虚想楽土-another heaven-

小鐘ミヤ

第1話 - 水鏡 -


「――ぅ」


 微睡みの中から目を覚ました少女が最初に目にしたのは、青々とした葉を茂らせた大樹の枝だった。陽の光が葉の間からこぼれ落ち、緑のフィルターを通して柔らかく降り注いでいる。


「う、ん……っ」


 冷たい土の感触が頬に伝わり、少女はゆっくりと体を起こした。土の匂いが鼻をくすぐり、風に乗って微かに漂う花の香りが周囲の自然の豊かさを感じさせる。

 目を開けると、見覚えのない光景が広がっていた。


「こ、こどこ……?」


 少女は呆然と周囲を見渡し、心臓が早鐘のように打ち始めた。


 そこは深い森の中だった。鬱蒼と茂った枝葉が天蓋となり、木漏れ日のように光を差し込んでいる。地面には草花が生い茂り、まるで緑のカーペットのようだ。


 樹木の枝葉が守るように彼女を包み込み、優しい光が彼女の顔に降り注いでいた。風に揺れる葉の音と、かすかに漂う花の香りが、森全体に幻想的な雰囲気を漂わせていた。その中でもひときわ大きな大樹の下、少女は眠っていたのだ。


 その大樹は、まるで天に届くかのように高くそびえ立ち、無数の枝が広がり、緑の天蓋を形成していた。太く力強い幹は時の流れを刻み、無数の葉が風に揺れるたびに優しい囁きを奏でていた。根元からは大地の力強さが感じられ、その壮大な存在感が周囲の自然を包み込んでいた。


「ワタシ、なんでこんなところに……?」


 眠る前の記憶がまるで霧の中に消えてしまったように思い出せない。どれだけ思い出そうと努力しても、頭の中は霞がかかったようにぼんやりとしている。記憶の断片を手繰り寄せようとすると、その霞がさらに濃くなり、視界が曇っていくようだった。


 自分が何故ここにいるのか。自分が何者なのか。全てが闇の中に隠れているようで、何一つわからない。胸の奥にぽっかりと穴が開いたような不安感が押し寄せる。少女は手のひらを見つめ、指先に力を込めたが、それでも何も思い出せない。心に漂うその霧は、過去の記憶をすっかり覆い隠していた。


 少女はゆっくりと立ち上がり、自分の体を見つめた。


 純白のワンピースを纏い、その布地には金糸で繊細な刺繍が施されている。花や葉が絡み合う美しい模様が光を受けて優しく輝き、汚れ一つないその姿はまるで宝物のようだ。彼女の手が生地を撫でると、その滑らかで心地よい感触が伝わってきた。しかし、それだけだった。その事実が少女の胸に重くのしかかる。


「のど……かわいた……」


 喉の渇きを覚えた少女は、大樹のもとから立ち上がり、足を踏み出した。冷たい土の感触が足裏に伝わり、草の間を慎重に歩き出す。周囲の木々のざわめく音が耳に心地よく響き、自然の息吹を感じながら進んでいく。数歩進んだところで、彼女はふと立ち止まった。


「……どっちに行けばいいんだろう?」


 少女には進むべき方向がわからなかった。周囲を見渡しても、どの道が正しいのかはっきりしない。心の中に不安が広がる。


 しかし、ふと耳を澄ますと、どこからか水の流れる音が聞こえてくることに気づいた。静かに立ち止まり、音の方向に集中する。優しい水音が風に乗って届き、それはどこか心地よい安らぎをもたらした。音の方角に意識を向けると、それが川のせせらぎであることを理解する。


「水の音だ……」


 水の音を聞いた瞬間、少女は衝動的に走り出した。足元の草がさらさらと揺れ、風が髪を撫でていく。彼女の心は期待と焦りでいっぱいだった。喉の渇きを癒したい一心で、足を止めることなく駆け抜けた。


