第八信:あべこべの世界
私が其処に見たもの、それはただただ黄色いだけの空間、何処を見渡してみても果ての無い黄色だけが広がった空虚な空間であった。
流石にこんなものは予想していなかった。それが何の前触れも無く現われた物だから、正直言って私は、手遅れにならない裡にこのまま引き返そうかとまで考えた。しかし、既に手遅れであった。既に私は通り抜け、その距離感の無さから、自分で思ったより奥の奥まで進んでしまった後だったらしい。入口は疾うに失われ、その為、私は完全に理性を無くしてしまい、思うより先に声を限りに叫び声を上げていた。あたかも、それがこの黄色の空間を振り払えるとでも云うかの様に。実際に、それはその空虚さ故に、余りに平板で遠近感を感じさせない、ちょっとした刺激でも呆気なく敗れてしまう薄い膜の様に思えたのであったから。
しかし、当然の事ながら、その叫び声も虚しく、黄色ばかりの虚空の中に吸い込まれて行くだけであった。後に残るのは元の通り、耳の痛くなる程の沈黙。
私はこれからどうなってしまうのだろう。自分を取り巻く何処か見る物を眠りに誘う様な、甘美とも言える永遠の微睡みの世界。さながら琥珀の中に閉じ込められた小さな虫の姿を連想し、其処に幾許かの慰めを見い出そうとするのだった。最早、時間と云う概念すらそこでは無意味な物となる、無限に引き延ばされた静止したこの世界で。
しかし、そんな私の悲壮な諦念(?)とやらは、直ぐ様にでも終わりを告げる事となった。ふと何気無く上(この上も下も無い空間で上と云う言い方が適切かどうかは別として)を振り仰ぐと、一体何時何処から現れたのか、其処には巨大な円盤が、これに比したら私の存在などほんの砂粒に過ぎない程の其れが、出し抜けに現われたのだった。
その平面の上には、見た事も無い都市、三角錐、円錐、立方体、多角柱、その他様々な立体で構成された都市が広がっていた。さっきまで其処は何も無い空間だった筈なのに……。或いは此れも私の夢に依って呼び起こされた世界の一つだったのかも知れなかった。
兎も角、私はその新たに現われた天体に引き寄せられるがままに、近付いて行った。
徐々に私を引き寄せる力が体感出来る様になって来ると、それにつれて速度は増して行った。このままでは激突する、と云った所で、遅ればせながら自身の浮遊の能力に思い至った私はすんでの所でその勢いを落とす。残った勢いを殺す事無く都市の周りを時計の針の様にゆっくりと回転しながら、私はかの円盤都市に近付いて行き、様々に折り重なった多面体の建築群、そしてそれらを様々な角度で繋ぐ橋また橋、或る物は水平に、あちらの物は急勾配にせり上がり、また近くの物は此方に向けて下って来る、といった具合に様々に錯綜する間を縫って、遂にはこの都市の最下部、見た事も無い種類の石材? 表面は非常に滑らかで鈍い光沢を放ち、一つ一つの敷石の間にはどんな鋭いナイフの刃も入らない程にぴったり組み合わさった舗道の上に降り立つのだった。
それら種々多様な建築物の間から覗く空は、変わらずのっぺりとした黄色い壁紙を広げ、それは果たして近いのか遠いのか、建物に遮られ細切れにされたそれを眺めている裡に、自分の立っている所が伸びたり縮んだり、そんな眩暈にも似た感覚に捉われる様で、慌てて下に目線を写すと、この世界に就いて思考を巡らすのだった。
それは直感的な物であり、悪く言えば当てずっぽうとも云う物であったが、兎も角私の考えた事は、今自分の立っているこの未知の世界、それは恐らく私が元居た世界とは明らかに性質を異にする、言ってみればあべこべの世界なのではないか、と云う事だった。まだこの世界に来て間もないこの時点で得た少ない材料でもそれは察せられた。例えば重力の向きが反対である事、地球の丸かった事に反して此方は平板な天体を基調としている事、そして何より頭上に広がるこの黄色い空、青の反対色であるこの何処までも目に付く空を見るにつけ、その様な思い付きがますます頭に付いて離れなくなって行くのだった。
こんな児戯に等しい思い付きが、後に思いの外正鵠を得ていた事に気付く事になるのだが、それはまた次の機会にでも語る事としよう。
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