岩は眉間に皺を寄せ、ピンクの瞳を細め、嫌そうな顔をしたのち、
「張り切ってねぇ、しっかり見張りをしとかねぇと散らかすやつが出てくるからな」
と顔を横にふいっと逸らしながら言った。
だが、海がその岩の様子を見て、
照れちゃってもぉ〜!と岩に絡みに行ったため、岩が、あぁん?!、とブチギレてしまい、最終的に蓮太郎が二人の仲裁に行った。
「ははは、賑やかで悪いなァ?」
玄が三人の様子を見ていると、久遠が来た。
彼は面白眼鏡を持ち上げながら、悪戯っぽく笑ってそう言う。
玄は騒いでいるみんなの顔をゆっくりと眺めて、ふっと口元を緩ませ、心の底からの言葉を発した。
「…いえ、すごく嬉しいですし、こういうの結構好きなんですよ、僕」
玄の言葉にゆるゆると目を見開いた久遠だったが、そうか、と一言こぼすと、久遠も同じく、玄と同じように優しい笑顔を浮かべた。
そんな久遠と玄の間に、秋の顔がずぼっと入ってくる。
「うォ?!」
「秋ちゃん!?」
二人が驚くと、秋は二人の手を掴み、自分の体に寄せると、ぎゅっと抱きしめて幸せそうに笑う。赤い瞳は蕩けるようにほどけ、頬はゆるゆるになる。
二人はそんな秋を可愛らしいと思い、しばらく彼女の好きなようにさせていた。
すると秋は急に顔をがばっと上に上げ、二人と目を合わせると、確認するように久遠に問いかけた。
「これで、玄くんはもう、この旅館の一員なんだよね」
「あァ、そうだな」
その言葉を聞き安心したような顔をする秋にどうしたんだと二人が疑問に思っていると、
「じゃあこれ、もう必要ないよね、玄くん」
秋が着物の隙間に手を突っ込んだかと思うと、彼女はあるものを取り出す。
それを見た瞬間、玄は凍りついたし久遠は真顔になった。
そう、彼女が取り出したものは、玄が咄嗟に隠したはずの退職届だったのだ。
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