 しばらくすると、視界がぱっと開けた。目の前には澄んだ小川が穏やかに流れていた。川の水は透き通り、底の小石まではっきりと見える。その透明度に息を呑む。少女は川面に映る自分の姿を見て、思わず立ち止まった。水面はまるで鏡のようで、そこに映る自分の顔が鮮明に浮かび上がっている。少女は初めて見るその姿に驚きと不思議な感覚を覚え、しばらくその場に立ち尽くしていた。


「これが……ワタシ?」


 少女は自分の容姿を初めて確認した。川面に映る自分の姿に目を凝らす。白磁のような透き通る肌は柔らかく輝き、金糸を編んだような髪は太陽の光を受けて煌めいている。その瞳は瑠璃のように深く美しく、まるで宝石が宿っているかのようだ。


 顔立ちは整っており、愛らしさが漂っているが、どこかあどけなさが残っているようにも見える。まるで精巧に作られた人形のようだと、少女は思った。


 自分はこんな見た目だったのか……と心の中で呟きながら、顔に手を伸ばし、そっと頬を撫でてみた。指先に伝わる感触は確かに自分のものだが、記憶の中の自分とはどこか違う。記憶が曖昧なせいだろうか、その違和感をどうしても拭い去ることができない。


「あれ……?」


 自分の顔を見て、少女は何か大切なことを忘れているような感覚にとらわれた。しかし、それが何なのかをどうしても思い出すことができない。心の中に漂うそのもどかしい感覚を追い払おうとするが、記憶の霧は晴れない。


 それよりも今は喉の渇きを潤すことが重要だと感じた。少女は両手で川の水を掬い、口に運ぶ。冷たくて清らかな水が喉を通り、全身に染み渡る。生き返るような心地よさに、思わず息をつく。水の冷たさと新鮮さに魅了され、彼女は夢中になって何度も飲んだ。両手で水を掬い上げるたびに、水の透明な輝きとその冷たさが心地よく、まるで体の内側から生き返るような感覚が広がっていく。


『そんなに喉が渇いていたのかい?』


 どこからともなく声が聞こえた。その声は耳からではなく、まるで直接頭に響いてくるようだった。少女は驚いて周囲をきょろきょろと見渡したが、誰もいない。


 空耳かと思ったその瞬間、水面に変化が起きた。鏡のような水面に映る少女の虚像が、ニヤリと微笑んだのだ。本体である少女の表情はピクリとも動いていないにも関わらず、虚像だけが生き生きと笑っていた。驚きのあまり言葉を失った少女は、水面に映る自分の幻影を凝視した。虚像はまるで旧知の仲のように、親しげに話しかけてくる。


『やぁ、こんにちは』


 突然の挨拶に、少女は驚きのあまり目を見開いた。


「こ、こんにちは……?」


 混乱しながらも返事をする少女を見て、また笑うように水面の少女が揺れた。

 その様子を見た少女は確信する。やはりこの声は目の前の水面の少女によるものだと。恐る恐る問いかけることにした。


「……アナタはだれ?」


 そう聞くと、少女は愉快そうに笑い、柔らかく答えた。


『私はアニマ。私はキミの影で、キミは私の光だ』


 少女は訝しげに自身の幻影を見つめた。

 水面に映るアニマはなおも愉快そうに笑っている。


『自分が何者なのか、知りたいだろう?』


 その言葉を聞いた瞬間、少女の心臓が跳ねるように鼓動した。

 しかし、彼女はその動揺を隠し、堂々とした態度で答えた。


「別に、知りたくない」


 そう言って再び水を口に含む。冷たい水が喉を潤し、彼女の心を落ち着かせた。

 そんな様子を眺めていたアニマと名乗る幻影は、呆れたようにため息をつくと、軽く肩をすくめた。


『強情だなあ。でも、そういう所嫌いじゃないよ』


 少女は無視を決め込むことにしたらしい。黙々と飲み続ける。

 そんな彼女に対して、アニマはやれやれといった様子で話を続ける。


『まぁ、いいや。どうせすぐにわかることだしね。それより、お腹空いてないかい? 何か食べ物をあげようか?』


 少女はぴたりと動きを止めると、少し考えた後に小さく頷いた。


 その様子を見たアニマは満足そうに微笑むと、パチンと指を鳴らす。すると何もない空間から突如、果実が現れた。


 赤く熟れた瑞々しい果物で、見るからに美味しそうだ。少女は目を輝かせながらそれを受け取ると、躊躇することなく齧り付いた。その瞬間口の中に果汁が広がり、甘味と酸味が絶妙に合わさった味わいが広がる。あまりの美味しさに感激したのか、少女は夢中で食べ進めていった。あっという間に平らげてしまうと、名残惜しそうに指先を舐める。その様子を見ていたアニマはくすくすと笑った。


『自分の正体より食欲が優先か。面白いね』


 少女は少し恥ずかしそうに微笑んだが、否定はしなかった。その笑顔には、どこか無邪気な安らぎが漂っていた。


『キミ、これからどうするつもりだい?』


 不意に問いかけられ、少女は考え込んだ。正直なところ、何も考えていなかった。


 ただ漠然と、このまま森の中を彷徨い続けるのだろうと思っていた。しかし、それも悪くないかもしれないという気持ちが芽生え始めていることに、自分自身で驚いた。記憶が無いせいか、それとも別の理由があるのか、自分でもよくわからなかった。


 そんな様子を見ていたアニマは再び笑い出すと言った。


『君に良いことを教えてあげよう』

「別にいい」


 少女はそっけなく答えた。


『まあ、聞きなよ』


 アニマは少女の返事を無視して話し続けた。


『この小川の流れを辿ってごらん。良いモノが見れるよ』

「良いものって?」


 首を傾げる少女に向かって、悪戯っぽく微笑みながらこう言った。


『それは行ってからのお楽しみさ』

「わかった。そうする」


 釈然としない表情を浮かべるものの、言われた通りに進むことにすると決めたようだ。アニマは満足げに微笑んだ。次の瞬間、水面が揺れて、幻影はその姿を消した。水面には元通りに少女の姿が映るだけだ。


「……変なの」


 少女は呟いたが、応える声はなかった。


「……行ってみよう」


 少女は立ち上がると、ワンピースについた土埃を払うと歩き出した。


 ◆


 小川の流れに沿って歩いて数時間は経つだろうか。

 辺りは既に薄暗くなっていた。木々の隙間から見える空は赤く染まり、もうすぐ夜が訪れるのだと告げていた。


「疲れてきた……」


 慣れない道を歩き続けたせいで、少女の足は重く、全身に鉛のような疲労が溜まっていた。それでも足を止めないのは、少しでも早く何かを見つけたかったからなのかもしれない。


 しばらく進むと開けた場所に出た。そこは小さな泉で、澄んだ水が湧き出ていた。泉の縁を囲むように様々な花々が咲き誇り、風に揺れるたびにほのかな香りが漂ってくる。泉の水は透明度が高く、底まで見渡せるほどだ。水面には夕焼けが映り込み、赤やオレンジの光がゆらゆらと揺れる。水面に近づくと、少女はその美しさに思わず息を呑んだ。


 その時、泉の中央に人影が見えた。その瞬間、少女の心臓は一瞬止まったように感じた。よく見ると、それは一人のエルフだった。


 深紅の長い髪は水の滴を含み、滑らかに流れていた。透き通るように白い肌が泉の冷たい水に触れるたびにわずかに震える。エルフの瞳は深い赤色で、まるで燃える炎のように輝いていた。


 特に目を引くのは豊かな乳房で、大きく丸みを帯び、まるで熟れた果実のように張りがあった。水が滑らかな表面を流れるたびに乳房は重たく、魅力的に揺れた。彼女の肢体は泉の美しさと調和し、見る者を惹きつける妖艶な魅力を放っていた。


 エルフは身体をそっと撫でるように水を浴び、長い指先が乳房の曲線を滑らかに追いながら、まるで舞を踊るかのようだった。彼女の動きは優雅で、水と一体化しているようだ。


 少女はその光景に見惚れ、しばらくその場に立ち尽くしていた。

 エルフは少女の存在に気づくと、優雅な微笑みを浮かべて言った。


「君は誰だ? どうやってこの泉に来た?」


 その声は透き通るように澄んでいて、まるで風の囁きのようだった。少女は驚きつつも、エルフの美しさと穏やかな雰囲気に安心感を覚えた。

 そして、ゆっくりと口を開いた。


「ワタシはワタシ。名前はない」


 少女がそう言うと、エルフは驚いたような表情を浮かべた。


「もう一人のワタシに言われてここに来た」


 少女の脳裏にアニマと名乗った幻影の言葉が過る。『良いモノが見れるよ』と彼女は言っていた。少女が目にした光景は確かに“良いモノ”だったかもしれない。だが、その美しさには少々刺激が強すぎるのではないかと感じるほどだった。エルフの優雅な姿とその神秘的な雰囲気が、彼女の心に深い印象を残していた。


「……君は変わった子だな」


 エルフは小さく呟くと、少女の方へと歩み寄ってくる。その姿はまさに絵画のようで、見ているだけで心が洗われるような感覚だった。


「少し話そうか。……待っていてくれ」


 そう言って、エルフは静かに泉から上がった。彼女の肌を滑り落ちる水滴が光を受けて輝いている。


 近くの木の枝に掛けてあった柔らかな布を手に取り、丁寧に体を拭き始めた。布が肌に触れるたびに、水滴が吸い込まれていく。彼女はまず肩から始め、ゆっくりと腕へと布を滑らせた。滑らかな肌に布が触れるたび、彼女の体から冷えた水が次第に消えていく。指先まで丁寧に拭き取ると、次に首筋を軽く撫でるように拭いた。


 エルフは布を胸元に移動させた。豊満な胸は布の下で柔らかく揺れ、拭うたびに形が変わった。彼女は慎重にその周りを拭き取り、次に腰へと布を移動させた。くびれた腰はその細さが際立ち、布が滑るたびに彼女の優美な体のラインが浮かび上がる。


 拭き終わると、エルフは同じく枝に掛かっていた衣服に手を伸ばした。それは魔法使いのような装束で、長い袖とフードが付いており、複雑で美しい刺繍が施されていた。刺繍は金糸や銀糸で編まれ、星や月、植物の模様が繊細に描かれている。エルフはその衣服を慎重に持ち上げると、ゆっくりと着替え始めた。長い袖がふわりと揺れ、フードが背中に優しく触れる。衣服は彼女の体に滑らかに馴染み、まるで一枚の布がそのまま彼女の一部となるかのようだった。


 装束を身にまとったエルフには、まるで古代の魔法使いのような神秘的な雰囲気と威厳があった。彼女は再び少女に向き直り、穏やかな微笑みを浮かべた。


「待たせてしまったかな?」


 その言葉に、少女は首を横に振った。


「大丈夫」

「それなら良かった。さあ、こちらへおいで」


 エルフは優雅に手招きをしながら、少し離れた場所にある大きな切り株を指差した。どうやらそこに座れということらしい。促されるままに少女は腰掛け、エルフもその隣に静かに腰を下ろした。

 二人の間に一瞬、静寂が広がった。聞こえてくるのは、風に揺れる木々のざわめきと、遠くの小川のせせらぎだけだった。

 やがて、エルフが先に口を開いた。


「私の名はイヴァナ。この森に住む魔法使いだ。よろしく頼むよ」


 その声は穏やかで、どこか優しさに満ちていた。

 エルフの瞳は深紅に輝き、まるでその内側に秘めたる力を示すかのようだった。

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